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世利里🗝️🫧🖤
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#🐢超えて🐌超えて🦥投稿
アイリス🌙
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失いたくないもの
ギルベルタ商会で働き始めて、早くも三週間が経った。
アタナシアが商会に来た当初、ベンノは彼女を少しばかり変わった新人だと思っていた。覚えが早く、商人としての勘も悪くない。何より、人の懐に入り込むのが驚くほど上手かった。
しかし、三週間も経つ頃には、彼女はすっかり商会に馴染んでいた。
職人たちはアタナシアに新しい商品について意見を求め、店員たちは困ったことがあれば彼女に相談する。彼女もまた、分からないことは素直に尋ね、教えてもらえば惜しみなく感謝を伝えた。
その結果、彼女は新人でありながら、いつの間にかギルベルタ商会に欠かせない存在になりつつあった。
そんなある日のこと。
「アタナシア、少しいいか」
帳簿を確認していたアタナシアに、ベンノが声をかけた。
「はい、ベンノさん。何でしょう?」
「お前をローゼマイン様に紹介しておこうと思ってな」
アタナシアの手が、ぴたりと止まった。
「ローゼマイン様に、ですか?」
「ああ。お前がここに来て、もう三週間だ。仕事も随分覚えたし、今じゃ商会の連中もお前を頼りにしている。期待の新人として、一度ご挨拶しておくのがいいだろう」
ベンノは何でもないことのように言った。
「ローゼマイン様が貴族院に戻られるまで、あと一週間ほどしかないからな。会えるうちに会っておけ」
「……そう、ですね」
アタナシアは笑顔を作った。
けれど、胸の奥では別のことを考えていた。
貴族院。
自分も、いずれはそこへ行かなければならない。
貴族として生まれた以上、貴族院を卒業し、貴族として認められなければならないのだ。
もちろん、貴族院へ行くこと自体が嫌なわけではない。
ただ、そこへ行けば、今の生活は変わってしまう。
ローゼマインの側近となり、文官として仕える道を選べば、ハルトムートやアンゲリカたちとも、再び顔を合わせることになるかもしれない。
けれど、もし貴族としての道を捨てればどうなるだろう。
商会で働き続けることはできるかもしれない。
ローゼマインとも、商会を通じて会えるかもしれない。
しかし、王族であるアナスタージウスとは、もう会えなくなる可能性が高い。
そして何より、家族として接することもできなくなる。
そこまで考えて、アタナシアは小さく息を吐いた。
――私は、一体どうしたいのだろう。
王族としての自分を取り戻したいのか。
それとも、今の生活を守りたいのか。
答えは簡単には出なかった。
なぜなら、今の彼女には、失いたくないものが多すぎたからだ。
ギルベルタ商会で過ごす時間は、想像していた以上に楽しかった。
ベンノは厳しいが、理不尽なことを言う人ではない。失敗すれば叱られるが、できるようになったことはきちんと認めてくれる。
マルクはいつも穏やかに仕事を教えてくれるし、店員たちも気さくに話しかけてくれる。
自分の考えが商品になり、それが誰かの役に立つ。
努力した分だけ、自分の居場所が広がっていく。
そんな毎日が、アタナシアにはたまらなく心地よかった。
ここでは、王族であることを考えなくてもいい。
誰かの妹であることも、誰かの娘であることも、ひとまず脇に置いておける。
ただのアタナシアとして、働いて、笑って、失敗して、少しずつ成長していける。
それが、どれほど得難いことなのか。
彼女は、今になってようやく理解し始めていた。
――私は、本当に懲りないな。
心の中で苦笑する。
一度、大切なものを失う怖さを知ったはずなのに。
もう二度と、あんな思いはしたくないと思ったはずなのに。
それなのに、また新しく失いたくないものを作ってしまった。
しかも、今度は一つや二つではない。
ギルベルタ商会そのものが、彼女にとって大切な場所になってしまったのだ。
アタナシアは、人たらしだった。
自分では特別なことをしているつもりはない。
困っている人がいれば声をかける。分からないことは素直に尋ねる。助けてもらえば、嬉しそうにお礼を言う。
そして、誰かが自分を頼ってくれたなら、できる限り応えようとする。
甘えることも、頼ることもできる。
けれど、一方的に頼りきりになるわけではない。
相手が困っていれば、今度は自分が手を差し伸べる。
その絶妙な距離感が、彼女の周囲に自然と人を集めてしまうのだった。
どんな環境に置かれても、気がつけば誰かと親しくなっている。
そして親しくなればなるほど、離れがたくなってしまう。
――だから、困るのよ。
アタナシアは帳簿に視線を戻した。
数字はきちんと並んでいる。
仕事は待ってくれない。
考えなければならないことは山ほどあるのに、頭の中は別の問題でいっぱいだった。
どうすれば、仲直りできるのだろう。
ふと、そんな考えが浮かんだ。
アナスタージウスの顔が脳裏をよぎる。
あの人と、きちんと話がしたい。
自分の気持ちを伝えたいし、相手の気持ちも知りたい。
けれど、今の自分がどのような立場に置かれているのか、アタナシアには分からなかった。
自分が王族だと知られているのか。
それとも、まだ誰にも知られていないのか。
知っている者がいるとして、それがどこまで広がっているのか。
何も分からない。
そんな状態で、ベンノに尋ねるわけにもいかなかった。
「ベンノさん。ところで、今のアタナシアって、周囲からどういう立場だと思われているんですか?」
――などと聞けば、不自然にもほどがある。
そもそも、ギルベルタ商会に来たばかりの自分が、突然そんなことを気にする理由がない。
王族の事情など、本来なら無関係な人間が首を突っ込む話ではないのだ。
アタナシアはペンを置き、頬杖をついた。
「……難しいなぁ」
「何がだ?」
突然、頭上から声が降ってきた。
「ひゃっ!」
慌てて顔を上げると、いつの間にかベンノが机の横に立っていた。
「仕事中にぼんやりするとは、随分余裕があるようだな?」
「ち、違います! ちゃんと考え事をしていたんです!」
「仕事以外のことをか?」
「うっ……」
痛いところを突かれ、アタナシアは言葉に詰まった。
ベンノは呆れたようにため息をつく。
「まあいい。お前が考え込むときは、大抵ろくでもないことを一人で抱え込んでいるときだからな」
「そんなことありませんよ?」
「三週間一緒に働けば、それくらい分かる」
あまりにもあっさり言われて、アタナシアは目を瞬かせた。
ベンノは彼女の机に置かれた帳簿を指で叩く。
「仕事に支障が出ないなら、今すぐ聞くつもりはない。だが、困ったことがあるなら相談しろ。お前はまだ新人なんだからな」
「……はい」
返事をしながら、アタナシアは少しだけ胸が痛くなった。
優しい。
ベンノは、思っていた以上に自分を気にかけてくれている。
だからこそ、何も話せないことが申し訳なかった。
「それで、ローゼマイン様への挨拶だが、明後日にする。予定を空けておけ」
「明後日、ですか?」
「ああ。お前を紹介したら、ローゼマイン様も喜ぶだろう。あの方は新しいものが好きだからな」
その言葉に、アタナシアは思わず笑った。
「ふふっ。そうですね」
ローゼマイン。
会いたい。
でも、会うのが怖い。
彼女の前に立ったとき、自分はどんな顔をすればいいのだろう。
何も知らない新人として振る舞うのか。
それとも、かつてのように親しい相手として接するのか。
もし、ローゼマインがすべてを知っていたら。
もし、知らないふりをしていたら。
もし、何も知らなかったら。
考えれば考えるほど、分からなくなっていく。
それでも、アタナシアは一つだけ決めていた。
――逃げるのは、もうやめよう。
仲直りしたいのなら、いつかは向き合わなければならない。
今の自分に何ができるのかは分からない。
貴族院へ行くべきなのか、商会に残るべきなのか、その答えもまだ出ていない。
それでも、自分で選ばなければならないのだ。
誰かに決めてもらうのではなく。
アタナシアは再びペンを握った。
「よし。お仕事、頑張ろう!」
「声が大きい。集中しろ」
「はい!」
ベンノの叱責に、アタナシアは慌てて背筋を伸ばした。
その様子を見て、ベンノは小さく息を吐く。
まったく、騒がしい娘だ。
だが、不思議と目が離せない。
仕事ができるだけなら、優秀な新人はいくらでもいる。
しかし、アタナシアは違った。
彼女がいると、周囲の人間が自然と彼女を気にかけてしまう。
失敗すれば助けたくなるし、成功すれば自分のことのように嬉しくなる。
本人がそれを自覚しているのかは分からないが、商人としても、一人の人間としても、実に厄介な才能だった。
ベンノは知らない。
彼女が、何を失うことを恐れているのか。
何を取り戻そうとしているのか。
そして、彼女がいずれ貴族院へ向かわなければならない理由も。
ただ一つ、確かなことがある。
アタナシアは、この三週間でギルベルタ商会にとって、簡単には手放せない存在になっていた。
そして彼女自身もまた、気づき始めていた。
ここを離れることは、想像していたよりずっと難しいのだと。
失いたくないものが増えるたび、選ばなければならない道は狭くなっていく。
それでも、選ばなければならない日は、もうすぐそこまで来ていた。
『本好きの下剋上』二次創作
第四話 神殿に残された面影
神殿の執務室には、普段とは少し異なる緊張感が漂っていた。
その原因は、王族であるアナスタージウスがそこにいたことだけではない。
彼が、明らかに落ち着きを失っていたからだ。
もちろん、表向きの理由はきちんと用意されている。
神殿の運営状況を確認するための視察。ローゼマインが管理する施設や、神殿と下町の商人たちとの関係について調べるための訪問。
王族が神殿を訪れる以上、それ相応の手順を踏み、正式な名目を整える必要がある。今回は偵察という体面を取りながら、必要な許可も得ていた。
誰が見ても、不自然な訪問ではない。
ただし。
アナスタージウス本人に限って言えば、神殿の運営状況など、今は頭の片隅にもなかった。
彼の頭の中を占めているのは、ただ一人。
アーティだった。
彼女は今、どこにいるのだろう。
元気にしているだろうか。
自分のことを、どう思っているのだろう。
あの日から、何度考えても答えは出ない。
彼女を探したい。会って話したい。できることなら、以前のように何でもない話をして、彼女が笑う姿を見たい。
しかし、王族としての立場がある。
自分の感情だけで動くわけにはいかない。彼女の立場を考えずに接触すれば、かえって彼女を追い詰める可能性もあった。
だからこそ、アナスタージウスはローゼマインに会うことにした。
彼女もまた、アーティを大切に思っている。
自分と同じように、彼女の行方を案じているはずだ。
同じ人を心配する者同士、少しでも話をすれば気持ちが落ち着くかもしれない。
それに。
アーティが育った場所を、自分も知りたかった。
以前、彼女が神殿で過ごしていた頃の話を聞いたことがある。
下町での生活とは違う、神殿での日々。
そこで出会った人々。
彼女が笑った場所も、困った場所も、誰かと過ごした時間も。
彼女が話してくれた神殿を、自分の目で見てみたかった。
そんな理由を胸に秘めながら、アナスタージウスはローゼマインと向かい合っていた。
「それで、アーティは神殿では普段どこにいたのだ?」
ローゼマインは一瞬、目を瞬かせた。
「アーティ、ですか?」
「ああ。執務室以外にも、よく使っていた部屋があるのだろう?」
アナスタージウスは、できるだけ何気ない調子を装って尋ねた。
だが、彼の視線は真剣そのものだった。
ローゼマインはその様子を見て、ふっと表情を和らげた。
「そうですね。アーティは、わたくしの部屋にもよく来ていましたよ」
「お前の部屋に?」
「はい。わたくしが仕事をしていると、いつの間にか隣に座っていたり、書類を覗き込んできたりして。注意すると、ちゃんと手伝うからいいでしょう、なんて言うのです」
懐かしい。
口にした途端、記憶が鮮やかによみがえった。
アーティは、誰に対しても愛想がよかった。
けれど、ローゼマインの前では特に遠慮がなかった。
疲れたときには勝手に隣に座り、甘いものがあれば当然のように分けてもらい、ローゼマインが無理をしていると気づけば、何も言わずに休憩へ連れ出した。
二人で怒られることもあった。
そのたびに、アーティは悪びれもせず笑っていた。
――あの子は、今も笑っているかしら。
ローゼマインの胸が、きゅっと締めつけられた。
「それから、こちらの部屋にもよくいました。わたくしが神殿の仕事をしている間、暇だからと本を読んでいたり、フランに何かを尋ねたりしていましたね」
「フランに?」
「ええ。フランは、アーティにも随分と気を配ってくれていましたから」
アナスタージウスは、一つ一つの言葉を大切に聞いていた。
「その部屋は、今も使っているのか?」
「はい。もちろんです」
「……そうか」
それだけ答えて、彼は黙った。
今、自分が聞いているのは、ただの部屋の話だ。
それでも、アーティがそこにいたという事実だけで、知らない場所が少しだけ身近に感じられた。
彼女が過ごした椅子。
彼女が触れた机。
彼女が何気なく見上げた窓。
そんなものを知りたいと思う自分は、随分と未練がましいのだろう。
だが、やめられなかった。
「……ほかには?」
ローゼマインは、少しだけ目を細めた。
「アナスタージウス王子。もしかして、アーティがいた場所を全部知りたいのですか?」
「悪いか?」
思った以上に早く返事をしてしまった。
ローゼマインは驚いたように目を丸くし、それから小さく笑った。
「いいえ。悪くありませんよ」
彼女もまた、アーティに会いたかった。
だからこそ、アナスタージウスの気持ちがよく分かった。
会えないからこそ、彼女がいた場所を知りたくなる。
彼女が何を見て、何を考え、どんなふうに過ごしていたのか。
知ることができれば、ほんの少しだけでも、彼女の近くにいられる気がするのだ。
「では、あとで神殿の中をご案内いたしましょうか。アーティがよく過ごしていた場所も、お見せできますよ」
「……頼む」
アナスタージウスは、静かに頭を下げた。
その様子を、執務室の一角で見ていた者がいる。
文官として同席していたハルトムートだった。
彼は表情を崩さないよう、必死に耐えていた。
――妹に会いたい。
その一言が、頭の中を何度も巡っている。
今すぐ抱きしめたい。
頭を撫でて、元気だったかと尋ねたい。
食事はきちんと取っているのか。困ったことはないのか。誰かに嫌な思いをさせられていないか。
聞きたいことなら、いくらでもある。
しかし、ここにはローゼマイン様がいらっしゃる。
そして、アナスタージウス王子もいる。
文官として同席している以上、私情を表に出すわけにはいかなかった。
ハルトムートは静かに書類へ視線を落とした。
その口元が、ほんのわずかに引きつっている。
彼とて、アナスタージウスに負けないほど妹を大切に思っていた。
いや、妹を大切に思うあまり、時折その愛情が周囲を困惑させるほどになることもある。
アーティが元気にしていると分かれば安心できる。
だが、今はその確認すらできない。
彼女がどこで、誰と、どんな生活を送っているのか。
何も知らない。
――アーティ。
心の中で妹の名を呼ぶ。
どうか元気でいてほしい。
そう願う一方で、できることなら今すぐ自分のところへ戻ってきてほしいとも思っていた。
そのときだった。
「ローゼマイン様、失礼いたします」
扉の向こうから、ギルの声がした。
「何かしら?」
「フランと一緒に、報告に参りました」
「お入りなさい」
扉が開き、ギルとフランが入室する。
二人はそれぞれ礼を取ると、ローゼマインの前に進み出た。
「ギルベルタ商会から、ローゼマイン様への面会希望が出ております」
フランが丁寧に報告する。
「明日、面会のお時間を取り付けました」
「まあ!」
ローゼマインの顔がぱっと明るくなった。
「ベンノさんたちに会えるのですね?」
「はい。貴族院へお戻りになる前に、ぜひご挨拶したいとのことです」
「それは嬉しいです。皆さん、お元気かしら」
ローゼマインは思わず身を乗り出した。
貴族院へ戻れば、また忙しい日々が始まる。
ギルベルタ商会の人々とゆっくり話せる機会は、しばらくなくなるだろう。
だからこそ、出発前に会えるのはありがたかった。
しかし、喜びのあとに、小さな疑問が浮かんだ。
――でも、何の用事でしょう?
ギルベルタ商会と決めるべきことは、すでにほとんど決まっている。
新しい商品についても、商会との取り決めについても、今すぐ話し合わなければならない問題はなかったはずだ。
ベンノは、意味もなく面会を申し込むような人ではない。
もちろん、単に挨拶をしたいだけという可能性もある。
けれど、ローゼマインはベンノの性格をよく知っていた。
彼は商売に関係のないことでも、必要だと判断すれば行動する。
しかし、必要がなければ無駄な手間をかけない。
ならば、今回の面会には何か理由があるはずだ。
ローゼマインはフランに尋ねた。
「フラン。ベンノさんは、面会の理由について何かおっしゃっていましたか?」
「詳しいことは伺っておりません。ただ、新しく商会で働き始めた者を紹介したい、という話を耳にしております」
その瞬間、横からギルが口を挟んだ。
「アタナシアのことだと思います」
――アタナシア。
その名前が室内に響いた瞬間。
「何?」
アナスタージウスの声が、ひどく鋭くなった。
ローゼマインが振り返る。
ハルトムートも、思わず顔を上げた。
アナスタージウスは自分でも気づかないうちに椅子から身を乗り出していた。
「今、何と言った?」
ギルは突然の反応に目を丸くした。
「え? アタナシアですけど……」
「アタナシアが、ギルベルタ商会で働いているのか?」
「はい」
「いつからだ?」
矢継ぎ早の質問に、ギルは戸惑いながらも答えた。
「三週間くらい前だったと思います。突然、商会に来て、働かせてほしいって」
「三週間前……?」
アナスタージウスの顔から、血の気が引いた。
彼女は三週間もの間、商会で働いていた。
自分の知らない場所で。
自分の知らない人々に囲まれて。
そして、自分には何の知らせもなかった。
いや、知らせがないのは当然だ。
彼女が自分に連絡をする義務などない。
そう理解していても、胸の奥がひどく痛んだ。
「なぜ……」
思わず漏れた声に、ギルが首を傾げる。
「なぜ、ですか?」
「なぜ、アタナシアはギルベルタ商会で働いているのだ?」
ギルは少し考えてから答えた。
「ええと、前に仕えていた主のところを辞めたから、だったと思います」
「辞めた?」
「はい。下級貴族の側仕えをしていたらしいんですけど、主の家の経済状況が悪くなって、側仕えに給金を払う余裕がなくなったそうです。それで、辞めざるを得なかったとか」
アナスタージウスは黙り込んだ。
下級貴族の側仕え。
給金を払えなくなった主。
それだけを聞けば、あり得ない話ではない。
しかし、彼が知っているアーティと、その話がうまく結びつかなかった。
彼女は、なぜそのような場所にいたのだろう。
なぜ、自分に何も言わなかったのだろう。
いや、それ以前に。
彼女は今、自分のことをどう思っているのだろう。
「……それで、どうして商会を選んだ?」
アナスタージウスは、声を抑えながら尋ねた。
ギルは素直に答える。
「神殿はあまりいい思い出がないから、戻りたくなかったそうです。それで、貴族としての知識も活かせるギルベルタ商会なら働けると思ったんじゃないでしょうか」
その説明を聞いたローゼマインは、静かに目を伏せた。
アーティが神殿に戻りたくないと思う理由。
それを、彼女は想像できた。
神殿での生活が、すべて楽しかったわけではない。
辛いこともあった。思うようにいかないこともあった。
それでも、二人で過ごした時間は確かに存在する。
だからこそ、アーティが神殿を避けていると聞くと、胸の奥がちくりと痛んだ。
けれど、彼女には彼女の事情がある。
無理に戻ってきてほしいなどとは言えなかった。
一方、ハルトムートは、妹が下級貴族の側仕えをしていたという話に、内心で頭を抱えていた。
――なぜ私に相談してくれなかったのですか、アーティ!
もちろん、彼女が誰に仕えていたのかも、どのような事情があったのかも、今の話だけでは分からない。
だが、妹が困っていたのなら、自分に頼ってくれてもよかったではないか。
いや、頼れない事情があったのかもしれない。
そう考えると、ますます気になってしまう。
彼は文官としての平静を保ちながら、ギルの話を一言も聞き漏らさないようにしていた。
そして、アナスタージウスは、とうとう我慢できなくなった。
「ローゼマイン」
「はい、アナスタージウス王子」
「お前は……アタナシアが下町にいることを知っていたのか?」
ローゼマインの表情が、わずかに変わった。
「下町に、ですか?」
「ああ」
アナスタージウスの声は、先ほどまでとは違っていた。
怒っているのではない。
責めているのでもない。
ただ、必死だった。
「アタナシアがギルベルタ商会で働いているということは、少なくとも下町で生活しているということだろう。お前は、彼女の居場所について調べていたのではないのか?」
ローゼマインは、すぐには答えなかった。
彼の問いの意味を考えていたからだ。
アナスタージウスは、アーティが下町にいる可能性を知っている。
しかし、それは今、ギルの話から推測したにすぎない。
では、彼はどこまで知っているのだろう。
アーティが何者なのか。
彼女がどのような事情を抱えているのか。
そして、なぜ彼女が今、ギルベルタ商会にいるのか。
ローゼマインは慎重に言葉を選んだ。
「わたくしも、彼女が今どこで暮らしているのか、詳しいことまでは存じませんでした」
「そうか……」
アナスタージウスは、深く息を吐いた。
知っていて黙っていたわけではない。
それだけは分かった。
しかし、安心するにはまだ早かった。
彼は改めてローゼマインを見つめる。
「ならば、頼みがある」
「何でしょう?」
「明日の面会に、私も同席させてほしい」
室内が静まり返った。
ギルは目を丸くし、フランは思わずローゼマインへ視線を向けた。
王族が商会との面会に同席する。
それ自体が不可能というわけではない。
しかし、理由もなく認められる話ではなかった。
ローゼマインは、アナスタージウスの目を見た。
そこにあるのは、王族としての好奇心ではない。
一人の人間として、アーティに会いたいという切実な願いだった。
「……アナスタージウス王子」
ローゼマインは静かに尋ねた。
「アーティに、会いたいのですね?」
アナスタージウスは、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
そして、隠すことを諦めたように答えた。
「そうだ」
短い言葉だった。
けれど、その一言に、三週間分の焦燥が詰まっていた。
「私は、彼女がどこにいるのかも分からなかった。何をしているのかも、元気にしているのかも分からなかった」
彼は拳を握りしめた。
「ようやく手がかりが見つかったのだ。ここで何もしないまま、また機会を失うわけにはいかない」
ローゼマインは、彼の気持ちを理解していた。
自分も、同じだったからだ。
アーティが今、どんな顔で暮らしているのか知りたい。
笑っているのか。
無理をしていないか。
誰かに頼ることができているのか。
そして、いつかまた、二人で何でもない話をできる日が来るのだろうか。
「……分かりました」
ローゼマインは、ゆっくりとうなずいた。
「ただし、ベンノさんたちとの面会です。商会側の意向も確認する必要があります。わたくしだけの判断で決めることはできません」
「承知している」
アナスタージウスは即座に答えた。
「正式な手順を踏む。相手に迷惑をかけるつもりはない」
「では、明日、確認いたしましょう」
ローゼマインは微笑んだ。
その笑顔には、わずかな寂しさが混じっていた。
明日、アーティに会えるかもしれない。
そう思うだけで、胸が温かくなる。
けれど同時に、不安もあった。
アーティは、今の自分たちに会いたいと思っているのだろうか。
もし会いたくないと思っていたら。
もし、もう以前のようには接することができないのだとしたら。
それでも、会いたいと思ってしまう。
その気持ちは、きっとアナスタージウスと同じだった。
そしてハルトムートもまた、静かに決意していた。
明日、アーティが来る。
そうであれば、今度こそ妹の顔を見たい。
できることなら、誰にも邪魔されずに話がしたい。
もちろん、ローゼマイン様の側近としての立場は忘れない。
だが、妹に会いたいという気持ちまで、消せるはずがなかった。
明日の面会は、単なる商会との挨拶ではなくなりつつあった。
そこに集まろうとしているのは、アーティを大切に思う人々。
そして、彼女自身が、今の自分の居場所と過去のつながりをどう受け止めるのか。
それを知る者は、まだ誰もいなかった。
第五話 明日、彼女に会えるのか
「ローゼマイン。もう一つ聞きたいことがある」
「はい」
アナスタージウスは、先ほどの話を頭の中で整理するように、しばらく黙っていた。
三週間前、突然ギルベルタ商会に現れたアタナシア。
下級貴族の側仕えを辞め、神殿に戻ることも望まず、商会で働き始めた。
その話だけなら、事情を抱えた一人の貴族が新しい仕事を見つけたというだけだ。
だが、アナスタージウスにとって、アタナシアはそれほど単純な存在ではない。
「お前は、アタナシアを探すために下町を調べたのか?」
ローゼマインは、少し考えてから答えた。
「いいえ。少なくとも、アタナシアを探す目的で下町を調べたことはありません」
「……そうか」
「わたくしも、彼女が今どこにいるのか、知りたいと思っていました。ただ、彼女が自分の意思で距離を置いている可能性もあります。無理に探し出すことが、必ずしも彼女のためになるとは限りませんから」
アナスタージウスは唇を引き結んだ。
正論だった。
彼女が望んで距離を置いているのなら、探し出して連れ戻すような真似はできない。
しかし、アタナシアが本当に望んでいることが分からない以上、何もしないことが正しいとも言い切れなかった。
「では、今回の面会は偶然なのだな」
「ええ。ベンノさんがアタナシアを紹介したいと考え、面会を申し込んだのでしょう」
「……そうか」
再び、沈黙が落ちた。
アナスタージウスは視線を落としたまま、考え込んでいた。
明日。
明日になれば、アタナシアに会えるかもしれない。
だが、彼女が本当に面会に来るかどうかは分からない。
商会の新人として紹介されるのであれば、彼女は仕事の一環としてやって来るだけかもしれない。
そこに自分がいると知ったら、彼女はどうするだろう。
驚くだろうか。
怒るだろうか。
それとも、何事もなかったかのように、貴族として礼儀正しく挨拶をするのだろうか。
最後の可能性を考えたとき、アナスタージウスの胸が苦しくなった。
以前のように話したい。
王族としてではなく、ただの自分として。
彼女に名前を呼んでほしい。
できることなら、以前のように笑ってほしい。
しかし、そんな願いを口にする資格が自分にあるのか、彼には分からなかった。
「……ローゼマイン」
「はい」
「もし、明日アタナシアが来たとして。私が同席することで、彼女に負担をかけると思うか?」
ローゼマインは、すぐには答えなかった。
アナスタージウスが本気で彼女のことを案じているのが分かったからだ。
「それは、アーティ本人にしか分からないと思います」
「そうだな」
「ただ、王族であるアナスタージウス王子が突然いらっしゃれば、驚くことはあるでしょうね」
「……やはり、そうか」
「ですから、もし同席されるのであれば、彼女が困らないように配慮していただきたいのです」
ローゼマインは、まっすぐに彼を見つめた。
「アーティは、今、ギルベルタ商会で働いています。彼女には彼女の生活があり、仕事があり、築いてきた人間関係があります。そこを忘れないでください」
アナスタージウスは、静かにうなずいた。
「分かっている」
そう答えながらも、彼の心は落ち着かなかった。
分かっている。
彼女の生活を壊したいわけではない。
ただ、彼女に会いたいのだ。
そして、できることなら、もう一度話がしたい。
それだけだった。
そのとき、ずっと黙っていたハルトムートが口を開いた。
「ローゼマイン様。明日の面会についてですが、私も同席してよろしいでしょうか」
ローゼマインは意外そうに彼を見た。
「ハルトムートもですか?」
「はい。ギルベルタ商会との面会であれば、文官として同席することに問題はないかと存じます」
実にもっともらしい理由だった。
実際、文官として必要な確認事項があるのなら、同席することに何の問題もない。
ただし。
ハルトムートには、別の理由もあった。
――妹に会いたい。
その一心だった。
しかも、アナスタージウスが同席するとなれば、なおさら目を離すわけにはいかない。
妹がどのような立場で現れるのか。
アナスタージウスが彼女にどう接するのか。
そして、彼女自身が何を望んでいるのか。
すべてを見届けたかった。
「そうですね。ハルトムートが同席してくれるのであれば、わたくしも助かります」
「ありがとうございます」
ハルトムートは、完璧な礼を取った。
その表情は、いつもと変わらない。
しかし、内心ではすでに明日の面会について、何度も何度も想像を巡らせていた。
妹は、元気にしているだろうか。
以前より背が伸びているかもしれない。
髪型が変わっているかもしれない。
仕事をしているのなら、手が荒れていないだろうか。
食事はきちんと取っているだろうか。
考えれば考えるほど、心配が増えていく。
――ああ、早く会いたい。
ハルトムートは、普段の冷静さを保つために、手元の書類へ視線を落とした。
その隣では、アナスタージウスが静かに明日のことを考えている。
そしてローゼマインもまた、久しぶりに会えるかもしれない友人のことを思っていた。
三人とも、アーティに会いたい。
けれど、それぞれが望んでいる再会の形は、きっと同じではない。
アナスタージウスは、彼女と仲直りしたい。
ハルトムートは、妹を抱きしめて、これまでのことを聞きたい。
ローゼマインは、以前のように二人で笑い合いたい。
では、アタナシアはどうなのだろう。
彼女は今、何を望んでいるのだろう。
その答えを知るためには、本人に会うしかない。
「……明日、ですね」
ローゼマインが、小さくつぶやいた。
「ええ。明日です」
アナスタージウスが答える。
その声には、期待と不安が入り混じっていた。
神殿の窓から、午後の光が差し込んでいる。
かつてアーティが過ごした場所。
彼女が笑い、誰かに甘え、ときには誰かを励ましていた場所。
そこにいる者たちは、まだ知らない。
明日、ギルベルタ商会からやって来る一人の新人が、自分たちの心をどれほど揺さぶることになるのかを。
そして、その新人自身もまた、明日が自分にとってどんな一日になるのか、まだ知らなかった。
『本好きの下剋上』二次創作
第六話 あなたの妹と、私の兄
面会当日の朝。
「……アタナシア。お前、本当に下級貴族の側仕えだったんだろうな?」
ギルベルタ商会の一室で、ベンノは頭を抱えていた。
目の前には、今日の面会のために用意した服を着たアタナシアがいる。
茶色の髪はきれいに整えられ、トゥーリから贈られた髪飾りが控えめに彩りを添えていた。ベンノの妹にも手伝ってもらい、普段よりずっと丁寧に身支度を整えたのである。
服そのものは、平民の商人が着ても不自然ではないものだった。
派手な装飾はない。生地も必要以上に高価なものではない。
それなのに。
「そうだと言っているじゃないですか」
アタナシアは淡々と答えた。
「お前なぁ……」
ベンノはもう一度、頭を抱えた。
彼女の姿は、どこからどう見ても茶髪に穏やかな緑の目をした、ごくありふれた平民の娘だった。
この街で暮らしていても、決して珍しくはない容姿である。
それなのに、どうしてこうも貴族らしく見えるのだろう。
背筋の伸び方。
人の話を聞くときの視線。
言葉を選ぶ間の取り方。
そして、誰かに呼びかけられたとき、自然と相手に向ける穏やかな微笑み。
どれも本人にとっては当たり前のことらしい。
しかし、ベンノの目には、どう見ても貴族として育てられた人間の所作にしか見えなかった。
「お前、普段はもう少し気を抜いていただろうが」
「そうですか?」
「そうだよ!」
「面会ですから、きちんとしようと思っただけです」
「それが問題なんだ!」
アタナシアは首を傾げた。
何が問題なのか、本気で分かっていない顔だった。
それを見て、ベンノはますます頭が痛くなった。
――本当に、どこの貴族の娘なんだ。
もちろん、本人は下級貴族の側仕えだったと説明している。
給金が払われなくなり、仕事を辞めた。
神殿に戻るのも嫌だったため、貴族としての知識を活かせるギルベルタ商会に来た。
話としては筋が通っている。
だが、時折見せる振る舞いが、どうにも普通の下級貴族の側仕えという説明と噛み合わない。
それでも、ベンノはそれ以上追及しなかった。
本人が話したくない事情もあるだろう。
仕事ができ、商会の仲間たちとうまくやっている以上、無理に過去を掘り返す必要はない。
それに、今さら手放すつもりもなかった。
「……まあいい。今日は余計なことを考えず、俺の紹介に合わせて挨拶しろ」
「はい、ベンノさん」
「ローゼマイン様の前だからといって、変に緊張する必要はないぞ」
「分かっています」
「本当か?」
「本当です」
「……ならいい」
ベンノは納得しきれない顔で息を吐いた。
その横で、トゥーリがアタナシアの髪飾りを最後に整えた。
「うん、できた。アタナシア、これなら大丈夫だよ」
「ありがとうございます、トゥーリ」
「どういたしまして。せっかくローゼマイン様に会うんだから、きれいにしていかないとね」
トゥーリは嬉しそうに笑った。
アタナシアも笑顔を返す。
その何気ないやり取りに、胸の奥が少しだけ温かくなった。
トゥーリも、ベンノも、商会のみんなも。
いつの間にか、こんなにも大切な人たちになっていた。
――失いたくないな。
ふと、そんな思いが浮かぶ。
しかし、アタナシアはすぐにその考えを追い払った。
今日は、ローゼマインに挨拶をするだけだ。
何かが変わると決まったわけではない。
誰かに正体が知られているとも限らない。
余計なことを考えても仕方がなかった。
「それじゃあ、行くぞ」
「はい」
ベンノに続いて、アタナシアは歩き出した。
もう、運命に流されよう。
今の自分にできることをして、その先に何が待っているのかは、実際に目にしてから考えればいい。
そう決めていた。
少なくとも、このときまでは。
神殿へ向かう道は、懐かしいものだった。
見慣れた街並み。
石畳の道。
行き交う人々の声。
かつて何度も歩いた道を、アタナシアはベンノの隣で進んでいた。
「アタナシア、どうした?」
「いいえ。少し懐かしいなと思っただけです」
「神殿には来たことがあるのか?」
「……ええ、まあ」
ベンノはちらりと彼女を見た。
それ以上は何も尋ねなかった。
やがて神殿の建物が見えてくる。
アタナシアの足取りが、ほんの少しだけ遅くなった。
この場所には、いろいろな記憶がある。
楽しかったことも。
苦しかったことも。
大切な人たちと過ごした時間も。
そして、もう戻れないと思っていた日々も。
門をくぐり、案内に従って進む。
廊下を歩くたび、懐かしさが胸に広がっていく。
――この角を曲がれば、あの部屋。
――この先には、あの人がよく使っていた場所がある。
覚えている。
忘れたことなど、一つもなかった。
けれど、アタナシアは何も口にしなかった。
ただ、ベンノの後ろを歩いた。
やがて、目的の部屋の前に着いた。
中から声が聞こえる。
「ベンノさんたちは、もう到着したのでしょうか?」
ローゼマインの声だった。
その瞬間、アタナシアの胸が大きく揺れた。
懐かしい。
どうしようもなく、懐かしい声だった。
「ローゼマイン様、到着されたようです」
フランの声が続く。
「では、お通ししてください」
扉が開く。
ベンノが先に入り、アタナシアもその後に続いた。
室内に足を踏み入れた瞬間、彼女は反射的に膝をついた。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。ギルベルタ商会で働いております、アタナシアと申します」
礼儀正しく、よどみのない挨拶。
頭を下げたまま、顔は上げない。
緊張していた。
それも、普段の仕事では感じたことのない種類の緊張だった。
ローゼマインの顔を見たい。
けれど、見られない。
目を合わせてしまったら、何かが崩れてしまう気がした。
部屋の中に誰がいるのかさえ、きちんと把握できていなかった。
「顔を上げてください」
懐かしい声が、優しく告げる。
アタナシアはゆっくりと顔を上げた。
そして。
その瞬間、理解した。
ローゼマインの隣にいる人。
少し離れた場所に立つ文官。
こちらを見つめる、よく知っている気配。
――ああ。
アタナシアの心が、静かに答えを出した。
私は、この人たちのもとへ帰る運命なのだ。
逃げようとしても、忘れようとしても、結局はここにたどり着く。
大切な人たちを失いたくないと願いながら、彼らと向き合うことを恐れていた。
しかし、今、目の前にいる。
自分が会いたかった人たちが。
それなのに、どうしてだろう。
嬉しいはずなのに、胸が痛い。
泣きそうなのに、笑いたい。
そんな矛盾した感情を抱えたまま、アタナシアは立ち上がった。
「こちらが、先日お話ししていた新人のアタナシアです。まだ働き始めて三週間ほどですが、非常に優秀でしてね。今後、商会を支えてくれる人材になると期待しています」
ベンノが紹介する。
「まあ、そうなのですね」
ローゼマインは微笑んだ。
「ギルベルタ商会で働くのなら、これからお世話になることも多いでしょう。よろしくお願いしますね、アタナシア」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
アタナシアは、きちんと頭を下げた。
その反応は、どこから見ても普通だった。
ローゼマインも、ハルトムートも、そして部屋にいるほかの者たちも、表面上は落ち着いている。
――気づかれていないのかもしれない。
そんな考えが、ほんのわずかな安堵をもたらした。
もちろん、それは安堵と呼ぶには複雑すぎる感情だった。
気づかれていないなら、今までの生活を続けられるかもしれない。
しかし、気づいてほしいと思う気持ちも、確かにあった。
自分が誰なのか。
何を失ったのか。
そして、どれほど会いたかったのか。
本当は、知ってほしかった。
そのときだった。
「……アタナシア、と言ったか?」
聞き慣れた声が、室内に響いた。
アタナシアの指先が、わずかに動く。
その声を忘れるはずがなかった。
彼女は、ゆっくりと視線を向けた。
アナスタージウス王子が、こちらを見つめていた。
「はい。アタナシアと申します」
アタナシアは、穏やかに答えた。
アナスタージウスは、しばらく彼女を見つめていた。
その目に、いくつもの感情が浮かんでは消える。
驚き。
懐かしさ。
そして、どうしようもない寂しさ。
しかし、彼は彼女に正体を問いたださなかった。
代わりに、静かに口を開いた。
「……私には、妹がいた」
室内の空気が変わった。
ローゼマインが目を瞬かせる。
ハルトムートも、わずかに眉を動かした。
ギルは隣のフランと顔を見合わせた。
誰もが、アナスタージウスが何を言い出したのか理解できなかった。
彼は、アタナシアの正体を確かめるために質問するのではないのか。
いつから商会で働いているのか。
誰に仕えていたのか。
どこで生まれ、どのような事情を抱えているのか。
そうしたことを尋ねるのだと思っていた。
ところが、彼は自分の妹について語り始めたのだ。
「洗礼式を受けることもできなかった、幼い妹だ」
アナスタージウスは、静かに続けた。
「……其方と同じ名前を持つ妹だった」
アタナシアの胸が、ぎゅっと締めつけられた。
同じ名前。
それは、偶然なのだろうか。
それとも。
「最初は、ただ煩わしい存在だと思っていた」
アナスタージウスの声は、驚くほど穏やかだった。
「小さく、何も知らず、こちらの都合も考えずに話しかけてくる。私が忙しくしていても、構わずに自分の話を始める。注意すれば、しばらくは大人しくするが、すぐにまた話しかけてくる」
彼は、わずかに目を細めた。
「それなのに、私が返事をすると、まるで世界で一番嬉しいことでもあったかのように笑うのだ」
その声に、かすかな笑みが混じった。
「こちらが何かをしてやれば、素直に喜ぶ。褒めれば、誇らしげな顔をする。私が困っているときには、幼いなりに何とか力になろうとする」
アタナシアは、動けなかった。
それは、彼女の知っている兄の声だった。
不器用で、素直ではなくて。
それでも、いつだって自分を見てくれていた兄。
「いつからだったのだろうな」
アナスタージウスは、少しだけ視線を落とした。
「気づけば、あの子が笑っているだけで安心するようになっていた。何かを求められれば、仕方がないと思いながらも応えてやりたくなった。あの子が嬉しそうにしていると、自分まで嬉しくなった」
彼は、ゆっくりと息を吐いた。
「……私にとって、あの子は、何よりも愛おしい存在になっていた」
誰も口を挟まなかった。
「命より大切だと、そう思っていた」
その言葉に、ローゼマインはそっと目を伏せた。
アナスタージウスがどれほど妹を愛していたのか。
今の言葉だけで、十分に伝わってきた。
「だが、あの子はいなくなった」
アナスタージウスの声が、ほんの少しだけ震えた。
「ある日、突然。私がどれほど探しても、どれほど願っても、戻ってこなかった」
彼は拳を握りしめた。
「私は、あの子を守れなかった」
その言葉は、あまりにも重かった。
「何もできなかった。あの子がいなくなって初めて、私は、自分がどれほどあの子に頼っていたのかを知った」
アタナシアは、息をすることさえ忘れていた。
兄が、自分のことをそんなふうに思っていたなんて。
知らなかった。
知りたかった。
そして、ずっと聞きたかった。
それでも、彼女はまだ何も言えなかった。
なぜなら、彼が語っているのは、亡き妹の話だからだ。
目の前にいる自分ではなく、もう会えないと思っている妹の話。
アナスタージウスは、ゆっくりと顔を上げた。
「……だから、君の名前を聞いて、どうしても話したくなった。同じ名前を持つ人に出会ったのは初めてだったからな」
彼はアタナシアを見つめた。
「すまない。突然、関係のない話をしてしまった」
「いいえ……」
アタナシアは、かすかに首を振った。
「大切な妹さんだったのですね」
ローゼマインが、静かに言った。
「アナスタージウス王子が、これほどまでに妹君のお話をされるのですもの。きっと、とても大切な方だったのでしょう」
「……ああ」
アナスタージウスはうなずいた。
ローゼマインは、彼の気持ちを受け止めるように微笑んだ。
そして、話を一区切りつけようとした。
「同じ名前というのは、不思議なご縁ですね。きっと、妹君も……」
「……私の兄も、不器用な人でした」
ローゼマインの言葉を遮る。
アナスタージウスの表情が、わずかに変わった。
アタナシアは、穏やかな声で続けた。
「優しい言葉をかけるのが苦手で、自分の気持ちを伝えるのも、あまり上手ではありませんでした。私が話しかけても、面倒そうな顔をすることもありましたし、何を考えているのか分からないこともありました」
彼女は、小さく笑った。
「でも、その不器用さは、優しさから来るものだったのだと思います」
アナスタージウスは、何も言わなかった。
ただ、彼女の声を聞いていた。
「洗礼式を受ける前の私は、頼れる人がほとんどいませんでした。何を信じればいいのかも、誰を頼ればいいのかも、分からないことばかりでした」
アタナシアの声は、どこまでも穏やかだった。
貴族院で、かつて二人でお茶会をしていた頃のように。
「そんな私にとって、兄は、とても大きな存在だったのです」
彼女は一度、目を伏せた。
「兄がそこにいてくれる。それだけで、私は安心できました。何かあっても、きっと大丈夫だと思えたのです」
その言葉に、アナスタージウスの指先がぴくりと動いた。
「……ある日、私は攫われました」
室内の空気が、凍りついた。
ローゼマインが息を呑む。
ハルトムートは、思わず一歩前に出かけた。
アタナシアは、誰の反応にも気づかないかのように、話を続けた。
「怖かったです。どうしてこんなことになったのか分からなくて、何をすればいいのかも分からなくて。それでも、私はずっと信じていました」
彼女は、まっすぐにアナスタージウスを見た。
「兄が、きっと助けに来てくれると」
アナスタージウスの顔から、表情が消えた。
「兄なら、私を見つけてくれる。私がどこにいても、きっと見つけてくれる。そう信じていました」
アタナシアは、静かに微笑んだ。
「でも、兄は来ませんでした」
誰も、言葉を発することができなかった。
「待っても、待っても、来てくれませんでした。私は……」
そこで初めて、彼女の声がわずかに揺れた。
「とても、絶望しました」
アナスタージウスは、彼女を見つめたまま動かなかった。
「兄が悪いわけではないと、頭では分かっていました。きっと、何か事情があったのだろうと。兄だって、私を助けようとしてくれていたのかもしれないと」
アタナシアは、ほんの少しだけ笑った。
けれど、その笑顔はひどく寂しかった。
「それでも、私は兄を恨んでしまいました」
その瞬間。
アナスタージウスの目が、大きく見開かれた。
アタナシアは、もう彼から目をそらさなかった。
「助けに来てほしかったのです。兄に会いたかったのです。何もできなくても、ただ、兄が来てくれると信じていたかった」
彼女は、ゆっくりと息を吸った。
「だから、来てくれなかったことが、悲しかった。どうして来てくれなかったのだろうと、何度も考えました。兄が悪くないと分かっていても、どうしても納得できなかったのです」
アナスタージウスの唇が、かすかに震えた。
彼は、今になってようやく気づき始めていた。
目の前にいる少女が語っているのは、単なる思い出話ではない。
自分の妹の話と、あまりにもよく似ている。
不器用な兄。
洗礼式を受ける前の妹。
兄を信じていたこと。
助けを待っていたこと。
そして、助けが来なかった絶望。
偶然にしては、あまりにも重なりすぎていた。
ローゼマインも、同じことに気づいていた。
アタナシアが話している間、彼女は何度も口を開きかけた。
しかし、言葉が出てこなかった。
ハルトムートに至っては、もはや文官としての平静を保つことだけで精一杯だった。
――妹なのではないか。
その疑念が、確信へと変わりつつあった。
ギルとフランは、何が起きているのか分からず、ただ二人の会話を見守っていた。
アナスタージウスは、ようやく声を絞り出した。
「……君の兄は」
言葉が途切れる。
何を聞けばいいのか分からなかった。
名前を聞くべきなのか。
いつの話なのかを聞くべきなのか。
それとも、もっと別のことを。
しかし、彼が次の言葉を見つけるより先に、アタナシアが静かに口を開いた。
「でも、私は今でも、兄のことが大好きです」
その言葉は、あまりにもまっすぐだった。
「不器用で、心配性で、時々何を考えているのか分からなくて。それでも、私にとっては、かけがえのない兄でした」
アタナシアは、目の前の人を見つめ続けた。
「だから、本当は……もう一度、ちゃんと話がしたかったのです」
その瞬間、アナスタージウスの中で、何かが音を立てて崩れた。
彼女の声。
表情。
言葉の選び方。
そして、今、自分を見つめる瞳。
すべてが、懐かしかった。
何度も夢に見た。
もう一度会いたいと願った。
失ってからずっと、胸の奥にしまい込んできた。
――アーティ。
名前を呼びたい。
今すぐにでも、そう呼びたい。
しかし、彼はまだ声を出せなかった。
目の前の少女が、本当に自分の妹なのだと。
そう確信してしまうことが、怖かった。
もし違っていたら。
もし、自分の願望が作り出した思い込みだったら。
それでも、彼女の話を聞いてしまった今、もう何も知らないふりには戻れなかった。
ローゼマインは、二人を交互に見つめた。
アナスタージウスが語った妹。
アタナシアが語った兄。
それぞれが、相手のことを思いながら、長い間、会えずにいた。
そして今、二人は同じ部屋にいる。
名前も、過去も、立場も。
すべてを確かめるための言葉は、まだ誰の口からも出ていない。
けれど、もう誰もが察し始めていた。
目の前にいるのは、ただ名前が同じだけの新人ではないのかもしれない。
アナスタージウスが、ようやく顔を上げた。
「……アタナシア」
今度は、問いかけではなかった。
彼は、彼女の名前を呼んだ。
まるで、失った時間を一つずつ確かめるように。
アタナシアの表情が、わずかに揺れた。
そして、彼女は静かに答えた。
「はい、アナスタージウス王子」
その返事を聞いた瞬間、アナスタージウスは目を閉じた。
まだ、何も解決していない。
彼女が本当に妹なのか、正式に確認されたわけでもない。
これからどうなるのかも、分からない。
それでも。
彼女は、ここにいる。
自分の目の前に。
それだけで、彼はもう、以前のように平静ではいられなかった。
『本好きの下剋上』二次創作
第七話 どんな姿になっても、私の妹
アナスタージウスは、目の前の少女から目を離せずにいた。
アタナシア。
その名前を持つ少女。
自分の妹と同じ名前を持ち、自分の妹と同じように、不器用な兄への愛情を語る少女。
偶然だと片づけるには、あまりにも多くのものが重なっていた。
けれど、アナスタージウスは、まだ問いただせずにいた。
もし本当に妹なら、なぜ自分のもとへ帰ってこなかったのか。
なぜ、何も言わずに姿を消したのか。
そして、今までどれほどの苦しみを一人で抱えてきたのか。
聞きたいことは山ほどある。
しかし、それ以上に、聞くのが怖かった。
彼女が自分を恨んでいるかもしれない。
もう兄だと思っていないかもしれない。
自分の知らないところで、すっかり変わってしまったのかもしれない。
そんな考えが、胸の奥を締めつける。
そのときだった。
アタナシアが、ゆっくりと息を吸った。
一度、深く。
そして、彼女はまっすぐにアナスタージウスを見つめた。
「……アナスタージウス王子」
「ああ」
「一つ、聞いてもよろしいでしょうか」
「構わない」
アタナシアの唇が、わずかに震えた。
それでも、彼女は尋ねた。
「今でも、妹を愛していますか?」
室内が静まり返った。
誰もが、彼女の言葉に耳を傾けた。
アタナシウスは、すぐには答えなかった。
ただ、彼女を見つめていた。
アタナシアは、泣きそうな顔で続けた。
「幼い頃と、変わってしまっていても?」
声が揺れる。
「昔のように、何でも素直に話せなくなっていても。変わってしまう環境が怖くて、何もかもから逃げ出してしまうような、仕方のない妹でも?」
ぽろり、と涙がこぼれた。
それでも、彼女は止まらなかった。
「昔のトラウマのせいで、貴族の方々とうまくお話しすることができなくても。場所を弁えず、感情を抑えられなくなってしまっていても……」
声が、かすれた。
「そんな妹に変わってしまっていても、愛せますか?」
最後の言葉は、ほとんど懇願だった。
アタナシアは、もう笑っていなかった。
商会で見せる、穏やかな笑顔も。
初対面の相手に向ける、礼儀正しい微笑みも。
人に心配をかけないように振る舞う、いつもの顔も。
今は、どこにもなかった。
ただ、兄の答えを恐れる一人の妹がいた。
自分が変わってしまったことを知っている。
以前の自分に戻れないことも、分かっている。
そして、兄が愛してくれたのは、昔の自分なのではないかと。
そんな不安を、ずっと抱えていた。
アナスタージウスは、彼女の涙を見つめた。
胸が痛かった。
どうして、こんなことを尋ねさせてしまったのだろう。
どうして、妹に、自分が愛される資格を確かめさせなければならないのだろう。
彼はゆっくりと表情を和らげた。
それは、王族としての威厳を示す顔ではなかった。
幼い妹が失敗して落ち込んだとき。
何かを怖がって、自分の後ろに隠れたとき。
それでも自分の言葉を信じ、顔を上げてくれたとき。
そんな妹を見守っていた、兄の顔だった。
「……アーティ」
その名を口にした瞬間、アタナシアの肩が震えた。
「私はな」
アナスタージウスは、穏やかに語りかけた。
「お前が世界を恨み、世界を壊そうとする存在になったとしても、それでもお前を愛せる自信がある」
ローゼマインが息を呑んだ。
ハルトムートは、目を見開いたまま動かなかった。
アナスタージウスは、誰の反応にも構わず、妹だけを見つめていた。
「世間が間違いだと決めつける物事を、お前が正しいと言うのなら、私はまず、お前がなぜそう思うのかを知りたい。お前が見ているものを、私も見たいと思うだろう」
彼は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「もちろん、私がお前のすべてに賛成できるとは限らない。お前が間違っていると思えば、そう伝えることもあるだろう。兄として、お前を止めなければならないときもあるかもしれない」
そこで、彼はほんの少し笑った。
「だが、それとお前を愛しているかどうかは、別の話だ」
アタナシアの目から、また涙がこぼれた。
「どんな姿になろうが、どんな性格に変わっていようが、私の妹であることは変わらないだろう」
アナスタージウスは、まるで幼い頃の妹に言い聞かせるように続けた。
「お前が以前のように笑えなくなったとしても。私に甘えられなくなったとしても。私のことを恨み、顔も見たくないと思うようになったとしても」
一瞬、彼の声が詰まった。
それでも、彼は言った。
「私は、お前の兄だ。其方が私を兄として愛してくれなくなったとしても、私がお前を妹として愛することまで、やめるつもりはない」
アタナシアは、唇を噛んだ。
「兄が妹を愛おしく思い、守ろうとすること。それは、兄としての責務だと私は思っている」
彼は、涙に濡れた妹の顔を見つめた。
「だから、アーティ。お前がどれほど変わってしまっていても、私の妹であることに変わりがないのなら、私にとっては何も変わらない」
その言葉を聞いた瞬間。
アタナシアは、とうとう顔を覆った。
声を押し殺そうとしても、涙は止まらなかった。
ずっと、聞きたかった。
ずっと、確かめたかった。
変わってしまった自分でも、愛してくれるのか。
以前のように振る舞えない自分でも、妹でいていいのか。
もう、昔のような自分には戻れない。
それでも。
それでも、兄は。
「……っ、にい、さま……」
かすかな声が、彼女の指の隙間からこぼれた。
アナスタージウスの表情が、切なげに揺れた。
その呼び方を、どれほど聞きたかっただろう。
何度も夢に見た。
もう一度、自分を兄と呼んでほしいと願った。
けれど、彼はまだ妹に手を伸ばさなかった。
彼女が今、どれほど勇気を振り絞ってここに立っているのか。
それを考えれば、こちらから一方的に距離を縮めるべきではないと思ったからだ。
だから、彼は静かに尋ねた。
「……アーティ」
妹が、ゆっくりと顔を上げる。
「今度は、私からも一つ聞かせてほしい」
彼は、穏やかな目で彼女を見つめた。
「お前は、私を愛してくれるか?」
アタナシアの目が、揺れた。
「私は、お前が最も助けを必要としていたときに、駆けつけることができなかった」
アナスタージウスの声には、深い悔恨があった。
「お前が私を信じて待っていたことも、助けが来ないことで絶望したことも、今になってようやく知った」
彼は、ゆっくりと息を吐いた。
「兄であるにもかかわらず、お前を守れなかった。大事なときにそばにいてやれなかった。これから先も、王族としての立場や責務のために、お前の望むときに必ず駆けつけられるとは限らない」
それは、彼自身が最も恐れていることだった。
愛している。
何よりも大切に思っている。
それなのに、守りたいと願ったときに、必ず守れるとは限らない。
兄としての責務を果たしたいと思っても、果たせないことがある。
その現実を、彼はすでに知っていた。
「そんな兄でも、お前は愛してくれるか?」
問いかけは、静かだった。
王族としての命令でもなければ、答えを強いる言葉でもない。
ただ、一人の兄が、妹に尋ねていた。
アタナシアは、涙を拭うことも忘れて、彼を見つめた。
そして。
迷うことなく答えた。
「はい」
あまりにも早い返事だった。
アナスタージウスが、わずかに目を見開く。
「妹は、兄に対して家族として愛し、尊敬し、頼り、ときには支えるのが責務です」
アタナシアは、泣きながらも、まっすぐに兄を見ていた。
「兄が兄であることが変わらない限り、私は愛しておりますよ」
その声は、涙に濡れていた。
それでも、少しも揺らいでいなかった。
「兄様が、私を助けられなかったことは知っています。あのとき、何があったのかも、私にはすべて分かりません。でも、兄様が私を愛していなかったから助けに来なかったのではないと……今は、そう信じています」
アナスタージウスの目に、光が浮かんだ。
「私だって、ずっと兄様に頼ってばかりではいられません。いつか、私が兄様を支えられるようになりたいと思っています」
彼女は、小さく笑った。
「だから、兄様。私がどれほど変わってしまっていても、兄様が私の兄であることが変わらないのなら、私にとっては何も変わりません」
アナスタージウスは、しばらく言葉を失っていた。
自分が先ほど伝えた言葉を、そのまま返されたようだった。
どんな姿になっても。
どんな性格に変わっても。
それでも、家族であることは変わらない。
二人は、同じことを考えていたのだ。
ただ、それを伝える機会がなかっただけだった。
「……そうか」
アナスタージウスは、かすれた声で答えた。
「そうか、アーティ……」
彼の顔から、王族としての厳格さが消えていた。
そこにいたのは、妹を失い、もう一度会いたいと願い続けた兄だった。
そして、今。
ようやく、その妹が目の前にいる。
「……帰ってきてくれたのだな」
その言葉に、アタナシアは再び涙をこぼした。
「……ただいま、兄様」
たった一言。
けれど、その一言を口にするまでに、二人はあまりにも長い時間を必要とした。
アナスタージウスは、ゆっくりと立ち上がった。
そして、妹の前で足を止める。
抱きしめたい。
今すぐにでも、腕の中に閉じ込めてしまいたい。
もう二度と離したくない。
けれど、彼は最後の一歩を踏み出せなかった。
妹が、今の自分をどう思っているのか。
本当に、以前のように触れられることを望んでいるのか。
それを確かめることを、忘れたくなかった。
だから、彼は静かに手を差し出した。
アタナシアは、その手を見つめた。
そして、迷うことなく、自分の手を重ねた。
アナスタージウスは、その小さな手を、壊れ物を扱うようにそっと握った。
「……もう、勝手にいなくなるな」
兄らしい、不器用な言葉だった。
アタナシアは、泣きながら笑った。
「努力します」
「努力ではなく、約束しろ」
「……はい。約束します、兄様」
その返事を聞いて、アナスタージウスはようやく笑った。
それは、三週間もの間、彼が一度も見せることのできなかった笑顔だった。
室内には、しばらく誰も言葉を発せない時間が流れていた。
ローゼマインは、両手を胸の前で握りしめていた。
目の前で起きたことが、まだ信じられなかった。
アタナシア。
ギルベルタ商会の新人として紹介された少女。
その彼女が、アナスタージウスの妹だった。
しかも、二人は互いのことを、ずっと大切に思い続けていた。
「……アーティ」
ローゼマインは、そっと名前を呼んだ。
アタナシアが振り返る。
その顔は涙で濡れていた。
けれど、ローゼマインを見た瞬間、いつものように笑おうとした。
「ローゼマイン様……」
その声を聞いて、ローゼマインの胸がいっぱいになった。
違う。
そんなふうに、よそよそしく呼ばなくてもいい。
そう言いたかった。
けれど、彼女が今、どれほどの勇気を振り絞ってここに立っているのか、ローゼマインには分かっていた。
だから、すぐには近づかなかった。
ただ、優しく微笑んだ。
「……おかえりなさい、アーティ」
その言葉に、アタナシアの顔がくしゃりと歪んだ。
また、涙があふれた。
そして、今度こそ、彼女は笑った。
「……ただいま、ローゼマイン」
ハルトムートは、その光景を見つめながら、静かに目を閉じた。
妹が帰ってきた。
それだけで、胸がいっぱいだった。
だが、同時に、彼は強く思った。
――今度こそ、妹を一人にしない。
それが、兄としての自分にできることだった。
一方、ベンノは、部屋の隅で完全に固まっていた。
王族の妹。
自分が三週間も雇っていた新人。
そして、今、目の前で王族と抱き合うように手を握り合っている少女。
「……おい」
誰に向けたのか分からない声が、低く漏れた。
「ちょっと待て」
しかし、誰も彼の声に気づかなかった。
アタナシアは、まだ涙を流していた。
アナスタージウスは、彼女の手を握ったまま、離そうとしなかった。
ローゼマインは、二人を見守っていた。
そしてハルトムートは、妹を抱きしめる機会を今か今かと待っていた。
ベンノは、もう一度頭を抱えた。
――俺は一体、何を雇ったんだ。
その疑問に答えられる者は、まだ誰もいなかった。
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第6話、読ませていただきました……! 「私の妹に変わってしまっていても、愛せますか?」というアタナシアの問いかけに、胸がぎゅっとなりました。変わってしまった自分を認めながらも、それでも兄に愛されたいと願う気持ちが痛いほど伝わってきて、不器用な再会の場面で涙がにじみました。ベンノが「俺は何を雇ったんだ」と頭を抱えるラストも思わず笑ってしまいました。続きがとても気になります……!