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「あ、充電ヤバ。智将〜充電器貸して〜‼︎」
「……そこにあるだろ。と言うか、いつまでいるんだ」
「え〜?この時間に帰す気ぃ?圭ちゃんが夜道で襲われちゃったらどうすんのよ」
「はは、そんな物好きがいるなら拝んでみたいもんだな」
兄の気のない一言に、また心が擦り減った。チラリと確認した時計は日付を過ぎている。今日もまた「帰れ」「嫌だ」の攻防をダラダラと続けて持ち込まれた消耗戦の末に終電を見逃され、主人のお泊まりコースが確定したことにため息をついた。そんな智将のことなど意にも介さず、主人はスポーツ雑誌に掲載された葉流火と智将のインタビュー記事を読み耽っている。今やプロとして清峰葉流火と活躍する智将の家へシーズンオフの度に訪れては滞在するこの兄は、自分が弟の悩みの種となっているとは露ほども思っていないのだろう。
「仕事の方は大丈夫なのか」
「もち!多忙な弟が戻ってくんだもん、長期休暇取れるように調整すんのが出来る兄ってもんよ」
「どうせ山田に泣きついたんだろ」
「うぐ…き、急に鋭いこと言うじゃん…まぁ、ちょっと頼ったところもあるけどォ…」
「ったく、本当にしょうがねェな…今度会ったら買ってきた土産、ちゃんと渡しておけよ」
「へいへい」
小手指メンバーと走り抜けた高校野球で全てを出し切り「楽しかった!」と笑った兄は、プロの道へは進まなかった。勿論、別の道へ進む主人に対して残念に思う気持ちがなかった訳ではない。それでも、主人には主人の歩いていく道があると送り出し、智将自身も自分の理想とする道へ踏み出した。何せ二人は血の繋がった兄弟だ、永遠に別れるわけではない。道は違えても兄や小手指メンバーと走り抜けた高校生活は、今も智将を支える柱になっている。
その後は山田と同じ企業へ就職し、地域のリトルチームでコーチの真似事をしているのだとか。あまり会う時間はないものの、マメに連絡を寄越してくるおかげで主人の近況は大抵把握している。久々に会った気がしないのもきっとそのせいだ。
「智将さァ、いつ来ても女っ気ないけど相手いねェの?」
「……必要性を感じないからな」
「ふーん?」
ほら、きた。テレビの付いていない静かな部屋にポツリと落とされた質問に、智将は見直していたスコア表を捲る手を止めた。その質問は主人が会う度に口にする質問だ。特に相手のいない智将が返す言葉もまた、一言一句違えずいつも通りのもので。もはや定型文のような答えに対して、主人は興味なさげにほとんど意味を成さない音のような返事をする。パラリ、と紙が擦れる音がまた一つ部屋に響いた。
こいつ、人の気も知らずに──
ルックスも申し分ない上にプロ野球選手である智将は当然モテないわけがなく、むしろ選り好みができる程度には相手に不自由などしていない。だが代用品にしかなり得ない他人の心に、埋まらない心の隙間を埋めるためだけの温もりに、智将は必要性を感じなかった。欲しいものは一つだけ。それだって、求めたところでどうせ手には入らないのだから。心の底から欲しいと願う人物の心は…主人の心は、どうせ手に入らないのだから。
地位も名誉も富も手に入れた、だなんて世間一般では言われているようだが、現実はそう甘くはないのだ。現に今もこうして、倫理に阻まれた恋心は手を伸ばすことすらも許してはくれない。そんな不貞腐れた気持ちをひた隠しにし続けて、家族として離れずにいることで自分を納得させた頃にはとうに成人を迎えていた。時間とともに風化し消えることを期待していたが、残念ながら熟成されつくした想いはただただドロリと醜くなるばかりだ。そんな燻る想いも自分の手では捨てられずに、智将は自嘲の笑みをこぼす。
「主人の方はどうなんだ」
「んー?俺?」
そんな思いを掻き消すように振った話題に、主人はパタリと本を閉じると智将の方へと視線を向けた。ソファに寝そべった姿勢は変えないまま、一度視線を逸らして間を空ける。いつもであれば「い、いるに決まってんじゃん…カンボジアで遠距離恋愛だけど…」なんて見え透いた嘘を吐くのがお決まりの展開なのだが、いつもとは違う反応に智将は眉を顰めた。一度呼吸を置いて、主人の目がゆっくりと閉じる瞬間がスローモーションのように映る。
「いるよ。結婚も考えてる」
「は……?」
主人の紡いだ言葉に、頭が真っ白になった。そうしてクリアになった脳内に走馬灯のように駆け巡ったのは、主人と過ごしてきた幸せな思い出だ。幼稚園の砂場で葉流火を交えて作った砂の城に、唸りながらやり遂げた小学校の夏休みの宿題。リトル時代には道端で吐く背中を摩ってやり、眠れない夜を過ごしたシニア時代の智将の布団にそっと潜り込んできた日の体温。甲子園を目指して泥に塗れて白球を追いかけた小手指高校での日々。
それから、訪れる度に乾かしてやった髪の感触だって。
「許すわけねェだろ」
その全てがこれから人生をともに歩もうとしている名も知らない他人に塗り替えられるだなんて、冗談じゃない。
「──ッ、ちょ、おいッ‼︎智将⁉︎」
「マメに近況報告してくるからな、油断した。まさかそんな相手がいるとはな。どうして言ってくれなかった?」
「はぁ⁉︎ちしょ、ンッ…‼︎」
「結婚する、ってことは付き合い始めたのは最近じゃねェよな。もっと早く言ってくれれば他にも手の打ちようがあったのになァ、」
「ンんッ…‼︎ッん、は、ぁ…ッ智将…‼︎やめ…」
横たわる主人の身体に乗り上げた智将は、乾いた笑みを浮かべてその両腕を拘束する。ギリ、と骨が軋むほどの力に眉を顰める主人のことなど構わずに、智将は覆い被さる体勢で噛み付くように強引に唇を塞いだ。
「…ッん…ぁ…ッ!!」
「ッ、は…ンッ……」
唐突な智将からのキスに驚き、抗議しようと開いてしまった口から容赦無く智将の舌が入り込む。強引に絡ませた舌同士でクチュ、と卑猥な水音を立てながら、智将は口内を味わうように容赦なく蹂躙した。捕まえた腕の位置をずらしてスルリと指を絡ませると、恋人同士のように組み合わされる手に智将はうっとりと目を細める。その間にも主人の舌は吸われ、絡められ、智将のされるがままだ。
散々と口内を舌で荒らされた主人の手から力が抜け始めたことを察すると、智将は抵抗力を失った主人の拘束を解く。そうして徐にシャツの中へ差し入れられた手に、主人はビクリと肩を揺らした。ベロリと捲り上げられたシャツの下から覗いた艶かしい白い肌に、智将は思わず舌舐めずりをする。外気に晒された肌に唇を寄せ、吸い上げて残す鬱血痕は自分のものだと主張するための所有印だ。二つ、三つと数を増やしていくそれはこれまで必死に押さえ付けてきて、そうして箍が外れてしまった想いの表れだった。
「我慢なんてしなきゃよかったな」
鋭利な刃物で刺されたように、苦しげな表情で溢した言葉はまるで吐血のようだった。その言葉に目を見開く主人の表情は、絶望に染まり切った智将の目には見えていない。いつかは、と想像していないわけではなかった。その日を迎えた時のシミュレーションだって、もう何度と脳内で繰り返してきたことか。
ただ、与えられた準備の時間があまりにも不足していた。
「ッ、ンぁ…‼︎」
「なぁ、主人。ずっと好きだった。ずっとだ。たぶん主人が思ってるよりも前からずっと、ずっと、ずーっと…こうして触れてみたかった」
「ん、ぁ…ッ、あぁ…‼︎」
痕を残していた唇で、胸でピンと主張する尖りを口に含むと舌で転がした。微弱な快感にあられもない声をあげる主人に満足げに微笑むと乳輪を舌でなぞり、ゆるく噛み付いて主人の欲を高めていく。踏み越えてしまったラインはもう後戻りすることを許さない。「何だ、手を伸ばせばこんなにも簡単に触れられたのか」と。弟の手で与えられる快楽に溺れていく実の兄の姿に、どうしようもなく乾いた心が潤っていくのを感じながら。溢れ出した想いは止まらない。
「はは…もう取り返しがつかないな?」
グズグズに蕩け切った表情で快楽を求めて手を伸ばす主人に、智将は恍惚とした笑みを浮かべてそう告げる。許されないことをした、間違いを犯した。それでも手元から離れるくらいならば、ともに過ごした日々ごと、ささやかな幸せごと、全てを暗く塗り変えて。かけがえのないトラウマとして一生彼の中に残って欲しいと衝動的に願ってしまった。狂っているのなんて自覚済みだ。
大切なものとは?
そう問われたら、智将が出せる答えは一つしかない。
たった今、失くしたそれだ。
頬を伝って滴り落ちた雫は汗だったのか、それとも涙だったのか。その正体は分からないまま。智将はもう一度主人に口付ける。
「愛してる」
健やかなる時も病める時も、一生の後悔と
して添い遂げよう。そう覚悟を決めて震える声で紡いだ誓いの言葉に、主人が小さく笑った気がしたのは都合のいい幻覚だったのだろうか。
*****
「い゛ってェ〜…んにゃろ、噛み跡はやりすぎだろ…マジありえナイツだわ、起きたら説教だかんな…」
ひと足先に目を覚ました主人は鈍く痛む腰を摩りつつ、身体中に残された夥しい量の鬱血痕や噛み跡に頬を引き攣らせながら呟いた。山田に見られようものなら乱暴をされたと勘違いを起こして通報されそうだな、と苦笑する。長年欲していたものを夜通し堪能して一先ず満足したのか、元凶である弟は隣で寝息を立てていた。その頬に残る涙の跡を指先で拭ってやると、そのまま少しの恨みを込めて額を中指で軽く弾く。所謂デコピンに一度呻きはしたものの、その目が開くことはなかった。余程プロでの生活に疲れが溜まっているのだろう。
「にしても、ほんっと長かったなー…手ェ出すのが遅いっての、理性鋼で出来てんの?」
智将が起きないのをいいことに、主人は溜まっていた鬱憤を虚空に向かって吐き出した。一部に嘘を交えて告げた言葉に、智将はまんまと乗ってくれた。実際のところは付き合っている相手などいないのだが、結婚したいと考えるほど好いた相手がいることは嘘じゃない。当の本人は全く気が付かないまま、恋焦がれた実の兄に手を出した罪悪感を抱えて未だに寝こけているのだが。
「悪い男に引っかかんなよ、って誰も教えてくんなかった?俺なんかに捕まって、可哀想にね」
プロとして世界に羽ばたいた智将に焦りを覚えた。会える頻度は少なくなり、ひっそりと女性誌で開催されていた抱かれたいプロ野球選手に葉流火とともに名が載っていれば尚更だ。智将から向けられる熱を含む視線の正体に気が付いたのは、自分が弟に向ける想いが異常だと気が付いた頃からだった。
一生の後悔として添い遂げてくれるのなら願ったり叶ったりだ。逃げられないのは智将も同じ。輝かしい経歴の中にグロテスクに刻まれた、一生消えやしない『近親相姦』という罪の名のもとに。
君が病める時も、いつもそばにいるよ
ツ──と左手の薬指をなぞりながら、その指に贈る予定の白銀の枷に想いを馳せる。そうして主人はうっそりと微笑むと、仄暗い歓喜を滲ませた声音で呟くのだった。
「ずうっと一緒だよ、智将」
fin.