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ウーヴェへの不本意な残業が発生した連絡を終えたリオンは、会長室の一つ手前の秘書であるヴィルマやヘクター、そして己のデスクがある部屋で溜息を吐き、ウーヴェの言葉を頼りに気分の切り替えを図る。
来客がある時は大抵秘書である己は席を外してこの部屋にいるか、同じ会長室のデスクで仕事をしているだけで特に用事があるわけでもなかった。
だから今日に限って残れと言われた不思議に首を傾げつつ仕方がないとて気分を切り替えるように頬を軽く両手で叩いた後に会長室のドアを開ければ、L型に組んだ革張りのソファの長辺にレオポルドが座って新聞を読み、その隣ではイングリッドが夫の新聞を横合いから読むように身を寄せていて、そんな二人を全く気にするそぶりも無くギュンター・ノルベルトがソファの短辺で珍しくテーブルに足を乗せて寛いだ姿でタブレットを眺めていた。
その雰囲気がバルツァーの会長室というよりはレオポルドの家のリビングの様だった為、これからやってくる客とやらは仕事の重要な話をするのでは無くもしかすると友人知人の類かと想像しつつギュンター・ノルベルトの足を跨いでソファにどかっと腰を下ろす。
「フェリクスに電話をしてきたのか?」
「そー。せっかく今日はオーヴェの完全休養日だからうまいメシを食って家で昼寝をしようって話してたのにさー」
残業が入ったと働く人の休む権利を奪われたと盛大に文句を言ってやったと笑うリオンにイングリッドがリーディンググラスを少し下げながら微笑ましそうに目を細める。
「仕方がない、もう少し頑張って来いと言われなかった?」
「さすがムッティ! 言われた。キスもくれたから仕方ねぇって言ってきた」
さすがは母親だ、よく息子のことを分かっていると笑うリオンを呆れた様に新聞から顔をあげたレオポルドも見つめるが、まあ、あの子の予定を変更させたことは気の毒だったなと素直ではない謝り方をし、リオンのロイヤルブルーの双眸を限界まで見開かせる。
「なんだ?」
「なんでオーヴェには謝るのに俺には謝らねぇんだ!?」
おかしい、謝罪相手を間違っているとがなり立てるリオンの横、ギュンター・ノルベルトも一見すればそうとは見えないリーディンググラスをずらしながらうるさいと一言吐き捨てる。
「親父が悪い!」
「どっちもどっちだ。……今日の客はお前に会いたいと言っているんだ、我慢しろ」
眼鏡の向こうから冷静に見つめてくるギュンター・ノルベルトを見たリオンは、うわぁ親子の血は争えねぇ、オーヴェそっくりと嘆くフリをしつつも、俺に会いたい客って誰だと当然の疑問を呈するが、もうすぐ来るから待っていろとだけ教えられて不満に口を尖らせる。
「……眼鏡かけたらオーヴェとそっくりだな、兄貴」
「そうか?」
「あれ、気付いてなかったか? あー、そうだ、ハンナが言ってたんだった」
「ハンナが?」
いつだったか屋敷の廊下をギュンター・ノルベルトとウーヴェが並んで歩いている後ろ姿を見た時、ウーヴェが生まれる以前のレオポルドとギュンター・ノルベルトを見ているみたいだったと話していたことを伝えると、リオン以外の三人の顔に懐かしい穏やかな笑みが浮かぶ。
「そう言えばそうね、ハンナが一番私たちの後ろ姿を見ていてくれたわね」
「人は自分の背中を見れるわけじゃないから」
人は己の背中を見ることは出来ないからと笑うリオンにレオポルドが頷き、だから後継者の為人でその人の背中も見えると小さく笑うとギュンター・ノルベルトが伏し目がちに頷く。
レオポルドとギュンター・ノルベルトの父子の間には深い溝があったが、それを埋めたのがウーヴェの存在だと教えられた時、素直に認められないがウーヴェが羨ましいと思ったことがあった。
だが、己が羨望の眼差しを向ける相手が全身全霊で己を愛し受け止めてくれている事を短いとは言えない付き合いから理解し受け入れた頃、羨望は昇華されてただ純粋にウーヴェへの想いだけが腹のなかに静かに落ちてきたのだ。
そんな事をふと思いながらソファの背もたれに腕を回した時、一家団欒の雰囲気を邪魔しない様な小さなノックが聞こえて来る。
「どうぞ」
「失礼いたします。お客様がいらっしゃいました」
「ありがとう……ようこそ、ヘル・クルーガー、フラウ・クルーガー」
ヴィルマの声に立ち上がったギュンター・ノルベルトが彼女に礼を伝え、彼女の後ろで控えている客へと小さな笑顔で手を差し出す。
「お忙しいところお時間を取っていただき、ありがとうございます」
「ありがとうございます」
ソファ近くにやってきた二人の客人はヴィルヘルム・クルーガーとハイデマリー・クルーガー夫妻だった。
ギュンター・ノルベルトがテーブルを挟んだ向かい側のソファにどうぞと二人を案内し、ソファで反り返って座っているリオンの頭をタブレットで軽くぽんと叩くと、リオンが驚いた顔で姿勢を正す。
「俺に会いたいって言ってた客ってあんたらだったのか」
何故今頃会いたいと思ったんだとリオンにしてみれば当然の疑問を口にするとヴィルヘルムが申し訳なさそうに眉を寄せ、その横ではハイデマリーが信じられないものを見る様な顔でリオンを見つめているが、本当ならばすぐにでもお礼に来なければならなかったが妻の体調を優先させていただいた、あの時は助けて下さりありがとうございましたとヴィルヘルムが深々と頭を下げてそれに倣った彼女も頭を下げるが、顔を上げた時にはテレビ越しに見たことのある笑みを浮かべていて、さっきの驚愕の表情はかき消えていた。
今ヴィルヘルムが言ったあの時とはどの時だろうと思案するが、妻であるハイデマリーが狙撃された時だろうと判断し、別に当たり前のことをしただけだと伝えると、あなたにとっては当たり前のことでも咄嗟にあの様に行動できる人はいない、だから本当に助かったと重ねて礼を言われて一度眼を閉じたリオンだったが、昨日無事に退院できました、今日ウィーンに帰ろうと思うと教えられて目を開ける。
「退院できたのか? それは良かったな」
ヴィルヘルムの言葉にレオポルドが心からおめでとうと退院祝いの言葉を告げ、イングリッドもその横でおめでとう、これからはリハビリを続けるのですかと問いかけ、ウィーンで友人が経営しているリハビリ専門のクリニックがあり、しばらくはそちらで世話になるがいつか必ず舞台に復帰するとこの時初めて負けん気の強い顔でハイデマリーが力強く宣言する。
「ええ、楽しみにしていますね」
命の危機に晒されたあなたが今後どの様に女優としての幅を広げるのか、一ファンとして楽しみにしていると笑うイングリッドの言葉にハイデマリーがこみ上げる感情を堪える様に唇を噛み締めるが、ありがとうございますと表情を隠す様に頭を下げる。
「……今頃になったのだけど、本当にありがとう、ヘル・ケーニヒ」
そして顔を上げた時、女優だと思わせる極上の笑顔でリオンに礼を言うが、言われた方はいや、さっきも言ったが当たり前のことをしただけだとしか返さなかった。
ただ広げた足の間で手を組み、無意識の動きで親指をくるくると回し始めているのをレオポルドとイングリッドが気付き、目で合図を送っていたが特に何も言わなかった。
「あなたにとっては当たり前のことかもしれないけど、私にとっては礼を言っても言い切れないの」
だからもう一度礼を言わせていただくわ、ありがとうと強気な笑顔で礼を言う彼女にリオンも溜息一つでそれを受け入れ、退院できるほど元気になって良かったと、それは嘘ではないことを伝える様に笑みを浮かべて退院を祝うと、ウィルとノアのおかげだと隣でハラハラした顔で様子を見守っていた夫の腕に手を乗せて身を寄せる。
「この街にアパートを借りてずっと病院に通ってくれたし、ノアも仕事があるのに定期的にウィーンから通ってくれていたわ」
仲が良い家族とそれぞれの仕事の関係者や友人達から言われていたが本当に最高の夫と息子だと照れることなく己の伴侶と息子を褒めるハイデマリーに皆が笑顔で頷くが、確かに家族仲が良いと居心地も良いとリオンが実感のこもった声で返すと、私の自慢の宝だとハイデマリーの顔が笑み崩れる。
「そういえば、ノアはもうウィーンに戻ったのか?」
「え? ええ、ウィーンの郊外にあるひまわり畑の写真を撮りたいって言っていたわ」
数日前にリオンと己に血縁関係があるかどうかの検査を受けたノアが仕事が入っているからウィーンに戻ると言っていたことを思い出したリオンが問いかけると、なぜ息子のことを知っているのかと不思議そうな顔でハイデマリーが小首を傾げるが、リオンに直接礼を言いに行かないのかと息子に強い口調で問われたことを思い出して納得の写真が撮れたからスタジオで作業をしている事を伝えれば、今度は同業者でもあるヴィルヘルムが笑顔で息子が今かかっている仕事の内容を伝える。
誰に似たのか幼い頃からカメラが大好きで花や風景を撮っていたと昔を懐かしむ顔でヴィルヘルムがリオンではなく隣のギュンター・ノルベルトに笑顔を見せると、写真集が出るのか、楽しみだと頷く。
「……思ったのだけど……」
ヘル・ケーニヒとノアが良く似ているとハイデマリーが夫の耳に囁きかけると確かに良く似ているねとヴィルヘルムも頷き、事件の際にも思ったが今見ても本当に良く似ていると感心しているのかどうかの声をあげる。
「そういえばそんなことを言っていたな」
ノアとリオンが良く似ている−レベルではなくそれぞれの知人が一度は見間違える程のそっくり具合はどう言うことだろうねと二人が微苦笑する前、レオポルドとイングリッドも映画祭の時のことを思い出し、旧友の映画監督がリオンとノアを間違えて呼びかけていた事を思い出す。
「あなたがノアの兄だって言われたら皆信じてしまうでしょうね」
そんな人はこの世に存在しないのだけれど、そんなことを考えてしまうほど似ているわねと口元に手を当てて笑うハイデマリーにヴィルヘルムも困惑顔で笑うが、彼女の手に手を重ねて目を細め、本当によく似ていると繰り返した後、ノアの写真集が出れば買ってあげてくださいと親心を全開にする。
「楽しみにしてる」
「ぜひ。……そうだ、君にはマリーだけじゃなくて僕も世話になった。ありがとう」
「俺、あんたには何もしてねぇけど?」
その言葉にリオンの蒼い目が丸くなり、事情を知らないレオポルドらが三人揃ってリオンの横顔を見つめるが、室内に芽生えた疑問に答えたのはハイデマリーの申し訳なさそうな声だった。
「ウィルったら、調子が悪くなってヘル・ケーニヒの所縁のある教会でお世話になった事を昨日まで教えてくれなかったのよ」
だからそちらに関しても礼が遅くなってしまったと夫を少し睨みながら頭を下げる妻に三人が納得の表情を浮かべるが、その横ではリオンの蒼い目が今度は驚きではなく別の感情から見開かれてしまう。
「そうだったのですか? 体調はもうよろしいの?」
イングリッドの優しい言葉に頭に手を宛てがいながら照れた様に笑みを浮かべるヴィルヘルムにハイデマリーが心配をかけたくないから黙っていたと言うけれど後から知る方がもっと心配してしまうのにと、夫の体調を第一に慮っている顔を隠さないで妻がその手を取る。
「……本当にそれに関して俺は何もしてねぇんだけどな」
「そうかい? あの教会の出身だと聞いたよ」
リオンの声に潜む感情にこの場にいた誰もが気付けず、当人も照れ隠しの様な笑みを浮かべつつ世話になった時に聞いたと伝えると、リオンの目に一瞬だけ身が竦むような強い色が浮かぶが、瞬き一つでそれが搔き消え、そう言う事でしたらその感謝を受け入れますと満面の笑みで小さく頷く。
もしここにウーヴェがいればリオンのその小さな変化を敏感に察したのだろうが、限られた人以外に己の本心を覗かせる事をしないリオンが一瞬で浮かべた笑顔にイングリッドがそれでも流石に何かを感じたのか、柳眉を悩ましげに寄せる。
「……ヘル・ケーニヒには夫婦揃って世話になった。ありがとう」
自分達に出来る恩返しは何かがまだ分からないけれど自分達に出来ることはするつもりだからと姿勢を正して頭を下げるヴィルヘルムにリオンが恩返しだなんて気にしないでくれ、そもそもあの教会の人達は誰かの世話をすることが半ば趣味のようなものになっている、だから本当に気にするなと手を振るが、あんなにも親切な人達に囲まれていれば優しくなれるのも納得だと頷かれてリオンの手がぴくりと揺れる。
「重ねて言わせてもらう、マリーと僕を助けてくれてありがとう」
二人揃って姿勢を正した後リオンに頭を下げる光景にリオン以外はある種の感動を覚えていたが、当の本人はどうやら違う感想を抱いたようで、どういたしましてと返した声はやけに硬質なものだった。
「ウィル、そろそろ時間だから失礼しましょう」
「ああ、そうだね」
一瞬何ともいえない沈黙が流れるが、ハイデマリーがそろそろ時間だからと夫を促しそれに気づいたヴィルヘルムも頷いてレオポルド、イングリッド、ギュンター・ノルベルトの顔を見た後、リオンを彼らに比べれば遥かに短い時間見た後、忙しい所をありがとうございましたと礼を言い、妻を支えながら立ち上がる。
「ウィーンまでは飛行機で帰るのですか?」
「医師からの許可は降りているのですが、少しゆっくりしたいので列車で帰ろうと思います」
映画祭でこの街にやってきて観光するつもりだったがそれも叶わずひと月以上病院のベッドにいた為に帰宅するときは車窓を楽しみながら電車で帰る事を伝えると、ハイデマリーも急ぐ旅ではないからと女優らしい笑顔で頷く。
「気分転換になってそれも良いわね」
次にお目にかかるのはテレビの中かスクリーンの中である事を願っているとイングリッドが彼女の手を取り応援している事を伝えると、ハイデマリーもその握手から力を分け与えられた顔で頷く。
「では、失礼します」
「ウィーンまで気をつけて」
やる事をやりきった満足そうな顔で頷き会釈をした後に会長室を出て行く二人を立ち上がって見送った四人だったが、室内に静寂が戻った後リオンがソファに片胡座で座り込み、背もたれに腕を乗せながら気にくわねぇと一言呟くが、気持ちを切り替えるように前髪を掻き揚げた後、肺の中を空にするような息を吐き出し己の頬を両手で叩く。
「リオン?」
「……親父、仕事終わったから帰っても良いか?」
今日の仕事は終わっただろうと頬を叩いた音に眉を寄せるレオポルドにいつもと変わらない笑顔で問いかけたリオンは、ああ、残業ご苦労と労われ、どうせならば形のある何かで労ってほしいなぁと暢気に要望を伝えながら立ち上がる。
「ゲンコツでどうだ」
「うっわ、サイテー。ゲンコツ食らう前に帰ろうっと」
レオポルドの言葉に肩を竦めてそそくさと部屋を出て行ったリオンだったが、また明日とドアの隙間から三人に挨拶をすると、呆然と見ているらしいヴィルマとヘクターにも同じように陽気な声で挨拶をし職場を後にするが、その職場では三人がリオンの様子がおかしいことに気付き、クルーガー夫妻との遣り取りの中で気に食わない何かがあったのだろうかと首を傾げていることには気付かないのだった。
ウィーンに向けて出発するのを待っている赤い特急列車の半ば個室のようになっているビジネスシートで肘置きに肘をついて隣のシートでぼんやりと外を眺めている妻に身を寄せたのは、漸くこの街を離れられることに安堵していたヴィルヘルム・クルーガーだった。
予約していたシートに無事に座り人心地ついた二人は、ウィーンに向けて列車が出発するのをシートの上で言葉を交わすことなく待っていた。
車窓を行き交う荷物を抱えた人や足早に歩き去る人を見るとは無しに見ていたハイデマリーが何か気になるものを見つけたのか視線でそれを追っていたようだったが、同じように視線で追いかけたヴィルヘルムの目には取り立てて注意するべきものも見えなかった。
列車の通路を同じ列車に乗る人達が行き交い、その中をスタッフも慌ただしく行き交っている。
出発直前特有の慌ただしさの中、帰路に就く人や旅立つ人の浮き足立った気配などを感じ、そのささやかな喧騒に目を細める。
この街に初めてやって来た時は亡命先で向けられていた哀れみの視線から逃れられた歓喜で世界は明るく光に満ちていたが、この街から逃げるように旅立った時には世界は明けることの無い夜の底に沈んでいるようだった。
人々が、家族や友人であっても互いを監視する灰色の世界が嫌で彼女と手を取って壁を挟んだ光に満ちているであろう隣の世界へと逃げ出したが、その先で待っていたのは亡命者という肩書きで自分たちを見つめる人々の好奇の目と噂で、過敏になった神経が何気無い言葉からも背後を伺ってしまい、怯えなければならない日々だった。
そんな怯えを二人で乗り越えて新たな命を彼女が宿し、親子になる準備を自分達のペースで準備していた時、己に忘れることを命じて蓋をしていた事件が二人を襲った結果、クリスマスシーズンで家々に暖かさを象徴する光が灯る中、二人身を寄せ合って自分たちを知る人のいないウィーンへとまるで逃げるように向かったのだ。
その夜を思い出し、真夏なのに不意に寒さを感じて身体を震わせた彼は、隣で口を閉ざしたままの妻の顔を覗き込むが、それに気付いたらしい妻が小さく吐息を零す。
「……やっと帰れるのね」
「そうだね……長かったね」
君を傷付けた犯人の裁判も結審し彼も刑務所に収監されたようだからもうこれ以上君は今回の事件で傷を負わなくて良いと、入院している間のマスコミの取材のしつこさや友人の振りをした人々の相手をしなくて済むと苦笑すると、窓ガラスに映り込んだロイヤルブルーの双眸と視線が重なる。
「そうね……彼、人生の半分以上もの間、私を恨んでいたのね」
己を最高の舞台に上がる直前に奈落の底へと叩き落とした男が遥かな昔に捨てた故郷で交友関係のあった男だと教えられて新聞などが勝手に過去を暴き立ててくれたが、可能ならば思い出したくない陰鬱な日々も思い出してしまい、消灯時間を過ぎた病院のベッドで独り震えていた夜もあった。
そんなにも長い間人を恨んでいられるなんてよほど私が嫌いだったのねと自嘲する妻の肩を抱くように腕を回し今は考えないでおこうと囁いた彼だったが、聞き取りにくい声が、私たち、きっと地獄に落ちるわねと自嘲を深めた為、妻の顔を覗き込むようにシートから身を起こす。
「マリー?」
「……女優として復帰するのにもっと頑張らないといけないものね」
例えその結果地獄に落ちるのだとしても後悔はないと無理に浮かべているような笑顔に眉を寄せたヴィルヘルムは、地獄に落ちるのは君ではなく僕だけだと胸の内で呟くと同時に、あの教会で世話になった日に総てを思い出したと目を閉じる。
最早忘れることも叶わなくなった血を撒き散らしながら床に倒れたヨハンの顔、この街に連れてきてくれたゲオルグと教会で世話をしてくれたヤーコプの手を借りて彼の遺体を処分し、ゲオルグとヤーコプには二度と会わない事を決め、その後のクリスマスイブの前夜、事件現場にもなった自宅で一人子どもを産んだハイデマリーが正気を失ったような状態になり、そんなもの見たくない、私から生まれてきたなんて考えるだけでおぞましい、その悪魔を早く捨ててくれと叫んだ顔が思い浮かぶ。
そして雪が降る中、世話になった教会に一人で出向き、ミサの準備が整えられている礼拝堂の長椅子に粗末な麻袋に押し込めた乳児を捨ててその場から逃げ去った己の背中が閉ざした瞼の裏、映像として浮かび上がり、それを頭を一つ振ることで掻き消した彼は、妻の肩に頭を預けてそっと目を開ける。
「君一人を地獄になんて行かせないよ」
だから安心してリハビリに励んで女優として復帰しよう、それをきっと僕たちのただ一人の子どもであるノアも望んでいるよと笑いかけたヴィルヘルムは、ハイデマリーの蒼い双眸が柔らかな形に細められるのを窓ガラスの反射で確かめると、どちらもその事については口に出すことはなく、二人の背後の出発直前の慌ただしさをまるで別世界のことのように感じつつプラットフォームを行き交う人々の姿を見守っているのだった。
ヴィルヘルムとハイデマリー夫妻がこの街で経験した事件が二人の今後の人生にとって終わりの始まりであることをこの時の二人は無意識に感じ取っていたのか、ウィーンに列車が到着するまでの間、どちらもあまり口を開くことは無かったが、ただ今までのようにどんなことがあろうとも二人で支え合い生きていく事を確認するかのように隣り合ったシートで肩を寄せ合っているのだった。