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今朝家を出たときよりも重く沈んだ心で警察署を出たウーヴェは、街を出るなとの言葉を思い出したが、どうにも苛々する気持ちを抑えることが出来ず、市内から郊外へと向かうアウトバーンへとスパイダーを走らせる。
制限速度のないアウトバーンを走るのは好きだったが、今はとにかく胸に覚えたもやもやを解消したい事と、自分の弁護をすることになったと言うリンツの解任を求める為、少し重いアクセルペダルをめいっぱい踏み込めば、乗り手の気持ちを酌み取ったようにエンジンが唸り声を挙げ、一気に加速していく。
周囲の木々が後方へと飛んでいく景色の中、それでも見間違える事無くアウトバーンを下りて木々が増えだした道をゆっくりと進んでいけば、やがて木々が林になり、そして森になる。
森の入口のような場所に立派な背の高い門があり、門の前で車を停めたウーヴェは、門柱に取り付けられている監視カメラに己の顔が見えるように身を乗り出し、程なくして開いた門の中へと車を乗り入れる。
門からどれぐらい走っただろうか、やっと見えてきた家と呼ぶよりは城と呼んだ方が相応しい建造物が姿を現し、手入れされた円形の噴水の横に車を停めると、広い玄関アプローチの階段の上から呼び止められる。
「フェル?」
「……エリー」
穏やかな声で名を呼んだ後、階段を軽快に駆け下りてきたのは、彼に似通った雰囲気を持つ姉のアリーセ・エリザベスだった。
見事なほどの真っ直ぐなブロンドを肩の下まで伸ばし、ブルーともグリーンとも付かない双眸を驚きと感激に細めたまま駆け寄り、苦笑するウーヴェに抱きついて頬にキスをする。
「どうしたの、フェル?」
独り立ちするとあの日宣言して以来余程のことがなければ戻ってこない癖にと肩に頬を預けて笑う女性に苦笑を深め、お返しのキスを頬にしたウーヴェは、義兄はどうしたと問いかける。
「今父さんと散歩に出掛けているわ」
「……エリー、あの人達に言っておいて欲しい」
玄関先でする話ではないと思いつつも自分のために開け放たれている玄関を潜って中に入る気が起きなかったウーヴェは、驚きに目を瞠るアリーセに目を伏せて拳を握る。
「どうしたの?」
腕を組んで階段の手摺りに腰を下ろし、深呼吸をして口を開く。
「リンツという弁護士を知っているか?」
「名前だけは聞いた事があるわね……確か刑事事件専門の弁護士だったんじゃないかしら?」
アリーセの白くて長い指が唇に宛われ、何かを思い出すような声が流れた後、どことなく似通った面持ちの顔が弟をまじまじと見つめる。
「事件に巻き込まれたの?」
レーサーの夫を持ち自身も夫について世界を回っている為か昨日の事件を姉はまだ知らないようで、心配と不安を全面に押しだした顔で問いかけられて小さく頷けば、どういう事と口調が鋭くなる。
見た目は控え目で穏やかに見える姉だが、その気性がかなり激しいものであることをよく知るウーヴェは姉の剣幕に脅えることもなく淡々と事情を説明する。
「そう……大変な事に巻き込まれたわね」
可哀想にとただただ弟を思って優しく頭を抱き寄せる姉に無言で頷いたウーヴェは、そのリンツという弁護士を解任してくれと告げて息を飲まれてしまう。
「どういう事なの?」
「……ノル、の依頼だと言っていた」
頼むから手を引くように伝えてくれと、姉から離れて頭を下げた弟に言いたいことは文字通り山ほどあったが、それを堪えるようにアリーセが白い手を胸の前で組んで目を閉じる。
「エリー、この通りだ」
「……分かったわ。分かったから頭を上げなさい、フェリクス」
夫を除けば誰よりも愛していると言える弟の願いならば何があっても叶えてやりたいとアリーセが胸中で呟き、頭を上げたウーヴェを手招きしてそっと首に腕を回して抱き寄せる。
「弁護士に伝手はあるの?」
「……一応、大学の友人にいる」
「もしあなたが良いと言ってくれるのなら、ミカの顧問弁護士にお願いしてあげるわよ」
レーサーである夫、ミカの顧問弁護士を務める人を紹介してあげると言われ、しばらくの間考え込んでいたウーヴェだったが、久しぶりに友人に連絡を取って事情を説明する煩わしさを考えて小さな声で頼んでみる。
「お願いしても良いだろうか?」
「もちろんよ。何も心配しないで良いわ」
あなたの話であればただの第一発見者なのだ、本格的に弁護をする必要は出てこないだろうと、アリーセが気分を変えるように呟けば、ウーヴェの顔にも微かに笑みが浮かび上がる。
父と兄とは断絶した関係だが、姉のアリーセとは付き合いもあり、また義理の兄であるミカとも連絡を取っていた為、警察署で見せたような表情は顔を出さなかった。
「リンツだったかしら、その弁護士の事は私からノルベルトに話しておくわ」
「……頼む」
「ねぇフェル……まだ許せない?」
二人の頭上を冬の冷たい風が吹き抜けていくが、その問いを発した途端、まるで温風であったかのような錯覚を覚えるほど弟が身に纏う空気が冷たくなる。
失敗したと瞬時に悟った姉はもう一度弟の身体に腕を回して抱き寄せ、ごめんなさいと素直に謝罪をする。
父と兄、そして弟との確執をつぶさに見つめてきた彼女は、両親や兄の気持ちも理解できるし、家を飛び出して戻らない弟の気持ちも理解出来た。
20年以上の年月を家族の間で板挟みになって過ごしているが、初めてウーヴェを見た時に感じた、護ってやりたいという思いは今も色褪せずに彼女の胸の中にあった。
それ故彼女は事があるとまず弟を優先するのだ。
背中にそっと回された腕が過ちを許すことを教えてくれ、安堵の溜息を零しながらもこれだけは言っておくわと口を開く。
「あなたが父さんとノルに会いたくないのは仕方がないわ。でもお願い。せめて私と母さんとは会ってちょうだい」
幼い頃からいつもいつも何かあればすぐに飛んできて自分のことを庇ってくれたり慰めてくれた優しい姉の面影を思い浮かべ、あの頃と何ら変わらない温もりのアリーセの髪に口を寄せたウーヴェは、今回の一件が落ち着けば食事に行こうと約束をする。
「ベルトランって覚えているか?」
「ええ。もちろん、覚えているわ」
再び階段の手摺りに腰を下ろした姉弟は、風の冷たさに身を寄せるようにしながら昔を思い出して小さく笑う。
ベルトランという両親がフランス出身のウーヴェの友人は彼らが生後間もなくの頃からの友人だったが、何度も来ている筈のこの屋敷で何度となく迷子になってはウーヴェ達に笑われていたのだ。
その少年がどうしたとアリーセが問えば、今市内で星が幾つか付くようなレストランを経営していて結構人気があると自慢気に告げられ、レストランの名前を聞いてアリーセがブルーグリーンの双眸を瞠る。
「ゲートルートって……名前だけは雑誌などでよく見るわ。でもまだ入ったことはないんだけどあの店のオーナーだったの?」
「ああ。味は保証する」
「……あの子、いつも家に来たときにはハンナや料理長の後について回ってたものね」
くすくすと二人で笑い合い、そんな食いしん坊の男の子が開いたレストランならば一度行ってみたいわとも言えば、ウーヴェが小さく笑みを浮かべて頷く。
「今度招待するから母さんとミカと一緒に来て欲しい」
「楽しみにしてるわね」
お互いに次の再会の約束をして手摺りから降り立った時、車止めの横手に伸びる小径を歩く足音が聞こえてくる。
「ミカが戻ったみたいね」
「アレス・グーテ、エリー」
「フェリクス!」
家族に対してアレス・グーテなどと他人行儀な口の利き方をするのと拳を作って腰に宛ったアリーセに手を挙げたウーヴェは、足音が近付いてくる前に車に駆け寄り、人の姿が見える前にスパイダーのエンジンを掛けて急発進させる。
「アリーセ、ウーヴェが戻ってきていたのか?」
「ええ、父さん。見ての通り飛んで帰っちゃったけど」
ここに顔を出すようになっただけでもまだ進歩した方かしら。
心配げに眉を寄せる夫の腰に腕を回して身を寄せたアリーセは、無表情に車が走り去った道を見つめる父に溜息を吐いた後きつく目を閉じ、どうしたんだいと夫を心配させてしまうのだった。
己のデスクの椅子に反対向きに座り背もたれを抱え込んでその上に顎を乗せたリオンは、脳裏に焼き付いている光景を思い浮かべて小さく溜息を吐いていた。
初めて見たときは何やら随分と取っ付きにくい皮肉屋な人だと思い、そちらがそうならばと臨戦態勢を取っていたが、今朝取調室で見た顔は皮肉屋と言うよりは冷酷なと称した方が相応しい表情だったと己の考えを訂正する。
ヒンケルや自分のように大声で怒鳴る訳ではないが氷のカミソリで切られたような痛みすら覚える声と表情を思い出し、自然と身体を震わせてしまう。
精神科の先生だが、あの表情とあの口調で淡々と死ねと命じられたら間違いなく自分ならばビルの屋上からでも飛び降りる。
そんな逆らえない静けさと冷たさを感じ、良くあれで最も人の温もりを欲する職業に就いているなと本人が知れば激怒しかねない事を思い浮かべてしまうが、そんな冷たい顔の下にもしかすると別の顔があるのではないかと不意に天啓のように閃いてしまう。
参考人の開業医に別の顔があろうと無かろうと今の自分にとって直接関係は無い筈だった。
その別の顔で別れた恋人を刺した上に首を絞めて止めを刺したというのならば話は別だが、彼からは罪を犯した者特有の気配も何も感じなかった。
今回の事件が長期化するような気配は全く感じない為、きっと犯人はあのビルに勤務する誰かだろうと目星を付けていたが、ボスであるヒンケルは地道に聞き取り調査をしろと命じ、リオンがそれでも不満を見せずに周辺の聞き込みに出ていたのだ。
戻ってきたのはすっかりと日も暮れ冬の冷たい風が吹き抜ける夜だったが、フロアにはまだまだ人が沢山いて、書類を纏め上げて一息吐いた時、デスクに置いた携帯が震えて着信を告げる。
「ハロゥ」
少しだけ疲れた声で電話に出れば聞こえてきたのはまだ戻って来られないのかという彼女の声だった。
「もうちょっと掛かりそうだな。……そうだな……ちょっと厳しいな、それは」
頭を掻きつつ悪いと謝罪をすれば電話の向こうで沈黙が流れたかと思うとあまり誉められた言葉ではない一言が聞こえ、次いで間を置かずに受話器が叩き付けられたことを示す音が流れ出す。
「っ!」
咄嗟に携帯を耳から離して鼓膜に与える衝撃を最小に抑えるが、じぃぃんと響く金属音に目を白黒させてしまう。
「何だリオン、ふられたのか?」
ずずいとマグカップを差し出されて差し出し主を睨み付けながら受け取ってダンケと言ったリオンだったが、コーヒーを一口飲んで遠慮容赦なく吹き出してしまう。
「新手の嫌がらせかよ、コニー!?」
「煮詰まっているのはご愛敬だ」
「これのどこに愛嬌があるっていうんだよ」
ずずずとコーヒーを飲みながら目を不気味な形に細めた同僚に泣き真似で訴えたリオンは、それでも貰ったものだからとまるで胃袋の頑丈さを競うかのようなコーヒーを飲み干す。
「ふられちまったかなぁ……」
「リオンがまたふられたらしいぞ」
「げっ! 一々報告するなよ」
背もたれに泣きついて溜息を吐くリオンの頭上、コニーがやけに愉しそうな声でフロア中に響き渡る声で報告したため、室内にいた人間が一斉にリオンを見ては口々にご愁傷様だの良くやっただのと訳の分からない励ましか慰めかをするが、された方はと言えば堪ったものではなかった。
これで何敗目だと指折り数えられてしまい、今年に入ってからは5人目だとやけくそ気味に返せば、後少しで今年も終わるが、出来れば最後の人にしろとやけに真面目に返されて絶句する。
「コニー、どこかにいい女いないかー?」
「いい女ならいるぞ」
イギリスの製粉会社のマスコットキャラクターが描かれたマグカップを傾けつつヘイゼルの双眸を細めたコニーに、どこにいると顔を輝かせたリオンは家だと答えられてあんぐりと口を開く。
「お前の家かよ!?」
「妻帯者の俺に聞くのが間違っている」
胸を張って答えられて思わずネクタイを掴んだリオンに、俺のような愛妻家になれとは言わないが早く落ち着くことが出来ればいいなと慰められ、ネクタイで鼻をかむフリをする。
「リオンっ!!」
「落ち着きたいねぇ」
本心からそう思っているのかどうなのか咄嗟には判断の付かない飄々とした口調で返し、そろそろ帰るかーと伸びをしたリオンの脳裏、忘れられないターコイズが浮かび上がる。
「?」
何だと首を傾げつつ帰宅の準備をしたリオンは、駐輪場に止めてあった自転車に跨ってゆっくりとペダルを漕いでいく。
そんな時でも脳裏に浮かんだ意志の強さを表しているターコイズは消えることはなかったが、雪がちらほらと降る道を気を付けて自転車を走らせていると、何も慌てて帰る必要がないのだと不意に気付き、大通りに出る直前に自転車を停めて携帯を取りだす。
「……ゾフィー、腹減った!」
相手が答えるよりも先に一声叫んだリオンは、少しの沈黙の後、仕方がないわねと溜息混じりに返されてもう一度腹が減ったと叫ぶ。
『分かったからそう叫ばないで。チーズとスープしかないけれど構わないの?』
「どこかでパンを買って帰るからそれで十分だ」
彼女とのデートも振られたことでお流れになったし一人で家にいるのも気が進まなかった為、彼の実家とも言える様々な思いを込めてホームと呼ぶ児童福祉施設とそれを運営している小さな教会に帰ることにする。
『気を付けて帰ってらっしゃい、リオン』
「そうする」
うるさく鳴き出した腹の虫を治めるように腹を撫で、すぐに帰る事を告げて携帯をブルゾンの内ポケットに入れ、再度ペダルを漕いでいく。
その頃には脳裏に浮かんでいたターコイズは姿を消していたが、いずれその双眸の持ち主が彼の脳裏どころか人生から消えなくなる事をこの時のリオンが知る由もなかった。