テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
世利里🗝️🫧🖤
112
#🐢超えて🐌超えて🦥投稿
アイリス🌙
3,255
コメント
1件
いやあ…もう、胸がぎゅっと締め付けられるお話でした。 アーティが「働くって、楽しいんだ」ってぽつりと呟くシーン、本当にぐっときました。王族としての重圧から解放されて、自分の力で認められる喜びを見つけた彼女の気持ちがひしひしと伝わってきましたよ。 その一方で、同じ街にいながら彼女を見つけられないローゼマインたちの焦りと悲しみ。ベンノがまさか自分の商会にあの子がいるとは知らずに話を聞く場面は、読んでいて「ああ!」って叫びたくなりました。 対比が本当に巧みで、それぞれの視点が交わらないもどかしさが心に刺さります。続きが気になって仕方ないです🤍
「初めて知った、働くことの楽しさ」
ギルベルタ商会で働き始めてから、数日が経った。
アタナシアという名で身を隠すアーティは、最初こそ緊張していたものの、今ではすっかり商会の仕事に馴染み始めていた。
もちろん、最初から何もかも順調だったわけではない。
下町の商会で使われる言葉や、商品の管理方法、商人同士の独特なやり取り。貴族社会で育ってきたアーティにとって、初めて目にするものばかりだった。
それでも、彼女は一度教えられたことを忘れなかった。
商品の置き場所を教えられれば、次からは間違えない。お客様への対応を見せられれば、その意図まで理解して自分のものにする。頼まれた仕事を終えれば、次に何をすれば商会の役に立てるか、自分で考えて動く。
そして何より、彼女には貴族と接してきた経験があった。
相手が何を求めているのか。どこまで踏み込んでよいのか。言葉の裏にどのような意図が隠されているのか。
そうしたことを察する能力は、ギルベルタ商会でも十分に役立った。
「アタナシア! このお客様の対応を頼めるか?」
「はい、ベンノさん」
呼ばれたアーティは、手元の仕事を区切り、すぐさま店先へ向かった。
そこにいたのは、少々気難しそうな身なりの整った男性だった。商品についていくつか質問をしていたらしいが、担当していた店員は返答に困っているようだった。
アーティは男性の前で丁寧に一礼した。
「お待たせいたしました。何かお探しの商品がおありでしょうか?」
声の調子、姿勢、視線の向け方。どれも自然で、相手に不快感を与えない。
男性は最初、突然現れた少女を値踏みするように見ていた。しかし、アーティが質問の意図を正確に理解し、商品の特徴と用途を順序立てて説明すると、その表情が徐々に変わっていった。
「なるほど。それなら、こちらを見せてもらおう」
「かしこまりました。ご希望に合うものをいくつかご用意いたしますので、少々お待ちくださいませ」
アーティは商品の違いを説明しながら、男性が本当に求めているものを確かめていった。
押し売りはしない。けれど、必要な情報は漏らさない。
相手の立場を尊重しつつ、商会にとっても利益になる選択肢を提示する。
その対応は、まるで長年商人として経験を積んできた者のようだった。
男性は満足した様子で商品を購入し、帰り際にはアーティにまで礼を述べた。
「君は新人なのか? なかなか見事な対応だった」
「恐れ入ります。お買い上げいただき、ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
男性が店を出ると、近くで見ていた店員たちが感心したように声を上げた。
「すごいな、アタナシア。あんなに気難しいお客さんだったのに」
「私、何か失礼なことを言ってしまわないか、ずっと心配していたのよ」
「そんなことありません。皆さんが商品のことを詳しく教えてくださったおかげです」
アーティはそう答えた。
それはお世辞ではなかった。商品についての知識がなければ、あれほど適切な説明はできなかっただろう。
けれど、店員たちは首を横に振った。
「いや、商品を知っているだけじゃ、ああはいかないよ」
そのやり取りを少し離れた場所から見ていたベンノは、腕を組んだまま黙り込んでいた。
――なんなんだ、あの娘は。
最初に面接したときから、ただ者ではないとは思っていた。
物腰は妙に洗練されている。言葉遣いも丁寧すぎるほどだ。下町で暮らしていた人間とは思えない一方、本人は下級貴族の侍女をしていたと説明している。
その経歴を考えれば、客への対応が優れているのは不思議ではない。
だが、それだけでは説明できなかった。
ベンノは、彼女が店に来てからの数日間を思い返した。
彼女は与えられた仕事を、驚くほどの速さで覚えた。
一度説明すれば理解し、二度目には自分でできるようになり、三度目にはより効率のよい方法まで考え始める。
しかも、わからないことをわかったふりで誤魔化さない。必要なことはきちんと尋ね、教えられた内容を確実に吸収していく。
そして今日、とうとう帳簿の仕事にまで手を出し始めたのだ。
ベンノは思わず眉間を押さえた。
「……おい、アタナシア」
「はい、ベンノさん。何かございましたか?」
「お前、帳簿はどこで覚えた?」
「いえ、商会の帳簿については、こちらに来てから教えていただいたことしか存じません」
「そうじゃねえ。数字の読み方や、記録の仕方だ」
「ああ……」
アーティは少し考え込んだ。
帳簿。
そう言われて、彼女の脳裏に一人の人物が浮かんだ。
ハルトムートだ。
ローゼマインの側近として、彼が書類を整理し、報告をまとめ、数字を確認していた姿。アーティ自身が直接帳簿を扱っていたわけではないが、彼が仕事をしている様子を目にする機会は何度もあった。
そのときは、特に意識していなかった。
ただ、必要な書類がどこにあるのか、何をどの順番で確認しているのか。彼が仕事を進める様子を、自然と目で追っていたのだ。
「以前、書類を整理されている方のお仕事を拝見したことがありまして。何度か見ているうちに、ある程度は理解できるようになったのだと思います」
「何度か見ただけで、あれができるようになったってのか?」
「はい。もちろん、こちらの商会独自の決まりは、まだ教えていただく必要がございますが」
アーティは控えめに答えた。
ベンノは目の前の少女を見つめた。
彼女が先ほどまとめた帳簿には、教えたばかりの記入方法が正確に反映されていた。数字の書き間違いも、記入漏れもない。内容を確認するための順序まで、すでに理解しているようだった。
一体、どれだけ頭が回るのだ。
貴族の侍女だったという話を疑うつもりはない。むしろ、その経歴が彼女の能力の一端を説明しているのだろう。
しかし、それにしたって優秀すぎる。
「……お前、本当に今まで何をしていたんだ?」
「侍女として、主人のお世話をしておりました」
「それだけか?」
「はい」
アーティは穏やかに微笑んだ。
嘘をついていることへの後ろめたさはあった。
けれど、アーティと名乗るわけにはいかない。ローゼマインとの関係を明かすわけにもいかない。
ここでは、アタナシアとして生きると決めたのだから。
ベンノはしばらく彼女を見ていたが、やがて大きく息を吐いた。
「いいか、アタナシア。お前を試しに雇ったのは、あくまで仮の話だった」
「はい。承知しております」
「だが、今の働きぶりを見て、いつまでも仮のままにしておくわけにもいかねえ」
アーティは瞬きをした。
「それでは……」
「正式に雇う。給金も決める。仕事も増やすぞ。できるからって、何でもかんでも押しつけるつもりはねえが、これだけ働ける人間をいつまでも見習い扱いしておくのは、商会にとっても損だからな」
「……ありがとうございます、ベンノさん」
アーティは深く頭を下げた。
その胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていく。
仕事を認められた。
誰かに頼まれたことをこなしたからではなく、自分の力で役に立ち、その働きを評価してもらえた。
それが、こんなにも嬉しいことだとは思わなかった。
「勘違いするなよ。これからも働いてもらうからな」
「はい。精一杯努めさせていただきます」
「それと、そんなにかしこまらなくていい。店の中で客に丁寧なのは構わねえが、俺たちにまで毎回そんな調子じゃ疲れるだろ」
「……努力いたします」
「だから、その言い方だ!」
ベンノの声に、周囲の店員たちが笑った。
アーティもつられて笑ってしまった。
その笑い声は、彼女自身が思っていた以上に自然なものだった。
仕事を終えた夕方。
アーティは商会の片隅で、今日使った帳簿を丁寧に片づけていた。
初めて見る商品。知らない商売の仕組み。次々に訪れるお客様。そして、わからないことを尋ねるたびに返ってくる、忙しそうでありながらも的確な返事。
一日が終わる頃には、頭も身体も疲れていた。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、明日は何を教えてもらえるのだろうと考えていた。
明日は、もっと上手にできるだろうか。
今日わからなかったことを理解できるだろうか。
お客様に、もっと満足してもらえるだろうか。
そんなことを考えている自分に、アーティは少し驚いていた。
今までの彼女にとって、一日の終わりに考えるべきことはいつも決まっていた。
明日の予定。果たすべき義務。失敗してはいけないこと。誰かの期待に応えられるかどうか。
貴族として振る舞い、側近として役目を果たし、求められる自分であり続ける。
それが当たり前だった。
もちろん、ローゼマインと過ごした時間は楽しかった。彼女のそばにいることが嫌だったわけではない。むしろ、かけがえのない時間だった。
それでも、そこには常に身分があり、立場があり、守らなければならないものがあった。
今は違う。
アタナシアとして働く彼女に、誰も王族との関係を尋ねない。
誰も彼女の立場を気にしない。
彼女が何者であろうと、帳簿を正確につければ認められる。お客様に誠実に接すれば感謝される。仕事を覚え、周囲を助ければ、ここにいてよいのだと伝えてもらえる。
必要なのは、今の自分にできることを一つずつ積み重ねることだった。
「……働くって、楽しいんだ」
ぽつりと、声がこぼれた。
誰かに聞かせるための言葉ではなかった。
自分自身に初めて教えるような、小さな呟きだった。
アーティは、窓の外に目を向けた。
夕暮れの下町には、家へ帰る人々の声が響いている。店先を片づける者、荷物を運ぶ者、夕食の支度をする者。
そこには、貴族街とは違う活気があった。
誰もが忙しそうで、誰もが自分の生活を営んでいる。
ローゼマインがマインだった頃、彼女と一緒に歩いた場所。
あの頃のローゼマインは、いつも目を輝かせていた。
新しいものを見つけては喜び、思いついたことを実現するために走り回り、周囲を巻き込んで大騒ぎを起こしていた。
アーティは、そんな彼女を少し呆れながらも、いつも眩しく思っていた。
――あの子は、こういう世界を知っていたんだ。
貴族街から見下ろすだけではわからない、下町の暮らし。
働くこと。稼ぐこと。自分の手で何かを成し遂げること。
ローゼマインは、ずっと前から知っていたのだ。
「……私、何も知らなかったんだね」
呟いて、アーティは小さく笑った。
今の彼女は、決して自由なわけではない。
身元を隠さなければならない。正体が知られれば、どこへ連れ戻されるかわからない。自分がいなくなったことで、ローゼマインたちがどれほど心配しているのかも、考えないわけにはいかなかった。
それでも。
この場所で過ごす時間だけは、そうしたことを忘れられた。
自分が何者なのかを考えなくてもいい。
誰かの期待を背負わなくてもいい。
ただ、アタナシアとして働けばいい。
明日も店に来て、仕事を覚え、少しずつできることを増やしていく。
それだけでよかった。
アーティは片づけを終え、ベンノに挨拶をして商会を出た。
夕暮れの街を歩きながら、明日の仕事に思いを馳せる。
その足取りは、逃げ出したあの日よりも、ずっと軽かった。
そして彼女はまだ知らない。
貴族街では、自分を捜すために領主一族や王族まで動き、エーレンフェスト中が大騒ぎになっていることを。
誰もが神殿を調べ、貴族街を探し、彼女がどこへ向かったのか必死に考えていることを。
彼らが探している少女は、今この瞬間も、下町の商会で明日の仕事を楽しみにしている。
アーティではなく、アタナシアとして。
初めて知った働くことの楽しさが、彼女にとって新しい居場所になり始めていた。
本好きの下剋上 二次創作
第五話「帰ってきてしまう日常」
神殿にアーティはいなかった。
その事実が確定した翌日、アナスタージウスは中央へ戻ることを余儀なくされた。
王族が長期間にわたって中央を離れることは、簡単に許されることではない。アーティを捜すために特例として認められた滞在にも、限界があった。
「……もう少しだけ、時間をもらうことはできないのか」
帰還を告げられたアナスタージウスは、険しい表情で問い返した。
しかし、返ってくる答えは変わらなかった。
神殿にはいない。エーレンフェストの貴族街にも、今のところ有力な情報はない。これ以上、王族が中央を空け続けるわけにはいかない。
理屈はわかっていた。
自分が王族である以上、果たさなければならない責務がある。アーティ一人のために、すべてを投げ出すことはできない。
それでも、納得できるかどうかは別だった。
アナスタージウスは窓の外を見つめた。
本当なら、自分の手で見つけたかった。
どこにいるのかもわからない彼女を、自分で捜し、見つけ出し、目の前に連れて帰りたかった。
彼女がなぜ姿を消したのか。
何を思い、何に苦しみ、どんな気持ちで自分たちの前からいなくなったのか。
知りたいことはいくらでもあった。
何より、彼女が今も無事でいるのか、それだけでも自分の目で確かめたかった。
けれど、自分にはそれができない。
王族として動ける範囲には限界があり、中央に戻れば、今度は自分の立場から逃げることもできない。
アーティのためなら何でもできると思っていたわけではない。
しかし、いざ彼女がいなくなってみれば、自分にできることは驚くほど少なかった。
「……私は、一体何をしているのだ」
誰に聞かせるつもりもない声が漏れた。
王族という立場があれば、たいていのことは実現できる。
人を動かすことも、必要な情報を集めることも、望むものを手に入れることも、平民や下級貴族には難しいことを可能にできる。
それなのに、たった一人の少女の居場所すらわからない。
自分の力が届かない場所で、彼女が一人で何をしているのかさえわからない。
その事実が、何よりも苦しかった。
帰還前、アナスタージウスはローゼマインと向き合った。
「ローゼマイン。アーティのことだが」
「はい」
ローゼマインの顔にも、疲労の色が浮かんでいた。
彼女もまた、神殿にいるはずだと思っていたアーティが見つからず、動揺していた一人だった。
「これからも捜索を続けてほしい。何か些細なことでもいい。彼女につながる情報があれば、すぐに知らせてくれ」
「もちろんです。私もアーティのことを諦めるつもりはありません」
ローゼマインは、迷うことなく答えた。
「どんな些細なことでも報告いたします。アーティが見つかったら、必ず一番にアナスタージウス王子へお知らせします」
その言葉には、確かな意志があった。
アナスタージウスは彼女の目を見つめた。
ローゼマインは、アーティを大切に思っている。
それは知っていた。
二人がまだ下町で暮らしていた頃から、特別な絆があったことも。身分や立場が変わっても、その関係が簡単に失われるものではないことも。
だからこそ、彼女は動けるのだ。
エーレンフェストの領主候補生として。神殿長として。多くの側近や商人とのつながりを持つ者として。
アーティがどこにいるのかを知るために、自分の手の届く範囲を使って動き続けることができる。
一方で、アナスタージウスは中央へ帰らなければならない。
彼女のために動き続けたいと願っても、それが許される立場ではなかった。
「……頼んだぞ」
「はい」
短い返事だった。
それ以上、何を言えばよいのかわからなかった。
アナスタージウスは踵を返し、退出しようとした。
その直前、ローゼマインが静かに口を開いた。
「アナスタージウス王子。アーティは、きっと簡単には諦めない方です」
彼は足を止めた。
「……何が言いたい?」
「私たちが思っている以上に、いろいろなことを考えて行動される方です。ですから、今はまだ見つからなくても、必ず何か理由があるのだと思います」
ローゼマインは少しだけ視線を落とした。
「私も、アーティが何を考えていたのか、すべてを理解できているわけではありません。だからこそ、見つけて、きちんと話したいのです」
それは、彼女自身にも言い聞かせている言葉のようだった。
アナスタージウスは何も答えなかった。
ただ、ローゼマインの言葉が胸に残った。
彼女は、アーティを信じている。
そして、彼女にはアーティのために動き続ける場所がある。
それが、どうしようもなく羨ましかった。
自分だって、アーティを大切に思っている。
彼女がいなくなったことを、簡単に受け入れられるはずがない。
それなのに、自分は帰らなければならない。
中央へ戻り、何事もなかったかのように王族としての生活を続けなければならない。
アナスタージウスは、初めて自分の立場をこれほど疎ましく思った。
アナスタージウスが中央へ戻ってから、数日が過ぎた。
アーティは、まだ見つからなかった。
捜索が打ち切られたわけではない。
エーレンフェストの領主一族も、ローゼマインも、フェルディナンドも、ハルトムートも、そして中央へ戻ったアナスタージウスも、それぞれの立場から情報を集め続けていた。
けれど、どこにも彼女の足取りは残っていなかった。
貴族街で見かけた者はいない。
神殿に新しく来た者の中にも、それらしい少女はいない。
知人の屋敷を訪ねた形跡もなく、領地を越えて移動したという報告もない。
まるで、最初からこの世界のどこにも存在しなかったかのようだった。
それでも、人は日常を止め続けることができない。
領主には領主の仕事があり、王族には王族の務めがある。
貴族院での出来事も、領地の運営も、商会との取引も、アーティがいなくなったからといって消えてくれるわけではなかった。
そして、どれほど心が彼女を捜していても、目の前に積み上がった仕事を放置することはできなかった。
嫌でも、日常は戻ってくる。
「ローゼマイン様、本日の予定についてご確認をお願いいたします」
側近から声をかけられ、ローゼマインは手元の書類から顔を上げた。
「……ええ。わかりました」
返事をしながら、彼女は一瞬だけ窓の外へ目を向けた。
以前なら、この時間にはアーティが隣にいたかもしれない。
何かを相談したり、二人で小さな声で話したり。時には、周囲に注意されるようなことをして、顔を見合わせて笑ったり。
そんな光景が、ふいに頭をよぎる。
けれど、隣にいるのは別の側近だった。
アーティはいない。
わかっている。
わかっているのに、何かの拍子に彼女の姿を探してしまう。
「ローゼマイン様?」
「ごめんなさい。少し考え事をしていました。続きをお願いします」
ローゼマインは姿勢を正した。
神殿長としての仕事は、待ってくれない。
神殿の運営、孤児院の管理、商会との打ち合わせ、領主一族への報告。彼女が担う仕事は多く、今までと同じようにこなさなければならなかった。
しかし、集中力は明らかに落ちていた。
以前なら一度目を通せば理解できた書類を、何度も読み返してしまう。簡単な確認事項を見落とし、側近に指摘されることもあった。
決して仕事を投げ出しているわけではない。
むしろ、普段以上に気を張っていた。
失敗してはいけない。
アーティがいないからといって、周囲に迷惑をかけてはいけない。
そう思えば思うほど、頭の中にはアーティのことが浮かんでしまう。
今、どこにいるのだろう。
ちゃんと食事をしているだろうか。
寒い思いをしていないだろうか。
困っていることはないだろうか。
そして、何より。
自分たちに会いたくないと思うほど、追い詰められていたのだろうか。
そこまで考えると、ローゼマインは書類を持つ手に力を込めた。
「……アーティ」
小さく名前を呼んでも、返事はない。
彼女はすぐに顔を上げ、周囲に聞こえなかったことを確かめるように視線を巡らせた。
こんなことをしていても、何も変わらない。
捜さなければ。
見つけなければ。
そう思うのに、今の自分には、どこを探せばよいのかさえわからなかった。
一方、エーレンフェストでは、フェルディナンドが集められた報告書に目を通していた。
「……何もない、か」
机の上には、アーティに関する情報が並んでいた。
彼女と接点のあった貴族への聞き取り。移動に関する記録。神殿での確認。領地内での目撃情報。
いずれも、決定的なものはない。
フェルディナンドは目頭を押さえた。
捜索を始めた当初は、いくつかの可能性を考えていた。
神殿に向かったのではないか。
知人の屋敷に身を寄せたのではないか。
あるいは、誰かに協力を求めているのではないか。
だが、時間が経つにつれて、そのどれもが根拠のない推測にすぎないことが明らかになっていった。
「貴族としての生活しか知らない者が、これほど足取りを消せるものか……」
独り言のように呟く。
もちろん、アーティが愚かな少女でないことは知っていた。むしろ、状況を判断し、必要とあれば大胆な行動に出ることのできる人物だ。
それでも、これほどまでに情報が途絶えるとは思っていなかった。
「フェルディナンド様。追加の報告書です」
側近が新しい書類を差し出した。
フェルディナンドは受け取り、目を通す。
そこにも、有力な情報はなかった。
「引き続き確認を。些細な情報でも構わん。特に、これまで接点のなかった場所へ移動した可能性を排除するな」
「かしこまりました」
側近が退出した後、フェルディナンドはしばらく机に向かったまま動かなかった。
彼女を見つけるためには、今までの常識を疑う必要があるのかもしれない。
だが、どこから疑えばよいのか。
その答えすら、まだ見つかっていなかった。
それから数日後。
ローゼマインは神殿での仕事を進めていた。
気持ちが晴れたわけではない。
アーティを心配する気持ちは、日を追うごとに薄れるどころか、別の形で重くなっていった。
最初の頃は、今にもひょっこり姿を現すのではないかと思っていた。
けれど、何日経っても彼女は帰ってこない。
報告はない。
目撃情報もない。
何か手がかりが見つかるたびに期待し、確認しては落胆する。その繰り返しだった。
それでも、神殿長としての仕事は続けなければならない。
ローゼマインは書類をまとめ、次の予定を確認していた。
そのとき、フランが静かに声をかけた。
「ローゼマイン様。ベンノ様が、まもなく到着される予定です」
「ベンノさんが?」
「はい。本日は商会との事業について、いくつか確認したいことがあると伺っております」
「そう。わかりました」
ローゼマインは頷いた。
ベンノとの打ち合わせは、普段どおりに進めるつもりだった。
商会との取引は重要だ。アーティのことが気にかかるからといって、仕事を疎かにしてよいわけではない。
けれど、ベンノなら。
ふと、そんな考えが浮かんだ。
ベンノは下町の商人だ。商会を経営し、さまざまな人々と接している。貴族街だけを探していても見つからないのなら、彼の知識や人脈が何かの役に立つかもしれない。
もちろん、根拠があるわけではない。
ただ、今まで調べていなかった場所や人について、彼なら何か知っている可能性がある。
ローゼマインは手元の書類を置いた。
――事業の話がひと段落したら、相談してみよう。
アーティがいなくなったことを、ベンノに伝えなければならない。
そして、もし何か心当たりがあれば、教えてほしいと頼むつもりだった。
「お待たせいたしました、ローゼマイン様」
やがて、ベンノがルッツを伴って神殿へやってきた。
二人はいつもどおりに挨拶を交わし、商会との事業について話し合いを始めた。
新しい商品の流通。必要な材料の確保。今後の販売計画。
ベンノは商人としての顔を崩さず、ローゼマインの説明に耳を傾け、必要な確認を行っていく。
ルッツも、ときおり補足をしながら話を進めた。
その間、ローゼマインは何度か話を止めそうになった。
けれど、そのたびに気持ちを切り替え、目の前の議題に集中した。
ようやく、ひと通りの話がまとまった。
ベンノが手元の書類を閉じる。
「ひとまず、今日の話はこんなところか。残りは商会に戻ってから確認しておく」
「ありがとうございます。では、次の打ち合わせまでに、こちらも必要な資料を整えておきますね」
いつもなら、ここで打ち合わせは終わりだった。
しかし、ローゼマインはすぐに立ち上がらなかった。
「……ベンノさん。実は、もう一つ相談したいことがあるのです」
ベンノが顔を上げた。
「相談?」
「はい。事業の話とは関係ありません」
ローゼマインは一度、言葉を切った。
何度も口にしてきたはずなのに、誰かに話すたびに胸が重くなる。
それでも、伝えなければならなかった。
「アーティが、いなくなりました」
一瞬、部屋の空気が止まった。
「……は?」
ベンノの声が低く響いた。
隣にいたルッツも、目を見開いてローゼマインを見つめた。
「アーティがいなくなったって……どういうことだ?」
「卒業式の後、姿を消したのです。護衛の目が離れた隙にいなくなってしまって……その後、どこを探しても見つかりません」
ローゼマインは、これまでの経緯を説明した。
貴族街を探したこと。
知人や関係者に確認したこと。
神殿にも足を運んだこと。
アナスタージウス王子まで中央から捜索に来たこと。
それでも、何一つ手がかりが得られていないこと。
話を聞くにつれ、ルッツの表情から驚きが消え、代わりに困惑が広がっていった。
「王族まで捜しているのに、見つからないのか……?」
「はい」
「神殿にも来ていないんだな?」
「ええ。フランたちにも確認してもらいましたが、アーティらしい人は一人も来ていませんでした」
ベンノは黙り込んだ。
そして、片手で顔を覆った。
「……おいおい、冗談だろ」
その声には、商人としての余裕がなかった。
王族が動いた。
領主一族も動いた。
フェルディナンドも、ローゼマインも、ハルトムートも、アーティと関係の深い者たちが総出で捜している。
それなのに、見つからない。
それはつまり、彼女が普通の人間なら簡単に見つかるような場所にはいないということだ。
少なくとも、彼らがこれまで想定してきた範囲には。
ベンノは机に肘をつき、深く息を吐いた。
「……これだけの人間が捜して、何の情報もないのか」
「はい。どこで目撃されたのかも、誰かに助けを求めたのかも、何もわかりません」
「そんなことがあるのかよ……」
ベンノはもう一度、頭を抱えた。
ルッツも言葉を失っていた。
アーティはローゼマインにとって特別な存在だ。
そのことは、彼らもよく知っている。
ローゼマインがどれほど彼女を大切にしていたのか。二人がどのように過ごしてきたのか。
だからこそ、今回の失踪がどれほど大きな出来事なのか、理解できた。
「ローゼマイン様」
ルッツが慎重に声をかけた。
「アーティがいなくなったのは、いつですか?」
「数日前です。いえ、正確には、もう少し前からになります」
ローゼマインは答えながら、自分の言葉に苦笑した。
日付を数えれば、もう何日も経っている。
けれど、彼女にとっては、アーティがいなくなったあの日から、時間がうまく進んでいないような気がしていた。
「……私、何か気づけていたらよかったのかもしれません」
「ローゼマイン様、それは……」
「アーティが何を考えていたのか、どうして何も言わずにいなくなったのか。私は、何もわかっていなかったのです」
ローゼマインは膝の上で手を握った。
「もっと話を聞いていれば。もっと、アーティが何を思っているのか考えていれば。何か違ったのではないかと、どうしても考えてしまいます」
その声は、少しずつ小さくなっていった。
ベンノは、すぐには返事をしなかった。
いつもの彼なら、状況を整理し、可能性を列挙し、必要な行動を指示するところだろう。
しかし、今は違った。
ローゼマインがどれほどアーティを大切にしているのか、彼は知っている。
そして、これだけの人間が捜しても見つからないという現実も、理解していた。
「……ローゼマイン様」
ようやく、ベンノが口を開いた。
「俺は、アーティがどうしていなくなったのか、何も知らねえ。だから、簡単に大丈夫だとも、すぐ見つかるとも言えねえ」
ローゼマインは顔を上げた。
「……はい」
「ただ、一つだけ言えるのは、今の段階じゃ、どこにいるのかも、何を考えているのかもわからねえってことだ。わからねえ以上、可能性を勝手に決めつけるわけにもいかねえ」
ベンノは言葉を選んでいた。
安易に慰めたところで、彼女の不安が消えるわけではない。
「捜すのをやめる必要はねえ。俺にできることがあるなら協力する。商会のつながりで何か聞けるかもしれねえし、今まで調べていなかった場所についても考えてみる」
「ベンノさん……」
「だが、今すぐ答えを出せるわけじゃねえ。そこはわかってくれ」
ローゼマインは、静かに頷いた。
「ありがとうございます」
それだけ言うのが精一杯だった。
ベンノは彼女の顔を見つめた。
普段のローゼマインなら、どれほど複雑な事業の話でも、目を輝かせながら次々と考えを口にする。
時には周囲が止めるほど突飛な案を出し、商人たちを振り回すこともある。
けれど、今の彼女には、その勢いがなかった。
話をしていても、どこか心ここにあらずといった様子がある。
書類を確認する動きも遅く、何かを考えている途中で、ふと黙り込んでしまうこともある。
仕事をしていないわけではない。
責任を放棄しているわけでもない。
ただ、心の一部がずっとアーティのいない場所に置き去りにされているのだ。
ベンノは、それを見て取った。
――こりゃ、相当こたえてるな。
しかし、だからといって、どう声をかければよいのかはわからなかった。
大切な人が突然いなくなった。
捜しても見つからない。
何が起きたのかも、無事なのかもわからない。
そんな状況で、何を言えば救いになるというのだろう。
「……ルッツ」
「はい」
「商会に戻ったら、念のため、各方面で何か情報が入っていないか確認しておいてくれ」
「わかった」
ルッツは短く答えた。
ベンノはローゼマインへ向き直る。
「何かあれば、すぐに知らせる。だから、こちらからも情報がないか確認させてくれ」
「お願いします」
ローゼマインは、もう一度頭を下げた。
その姿を見て、ベンノは胸の内でため息をついた。
ローゼマインは、いつも誰かのために走り回ってきた。
その彼女が今、誰かを捜すために動き続けている。
それなのに、肝心の手がかりが一つもない。
彼女の力が足りないからではない。
周囲が協力していないからでもない。
ただ、アーティがどこにいるのか、それがわからないのだ。
どれほど大きな権力があっても、どれほど優秀な人間が集まっても、手がかりそのものがなければ、捜索は前に進まない。
ベンノは、改めてその現実を突きつけられた。
打ち合わせが終わり、ベンノとルッツが神殿を後にした。
帰り道、二人はしばらく黙って歩いていた。
先に口を開いたのはルッツだった。
「……ベンノさん。アーティ、本当にどこにいるんだろう」
「わかるわけねえだろ」
ベンノは、いつもよりも疲れた声で答えた。
「王族や領主一族が捜して見つからねえんだ。俺たちが簡単に見つけられるとは思えねえ」
「でも、ローゼマイン様、すごくつらそうだった」
「見りゃわかる」
ベンノは歩みを緩めた。
「……あの様子じゃ、仕事にも相当響いてるだろうな」
「うん」
ルッツはうつむいた。
ローゼマインがアーティを大切にしていることは知っていた。
二人の間には、他の者には簡単に理解できない時間がある。
身分が変わり、立場が変わっても、それでも続いてきた関係がある。
その相手が、何の手がかりも残さずにいなくなった。
そして、自分たちは何もできない。
「俺たちにできること、ないのかな」
ルッツの問いに、ベンノはすぐには答えなかった。
商人としてなら、情報を集めることはできる。
人と人とのつながりを使い、噂を聞き、普段なら気に留めないような情報にも目を向けることはできる。
しかし、今はそれすら難しい。
何を探せばよいのかが、わからないのだ。
「……今は、できることをやるしかねえだろ」
ベンノはそう言った。
「何もわからねえからって、何もせずにいるわけにはいかねえ。小さな情報でも、つながる可能性はある」
「そうだね」
二人は再び歩き始めた。
商会に戻れば、いつもどおりの仕事が待っている。
商品の確認。帳簿の整理。取引先との連絡。
日常は続いていく。
けれど、今日聞いた話は、簡単には頭から離れそうになかった。
その頃、ギルベルタ商会では。
「ベンノさん、こちらの帳簿の確認をお願いいたします」
アタナシアと名乗る少女が、整理した帳簿を差し出していた。
「おう。そこに置いといてくれ」
ベンノの不在中も、店はいつもどおりに動いていた。
アタナシアは任された仕事をこなし、店員たちと協力しながら、少しずつ商会の一員として認められ始めていた。
彼女の働きぶりを疑う者は、もうほとんどいない。
ベンノも、彼女の能力を評価していた。
ただ、彼はまだ知らない。
自分が頭を抱えるほどの事態になっている、その原因である少女が。
自分の商会で働き、帳簿をつけ、客を迎え、明日の仕事を楽しみにしていることを。
そして、ローゼマインがどれほど必死に捜している相手が、今まさに、自分の目の届く場所にいることを。
アタナシアは、帳簿を片づけながら小さく息をついた。
今日も、よく働いた。
新しく覚えたことがある。昨日よりも上手にできたことがある。明日は、もっと役に立てるかもしれない。
そんな小さな喜びが、彼女の毎日を少しずつ満たしていた。
その一方で、彼女を大切に思う人々は、彼女がどこにいるのかもわからず、答えのない捜索を続けている。
同じエーレンフェストの空の下で。
誰よりも近くにいる者たちが、誰よりも遠くにいる彼女を捜していた。