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録音スタジオの片隅、音が漏れないよう重ねられた吸音材の壁に囲まれて、
僕たちは最後のトラックを作り上げていた。
深夜零時。機材のライトだけが灯る静かな空間。
PCのディスプレイには、波形が並び、重なり、ひとつの呼吸になろうとしていた。
「……このAメロ、さ、もうちょっと息抜いたほうがいい気がする。感情込めすぎると、輪郭が崩れそう」
僕がそう言うと、若井はギターの弦を軽く鳴らしながらうなずいた。
「じゃあ、コードはそのままで、リズムをちょい遅らせてみる?」
「うん。若井の指が決めたグルーヴに、僕の声、委ねてみる」
それは、信頼だった。
支配でも服従でもなく、ただ“音”に体を預けるという、純粋な協働だった。
「なあ、元貴」
「うん?」
「この曲がさ、誰かの再生リストにそっと残って、
夜中、イヤホンでひとりで聴いてる、そんな風景があったらいいなって思う」
「……きっとあるよ。それに、僕がまずそうする」
若井は笑う。その表情が、少し照れて見えた。
「じゃあ、元貴が誰かの“最初のリスナー”ってわけだね」
「僕だけじゃなくていい。……でも、最初が僕なのは、ちょっとだけ嬉しい」
数分後、テイクが始まった。
若井のギターが鳴り出す。
抑制された響き、少しだけ余白を残したアルペジオ。
その上を、声が滑り出す。
──さよならを繰り返すように、君のコードが、僕を呼んだ。
レコーディングルームの外、無人のビルに夜が降りていく。
だがこの場所だけは、何かが生まれていた。
重なった音。交わった余韻。
それは、ふたりだけの“秘密の記録”になった。
「なあ、元貴」
「うん?」
「もしも、誰にも届かなくても……この曲は、俺にとって一番大事な曲になると思う」
「僕にとっても、そうだよ。若井とじゃなきゃ、この音は出せなかった」
目を逸らすことなく、まっすぐに言葉を交わす。
心の深い場所に、音楽じゃない何かが、ふと芽吹いていく。