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「ペーパーロック現象というのはご存知ですか?」
現場検証を終えての警察の第一声はそれだった。
「下り坂などでの過度なブレーキ操作の末、ブレーキフルードが沸騰し、気泡が発生することに寄ってブレーキが利きにくくなる現象です。
交通監視用カメラの映像を見ると、峠を越えるあたりから、急加速していきます。そしてカーブを曲がり切れず結局ガードレールを突き破って谷底へ。まあおそらく原因としてはそれでしょうな」
画面から目を背ける葉子とは対照的に、私は見せられた映像を何度も繰り返し再生させた。
確かに車はただ闇雲にガードレールに突っ込んだのではなく、カーブしようとしているのも、ブレーキである程度は減速したのも見て取れた。
これなら不自然ではないはずだ。
車のことは詳しくはないが、私は神妙な顔で頷いた。
「しかし社長は、この峠は月に何度も通っていましたよ」
同席した秘書の女性は警察官に食って掛かった。
「今まで一度もこんなことなかったですし、車の運転もどちらかと言うとお上手でした。とても社長のミスだとは思えません」
―――この……!
私は心の中でこの秘書の五月蝿い口にカッターの刃を突っ込んでいた。
―――黙ってなさいよ。あんたもその社長の女の一人だったくせに!!
「うーん」
言われた警察は映像を再度見ながら頭を掻いた。
「確かに、ブレーキ痕はありますが、その効きは弱く、もしかしたら体調か車両、どちらかに何かしらの不調があったと考えられます」
「そういえば―――」
秘書は葉子を振り返った。
「社長、その前日、休日を利用して車を車検に出すって言ってました。そうですよね?」
「え、ええ。仁美さんと一緒に。ね?」
憔悴しきった葉子がこちらを見ながら言った。
「なるほど。車検か」
警察は瞼を擦りながら言った。
「まあ、可能性としては、車検時のブレーキフルードの交換時や、ブレーキオーバーホールにおける人為的作業ミスは考えられないこともないですけどね」
話が変な方向に捩れてきて、私は眉間に皺を寄せた。
「作業ミス?」
秘書が眉を潜める。
「エア抜き作業の失敗や、なんらかの理由で水分が混入してしまうとか、ですかね」
普段いろんな事故に遭遇しているのであろう交通課の警察官は唇を結びながら頷いた。
「―――お嬢様」
秘書が私を振り返る。
「社長が車検を受けたのは、なんという整備工場ですか?」
◆◆◆
それから小口自動車に警察や保険会社が入って、徹底的な調査が行われた。
検査記録の開示や聞き取りを中心に、当日使ったリフトや、工具が点検されはしたが、整備の様子が録画されているわけでもない。
警察や保険会社が期待した、過去の整備不良や作業ミスの記録なども一切見つからず、疑惑は疑惑のまま終わった。
しかしーーー。
先方にとってはそうはいかなかった。
小さな町工場である小口自動車は、住民の信頼で成り立っていた。
それが、全国的にも有名な秋元コーポレーションの社長が自動車事故で死に、しかもその調査で警察が工場に訪れたという事実だけで、その信頼は地に落ちた。
車検をはじめとする入庫のキャンセルが続き、ピットのシャッターにはカラースプレーで「人殺し」の文字が躍った。
騒ぎに便乗した週刊誌の記事に、暴行罪で前科のあるスタッフを雇っていた等と面白おかしく書かれると、一代でこの会社を築いた小口社長が、ピットで首を吊って自殺するという騒動にまで発展した。
ーーー立ち上がったのは、あの吉良瑛士だった。
彼が車検の検査員であり、また、週刊誌で書かれた前科者持ちの整備士というのもまた、彼だったのだ。
小口自動車は、秋元コーポレーションから事実無根の汚名を着せられ、参列した秋山の葬式では大勢の前で「人殺し」と罵られ、その積み重なった悪意と興味は、社長を自殺に追い込んだ。
さらに店の売り上げも著しく低下し、従業員数名が解雇に追いやられた。おまけに心無い報道で精神的に苦痛を強いられたとして、吉良は秋元コーポレーションに対して1億円の損害賠償を求める裁判を起こした。
「―――おおごとになってしまったわ」
葉子は頭を抱えながらため息をついた。
「心配はいりません。あちらに整備不備を否定する材料がないように、私たちにも証拠は残っていません。このまま顧問弁護士さんに任せておけば大丈夫」
秋元コーポレーションの顧問弁護士は優秀だった。これまでも幾度も会社のピンチを救ってくれていた。今回も任せておけばどうってことない。
ちょっと尻尾を踏まれた犬がキャンキャンと文句を言っているだけなのだ。
大きな骨でもしゃぶらせれば、簡単に黙る。
しかし、事態は思わぬ方向に転んでいった。
◆◆◆
ある夜。寝入ってから数時間が経過したころ、私の寝室で物音がした。
慌てて起き上がると、ドアを開けて葉子が入ってきたところだった。
「ーー外で物音がするの」
「え……」
「一緒に来てくれない?」
「――――」
私たちは階段を下り、外へ廊下を歩いた。
そしてその音は外からではなく、どうやらガレージから聞こえているということに気が付いた。
「―――どうして……。だってシャッターの鍵は掛かっているはずなのに」
青ざめる葉子に、「何か武器を」と言うと彼女は大慌てて下足箱に置いてある工具の中からハンマーを取り出した。
二人で手を握り合いながらドアを開ける。
チラチラと白い光が見えた気がした。
ーーーーー。
私は、その光を見たことがあった。
「――――!」
一気に照明をつける。
「……よう奥様。ならびにお嬢様。この度は誠に御愁傷様でございます」
そこに立っていたのは、
吉良瑛士だった。
食事を摂っていないのだろうか。それとも睡眠が足りていないのだろうか。
彼の眼は窪み頬は痩せこけ、数日前に小口自動車で会った時とは別人のようだった。
「ふ……不法侵入で警察を呼びますよ!!」
葉子が震える声で言った。
「どうぞ、呼んでください今すぐに。その方が手間が省ける」
彼は両手を広げて笑った。
「警察を呼ぶ?あなたが?」
葉子が眉を潜めた。
「そうですよ。俺は見つけちゃったんで。ほら」
言いながら彼が懐中電灯で照らしたのは、コンクリートの上に残る黒っぽい痕だった。
「なんだかわかりますか?油の痕ですよ」
吉良は得意そうに言った。
「動画なんかで聞きかじっただけの素人がやりがちなんだよな。キャリパーを緩めてブレーキフルードを出して閉める時に下手な奴だと漏れちゃうんだ。
そして油を吸ったコンクリートは特別な薬剤を使わない限り、ちょっとやそっとじゃその痕は消えない」
吉良は言い終わると、その光を揺らして見えた。
「車検を受けたばかりの車に、あの日、あんたらは何をしていたんだ?」
「――――」
私は吉良を睨み上げた。
「おそらくは満杯のフルードを少し抜いて、水をタンク内に入れ込んだんだろ?
だから、上り坂で高温になった車体の中で沸騰し始めたことにより、その水分から気泡が発生。ブレーキが利きにくくなり、加速していく車がカーブを曲がり切れず、バンッだ」
吉良は笑っていた。
「あんたらのうち、誰がやったのかは知らねえし興味もねえ。だけど俺は亡き社長や小口自動車、そして社長が俺を採用してくれたという選択を、正当化する必要がある。悪いけど、このことは警察に話すぜ」
吉良はそう言うと作業着の胸ポケットからスマートフォンを取り出した。
「せいぜい優秀な顧問弁護士さんとやらに依頼する算段をつけておくことだな…!」
言いながら写真を撮り始めた。
「……………」
涙目の葉子がこちらを振り返る。
その瞳が、「もう終わりだわ」と語っているように見える。
―――ふざけるな。
こんなところで終わってたまるか。
あんな男と、こんな男に、将来を奪われてたまるか。
私は葉子の手からそっとハンマーを受け取った。
そしてそろりそろりと吉良に近づくと、女子高生相手に油断しきっている吉良の後頭部めがけてそれを振り落とした。
◇◇◇
倒れた吉良は、思い切りハンマーで殴ったはずなのに、驚いたことに息があった。
しかし流れ出す血の量が多く、このまま放っておけば直に死ぬだろうと思われた。
「どうしよう……どうしよう……!!」
自分がやったわけでもないのに、葉子はひどく動揺し狼狽え、私を苛立たせた。
しかしーーー。
死体の処分など、何の下調べもしていないのに、防犯カメラだらけの道路を、こんなに目立つビートルで駆け抜けるには無理がある。
そもそも彼が、今日ここに来ることを誰かに言った可能性もある。
もし言っていたとして、どこからか彼の遺体が上がれば、この家が真っ先に疑われる。
そしてこのガレージの血痕。
拭き取っても洗い流しても、ルミノール反応は出ると聞く。
そうすればアウトだ。
さらに彼を殺した理由についても追及されれば、やがて父の車に細工したこともバレてしまう。
せめてほとぼりが冷めるまで、できれば裁判が終わるまで、彼にはどこかに消えていただきたい。
生きていても死んでいても。生死は重要ではなかった。
「彼を、一定期間、保管しておきましょう」
私の提案の意味がわからなかったのか、葉子は眉間に深い皺を寄せた。
「保存ではなく、保管です。別に死んでいてもいい」
そういうと彼女はいよいよゾッとしたらしく身震いした。
それから私が彼の上半身を抱え、彼女が足を持ち上げ、二人で地下室へと彼を運んだ。
大人の男性の身体は重く、途中何度も休憩しながら、汗だくになって運んだ。
地下室に入るのは初めてだった。
彼女の話では、認知症になった祖母の為に作った部屋らしいが、窓もなく、テレビ線なども引いていないその部屋は、ただの監禁部屋だった。
入り口が二重になっていて、外側のドアには鍵までついている。
―――まるで、牢屋ね。
あからさまな作りに胸の中でほくそ笑んだ。
今の彼にはまさにおあつらえ向きだ。
彼をベッドの上に寝かせると、たちまちその枕が血で染まった。
さて、どうするべきか。
死んでしまっては腐乱する。
腐乱すれば臭いはやがて階段を上がってくる。
死体の臭いは独特で、何キロ先までも届くほどだと聞いたことがある。
「理想を言えば」
私は荒く息を吐きながら、目を細めている葉子に向かって言った。
「彼のことは殺さずに数か月間、ここで保管したいです」
「―――そんなこと、できる?」
「わかりません。葉子さん、秋元グループで付き合いのあるお医者さんはいますか?絶対に他言しないと信じられるお医者さんは」
葉子は眉間に皺を寄せながら考え始めた。
裏では相当汚いこともやってきたという秋元グループだ。
そういう闇医者と呼ばれる医師の一人や二人……。
「いないこともないわ」
葉子はやがて視線を上げた。
―――でしょうね。
私はその言葉を飲み込んで、大きく彼女に頷いた。
◆◆◆◆
「従弟なんですけど」
葉子は打ち合わせ通り、その医師に言った。
「重度の精神障害で、暴言、暴力がひどく、病院や施設でも受け入れを拒否されています。この間は私を襲おうとしたので、仕方なく……」
細く美しい形の眉を震わせる葉子に、50代くらいに見える医師は頷きながら、彼の額についた傷の縫合を行った。
「大丈夫ですよ。出血の割に傷は浅く、脳は愚か骨までもいっていません。来週には抜糸できます」
「良かったです。それでーーーできれば受け入れてくれる施設が見つかるまで、ここで、彼には穏やかに過ごしてもらいたいんですけど、また意識が戻れば暴れるので」
「なるほど」
医師は縫合を終えると、血圧計を取り出し、彼の二の腕に巻いた。
「意識がほぼないような状態で生かしておくなんて、そんな都合良くはいかないでしょうか。難しい相談ですよね?」
葉子は医師をどこか甘えるような顔で見つめた。
「できないわけではないですよ。精神的に強い薬を出させていただければ、ずっと夢現な状態になります。
まあ、悪く言えば廃人と言うのですか。判断力がない代わりに暴力的思考や行動も現れにくい。過度の認知症で暴力や暴言などがある方に処方される薬を打ちますので」
「診察記録なく、処方してもらうことは可能ですか?実はこのことは親戚の中でも知る人ぞ知るというか、秋元グループのイメージもあるので、情報を限定しているので、あまり他にバレたくないのです」
いよいよ葉子が甘えた声を出す。
「ーーーなるほど。大丈夫ですよ」
医師にとっては理由さえあれば、治療も処方もするだろう。それだけ破格の金額を秋元葉子は払うのだ。
その真偽は関係ない。
しかし彼はどうやらそれ以上を目論んでいる様だった。
チラチラと葉子のワインレッドのワンピースの上から、彼女の若く豊満な乳房を見下ろしている。
それに気づかない葉子ではない。
さっと視線を交わすと、
「……詳しいことは私の部屋で」
といい、医師を自室に招き入れた。
「―――あっぱれな女ね……」
私は半ば呆れながら、地下室で治療を受けた彼と向かい合った。
今は麻酔が聞いて眠っている。
しかし次に目覚めたとき、
きっと彼は、彼ではない。
その頬を撫でる。
「―――可哀そうな人」
私はそう呟くとふっと鼻で笑った。
◆◆◆
薬を撃たれた吉良は、10分後に一度だけ、焦点の合っていない目を見開いた。
そして私にでもなく、葉子にでもなく、天井に向かって叫び出した。
「……てめえらがやったんじゃねえか!!』
これには医師も驚いて数歩退いた。
「あんたら夫婦に何があったかなんて、知ったこっちゃねえけどなあ!」
割れた怒号が地下室で反響する。
「こっちはそのせいで人が一人、自殺してんだよ!」
彼の頭の中で、
消えそうな記憶が、奪われそうな意志が、
暴れ出していた。
「あんたらだけは許さない……。俺が……俺が殺してやる……!」
彼は宙に向かってそう叫ぶと、力尽きたように目尻から透明な涙を垂らし、再び目を瞑った。
「ーーいやはや、だいぶ妄言が激しいですな。これではあなた方も大変だったでしょう」
彼の発した言葉の意味を理解できるはずもない医師は、額に浮かんだ汗を袖でふき取りながら言った。
「―――薬の効果はどれくらいもつんですか?」
葉子の質問に医師は、服薬を続けることでその効果も持続できると言った。
「それにしても。従弟、か。葉子さんの従弟?」
いきなり葉子に対して馴れ馴れしくなった医師は、吉良の手首から脈を測りながら言った。
「あ、いいえ。夫の、です」
言いながら葉子は不安そうにこちらを見た。
―――あ。もしかしえ、血液型……?
そこまで考えていなかった。
ーーー違う。落ち着け。
親兄弟なわけではない。
従弟だ。
親の配偶者の血液型によっては、A型B型O型AB型、どの組み合わせもあり得る。
大丈夫。
大丈夫だ……。
「――似てるね」
ようやく医師はそう呟くように言った。
「……似てる?」
葉子は、今度は医師を振り返った。
「秋元社長によく似てらっしゃっている」
医師がその顔を触る。
「骨格なんて、そっくりだ」
私は改めて彼を見下ろした。
確かに鋭い目つきばかり目について気づかなかったが、こうして瞼を閉じていると似ていないこともない。
「――――っ」
一瞬その顔が、父の顔に見えて吐き気が襲ってきた。
その肩を葉子が優しく包む。
「――大丈夫?」
「……はい」
愛する人との幸せな未来を壊した張本人である私に優しく接する彼女にも反吐がでる。
―――馬鹿な女。
しかし彼女の瞳は私ではなく、寝息を立てる吉良瑛士を映していた。