真っ黒い靄は、真っ白い霧に変わった。
いや、霧ではない。
湯気……?
――――ここは……。
尚子は目を開けた。
真っ白い湯気が切れて、水色のタイルが見える。
あ、そうか。
お風呂だ。
自宅のお風呂。
目の前に自分がいる。
でもなんか、小さい。
制服の上からシャワーをかけられて濡れている。
左目に眼帯をしている。
そうか。これは―――。
お父さんの視点……?
『殺して――』
自分の唇が動く。
『殺して、お父さん……』
「―――なんでそんなことを言うんだ……!」
父の声はいつもよりも低く籠って聞こえた。
「―――私はただ、お前を守ろうと……」
父の大きな手が、目の前の自分を抱きしめようとする。
しかし尚子は、
眼帯で左半分が見えない尚子は、
また殴られるのではないかと、その手を思い切り避けた。
その拍子に、
バスマットごと足が滑って、
タイル張りのコンクリートに頭を――――。
自分の潰れた頭から血が流れ出る。
“お父さん“がしゃがみこむ。
「尚子!!ーーー救急車!おふくろ!!救急車だ!」
父の悲鳴のような叫び声が、風呂場に反響する。
―――お父さん。
―――お父さん。
ごめんね。
お父さんがお母さんがいなくなった私を、
立派に育てようと頑張ってくれてたのは知ってたよ。
でも、期待に応えられなくて、
だから甘えることもできなくて、
そんな自分が嫌いで、
汚したくて、
お母さんとお父さんが愛してくれた身体を、
大事にできなくてごめんね。
視界に青ざめた祖母が駆け込んでくる。
慣れない携帯電話を震える手で操作し、見かねた父がその携帯電話をぶんどるも、父も手が震えて、それを落としてしまう。
お父さん。
ごめん。
―――大好きだよ。
誰もいなかったはずの洗い場に、喪服姿の男が見えた。
ーーーーーーーーーーーー
『それでね、本当に恥ずかしいんだけど』
優しい母の声が聞こえてくる。
『パパにね、崖から私と尚子がぶら下がってたら、どっちを引き上げる?って聞いたの』
―――うん。
『パパは、なんて言ったと思う?』
―――わかんないよ。ーーーママかな?
『そう!ママ!』
母は笑った。
ーーーなーんだ。
『でもこの話には続きがあってね』
ーーー続き?
『パパはね、ママを引き上げた後、自分も落ちて尚子を守るんだって』
――――。
『ママのことは助けて、尚子のことは守るんだって』
―――へえ。
『お母さん、その言葉聞いたとき、ふっと楽になったの。この人になら尚子を任せて大丈夫なんだなって』
―――愛だね。
尚子は笑った。
『……愛でしょ?』
病院のベッドで春の光を浴びながら、桜のような薄い顔色の母は、美しく微笑んだ。
◆◆◆◆◆
「尚子」
病院の待合室に座っていた尚子のもとに、祖母がやってきた。
「明日葬儀屋が来て、お父さんを運んでくれるそうだから」
「―――わかった」
尚子も立ち上がった。
「もう一回聞くけど、あのとき何があったのか、本当に思い出せないのかい?」
「―――うん」
尚子は頷いた。
目を開けると、目の前に父親が倒れていた。
バスマットがひっくり返っていて、足を滑らせたんだろうなというのはわかった。
父親はタイル張りのコンクリートの浴槽に頭を強く打ち付けて、絶命していた。
「……変だねえ」
祖母は首を捻った。
「お父さんの叫び声がしたんだよ。お袋!救急車!って。それで慌てて2階から降りて来たのに―――」
「―――もしかしたら」
尚子は口を開いた。
「滑ったのは私だったのかもしれない」
「え?」
「お父さんは私を守ってくれたのかもしれない」
その目から涙が溢れだしてきた。
「―――尚子」
「だってお父さんは、いつでも私のこと、守ってきてくれたから……」
尚子は眼帯を取ると、二つの眼から溢れてくる涙を手で拭った。
―――左眼が、焼けるように沁みた。
◆◆◆◆◆
「もう、彼女は生き返ったのか?」
花崎はなかなか動こうとしないアリスに言った。
グラウンドだったそこは、いつの間にかいつもの広間に戻っていた。
「―――ええ。無事、蘇生されました」
アリスは言い終わると、振り返らないまま自室に向かって歩き始めた。
「それでは、また明日」
そう言い、後ろ手にドアを閉めた。
◇◇◇
部屋に入るとアリスは手を胸に当てた。
―――土井さん。
ここのことを、
ゲームのことを、
きれいさっぱり忘れていいですから――。
お父さんに対する感情だけは、忘れないでくださいね。
あなたはご両親に、愛されていた。
ふうと息をつきながら、今しがた閉めたドアに寄りかかりアリスは天井を見上げた。
「父さん……母さん……」
アリスはそう言うと熱くなった両目を瞑った。
◇◇◇◇
茫然と立ちすくむ仙田の肩を花崎が叩いた。
「疲れました。明日のゲームに備えて休みましょう」
言うとやっと仙田は忘れていた呼吸を再開するように大きく息を吸った。
「―――ああ」
尾山が2人を横目に、自室に入っていく。
その後ろ姿を仙田は睨んだ。
視線に気づき花崎が頷く。
ドアが閉まると、花崎は小さな声で言った。
「明日のゲーム、打ち合わせ通り頼みますね……」
仙田は無言で小さく頷いた。
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