クナイペやバーで偶然隣り合わせた人がそっくりだったからと言ってその人との間に血縁関係があるかどうかなど普通ならば調べることはしないだろう。
その普通を突き抜けた好奇心から、母の狙撃というショッキングな事件で知己を得たリオンとの関係を知りたいと思ってしまったノアは、己の軽い思いつき-後になってどれ程激しく後悔しただろうか-を胸に、約束より少しだけ早い時間にリオンやウーヴェと待ち合わせている施設へと足を踏み入れた。
その施設は病院と言うよりは研究所のような雰囲気で、気軽に入る事を躊躇わせるような空気があった為、ドアを潜って受付で用件を告げるという普段ならば当然出来ていたことが出来ないでいた。
その為かドアの内側から何人かの視線を感じていたノアは、このままではいけないと深呼吸を一度だけすると意を決した顔でドアを押し開く為に手を伸ばすが、そんな背中に陽気な声が投げかけられて飛び上がりそうになる。
「何だ、昨日に続いて今日も不審者をしているのか?」
その声に慌てて振り向いたノアが見たのは真夏の日差しを遮るためにティアドロップ型の濃い色合いのサングラスを掛けたリオンと、ステッキを突きながら同じく薄い色合いのサングラスを掛けたウーヴェだった。
「不審者って酷いな」
「入口でそわそわしてたからなぁ」
立派な不審者だと尚も笑うリオンにウーヴェが咳払いをし、待たせたなと微苦笑するとノアも慌てて頭を左右に振る。
「今来たところだから大丈夫だ」
「そうか……じゃあ入ろうか」
ノアとリオンが密かに躊躇っているドアを開ける行為を難なく行ったウーヴェは、受付でやっと入ってきたかと言いたげな顔で用件を問いかける事務員に手短に説明をし、そんなウーヴェの背中を二人が感心したように見守ってしまう。
「……さすがオーヴェ、場慣れしてるなぁ」
「そう、だな……」
「何を言ってるんだ、二人とも」
早くこっちに来いと案内を買って出てくれる職員の後ろでウーヴェが振り返り立ち尽くす二人を手招きした時、廊下の奥から数人の男がやって来て受付前で呆然としている二人を見るやいなや静かなロビーに場違いなほど大きな声が響き渡る。
「リオン!? どうしてここにいるんだ?」
その声にロビーにいた全員が驚愕の顔で声の主を見やるが、リオンとウーヴェの顔が笑みに彩られノアがその様子から二人の顔見知りの人だろうかと交互に顔を見比べるが、声を上げた人に見覚えがあり何処で見た人だろうかと脳内の記憶を探る。
「コニー! お前こそどうした?」
リオンに嬉しそうに呼びかけたのは元同僚のコニーで、その横にはリオンが知らない長身の寡黙そうな青年が立っていた。
「ガビー、お前が会いたいと言っていたリオンだ」
コニーがガビーと呼んだ部下の顔を見上げながら笑いかけるもののその当人はと言えば表情筋ひとつも動かさずにただ目で会釈するだけだった。
リオンが刑事を辞めた後に補充された新しい刑事だと判断したウーヴェが表情の薄い刑事と顔馴染みのコニーに会釈するが、その後ろで刑事の陰になっている人がいる事に気付いて視線を向けると、久しぶりだなウーヴェ・バルツァーと笑顔で呼びかけられてサングラスの下で目を瞬かせてしまう。
「……あなたは確か監察医の……」
「ああ、エッケルトだ」
カール・エッケルトだと名乗ったカールにウーヴェが記憶の底から呼び起こした光景とそれに連なる悲しい事件を思い出し、サングラスを外して軽く目を伏せるが、お久しぶりですと笑顔で右手を差し出す。
「……足の調子はどうだ?」
「これ以上良くも悪くもならないようです」
平時には漸く穏やかに話が出来るようになった足を見下ろして苦笑したウーヴェにカールが一つ頷くが、二人と一緒にいるノアを見て彼が居心地悪く感じるほど凝視した後、己の中で何かの結論を出したような顔でもう一度頷く。
「二人とも元気そうで良かった」
「ありがとうございます」
初対面に近い回数しか会っていないカールの親密な口調に一瞬違和感を覚えたウーヴェだったが不愉快さは無かった為に気にせずに礼を言い、職員が咳払いをして目配せをしてきたことに気付いてコニーと談笑しているリオンの肘を掴んで合図を送る。
「また連絡する」
「ああ、そうしてくれ。警部も飲みに行きたいと言っていたからな」
退職した後でも関係を続けようとしてくれる人達に心の中で礼を言ったリオンはウーヴェの合図に頷いてノアに待たせたと目で謝った後、カールにも手を上げてまたと伝え、歩き出したウーヴェの左右に二人が大股で並ぶと、やっと動き出したかと呆れた顔を隠さない職員に肩を竦めるのだった。
その背中を見送ったコニーやカールだったが三人が部屋に入ったのを見届けた後、コニーが感じた疑問を口にする。
「何でリオンやドクと一緒にノア・クルーガーがいるんだ?」
「ノア・クルーガー? あのリオンに良く似た男か?」
「ああ。先月の映画祭で撃たれた女優がいただろう? 彼女の一人息子でフォトグラファーをしていると言っていたはずだ」
ひと月前の聴取の際に目の前で母が血を流す姿を見てショックを受けていただろうが気丈に取り乱すなと己に命じている顔でコニーら刑事の質問に答えていた姿を思い出し、確かにリオンに良く似ているなと呟くがその時別の男の声が疑問形で再生される。
『さっきの男はハイデマリーとヴィルヘルムの子供じゃないのか?』と。
女優・ハイディーハイデマリー・クルーガーを狙撃した犯人の男の呟きに彼の聴取をしていた刑事たちは意味が全く掴めずにどういう事だと問い返すものの、二人の子供だろう、そっくりだとしか返されず、事件とは直接関係がない問題として棚上げしたことを病院から署に戻った時に聞かされたことを思い出したコニーだったが、狙撃事件には直接関係がないそれがもしかするとリオンの出自に関係がある事だったら眉間に皺を刻む。
ノアから事件について話を聞いていた時にも何と無く感じていた事だが、ノアとリオンの顔が良く似ている事、それ以上に二人が時折見せる一瞬の表情が疑問を挟む余地がないほど瓜二つなことがあり、己の身近にいる双子でもここまで似ていることは少ないと感じた事を思い出し、己の思考回路の到達地点に驚きのあまり目を見張ってカールを凝視してしまう。
「どうした?」
「……事件で知り合っただけの関係でここに来るか?」
その呟きはカールに向けたものというよりは己の思考を整理するもののようだったが、カールも同じ事を考えていたのか腕を組んで足元へと視線を落とし、次に天井を見上げて溜息を一つ。
「……あれは、兄弟だろう」
今まで横で黙って話を聞いていたガビーにはカールが呟く声は日常会話以上のものには思えなかったが、ガビーよりもリオンと付き合いの長いコニーには別のものに聞こえたのか、限界まで目を見開き目の前のカールがモンスターか何かのように蒼白になって見つめる。
「確定は出来ないが外見上の共通点が多すぎる。リオンの両親とノアの両親が一卵性双生児同士で結婚していたなら従兄弟という可能性もあるだろうが、それよりも二人が同じ両親から生まれた子供の可能性の方が高い」
いつも調べている遺体のように解剖は出来ないからなんとも言えないが瓜二つの顔立ち、髪の色や瞳の色や後ろ姿、そして決して数値に表すことが出来ない雰囲気までそっくりだった事を思えば高確率でリオンとノアは兄弟だろうと呟くが、カールの言葉にコニーがぐるりを見回しながら己が今いる場所を思い出し、溜息ひとつに有りっ丈の疑問や言葉に出来ない思いを込めてリノリウムの床に吐き捨てる。
「……ガビー、カール、帰ろう」
「ああ、そうだな」
コニーが溜息に込めた思いをカールは的確に想像できてガビーも何となくは予想できたものの、リオンについてヒンケルや同僚達から聞かされた以上の情報が無いため、飲み込まれた言葉の重さなどは想像出来ないのだった。
検査自体は呆気に取られるぐらい簡単なもので当初の予定通りリオンとノアの血縁関係を調べて貰ったが、ウーヴェとリオンが考えていたもう一つの検査、ヴィルヘルム・クルーガーとリオンの血縁関係についての検査は行わなかった。
こうなればいっそのこと総て検査をしてしまおうとリオンが腹を括った時に話し合った二人だったものの、もしも二人が最も恐れている事実を突きつけられたとき、自分たちの手には余るのでは無いかとの恐怖が芽生えたのだ。
その恐怖を二人で乗り越える事はもちろん出来ることだったが、流石のウーヴェもひやりとしたものを覚え、今はそれよりもノアとの血縁関係だけに絞って調べようとなったのだ。
ただノアとの血縁関係を調べることは畢竟その父であるヴィルヘルム・クルーガーとの血縁関係をも調べることになるのだが、直裁的に調べていない事実で二人は恐怖やその後にやって来る真実が顔を出すよりも早くに蓋をしてしまったのだ。
この検査によりもたらされる事実、それから芽生えるであろう諸々の疑問。その疑問から自分たちの手には負えないモンスターが生まれるのでは無いかとの恐怖はこの時リオンだけでは無くウーヴェの中にもあったが、その恐怖と対等な大きさで好奇心と絶好の機会を逃したくないという意志があり検査機関を訪れたのだった。
旧知の面々と意外な再会を果たしたあの場所での検査から五日後、表面的にはDMとあまり代わり映えしないが二人とその周囲にとってとても重要な結果を秘めた封筒がウーヴェのクリニックに届けられる。
それをまず最初に受け取ったのは事務全般を引き受けているリアで、自分には覚えのないものとの理由から取捨選択をウーヴェに任せる為、患者が帰った後にウーヴェに差し出した。
その封筒を受け取ったウーヴェは当初首を傾げていたが差出人の検査機関名が印刷されている封筒の隅を見て頷き、今日の午後は完全休養日だからあなたもしっかり休んでちょうだいとウーヴェがクリニックを再開してから設定した、週の半ばの午後の休診の完全休養日を思い出せと笑う彼女に微苦笑したウーヴェは、新しいカフェが出来たからそこでお茶をして夜はダニエラとライブに行くわと楽しそうに笑うリアに、今度は心からの笑顔でぜひ楽しんで来てくれと伝えると、浮かれた様子で診察室を出て行く彼女を見送ったのだ。
その後深呼吸をしたウーヴェがその封筒を天井の明かりでは無く二重窓から差し込む真夏の日差しに翳して中身を確認するが、出来たことといえば内容物の書類の端を確認できるぐらいだった。
己でも何をそんなに警戒しているんだと自嘲しつつデスクにそっとそれを置いたウーヴェは、椅子の背もたれを軋ませながら天井を見上げる。
検査の後、写真の撮影に行くと別れたノアを見送った車で自宅に戻る間、シフトレバーに置いたウーヴェの手をいつものように撫でたり握ったりと手遊びをしながら、情けない事だが検査結果を最初に見るのが怖い−それはリオンがウーヴェに初めて明確に見せた弱い顔だった−からまずはウーヴェが見てくれと助手席でリオンが弱々しい笑みを浮かべながら呟いた事を思い出し、その結果が形になって表れたデスクの上の封筒だと気付き顔を封筒へと向ける。
ノアの分の結果も当然ながら届けられているだろうが、彼はそれを何処で受け取るつもりなのだろうか。
いくら仕事が比較的自由な時間を作りやすい自営業だとしても、そうそう長い間活動拠点であるウィーンを離れることは出来ないだろう。
そのことまで詳しく聞いていないことを思い出し、どちらにしても二人が受けた検査結果が書面として届いたことに溜息を零したウーヴェは、滅多にない緊張を覚えつつ封筒をペーパーナイフで開ける。
いつもならば難なく行えるその作業が何故か上手く行かずギザギザに開封されたそこから書類を震える手で取り出したウーヴェは、検査結果に書かれている内容を読み進めて行くが、二人のDNAを調べた結果、99.9%以上の確率で血縁関係を認めるとの言葉を読み、息を飲んで再度天井を仰ぐ。
リオンとノアが兄弟だった。
それは、ヴィルヘルム・クルーガーとハイデマリー・クルーガーがリオンの両親ということでもあった。
映画祭を控えた街がその話題で賑やかになったある日の午後、初めてノア・クルーガーという青年の存在を知った。
初対面-と言ってもウーヴェは彼の背中を見ただけ-は遠目だった事もありリオンと間違えて声を掛けるが無視をされるという、思い出せば少しだけ気恥ずかしい出来事があった。
その後リオンと一悶着あったものの何とか仲直りをして映画祭当日を迎えたが、その華やかな現場でノミネートされていた女優が狙撃されるという衝撃的な事件が発生し、テレビ越しに見ていたウーヴェの前でリオンがその女優の元にいち早く駆けつけた。
あの時は元刑事としての癖のようなもので彼女を助けたリオンをその方法が多少強引ではあっても称賛したが、ウーヴェが手にした書類の内容を知ってしまった今、その行為に別の意味づけがなされて意識を変化させてしまう。
あの日あの時、血まみれになって倒れた彼女が己を捨てた母だとは知らず、リオンは刑事だった頃に叩き込まれた習慣で救助のために真っ先に駆け付けたのだ。
「……!!」
これは一体何処の誰が仕組んだものなのだろうか。
滅多なことでは祈らないし祈る神を持たないウーヴェだったが、この時ばかりは神とやらの意志に底意地の悪いものを感じてしまい、眼鏡をデスクに投げ出して手で目を覆い隠す。
良く耳にする神の試練かはたまた悪魔の悪戯かなどの皮肉めいたことはウーヴェにとってはどうでも良い事だった。
ただ、運命の悪戯-ああ、運命など大嫌いな言葉だ-で、リオンは時を経て己を捨てた母をそうとは知らずに助けていたのだ。
人の命を助ける事は称賛されることではあったが、その救助の相手が生みの母であったとリオンが知ればどんな思いを抱くだろうか。
そこまで考えたウーヴェの身体が電気ショックを受けたときのように跳ね上がり、鼓動が激しくなる。
リオンとノアの両親であるヴィルヘルム・クルーガーとハイデマリー・クルーガーが少しの間この街で暮らしていた事があると教えてくれたのはノアだったが、その短い期間にリオンを妊娠し出産したということだろうか。
ノアはウィーンで生まれ育ったと言っていたことから考えるとそれしかなかったが、その短期間の間にリオンが生まれ、そしてあの教会に捨てられたのか。
仮定だらけの思考の道が天井にあるかのように視線で辿りながら歩いたウーヴェだったが、鼓動が煩くて頭をひとつ振る。
生まれたばかりの乳児を親が捨てる理由は当事者が十人いれば十通りあるだろうが、そのうちのひとつと仮定し、育てていく自信が無かった為に必ず助けてくれるだろうと願い教会に捨てたのであれば、まだ子どもの命を思っての行動だと最大限解釈することが出来た。
だが、その間捨てた子供の消息を訪ねるために児童福祉施設に訪れることはなく、それどころか十年の歳月が流れた頃にノアが生を享けたのだ。
長子を真冬の教会に捨て次子をまるで初めての子供の様に喜び祝う、目の当たりにすることの出来ない過去を脳裏に思い描き、真冬の寒さに一人泣くリオンと対照的に沢山の人達に囲まれて祝福されるノアを抱く二人の光景も浮かぶが、それを行える神経がウーヴェには理解できなかった。
産婦人科の友人が酔った勢いで苦々しく吐き捨てた、障害を持って産まれたとしてもその子に何の罪もない、罪を見いだすのは周囲の大人達だとの言葉を思い出し、リオンから聞かされていた己が発見された時の様子を次々に脳裏に描くが、リオンの身体に障害らしきものは特に思い当たらず、また知的障害や精神障害を患っている事も今まで付き合ってきた中では感じることはなかった。
だからリオンが捨てられた理由が障害によるものではないことは確かだった。
だとすれば考えられるのは、と、冷静にウーヴェの中の誰かが呟いた言葉に体が震えてしまう。
リオンは、生まれるべきではなかった。生まれてきたことが間違いだった、だから捨てられたのだ、と。
その言葉がもたらす季節外れの寒さにウーヴェの身体がみっともないほど震え、そんな事はないと否定を口にするが、なら何故ノアだけが祝福されそれよりも先に生まれていたリオンは捨てられたんだと嘲笑が響き渡る。
クリスマスイブの真夜中、乳児の泣き声がするからと寝ているマザー・カタリーナを起こし、不審がる彼女の手を引いた幼いゾフィーが礼拝堂の天国の扉を開けた先、ミサの準備が整えられている祭壇と静かに佇むマリア像が見下ろす長椅子に寝る直前の見回り時には見かけなかった麻袋があり、近寄った二人が発見したのは、助けを求めるようにか細い泣き声をあげる、体温が下がり始めて危険な状態になっていた乳児の姿。
目の当たりにしたことはないがほぼ正確にその時の様子を思い描けるウーヴェが胸に芽生えた強烈な痛みに前屈みになってそれをやり過ごそうとするが、本人や育ての母から聞かされた最愛の伴侶の過去が脳裏に次々に浮かび、呼吸ができない苦しさに背中を喘がせてしまう。
検査を受ければこの結果が出る、それはウーヴェも薄々理解していたことだった。
だが明確に意識せずにどこか浮かれた気持ちでノアの言葉に気軽に乗ってしまった結果、どうリオンに伝えればいいのか咄嗟に思い浮かばない真実がウーヴェに降りかかり、滅多に見ないほど狼狽した顔で白とも銀ともつかない髪を握りしめる。
「……リーオ……っ」
ヴィルヘルムとハイデマリーの長子であるリオンが捨てられ、その後生まれた次子のノアは二人の一人息子として大切に育てられて来たことはノアと知り合ってから一緒にいた短い時間でも感じ取れることだった。
この差は一体なんだ。何故リオンは真冬に捨てられ、ノアは家族の愛情の元何不自由なく育てられたのだ。
リオンが生まれた時に彼らに一体何があったと脳内にどうあっても答えの出ない悩みが溢れ、己が呼吸をしているかどうかも理解出来ずにいたウーヴェは、デスクに置いたままのスマホから軽快な映画音楽が流れ出したことに気付き、手にすることも恐ろしい物でも見るような目つきで見てしまうが恐る恐る手に取り震える声で名を呼ぶ。
「……リ、オン……」
『オーヴェ?……どうした?』
その映画音楽はリオンの雰囲気をよく伝えると思って選曲したもので当然ながらリオンからの着信を示すものだった為、取り繕うこともなく震える声を聞かせてしまうが、それを聞いたリオンが心配をするという気遣いまで出来なかった。
「……あ、い、いや、ちょっと……待ってくれ」
だが、リオンの声を聞いて一瞬で平静さを思い出したウーヴェは、訝る気配を感じつつも深呼吸を繰り返し右手薬指に意識を向けた後、少し嫌なことを考えていたとだけ伝える。
『……もう大丈夫か?』
「あ、ああ、お前の声を聞いたら……落ち着いた」
その言葉は嘘ではなく本心だった為、前髪をかきあげながら伝えたウーヴェは、どうした、仕事は終わったのかと問いかけ、椅子を回転させて二重窓の外に広がる真夏の空へと視線を向ける。
『それがさ……ちょっと残業が入っちまった』
「残業?」
『そう! 急に外せねぇ来客があるって。社長も相談役もいるからお前も残れって言われた』
役員が必要ならば副社長などもいるのに何故会長付きの一秘書の俺が残らなければならない、今日はお前の完全休養日だから一緒にランチとその後の自宅での寛ぎタイムを楽しみにしていたのにと電話の向こうで一息に捲し立てられて目を瞬かせたウーヴェは、確かに役員が対応する客にお前まで一緒にいなければならないのはどうしてだろうなと返すと、だよなぁと同意に安堵するが不満を消せない声が返ってくる。
『だから悪ぃ、迎えに行けねぇ』
「ああ、気にするな。仕方がない」
だからあまり不貞腐れずにもう少し仕事に励んで来いと見えない場所からそっと背中を押すとスマホの向こうの雰囲気が少し変化したように感じ、頑張れるなと小さな笑みを浮かべると、うんという小さいが何かを納得した声が返ってくる。
『……ダンケ、オーヴェ。愛してる』
「……ああ」
小さなキスの後に届けられる告白にウーヴェがつい先程までの己の状況を忘れた顔で頷き返し、小さな音を立ててスマホにキスをする。
「今日は暑いからタクシーで先に帰っている。仕事が終われば連絡をくれ」
『ああ、待っててくれ』
じゃあと通話を終えたスマホをデスクに投げ出した時、己の掌と顔にびっしりと汗が浮かんでいることに気付き、ため息一つで立ち上がる。
その拍子に汗の原因となった書類がデスクの上で居心地悪そうに身動ぐのを、まるで諸悪の根源だと言いたげな顔で睨みつけたウーヴェは、封を切った手紙がギリシャ神話のパンドラの箱のようにも感じ、神話の中の人々も同じように困惑し悲嘆に暮れたのだろうが、箱の底には希望が残っていて救いがあったが、ここに宿る神か悪魔かどちらかの悪戯の底には人の悪意がどろりと凝り固まっているのではないかと暗澹たる気持ちになってしまうのだった。
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