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「好きだよ」
大好きだよ、兄貴。
からっと晴れた日の青空のような表情で、陽気にそう言い切った弟を前に、私は彼に言うべき言葉を見失う。
「…なんてカオしてんの」
よほど酷い顔をしていたのか、勇斗は言葉を見失っていた私に苦笑する。
「しっかり考えて答えてね」
「答えて、って…」
「兄貴の返答次第で、俺のこの先の人生変わるから」
「は?」
「前に言ったろ、俺は意外と臆病だって。だから、もし兄貴に拒絶されたら、俺死んじゃうかも」
「おまえ…」
勇斗の綺麗な顔が、真っさらな紙を丸めるみたいに急速にくしゃりと歪んで、今にも泣き出しそうな表情に変わった。
「…ごめん、兄貴」
ごめんなさい。
俺の肩口に顔を埋めながら、勇斗は震える声で繰り返し繰り返し呟いている。
深刻なことは、陽気に言うべきなんじゃなかったのかよ。震えるくらい怖いのなら、こんな脅迫めいたことしなきゃいいのに。そんなこと、言わなきゃいいのに。
「…勇斗、知ってた?」
勇斗の背中を軽く数回叩きながら、私もまた、覚悟を決める。
「お前の兄貴って、結構欲張りなんだ」
勇斗は、言葉の意味が理解できなかったのか、おずおずと頭を上げた。怯える小動物のような目をした勇斗と視線が合うのを辛抱強く待ってから、私はまた口を開く。
「社交的で誰からも好かれて、サッカーも上手で何でも出来ちゃうイケメンの弟。」
唐突な誉め殺しに、目を瞬かせて動揺する弟を無視して、続ける。
「そんな弟が、にいちゃんにいちゃんって懐いてくれているのが、平々凡々な兄の、唯一と言って良いくらいの自慢だった」
「…あにき、」
「そんな弟を、誰にも渡したくないって。平々凡々な兄は、いつからか ずっとそう思ってた」
「!」
「な、欲張りだろ」
気付いていた。
弟が自分に向けてくる視線に、実の兄を想う以上のモノが含まれていることに。それに気付いてもなお、距離を置くなんてしなかった。それまでと同じく、又はそれまで以上に世話を焼いて関わって。
欲張りで、狡いだろ
「そんな…そんなこと、」
だから。
「だから俺には、大事な自慢の弟が、いっときの勘違いか思い違いで道を踏み外しそうになっていても、その道は間違ってるぞって、正しく導いてやることなんて出来ないんだ。謝らなきゃならないのは、こっちだよ」
「ごめんな、はやと」
「…正しいって何」
「誰にとっての正しい事なの。」
「正義とか法則とか、他の誰かなんか気にする必要ないって言ってくれたのは、兄貴だろ。だから俺はここにいるんじゃないか」
なにかを言い返さなければ、と口を開きかけた私を制するように、勇斗は言葉を続ける。
「兄貴、残念だけど、勘違いでも思い違いでもない。俺が言って欲しいのは、そんな言葉じゃないよ」
『言って』と促されているような視線に、一瞬だけ息を呑んで、でもやっぱり観念するように溜め息を付く。…俺も、
「俺も すきだ、勇斗」
視線を逸らさず、真っ直ぐに伝えた言葉は、どうやら弟の涙腺を完全に破壊してしまったようだ。
「おいおいおい、言わせといて泣くなよ」
「いや、だって、これは、しょうがないでしょ」
泣き顔不細工だなうるせぇよと笑いあって、見つめ合って、私はそこでふと我に返る。
遥か昔に感じたことのあったような気がする甘ったるい雰囲気に、顔面が火を噴きそうなほど熱くなった。
きっと私の顔は見るに耐えないくらい赤ら顔で、この美しい顔と釣り合うとはお世辞にも言えないだろう。
今まで勇斗に言い寄ってはことごとく撃沈してきた美女達に申し訳ない気持ちで一杯だ。スイマセンこんな兄で。それから、こんな弟で。
でもどうか刺さないでください。まさかこんな事になるとは青天の霹靂で、私だって国民に平等に与えられているはずの生存権くらいは行使していきたいのです。
脳内で美女達、そして勇斗と釣り合うべく顔まで変えたあの子に謝罪の言葉を並べていた私を見下ろして、勇斗は吹き出した。
「またくだらない事考えてんだろ」
「悪かったな、くだらないこと考えるくだらない兄貴で。」
「別にいいけどさ」
「そこは、兄貴はくだらなくなんかないよって否定しておくべき所じゃないの」
「面倒くさいなぁ」
「ついさっき、そのくだらなくて面倒くさいヤツを好きだって言ったのはどこのどいつだよ」
「そんな物好きいるんだ?」
「…馬鹿にしやがって」
うそだようそ
「そういうところも、全部好きだよ仁人。」
満面の笑顔。
思い返せば、昔からそうだった。
勇斗が笑うと、家族は。私は。幸せになれるのだ。今も、そしてこれからもずっと。
「……ほんっと、調子のいい奴だよお前は」
うんざりしたように言ってやれば、勇斗はまた笑って、その綺麗な顔の唇が私の唇に触れた。
のしかかる重力なんて ふたりならば超えていける。
end
【respect】
伊坂幸太郎著『重力ピエロ』2003