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アパートはマラソン通りという小道にある。なぜこんな名前がついているのか、誰が付けたのかは分からない。ここに道ができた昔、役所の命名担当係がマラソン好きだったのかもしれないし、名前を決めるその頃、ちょうどオリンピックの時期と重なっていて、マラソンが旬の話題だったのかもしれない。
どうせろくに車も通らない目立たない脇道だから、結構いい加減につけた名前かも知れない。いや、地名は永代残るものだから、案外いくつかの候補の中から、長い議論の末に付けられたものかもしれない。この埒が明かない話を、ツヨシはよく持ち出す。
門の回りの路肩は駐車禁止色に塗り固められ、ようやく色がとぎれてみると、バックミラーには二本のパームトゥリーが縦に並んで映り、建物はその先に小さく見えた。
車を降りると、ラテンのリズム、高らかに鳴るラッパ、陽気な歌声が聴こえてきた。どこかで週末のパーティをやっているのだろう。ツヨシは門の鍵を開けるために先に消え、マチコは台所仕度をするためツヨシに続いた。健太は後部ドアをはね上げ、半透明のビニール袋を取り出すと、一方から長ねぎが飛び出していた。
マラソン通りから門を入ると、狭い通路が建物まで真っ直ぐ伸びている。途中一箇所だけある灯のまわり以外は暗く、向かいからきた男がツヨシだとは声を掛けられるまで気付かなかった。健太はビールの箱をやや浮かばせて、もうこれで全部だと言った。
向かいから石畳に足をひきずる音が聴こえてきた。表情も国籍も年齢も性別も見えない。すれ違いざまのハローの声がスペイン訛りで高くしわがれていた。
健太は顔を横に向け、このアパートはメキシコ系の老人ホームなのかと言った。
「老人ばっかとは限らないけど、ラティーノ以外は外国人扱いだよ」と背後からツヨシが答えた。健太は、住民に勘違いされたようだと言って笑った。そして、英語で挨拶されたからには外国人扱いだったはずだと付け加えた。
「住民にならいいんだけどよ」ツヨシは少し間を空けてから、続けた「管理人にだとまずいぞ。部屋、まだ俺一人で住んでることになったままだからな。もしどっかでばったり出くわしたら、ただ遊びに来た友達だって言っといてくれよ」
健太はわかってるよと答えた。
通路は右へ、続いて左へ建物沿いに折れた。アパートの一番奥は共同ランドリーで、乾燥機の前の籠には見知らぬ誰かのタオル、Tシャツ、靴下が山になっている。
「そいつはコインを入れて動かすヤツだ。また今度教える」
振り返ると、ツヨシのシルエットが二部屋ほど手前のドアにあった。