秋の涼しげな風が、頬を優しく撫でていく。
その心地よさに身を委ねるようにして、銀時は静かに目を閉じた。
――夢を見ていた。
懐かしい笑い声、温かな陽射し、そして、大切な師と仲間たちと過ごした日々。
胸の奥に今も鮮やかに残る、あの頃の記憶。
きっと、今日は特別な日だからだ。
銀時の誕生日――そんな節目の日には、決まってあの風景が蘇る。
「こら、銀時。そこに居てはいけませんよ。」
下から届いた声に、銀時は屋根の瓦の上で面倒くさそうに頭をかいた。
「うるせーよ……って、いってぇ!」
突然、頭に衝撃が走り、銀時は涙目で頭を押さえる。手の下には、まるで小さなエベレストのように盛り上がったコブがひとつ。
下では松陽が拳を軽く握り、曇りひとつない柔らかな笑みを浮かべていた。
「おや、痛かったですか?それは申し訳ない。でも、そこに登ってはいけませんよ。」
文句のひとつも言ってやりたいところだが――次は本当に頭が割れかねない。銀時は痛むこぶをさすりながら、渋々口を開いた。
「わーったよ、ったく……」
そうぼやいてから、屋根から軽やかに飛び降りる。
「まったく、君は本当に言うことを聞きませんね。」
松陽は苦笑を浮かべながらも、その声にはどこか楽しげな響きがあった。
「ところで銀時。少し、こちらへ来てくれませんか?」
「はぁ?……行きゃいいんだろ!」
少しでも反抗すれば、どうせ力ずくで連れて行かれるに決まっている。そう判断した銀時は、素直に師のあとを追った。
静かに歩き出した松陽の背中を、銀時は黙って見つめながら並び立つ。
その横顔をふと見上げたとき――松陽は、どこか遠い未来を見ているようだった。
銀時は松陽の背中を追い、〈松下村塾〉と刻まれた木の門をくぐった。
何度も通い慣れた、そして――何よりも大切な場所。
ここで松陽と幾度となく竹刀を交わし、そのたびに容赦なく打ち負かされた。
ここで桂や高杉と出会い、共に笑い、時に競い合い、絆を深めていった。
親を知らず、人を知らず、ただ戦場で生きてきた銀時にとって――この塾は、初めて“帰る場所”と呼べるところだった。
松陽はいつもの穏やかな足取りで、道場の方へと歩いていく。
「おい、何するんだ?」
銀時の問いに、松陽は口元に人差し指を当て、柔らかな笑みを浮かべた。
「ふふ、まだ秘密です。」
その姿を、銀時はどこか訝しげに、けれど少し安心したような眼差しで見上げた。
道場の中は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。
特別な飾りがあるわけでも、何かが始まる気配があるわけでもない。
銀時は首を傾げ、少し不満そうに呟いた。
「んだよ、何もねーじゃん。」
「おや、それはどうでしょうか。」
松陽は先ほどと同じ柔らかな笑みを浮かべ、道場の窓から差し込む陽の光を一瞥する。
その光が、まるでこの時間を祝福しているかのように、きらきらと木の床を照らしていた。
「ほら、皆も来ましたよ。」
松陽の言葉に、銀時は入口の方へ顔を向ける。
そこには――見慣れた仲間たちの姿があった。
「お前は今日、誕生日なのだろう?先生から聞いたぞ。」
桂が真っ直ぐに銀時を見つめ、少し照れくさそうに言う。
「いや、誕生日とかどうでも良くねー?」
銀時は頭をかきながら視線をそらす。
彼にとって誕生日というものは、これまで縁遠いものだった。ただ生き延びることだけに必死だった日々――祝われることなど、考えたこともなかった。
「いや、どうでも良くない。……今日は祝われておけばいい」
桂の後ろから、高杉が顔をのぞかせる。呆れたような、けれどどこか楽しげな声。
「ふん、てめぇもジジイになったな。その白いモジャモジャとよく合ってるぜ」
「誰がジジイだ誰が!」
銀時が食ってかかると、道場の空気が一気に明るくなる。
桂が小さく笑い、高杉も肩をすくめ、松陽はそんな三人を優しく見守っていた。
――それは、銀時の心の奥深くに刻まれた、かけがえのない一日だった。
――そこで、銀時は目を覚ました。
天井を見上げると、薄く差し込む朝の光が、夢の名残を静かに洗い流していく。
もう、あの頃に戻ることはできない。
師は死んだ。
一度目は、自分の手で。
二度目は、高杉の手で――。
そして、その高杉もこの世を去った。
らしくもない言葉を残し、最期にはまるで何かを赦したような、穏やかな表情で。
悲しくない――なんて、嘘になる。
胸の奥がじんわりと痛んだ。けれど、不思議と「戻りたい」とは思わなかった。
師の死があったからこそ、神楽や新八、真選組、そして数えきれないほどの仲間たちに出会えた。
高杉の死があったからこそ、高杉の後悔も、自分自身の後悔も、そして何より――松陽の心も救われた。
それを、無かったことにはしたくなかった。
松陽と高杉――あの二人は、銀時の心の中で、これからもずっと生き続ける。
忘れさえしなければ、本当の意味での“死”は訪れない。
だからこそ、銀時は今を懸命に生き、抗い続ける。
そして、この先も――胸を張って見上げられるような「沢山の日々」を刻んでいこうと思った。
そのとき、外から声が聞こえた。
神楽と新八の、明るくて賑やかな声だ。
風が大きく吹き抜け、銀時の頬を撫でる。
その風に、懐かしい声が重なった。
――「誕生日おめでとう。」
まるで、あの頃と同じ優しい声が、空の向こうから届いたかのようだった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!