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事情を聞きたいので警察署に出向いてくれと言われた翌朝、ウーヴェはキャレラホワイトのスパイダーをあまり乗り気がしない顔で運転していた。
昨日は刑事達が引き上げた後、部屋中に噴き散らかされた白い粉の拭き取りや絨毯に染み込んでしまってどうすることも出来なくなっていた血痕の後始末などを出来る限りはやっていたが、途中で全く気力が無くなり、定期的に来て貰っている清掃業者に手短に事情を説明して掃除を頼んだのだ。
心底驚いた顔で彼を見てきた業者には無表情にお願いすると告げ、自分は隣室の資料室に引き籠もり、今日の予定が入っていた患者に連絡を入れて当たり障りのない事情だけを説明して来院日を変更して貰ったりしていた。
その忙しい昨日を思い出すと出てくるのは溜息ばかりだった。
信号が変わったためにゆっくりとブレーキを踏んで何気なく歩道を見れば、元々は目が覚めるような真っ青な車体だった事を思わせる自転車が見え、ペダルに乗せられているのがハイカットのスニーカーでその上ダークグレーのスーツらしきものがブルゾンから見え隠れしている何ともアンバランスな姿を見かけて目を瞠り、一体どのような人が自転車に乗っているのだろうと俄に興味を覚えて見つめてみれば、昨日クリニックに来た若い刑事だった。
「……ケーニヒ刑事?」
「へ!?」
窓を少しだけ開けて名を呼べば素っ頓狂な声が聞こえ、自然と小さく笑ってしまう。
「あれ、ヘル・バルツァー?」
「おはよう」
「あ、おはようございます。これから出勤ですか?」
見ているこちらの気持ちすら良くなるような笑顔で返され、質問されたことに目を瞠った後、こほんと咳払いを一つ。
「これから聴取があるのだが?」
しかも昨日出向けと言ったのは君だろうと眼鏡の奥の双眸を眇めて言い放てばぱしぱしと瞬きをした後、あははははと後頭部に手を宛って大笑いされてしまう。
「そう言えばそうでしたー。すっかり忘れてました」
と言うことは今日は聴取かよとぼそりと呟く刑事に呆れ返ってしまい深く溜息を吐いたとき、信号が変わったことを気短に伝えようとするのか後続車がクラクションを鳴らし続ける。
「うるさいぞ」
ぼそぼそともう一度何やら呟いた刑事だったが、ブルゾンの前に手を突っ込み何やら取り出したかと思うと後続車に堂々とそれを見せつける。
「今聴取中なんだからさっさと抜いて行けよ」
「……おい」
見せつけられた警察手帳に後続車のドライバーが目を瞠り慌てて己の車を抜いて行くのを横目に、既にここで聴取を受けているのかと呟いたウーヴェは、まるでイタズラが成功した子供のような顔で笑う刑事に呆気にとられてしまう。
職業柄様々な人種職種の老若男女と接する機会があるが、これ程までに子供のようなと言った表現が相応しい人物には未だかつて出会ったことはなかった。
良く言われる子供のまま大人になったと、あまり良い意味では使われない言葉を脳裏に思い浮かべるが、彼の場合はきっと文字通り子供のまま大人になったのだろうと思わせる雰囲気があり、気が付けば憂鬱な気分が吹き飛び、口元には小さな笑みすら浮かんでしまっていた。
「じゃあ俺、先に行きます」
「今日の聴取は時間が掛かりそうかな?」
「どうでしょうね。ヘル・バルツァーだと……大丈夫だとは思うんですけどね」
変な横槍も入ってこないでしょうしと意味深な呟きを残し、びしっとしつつも何故か戯けた風に感じる敬礼を残してペダルを漕ぎ出した刑事の背中を見送ったウーヴェは、警察署で事情を聞かれている時に意味深な呟きの意味を知ることになるが、今は深く考えることもなく、車が途切れた際にスパイダーを発進させて警察署に向かうのだった。
警察署の駐車場に車を止めて受付で名前を告げて来庁の理由を告げれば、あまり愛想の良くない男が目的のフロアへと連れて行ってくれる。
自分は別に盗みをした訳でもなければ人を殺した訳でもないのだがこの様に無愛想な人の後を歩いているだけで周囲からは一体どんな凶悪な罪を犯したのかと思われるのではないかと内心かなり危惧していたが、この人物の無愛想振りは警察署でも知れ渡っているのか、朝の早くからも既に忙しく働いている刑事達は特に気にする素振りも見せなかった。
案内されたのはテレビや映画などで良く見る取調室で、まさか自分がこの様な部屋に入ることになるとはとさすがに暗澹たる思いを隠せずにギシギシとうるさく軋むパイプ椅子に腰を下ろして足を組む。
程なくしてやって来たのはクリニックに出向いてきた中肉中背だが顔だけは厳ついヒンケルと名乗った刑事と、先程遭遇した若い刑事だった。
「おはようございます、ヘル・バルツァー」
早朝からわざわざご足労をおかけいたしますと、慇懃無礼に言われて無表情に頷くが、何故自分がその様な態度を取られなければならないのかが分からず、眼鏡を押し上げて足を組み替える。
「リオン、昨日聞いたことを纏めてあるか?」
「Ja.そこに一式揃えてます」
強面の上司の言葉に場違いな程の笑顔で返したリオンだが、無表情に見つめてくるウーヴェについての情報を脳裏に思い浮かべて内心溜息を吐きそうになる。
昨日、粗方の事情を聞き出したリオンは、警察署に戻って被害者とその家族、恋人などを調べていったが、元彼氏でもあり第一発見者でもあるウーヴェの身辺についても当然調べることになった。
その際、ウーヴェの父が一代で財を成し、ドイツ国内だけではなくユーロ社会でも名の通ったグループ企業の創始者であり、兄がその中核となる会社の社長を勤めている事を知り、周囲のものが一斉に溜息を吐いた事を思い出す。
旧家名家新興家が数多と存在するヨーロッパでセレブと呼ばれる人種に属する人物が絡んでくると、何かと厄介なことが多かった。
さすがに昔々のように旧家名家のご子息がしでかした悪さを黙って見過ごす事などないが、万が一ウーヴェが犯人だった場合、起訴に持ち込むまでに諸々の出来事が予想され、それを思うだけで胃の辺りが重苦しくもなってくる。
殺人までは犯さないがそれでも強盗傷害や強姦などの犯罪を繰り返す貴族の馬鹿息子に何度煮え湯を飲まされたか分からないリオンだったが、今回はおそらくそんなことにはならないだろうとどこかで希望的観測を抱いていた。
昨日の短い時間で話を聞いただけの印象だが、今までリオンが知ったセレブの息子達とは何かが違っていたのだ。
上手く口では言えないが、馬鹿息子と呼ぶ人種と比べると一切の浮つきが感じられなかった。
だからこそ今回は横槍が入らないと思っていると思わず張本人に告げてしまったのだが、よく考えてみれば単なる参考人聴取で横槍が入ることなどあり得なかった。
腕を組んで壁に背中を預け、ヒンケルが資料を見ながらウーヴェに問いかけているのを見守っていたリオンは、激することも沈むこともなくただ淡々と質問に答える彼の無表情振りが気になるが、今は経験豊富なヒンケルに任せようと腕を組み替える。
昨日の話の雰囲気では単に不幸な第一発見者というだけで、彼自身が被害者を殺したようには思えなかった。
昨日の内にヒンケルや捜査に当たることになった刑事達にはリオンの思いは伝えてあるが、だからといって聴取しない訳にも行かなかった。
しかし、ユーロでも名の通った企業の所謂御曹司がどうしてメンタルクリニックなど開院しているのか。
順当に行けばグループ企業の一つや二つ継いでいるだろうと皮肉な思いで見ていれば、ヒンケルが交替しろと伝えてくる。
「ボス?」
「後を頼む、リオン」
深々と溜息を吐いた後立ち上がったヒンケルは、壁から背中を浮かせたリオンの肩を一つ叩いて取調室から出て行く。
代わって入ってきたのは、時々コンビを組む事のあるビアホフだった。
「なぁ、ドクトル」
「何か」
ビアホフの口調は端から彼をセレブの馬鹿息子だと決めつけているようで、横で聞いていたリオンが一瞬だけ顔を顰めるが、口には出さずにひとまずは同僚の話したい様にさせようと、腕を組んで見守っている。
「彼女とは別れたばかりだったんだってな。どうして殺した?」
父親や兄貴が力を持っているから、殺したとしても自分は罪に問われないと思ったか。
ビアホフの決めつけたような口調に少しの間沈黙が流れ、次いで聞こえてきた声に二人揃って目を瞠ってしまう。
「私がここにいるのは第一発見者として来てくれと言われたからであり、被疑者としてではない。にもかかわらず犯人扱いをするのならば、弁護士が来るまで私は何も話さない。それにどのような事情があろうとも父や兄は関係ない。私は私だ」
眼鏡の奥の双眸に強い光が浮かんだかと思うと、今までの無表情さが嘘のように厳しい顔つきでビアホフを睨み、己に降りかかる火の粉は自らの力で振り払うとでも言うように目が細められる。
無言で見守っていたリオンは、ターコイズの双眸に浮かんだ光の強さに思わず目を瞠り、馬鹿息子どもとの違いが何であるかをはっきりと理解した。
親兄弟がどうであれ彼は自らの力で立ち、今の社会的地位に辿り着いたのだろう。
その自負と矜持を目に宿し親兄弟の庇護を未だに受けていると思われる事への反発から無表情さを捨て去った事にも気付き、プライドの高さ、その強さに目を奪われてしまう。
自らの力で歩み続けて立っている者のみが発する強さを見せつけられ、ビアホフが一瞬怯んだのを視界の隅で認めたリオンはその肩に手を置いて場所を変われと告げて笑顔でパイプ椅子に腰を下ろす。
「や、確かにバルツァーさんの言うとおり、ここには第一発見者として来て貰ってます」
今のは失言でしたと軽く頭を下げたリオンの前、今度は彼が眼鏡の奥で最大限に目を瞠る番だった。
昨日の初対面では皮肉には皮肉で返す、負けず嫌いの気性を隠さない表情を覗かせていたが、例え同僚の過ちとは言え素直に頭を下げられるような男には見えなかった。
自分の読み間違えかと内心苦笑しこちらこそ興奮したと詫びつつ眼鏡を押し上げる。
「俺は別に気にしないんですけどね。ただ俺みたいな考えは少数派だと思って貰った方が良いかも知れませんね」
「……どういう意味だ?」
「そう言う意味ですよ、ヘル・バルツァー」
細められたロイヤルブルーの双眸を真正面から見据えたターコイズの間、目には見えない何かが飛び散った後に音もなく弾ける。
「さっきも言ったが私は私だ。父や兄は関係ない。例え父がどこかの国家元首であろうと兄が有名な映画スターであろうと自分は自分だ」
「ええ。俺もそう言う考えの人、好きですよ」
意志の強さをはっきりと示す言葉に大きく頷いたリオンは、端正な顔を紅潮させたことを反省するように目を伏せて細く息を吐き出した彼を見つめて口を開こうとした時、ドアが静かにノックされる。
「どうぞー」
先程の笑顔といい今の口調と言い本当にここが警察署で取調室かと思うような明るさで返事をしたリオンは、入ってきたのが予想していたボスや同僚ではなく、リオンが袖を通すことなどなさそうな立派なスーツを着、ぴかぴかの靴を履いているいかにも弁護士らしい風貌の人物であったことに瞬きを繰り返す。
「この事件を担当している刑事は君かね?」
尊大な物言いにさすがに鼻白んだリオンだったが、俺とヒンケルが担当していると告げれば素っ気なく頷かれるだけだった。
「ウーヴェ様ですね」
「………そうだが」
驚きに目を瞠るリオンとビアホフの前で小脇に抱えたアタッシュケースを開けて何やら書類の確認をした弁護士は、胸ポケットから名刺を取り出して彼の前にそっと置く。
「今回の件で不都合などがあってはいけないと、私が一切を取り仕切る事になりました」
リンツと言います、以後お見知り置きをと、時代がかった挨拶をした弁護士を興味もなさそうに一瞥した彼は、名刺を指先で弾いて突き返す。
「ウーヴェ様?」
「必要ない。もし私に弁護士が必要になるのであれば、自分で手配する」
だから君は不要だとまるで暖房が急に効かなくなった様な心底から冷えるような声で告げたウーヴェに、リンツが眼鏡の奥の目を細めて困りますと苦笑しつつ名刺をもう一度彼の前に置く。
「ギュンター様からのお申し付けでございます」
リンツの口から本来の依頼主の名前が出た瞬間だった。
「Nein!!」
「!?」
今まで僅かに頬を紅潮させてその自尊心の高さを見せたぐらいで表情を変えることの無かった彼が、突然デスクを拳で叩いて椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がり否定の言葉を叫んだのだ。
「ウーヴェ様……?」
「要らないと言ったのを聞いていなかったのか? 弁護が必要ならば自分で手配する。そう言った。聞いていないとは言わせないぞ。ここにいる刑事二人が証人になってくれるだろう。分かったのであればさっさと帰れ。二度と私の前に顔を出すな。─────兄にもそう言っておけ」
「しかし……」
「うるさい!」
もう一度デスクを拳で殴りつけて憎悪すら浮かべた双眸で弁護士を睨み付けたウーヴェは、予想外の展開にただぽかんと口を開けて見つめているリオンに気付き咄嗟に顔を背けて表情を隠す。
人前では努めて冷静になるように学生の頃から己に言い聞かせ続け、日頃の言動でも冷静さを失わないように気を配っているが、未だに父や兄の名を聞くだけで目の前が怒りで真っ赤になってしまうのだ。
そんな無様な姿を人に見せてしまう事だけは避けたかったのに、よりによって刑事の前で晒してしまったのだ。
その後悔の念から口を掌で覆い片手で肘を掴んで顔を背けたウーヴェの耳、とにかく何かあれば私に連絡を下さいとしどろもどろになりながらも己の職務を全うしようとしているリンツの声が聞こえてくる。
ヤーと言わなければ立ち去らない事に気付いて顔を向けることなく頷いたウーヴェの背後、リオンが気の毒そうな表情を浮かべながら椅子を起こし、座って下さいと掌を向けられる。
力無くパイプ椅子に腰掛けたウーヴェを気遣うようにかそれとも別の意思があってか、今日はお疲れさまでした、もしまた何かあったときはそちらに出向きますと告げられ、口元を覆ったまま無言で頷く。
リンツがひとまずは己の職務を全うできそうだと気付き、安堵の溜息を零した後、取り繕うように咳払いを一つして取調室を出て行く。
最後までその姿を見ることはなかったウーヴェだが、リオンが呆れたような感心したような奇妙な声を上げたことにやっと顔を向ける。
「ヘル・バルツァーって見かけに因らず結構怖いんですねー」
ああびっくりしたと胸を撫でながら溜息を零したリオンを見たウーヴェだったが、リオンの後ろにいるビアホフの驚きながらも呆れたような表情が目に入り胸の奥底でのみ溜息を吐くが、じっと見つめてくるロイヤルブルーの双眸にはウーヴェが読みとることの出来ない感情が浮かび上がっていた。
醜態を見せた事への嘲りでもなければ世間的には仲がよいとされている自分たち家族の諍いの一端を見た事への驚きでもなく、またそんな彼に同情するようでもなかった。
不可思議な色を浮かべて見つめてくるリオンに目を細め、何かあるときは直接携帯に連絡をくれるかまたは自分が手配した弁護士に連絡をしてくれと告げて席を立つ。
「ヘル・バルツァー」
「……何だろうか」
「申し訳ないんですけど当分の間街を離れないで下さい。もし離れるのであれば昨日教えた連絡先にご一報下さい。今日はお疲れさまでした」
やけに丁寧に労われた為、眼鏡を押し上げてこちらこそ失礼な言動を取ったと反省して取調室を出ようとする。
「あ、これ、忘れてますよー」
ドアを出て行く背中にひらひらと名刺を振って呼びかけたリオンだったが、ちらりと振り向いたターコイズが名刺を凍り付かせるような冷たさで見つめてきた為、思わずそれを手放してしまう。
「怖いなぁ」
凍り付いた空気を身に纏ったままフロアを歩く痩身の背中を見送り、壁にもたれ掛かって口笛を吹いたリオンは、何があったんだと詰め寄ってくる同僚や上司に手短に事情を説明し、セレブにはセレブなりの苦労があるんだろうなと暢気に呟くのだった。