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「あ、あははーっ⋯⋯!
店長さんね
皆が来るのすっっごく楽しみにしてたから
寝ないで働きすぎちゃったみたいで⋯⋯!
ちょっと、眠ったら元気になると思うから
心配しないで、大丈夫!ね?」
レイチェルは、笑った。
唇の端を無理やり吊り上げながら
喉の奥から、掠れるように。
けれど、その笑みは余りに脆く
今にも崩れそうな仮面にすぎなかった。
細い指がわずかに震えていた。
それを隠すように
彼女は両手をきゅっと胸の前で組んだ。
──時也が倒れて、運び去られてから。
子供たちは
何かを察したように
不安げに目を泳がせていた。
従業員たちも必死に笑顔を浮かべ
場を和ませようとしていたが──
レイチェルには、わかっていた。
その空気を、冷え切った氷のように凍らせる
〝存在〟がいることを。
店の一角──硝子張りの特設席。
半ばまでカーテンの引かれた
硝子の向こう側で
桜の意匠が施された
白磁のティーカップの前に
アリアが座っていた。
その瞳は伏せられ
感情の一切を映していない。
無表情。
まるで、静かに時が止まったように──
腕にティアナを抱き、動かずに佇んでいた。
だが、レイチェルには知っていた。
その胸の奥底に、黒々と沸き立つ
赤黒いマグマのような焦燥が──
いつ噴き出してもおかしくない
臨界寸前の情動が
ただじっと蠢いているのを。
──そして。
アリアが、ゆっくりと立ち上がる。
その瞬間──空間が脈打った。
どくん──と。
空気そのものが心臓の鼓動のように震えた。
「⋯⋯っ!」
ライエルが、息を呑む。
胸を押さえ
椅子を軋ませる勢いで身を傾いだ。
(この感覚は──!)
〝記憶の異能〟は
アラインに継承されているはず。
それでも、彼の魂の奥底に染みついた
魔女としての本能が
今だけは叫んでいた。
(⋯⋯あの、魔女一族の──)
その時だった。
ぶわっ──!
まるで、目に見えない何かに裂かれるように
アリアの身体が、弾けるように裂けた。
肩口、脇腹、太もも、胸──
次々に、無数の血の線が走り
白いドレスに、朱がゆっくりと滲んでいく。
「──アリアさん!!」
レイチェルの叫びが、弾けた。
続いて、あちこちから悲鳴が上がる。
「ひっ⋯⋯!」
「血、血が⋯⋯いやああっ!!」
騒然とするホール。
その中心で、アリアは微動だにせず
ただ目を閉じて立ち尽くしていた。
彼女の腕の中、ティアナが肩に爪を立て
しがみついている。
決して、主から離れるまいと──。
血が、迸るように滴った。
床に。
そして、子供たちの服に、頬に
紅が降り注いでいく。
子供たちが泣き叫び、逃げ惑う。
だがレイチェルは──動けなかった。
目の前で、アリアが歩き出す──
ふらり、と揺れながらも、確かな歩調で。
その先に、ライエルがいた。
深紅の瞳が、彼を捉えた。
まるで、燃え尽きる直前の炎のような声が
彼女の唇からこぼれる。
「⋯⋯アライン。
子供たちから⋯⋯〝恐怖〟を、消し去れ」
それが、最後の命令だった。
──次の瞬間。
アリアの背から
突き破るように〝炎の翼〟が顕現した。
轟音もなく、ただ激しい光を放って──
紅蓮の炎が
ホール全体を焼き尽くすように、眩しく灯る
桜の花弁が舞った。
一陣の風が、吹き抜けた。
照明が揺れ、ガラスが震えた。
そして。
アリアの身体が、空へと浮かびあがり
翼が、羽ばたく。
眩い残光を引きながら
紅の飛沫を空に描き──
彼女は、光となって飛び去っていった。
空の果てへ。
ただ一人、静かに、烈しく。
残されたホールには
言葉のない沈黙だけが
重く、深く、満ちていた──⋯
⸻
「⋯⋯ちっ。
まったく、人遣いが荒い女神だねぇ?」
乾いた舌打ちと共に
ライエルの〝仮面〟が
音もなく剥がれ落ちた。
それは所作のわずかな乱れから始まった。
ゆっくりと肩を落とし
吐息を洩らすように頭を傾ける。
その柔和で聖職者然とした佇まいに
どこか気怠げで皮肉な気配が混じり始め──
次の瞬間には
〝アライン〟がそこに立っていた。
眼差しは鋭く、口元には苦笑。
そして何より
背筋を伸ばすでもなく
役割の終わった
舞台袖で寛ぐ役者のような態度。
彼が視線を子供たち
そして従業員たちへと向けると
周囲に一瞬、緊張の糸が走った。
だがそれを打ち消すように
アラインは片腕を高く掲げ──
パチン!と、指を鳴らした。
「はぁ⋯⋯
何度も記憶を改竄できないってのに⋯⋯
余計な分を使っちゃったよ」
その言葉と共に、空気が、流れを変えた。
まるで一枚の薄布が舞い落ちるように。
子供たちも、職員たちも──
その脳裏から
たった今まで見ていた
〝血塗れの女神〟の姿が
ふわりと剥がれるように消え落ちていった。
誰もが
それを〝なかったこと〟として理解し
受け入れてしまう。
「じゃあ、みんな?
店長さんがゆっくり休めるように
今日はもう帰ろうね?
ボ──いや⋯⋯私は
念の為ここに残るから──
子供達の誘導は任せたよ?」
〝ライエル〟として振る舞おうと
彼は少しだけ言葉を選んだ。
演じなければいけない。
今日は〝ライエル〟が
子供たちを連れてきた日。
アラインとして振る舞えば
辻褄が合わなくなる。
従業員たちが戸惑いながらも頷き
子供たちを誘導しようとした──その時。
「⋯⋯せんせ⋯⋯わたし⋯⋯目が、見える」
ぽつりと、小さな声が上がった。
アメリアだった。
生まれつきの盲目の少女が
手で顔を覆いながら震えている。
その指の隙間から覗いた目に──
光が、宿っていた。
「うっ⋯⋯痛いっ⋯⋯!」
別の子供が叫び、膝をつく。
背中を丸め、呻く声が次々と上がる。
〝異変〟は、そこから一気に広がった。
空っぽだった袖の中に
骨と肉が伸びていく。
義足を押し出すように
むくむくと新しい足が生えてくる。
声を失っていた子の喉から
掠れた音が漏れ──
やがて、はっきりとした言葉が戻る。
欠損していたはずの身体が
次々と〝再生〟していった。
「な⋯⋯なにこれ!?」
「足が⋯⋯生えて⋯⋯!?」
「こんな⋯⋯こんな事って──!」
従業員たちも騒然となり
後ずさりする者
震え怯える者
呆然と立ち尽くす者。
──奇跡、だった。
けれど、それはあまりにも異常で
人の理屈から逸脱していた。
アラインは
鬱陶しげにもう一度大きな溜め息を吐く。
「⋯⋯こんな事さ
普通の人間が信じられる訳無いじゃん⋯⋯」
ぐしゃり、と頭を掻き毟った。
もう一度、気怠げに手を上げ──
パチン、と指を鳴らす。
再び、空気が変わった。
今度は、子供たち自身の中にあった
〝欠損〟の記憶が──
職員たちの中にあった
〝先程までの子供たちの姿〟が──
ーすべて、無かったことにされたー
生まれつき健常だった。
今までも、これからも。
それがまるで〝本来の記憶〟として
脳に刷り込まれる。
「⋯⋯貴重な人材達を
二回も書き直す羽目になるなんて
あーもう!
ほんと、割に合わないんだけど⋯⋯」
そう呟く彼の声は、周囲に届かない。
聞いているのは、ただひとり──
レイチェルだけだった。
誰もが、笑っていた。
子供たちは手を繋ぎ
職員に誘導されながら
何も知らず、何も気付かず
無邪気に帰っていく。
ただひとり、レイチェルだけが──
その場に、蒼白のまま、立ち尽くしていた。
震える唇が
何度も、何かを言おうとして動いた。
でも、言葉は出ない。
脳裏に焼きついたアリアの姿。
血に染まった白い肌。
静かな足取り。
命令のような願い。
それを〝忘れていない〟のは、彼女だけ。
──だからこそ、余計に怖かった。
奇跡も、忘却も、嘘も
すべてが、あまりに滑らかな〝本物〟で──
レイチェルには
声を出すことすらできなかった。