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それから彼は薬が効いているのか、目は開けているものの、思考が動いている様子はなかった。
口元に食べ物を持っていくと咀嚼し飲み込むことはできるものの、それは本能的な反射によるもので、そこに意志や感情は感じられなかった。
ある日、学校から帰ると、葉子はそわそわとリビングの中を回っていた。
「―――あ、お帰りなさい」
彼女は私に気づくと、気まずそうに笑った。
「ちゃんとハローワークに募集をかけておいたわ」
「そうですか」
住み込みのバイトを雇おうと提案したのは私だった。
薬で抑えているとはいえ、彼がいつ覚醒するかもわからない。
覚醒後、記憶を取り戻したとして、私や葉子がそばにいるのは危険だ。
他の人間に、隣近所から悪臭の苦情が出ない程度に最低限の彼の世話をさせたい。
私や葉子、そして父のことを知らない第三者が望ましかった。
そのためにハローワークで募集をかけてもらった。
少し世間からズレた訳ありの人間、住み込みでも応募してくる自由でかつ孤独な人物、力のある男性だと尚都合がいい。
せめて小口自動車側が、吉良がこの家に訪れたのを知っているのか、その動向を探るくらいの時間が欲しかった。
「彼の様子は?」
言うと彼女はなぜか慌てたように作り笑いをした。
「眠っているわ」
「――――」
ーーー眠っているわ?
その言い方に違和感を覚える。
一人ではけして行かないように言っておいた地下室にいって見てきたのだろうか。
見てきたとして、眠っているという現在進行形の表現はおかしい。
正しくは「眠っていたわ」であるはずだ
どうして彼女は彼が眠って《《いる》》とわかる?
私は鞄を投げ捨てるようにリビングに置くと、地下への階段を滑り降りた。
「待って!!」
彼女の声が追いかけてくる。
もしかして殺したのだろうか。
もし殺したなら即刻、次の手を考えなければいけない。
ドアを開けた。
と、朝まで何ともなかったはずの吉良瑛士の顔は、痛々しいほど包帯に包まれていた。
「―――これは……?」
私は責めるように葉子を振り返った。
「あの……ええと」
葉子は豊満な胸に手を置くように指を込むと、媚びるように微笑んだ。
「ちょっと遊んだだけ……」
「――――!」
私はぞっとしてその包帯を無理やりとった。
「あ、まだ傷がふさがってないのに……!」
彼女が悲鳴を上げる。
―――悲鳴を上げたいのはこっちだった。
吉良瑛士の顔は、父、秋元裕孝の顔と酷似していた。
「整形、したんですか」
血だらけの包帯を手に振り返ると、彼女はまるで、恋する乙女が想い人の名前を言い当てられたかの如く、頬を染めて頷いた。
―――ダメだ、この女……。
私はこの瞬間、彼女に見切りをつけた。
父への復讐の協力者になってくれるかと思っていたが、
「少し……ほんの少しいじっただけよ?」
彼女はすでに完全に壊れていた。
◆◆◆◆
吉良瑛士は、話すことも動くことも出来ず、ただ食事を咀嚼するという唯一の彼の責任を全うしてくれていた。
さらにハローワークでかけた募集に、まさにおあつらえ向きの男が入った。
順調かと思えた彼の保管だが、徐々に暗黙がたちこめようとしていた。
ーーー葉子だ。
彼の顔を父、裕孝に変えてから、彼女は明らかにおかしくなった。
すっかり憔悴していた顔には生気が戻り、くすんでいた肌には再び光が宿った。
言葉に自信がみなぎり、声のトーンも高くなった。
彼女は、私が日中学校でいないのをいいことを部屋に忍び込んでは、彼の意志のない顔を眺めに行くようになった。
なぜ気づいたかと言うと、一度、風邪で熱を出して早退した際に、その狂態を偶然見かけたからだ。
ある日―――。
彼女はついにこんなことを言いだした。
「彼を複数の目で見張るためにも、彼の世話を分担したいの」
小鼻の毛穴から、睫毛の先までばっちりメイクを施し、化粧という鎧甲冑を付けた彼女は、ノーメイクの私にそう言った。
「ーー例えば、どんなことですか?」
「そうねえ」
彼女は想像するのを楽しむかの如く、薄く笑った。
「あなたには給仕をお願いするわ。彼がちゃんと薬を飲めるようにスープや飲み物に薬を混入するのも忘れないで」
数日前まで私に縋っていた薄い唇は、今は真っ赤に染められて、臆することなく私に指示を出した。
「私が彼をお風呂に入れて、その身体に何か変化がないか確かめるわ。そしてアルバイトには掃除と洗濯をしてもらう」
その頃になると彼はまだ曖昧ながらも意識と意志が戻りつつあり、簡単な会話ならできる程度になっていた。
その彼に対し、下心が見え隠れする提案だったが、彼女のいつになく威圧的な態度に、アルバイトの男を見張りにつけるという条件で、つい承諾してしまった。
しかし―――ものの数日で、彼女は吉良と身体の関係を結んだ。
連日地下室からは、彼女と彼の喘ぎ声が昇ってくる。
その声が、姿が、愛し合う父と葉子の二人に思えて、私は身震いをした。
幸せになるなんて許せない。
二人で愛し合うなんて、許せない。
ーーー葉子さん。
あなたは父を失い、絶望の中生きていかなきゃいけないのよ。
そうじゃないと、母がーーー。
母が報われないでしょうが……!
いつの間にか、
私の怒りも、殺意も、
地下で父の幻と交わる彼女と、父を模した彼に向いていた。