昨日の夜、私は一人の魔女を絶望の淵から連れ戻すことができました。いえ、正確に言えば、私自身が彼女を裁くための「怪物」にならずに済んだ……というべきかもしれません。
月も出ない真っ暗な夜。遠くの空に、不自然でおそろしいほど真っ赤な炎が見えました。
「まさか……」
嫌な予感がして、私はほうきを力いっぱいこいで、その村へと急ぎました。たどり着いた場所で見たのは、まるで地獄のような景色でした。
燃えさかる家を前に、一人の女の子がへたり込んでいました。炎に照らされた背中はとても小さくて、今にも夜の闇に押しつぶされてしまいそうでした。
「燃やしてしまえ!」「この死神め!」
村人たちは松明をふりかざし、獣のような目で彼女をにらみつけています。ひどい言葉のつぶてが、逃げ場のない彼女に次々と投げつけられていました。
私は、彼女が誰なのか、なぜこれほど憎まれているのかは知りません。
けれど、見てしまったのです。彼女の小さな指先から、どろりとした真っ黒な魔法があふれ出しているのを。
それは、悲しみがあまりに深すぎて、自分でも止められないほどの「憎しみ」に変わってしまった合図でした。
もし、あの黒い魔法に心が飲み込まれてしまったら……彼女は自分を見失い、心を失った復讐者になってしまいます。そうなれば、同じ魔女である私であっても、彼女を「止める」ためにその命を奪うしかなくなってしまいます。
そんな悲しい結末だけは、絶対に見たくありませんでした。
私はほうきを急降下させ、彼女を後ろから力いっぱい抱きしめました。
「放して! 全員殺してやる!」
腕の中で暴れる彼女は、まるで罠にかかった小さな動物のようでした。私は彼女を抱えたまま無理やり空へと逃げました。そのとき、村人が投げた石が私のほっぺたを切り裂き、熱い血が流れました。
遠くの静かな森に降りると、彼女は地面に倒れ込み、枯れ葉をつかんで泣き叫びました。
「どうして助けたの! 私も家族と一緒に焼ければよかったのに!」
森中に響きわたるその泣き声があまりに痛そうで、眠っていた鳥たちが驚いて夜の闇の中へ逃げていくのが見えました。
私は、彼女が泣き疲れるのをだまって待っていました。
やがて肩の震えが小さくなったころ、私はどろで汚れた彼女の隣に座り、自分の話を少しだけしました。
私が昔いた村でも、大切な人が奪われたこと。魔女だというだけで、ひどい扱いを受けたこと。
私は、彼女に自分の名前を教えることができませんでした。
なぜなら、私には「名前」がないからです。
小さいころに両親を亡くした私に、師匠はただ「水の魔女」という役割だけをくれました。
「名前は、いつかきっとあなたの味方をしてくれる人がつけてくれるものですよ」
師匠に言われたその言葉を、私は今も大切に信じています。だから私は、ただの「名もなき水の魔女」として、彼女の小さな肩をそっと抱きよせました。
彼女は私の胸の中で泣き続け、やっとの思いで自分の名前を教えてくれました。
「夜耕(やこう)の魔女、エルダ」
誰にも知られず、夜通し村の土を耕して豊かにしてきたというその名前。それは、彼女がその場所を心から愛していたという、悲しい証拠でした。
空が白み始めたころ、エルダは顔を上げました。
その瞳に、もう一度だけ「生きてみよう」という小さな決意の火がともるのを、私は見逃しませんでした。
私は彼女を隣の国まで送り、せめてものプレゼントとして、小さな木の家ときれいな水路を作ってあげました。
「ありがとう。私、ここで生きてみる。いつか、この水であの村よりもずっと立派な野菜を作ってみせるわ」
お別れのとき、ほうきに乗って上から彼女を見届けました。
あんなに小柄で、今にも折れてしまいそうな肩をしたエルダが、つらい現実から逃げずに、もう一度土に触れようとしている。その姿は、朝日に照らされて、誰よりもかっこよく見えました。
ほっぺたの傷は、まだ少しチクチクします。
でも、この痛みは「一人の女の子の未来を守れた証拠」です。
いつか、私の本当の名前を呼んでくれる「味方」に出会えるまで、私はこの名前のない旅を続けていくつもりです。
朝の光に向かって、私はもう一度ほうきを加速させました。
fine






