「⋯⋯あれ?
アリアの金魚の糞みたいな時也は
どこ行ったの?」
ぽつりと落とされた声は
まるで気まぐれな猫の欠伸のようだった。
その主──
アラインは、椅子に腰を落とし
まるでさっきまでの騒動など
存在しなかったかのような緩さで
足を組んでいた。
その顔には
感情というものが貼りついていない。
ただ、少し目を細めたその横顔にだけ
微かな興味の色が見え隠れしていた。
レイチェルは一瞬
何を言われたのか理解できず
唇をわななかせる。
が、すぐに眉を吊り上げて応じた。
「と、時也さんなら⋯⋯っ
倒れちゃって⋯⋯!
ソーレンが運んでったわよ!」
声が上ずる。
咄嗟に怒鳴り返したのではない。
どこか
言い淀みと戸惑いの混じる反応だった。
それを見て、アラインはくすりと笑う。
けれど、 それは
皮肉や嘲笑といった種類のものではなく
どこか──
愉しんでいるような響きだった。
「へぇ?
それで、あの女神様は暴走したって訳?」
「わ、私にだって、わかんないわよ!」
レイチェルの声は震えていた。
さっきまでの出来事が
頭の中でまだ完全には整理しきれていない。
けれど、確かなのは──
この男は、何も驚いていないということ。
「うーーん⋯⋯ならさ。
時也が起きるの、待つしかないよね?」
アラインは軽く肩を竦めながら
カウンターを差すように
手をふらりと上げた。
「ボクにも、紅茶ちょうだい?
できれば、ベルガモットで頼むよ」
その何気ない言葉に
レイチェルは小さく息を呑んだ。
紅茶のリクエスト。
この空気、この状況で
その一言が出てくるのが信じられなかった。
「あんたって⋯⋯ほんと、調子狂うわ⋯⋯」
ぽつりと呟いたその声には
呆れと諦めと
ほんの少しの安堵が混ざっていた。
まるでこの男が平然としていることが、
この場にひとつの
〝正常さ〟を与えているようで⋯⋯。
レイチェルは黙って
湯気を立てるポットを持ち上げた。
その掌は、まだほんのりと汗ばんでいた。
⸻
軽いのに──
その身体は、やけに重く感じた。
鍛えられていない訳ではない。
むしろ、日々の所作で
鍛え抜かれているはずの腕や脚は
筋肉の走りも美しく
必要最低限の強度と柔軟さを兼ね備えていた
だが、それでもなお──
時也の体は、細い。
華奢と言っていいほどに。
ソーレンの胸元にまるで頼るように
すっぽりと収まってしまうその肩のあたりを
無言で支えながら歩く。
重いのは、たぶん──
自分の中にある焦りと、苛立ちと
何よりも〝心配〟というやつだ。
不器用な感情が
喉元でつかえて言葉にならない。
「まったく⋯⋯
倒れるなら、人のいねぇとこでやれよな?」
苦々しく吐いた声は
誰にも届かない独り言。
けれど、少し歩いた先で
そのまま呟くように付け足す。
「⋯⋯それも、困るか」
時也が
もし人目のない場所で倒れていたら──
不死とはいえ、直ぐに無理をする男だ。
今回は、たまたま手の届く範囲だったから
良かったものの。
その光景を思い浮かべるだけで
胸の内がざらついた。
ソーレンは寝室の前で足を止めると
扉のノブに手をかけず、軽く指先を動かす。
空気の密度が変わり
重力が扉の内側に働いた。
カチリと音を立てて、ノブが自動で回る。
扉が静かに開くと
微かな白檀の香りが、ふわりと鼻を掠めた。
中は静かだった。
窓は半分だけ開け放たれており
風がそっとカーテンを揺らしている。
柔らかな日差しが
部屋の隅に置かれた水差しとグラスを照らし
ゆらゆらと光を反射していた。
ベッドの傍まで歩き
ソーレンは慎重にその体を横たえる。
シーツの上に置かれた時也は
僅かに眉間に皺を寄せている。
そして、その額には
大粒の汗が光りながら浮いていた。
「倒れるほど疲れてんなら⋯⋯
次から少しは自覚持てよ、バカ」
淡々とした声の中に、わずかな棘が混じる。
だが
その言葉とは裏腹に、動きは丁寧だった。
襟元に触れた指先が
汗でしっとりと濡れていることに気付くと
ソーレンはエプロンのポケットから
一枚の布巾を取り出した。
普段グラスを磨くために使うものだが
今はこれしかない。
それで、ごく自然な手つきで額を拭い
首筋に沿って汗を拭き取っていく。
額の下にかかる黒褐色の前髪に
そっと指を滑らせると
長い睫毛がわずかに揺れた。
だが、目を覚ます気配は無い。
ソーレンは深く息を吐き
襟元と帯を緩めて呼吸が楽になるよう整えた
その指先の動きは
口では悪態をついていても
そこにあるのは確かな気遣いだった。
胸元に毛布を掛けてやると
部屋の隅の水差しへ向かい
グラスに一杯の水を注ぎ入れる。
そして、それを寝台の枕元にそっと置いた。
「⋯⋯⋯こんなもんか?」
呟いた声に応える者はいない。
だがその問いは
自分の中にある妙な不安や
苛立ちの行き場を求めた言葉
だったのかもしれない。
ソーレンは一度
振り返ってベッドを見やる。
まるで魂ごと眠っているかのように
微動だにしない時也の姿を一瞥し
黙って部屋を出ていく。
扉は静かに閉まり、やがて静寂が戻る。
そこに残ったのは
白檀の香りと、水面に揺れる光だけだった。
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