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「……もう無理……顔がもたない……」
りうらはため息をつきながら、初兎の袖を軽く引いた。
ないことIfに好き放題茶化され続け、完全に限界だったらしい。
「な、なんや……引っ張んなって」
「いいから、ちょっと来て」
小声でそう言うと、りうらは初兎をキッチン横の小部屋――物置みたいな小さなスペースにずるずると連れていった。
狭い空間、ふたりきり。照明も点けてないから、昼間なのにちょっと薄暗い。
その中で、ぴたっとドアが閉まった。
「……ふぅ……やっと静か……」
りうらは壁にもたれて、首をすこしだけ傾けた。頬はまだほんのり赤い。
初兎は落ち着かない様子で、少し距離をとった位置に立っていた。
「……そんな無理して引っ張らんくても」
「うん。でも……初兎ちゃんが、ずっと気まずそうにしてたから、逃げる場所作ってあげたの」
「……お前の方が真っ赤やったけどな」
「うるさい……。でもさ」
りうらはちょっと黙って、手を伸ばす。
初兎のシャツの裾を、そっと指先でつまんだ。
「……昨日のこと、後悔してないから。酔ってたけど……ちゃんと、好きって言えてよかったって思ってる」
「……」
静かに視線を交わす。
初兎の目が少し揺れたあと、ため息のように短く息を吐いた。
「……ずるいな、お前」
「またそれ言うんだ」
「いや、ほんと。……俺の方が、たぶん……りうらに甘くてさ。やっぱり、勝てねぇなって思っちゃった」
「勝ち負けじゃないよ。俺は、初兎ちゃんが……俺だけに優しいの、好きなんだ」
「……そんな言い方、ずるいって」
「でも、もうちょっと……ずるくてもいい?」
初兎は目を伏せていたけれど、りうらの声にふっと笑った。
「……いいよ」
その一言に、りうらはそっと距離を詰めて、今度は真正面から初兎の胸に顔を預けた。
しばらく何も言わず、心臓の音がふたりの間だけで響く。
初兎の手が、迷いながらもそっと背中に回る。
「……初兎ちゃん。昨日みたいに、また……キス、していい?」
「……お前、マジで……」
呆れたような声。でも、そのまま頷いた。
薄暗いその空間の中、ふたりの影がゆっくりと重なる。
静かな、誰にも見られない、ほんの数秒のキス。
ぬくもりだけが、確かに残った。
そして――
「……もう絶対、酔わせないからな」
「えぇ〜、でも酔ったら、初兎ちゃんがもっと優しくしてくれるじゃん……」
「お前ほんとに……」
「ふふ、好きだよ」
その言葉に、初兎は言葉にできない思いをこめて、りうらの髪をそっと撫でた。
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