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都築七美
278
葉菜
54
もな
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翌朝、庭には昨夜の雨がまだあちこちに残っており、軒下から差し込む朝日は水を含んだ杉苔の表面へ細かな光を散らし、石灯籠の笠から落ちきらなかった雫は、風が枝を揺らすたび一滴ずつ白砂へ落ちて、小さな濃い染みを作っていた。
水路も普段より僅かに水嵩を増していて、山から流れてきた水が曲がりくねった石組みの間を抜けるたび、昨日の雨で落ちた楓の葉や細い枝を押し流し、ときおり石の窪みへ溜まった水まで巻き込みながら庭池へ注いでいる。
小依は縁側へ腰を下ろし、そんな朝の流れを眺めていた。
正確には、水を眺めているふりをしながら、先ほどから何度も袖の内側へ指を差し入れていた。
折り畳まれた紙の角が指先へ触れると、それだけで昨夜の出来事が鮮明に思い出され、小依は誰かに見られているわけでもないのに周囲を確かめてから、もう一度だけ紙を取り出した。
『黙っててくれて助かった』
その下には、少し小さな文字で、
『あと便所の場所は覚えた』
と書かれている。
昨晩だけでも何度読んだか分からず、大切なことが記されているわけでもないうえ、後半に至ってはわざわざ紙へ残す必要があるのか疑わしい報告なのだが、それでも小依にはどうしても捨てる気になれなかった。
誰かから文を受け取ったことなら、これまでにも何度もある。
親類から届く季節の挨拶もあれば、誕生日には父や母から短い文を添えた贈り物を貰い、婚姻の話が出てからは会ったこともない家の者から、篠倉家の娘へ宛てた丁寧な挨拶状が届くこともあった。
それらはどれも美しい字で書かれ、上等な紙が使われており、読み終えたあとは女中が決められた場所へ丁寧に保管してくれたので、小依が自分で隠しておかなければならないような文など一つもなかった。
けれど、今こうして手の中にある紙だけは違う。
父も知らず、母も知らず、女中も知らず、自分がこれを持っていることさえ、自分以外にはあの朔宵という青年しか知らないのだと思うと、胸の奥に小さなくすぐったさが生まれた。
「小依様」
不意に背後から声を掛けられ、小依は紙を袖へ戻すより先に、反射的に両手で覆い隠した。
振り返ると、朝餉の支度が整ったことを知らせに来た女中が廊下に立っており、小依の不自然な仕草を見て少しだけ首を傾げている。
「何かお探しでしたか?」
「いいえ、何でもございませんよ」
昨日なら、それだけの言葉を口にするにも胸が強く鳴ったのだろうが、二度目となれば自分でも驚くほど自然に声が出て、小依は笑顔まで添えてから紙を袖の奥へ押し込んだ。
「左様でございますか。朝餉のご用意が整っております」
「ありがとうございます。すぐ参りますねぇ」
女中が一礼して廊下の向こうへ去ると、小依は自分の袖を見下ろし、先ほど口から出た言葉をもう一度思い返した。
昨日までなら、自分には家族や使用人へ隠さなければならないことなど何もなく、尋ねられたことには素直に答えるのが当然だと思っていたのに、一つ秘密ができてしまえば、二つ目の小さな嘘は驚くほど簡単に生まれてしまうらしい。
それが良いことなのか悪いことなのか、小依にはまだ判断できなかった。
ただ、誰にも知られていないものが自分の袖の中にあるという感覚だけは、少しだけ面白いと思った。
◇
午前の稽古は蒸気機関学だった。
教師が机の上へ小型の弁機構を置き、圧力瓶から送られた蒸気が二本の細い管を交互に通ることで、小さな金属棒を左右へ動かす仕組みを説明しており、小依はいつものように図面を写しながら、その動きを一つずつ目で追っていた。
普段なら教師の説明を聞き、必要な名称と構造を覚え、質問されたことへ答えられるようになれば、それでこの時間の目的は十分に果たされたことになる。
ところが今日は、弁が開くたびに漏れる小さな蒸気の音を聞いていると、昨日の雨の中で朔宵が使っていた黒い筒のことが何度も頭へ浮かんできた。
「先生、一つ伺ってもよろしいでしょうか」
「もちろんです。どうされました?」
「この圧力瓶を人が腰へ下げられるほど小さくした場合、どの程度まで力を保てるものなのでしょう」
教師は説明に使っていた棒を止め、少し意外そうに小依を見た。
「用途にもよりますな。どのようなものを動かしたいのです?」
小依は少し迷ったものの、昨日見たものをそのまま説明するわけにもいかず、机の上の弁機構へ視線を落としながら言葉を選んだ。
「例えば、人ひとりを一瞬だけ持ち上げて、高い場所へ移動させるほどの力です」
「人を、ですか」
教師は顎へ手を添えてしばらく考えると、机の端に置かれていた紙を引き寄せ、簡単な容器と弁の図を描き始めた。
「不可能ではないでしょうが、相当な圧力が必要になります。容器を小さくするほど内部へ掛かる負担は大きくなりますから、通常の銅では心許なく、積層した鋼か、それに近い耐圧素材を使わねば危険でしょう」
紙の上には小さな圧力瓶が描かれ、その先から伸びた管と、蒸気を一度に解放するための弁が付け足されていく。
「さらに、人を持ち上げるとなれば力をどこへ逃がすかも重要です。下へ噴き出せば身体は上へ向かいますが、姿勢を崩せば本人まで回ってしまいますからな。軍用の昇降器や鉱山用具には似た発想がありますが、携帯式となれば相当に特殊な代物でしょう」
小依は教師の描いた図を見つめた。
高圧に耐える小さな容器。
一度に蒸気を解放する弁。
噴出する方向を定める細い管。
それらを頭の中で組み立てていくと、朔宵が屋根へ飛び上がった瞬間に見えた白い蒸気と、腰へ取り付けられていた小さな圧力瓶が、今まで書物の中にしかなかった知識と綺麗に重なった。
「あれは、そういう仕組みだったのですねぇ……」
「何か仰いましたか?」
「いいえ。こちらのお話です」
教師は不思議そうにしたものの、小依がいつも以上に熱心に図を眺めていることが嬉しいらしく、今度は弁の耐久性について説明を始めた。
これまで知識というものは、ほとんど書物の中だけで完結していた。
弁の名前を覚えれば正解であり、構造を説明できればそれでよく、試験で問われれば間違えず答えられるようにしておくものだったのに、昨日から突然、その知識が書物を抜け出して庭へ現れたような気がしていた。
圧力という言葉が人間を塀の上へ飛ばし、細い綱と歯車が屋根まで身体を運び、それまでただ覚えるだけだったものが、知らない世界では実際に誰かの手足として使われている。
そう思うと、いつも見ていた図面まで少し違って見えた。
「先生」
「はい、今度は何でしょう」
「人が持ち歩けるほど小さな蒸気機関について、もう少し詳しく教えていただいてもよろしいですか?」
教師は今度こそ驚いたように目を丸くしたが、すぐに嬉しそうな笑みを浮かべると、新しい紙を机の中央へ広げた。
◇
昼を少し過ぎたころ、小依は母から話があると呼ばれた。
通されたのは普段家族で使う居間ではなく、庭の東側に面した小さな座敷で、床の間には咲き始めた秋海棠が淡い桃色の花を垂らし、低い机の上には二人分の茶と、一口ほどに切られた羊羹が用意されている。
母は既に座っていた。
「こちらへいらっしゃい」
「はい」
小依が向かいへ腰を下ろすと、母はすぐ本題へ入ることはせず、湯呑みを両手で持って茶を一口飲み、少しだけ間を置いた。
その様子を見ただけで、小依には何の話をするのか何となく分かった。
「先日のお話なのだけれど、先方から正式に一度お会いしたいとのお返事をいただいたの」
「そうなのですね」
「まだ顔合わせというほど堅いものではないわ。あちらのご子息も、いきなり婚姻を決めるようなことは望んでいないそうですから、まずはお茶でも飲みながらお話を、ということなの」
そう話す母の声には僅かな安堵が混じっており、相手が小依の意思を無視して話を進めるような家ではなかったことを、母自身も喜んでいるようだった。
「とても真面目な方だそうよ。学問にも熱心で、今は領内の水利事業にも関わっていらっしゃるとか」
「まあ、水利を」
その言葉を聞いた途端、小依の頭には庭を流れる細い水路が浮かび、続いて、書物でしか見たことのない大きな川の姿が思い出された。
「優しい方だとも伺っていますし、あなたの琴のこともご存じなのですって」
「わたしのことを?」
「ええ。以前の宴で、琴の先生がお話しになったのでしょうね」
母は嬉しそうだった。
小依も、悪い話だとは思わなかった。
家柄が良く、真面目で、学問を好み、領民のための仕事にも携わり、まだ会ったこともない自分のことまで知ろうとしてくれているのなら、少なくとも今聞かされている範囲では、断らなければならない理由など一つも見つからない。
「三日後に、こちらへいらっしゃるそうよ」
三日後という言葉を聞いた瞬間、それまでどこか遠いところに置かれていた話が、急に手を伸ばせば触れられるほど近くへ来たように感じられた。
「小依」
母の声が少しだけ柔らかくなる。
「以前にもお父様がお話ししたけれど、嫌なら嫌と言ってよいのですよ。篠倉のことを考えてくれるのは嬉しいけれど、あなたがこれから長く一緒に暮らしていく方なのだから」
「はい」
小依は湯呑みへ視線を落とした。
淡い緑色の茶の表面には、俯いた自分の顔が小さく揺れている。
嫌ではない。
それだけは分かる。
まだ会ってもいない人を嫌う理由などなく、聞かされた話だけならむしろ好ましい人物なのだから、普通に考えれば喜ぶべき縁談なのだろう。
けれど、昨日の雨の中で聞いた朔宵の言葉が、不意に頭の中へ戻ってきた。
好きなら持つ。
好きではなく、必要でもないなら置いていく。
あの青年にとっては驚くほど簡単だった考え方を自分へ当てはめてみると、今まで考えもしなかった問いが一つだけ残った。
嫌ではない。
では、それは好きなのだろうか。
「お母様」
「なあに?」
「嫌ではないということと、好きであるということは……同じなのでしょうか」
母の表情が僅かに止まった。
小依自身も、口にしてから自分がそんなことを尋ねたことに驚き、膝の上へ重ねていた指先を少しだけ握った。
母はすぐには答えず、しばらく湯呑みの中へ視線を落としていたが、やがて困ったような、それでいてどこか懐かしそうな笑みを浮かべた。
「難しいことを聞くのね」
「申し訳ございません」
「謝ることではないわ。同じではないと思いますよ。でも、初めから好きでなければならないものでもないのでしょうね。お父様と私だって、初めて会った日に恋をしていたわけではないもの」
「そうなのですか?」
小依が思わず顔を上げると、母はその反応が可笑しかったらしく、口元へ手を添えて笑った。
「あら、知らなかった? お父様なんて初めて会った日は緊張しすぎて、私のお茶を自分のものだと思って飲んでしまったのよ」
「お父様が?」
「ええ。今でもその話をすると怒るの」
思いもよらない父の姿を想像して、小依も小さく笑った。
目の前で笑う母を見ていると、自分はやはり幸せな家で育ったのだと思う。
父も母も自分を大切にしてくれており、無理に嫁げとは誰も言わず、嫌なら断ってよいとまで言ってくれているのだから、不満を抱かなければならないようなことなど、本当はどこにもないのかもしれない。
だからこそ、自分の胸の奥に何が引っ掛かっているのか、小依にはまだ上手く言葉にできなかった。
◇
母との話を終えて座敷を出たあと、小依はすぐ自室へ戻らず、庭に面した廊下をゆっくり歩いていた。
雨に洗われた庭木は昨日までより鮮やかな色を取り戻しており、濡れた幹にはところどころ薄緑の苔が張り付き、その下を流れる水路では、増えた水が石へぶつかるたび小さな白い泡を作っている。
やがて小依は足を止めた。
庭の向こうに、塀が見えた。
昨日、朔宵が越えてきた塀だった。
その向こうには町があり、さらに先には川があり、駅があり、山があり、書物や投影箱の中でしか見たことのない土地が、どこまでも続いているはずだった。
三日後には、婚姻相手になるかもしれない人がこの屋敷を訪れる。
その人を嫌だと思わず、父と母も喜び、先方にも問題がなければ、話は少しずつ先へ進んでいくのだろう。
やがて祝言の日取りが決まり、小依は篠倉家の屋敷を出て、これまで暮らした場所とは違う家へ移ることになる。
それは確かに外へ出ることではある。
けれど、そのとき自分が通る門も、乗る車も、辿る道も、最後に到着する場所も、恐らくすべて最初から決められている。
篠倉家から、別の家へ。
今いる水鉢から、もっと大きく美しい水鉢へ移されるようなものなのだろうか。
そこまで考えたところで、まだ会ったこともない相手へ随分失礼なことを考えているような気がして、小依は誰もいない廊下で申し訳なさそうに眉を下げた。
「まだお会いしてもいないのに、申し訳ありません……」
自分で口にすると妙に可笑しくなり、小依は小さく笑った。
◇
その日の夕方、小依には半刻ほど自由な時間があった。
いつもなら庭を歩くか、本を読むか、あるいは琴の復習をして過ごす時間だったが、今日は自室の棚へ並んだ書物の中から一冊の地誌を抜き取り、机の上へ広げた。
各地の山や河川、街道、宿場、名所などをまとめた本であり、授業にも使われていたため内容の多くは既に覚えていたが、今日は初めて読む本のような気持ちで、自分たちの暮らす土地の頁を開いた。
篠倉家の屋敷がある辺りを指で探し、そこから町へ続く道を辿る。
市場。
小さな橋。
駅。
そして川。
地図の縮尺を確かめて距離を計算すると、書物や投影箱の向こうにあるものだと思っていた川は、驚くほど近い場所を流れていた。
「こんなに近いのですねぇ」
自分の声しか聞こえない部屋で呟きながら、小依は人差し指で地図の上をゆっくりなぞった。
屋敷の門を出て道を南へ進み、二つ目の橋を渡って市場を抜け、そこから少し西へ歩けば、やがて川へ出る。
文字と線だけで追えば、それだけだった。
何年も学んできた土地なのに、その道を自分の足で歩いたことは一度もなく、橋の欄干がどのくらいの高さなのかも、市場にどんな匂いがするのかも、川へ近づけばいつから水音が聞こえ始めるのかも、小依は何一つ知らなかった。
窓の外からは、いつものように町の音が微かに届いていた。
蒸気車が遠くの道を走る低い駆動音に、駅から聞こえる汽笛、どこかで鳴る鐘、行商人らしい声、遊んでいる子供たちの笑い声が重なり、さらに離れた家の投影箱から流れているらしい歌まで、風が途切れるたび断片的に庭を越えてくる。
昨日までも同じ音は聞こえていたはずなのに、今日はその一つ一つに場所があることを意識してしまう。
あの声のところへ歩いていくこともできる。
あの汽笛を鳴らした汽車へ乗ることもできる。
地図の上に描かれた線は、覚えるための線ではなく、本当にどこかへ続いている道なのだ。
小依はしばらく地図を眺めたあと、本を閉じた。
そして袖の奥から、例の紙を取り出した。
『黙っててくれて助かった』
『あと便所の場所は覚えた』
何度見ても、やはり二行目はいらないような気がする。
小依は思わず笑いながら紙を裏返すと、何も書かれていない白い面をしばらく見つめたあと、机の端に置いていた筆を手に取った。
墨を含ませた筆先を紙へ近づける。
そこで手が止まった。
自分は何を書こうとしているのだろう。
そもそも朔宵へ届ける方法などなく、住んでいる場所も仕事も知らなければ、昨日教えられた名前が本当の名前なのかどうかさえ分からない。
それでも小依は少し迷ったあと、白い紙の中央へ一行だけ文字を置いた。
『川は、お好きですか?』
書き終えてから、自分でもなぜ最初にそれを尋ねたかったのか分からず、小依は僅かに首を傾げた。
もっと聞くべきことなら、いくらでもあるはずだった。
父の書斎で何をしていたのか、何かを盗んだのか、なぜ忍びの仕事をしているのか、そして、またこの屋敷へ来るつもりがあるのか。
けれど、そうした問いより先に紙へ落ちたのは、書物の中でしか知らない川についての言葉だった。
墨が乾くのを待っていると、庭から雀の鳴き声が聞こえた。
小依が顔を上げると、一羽の雀が塀の上へ止まり、濡れた羽を何度か震わせている。
第一話の朝にも見た、ごくありふれた光景だった。
けれど今の小依には、その塀の上が昨日までとは少し違って見えた。
あそこから朔宵が来た。
ならば、また来ることもあるのではないだろうか。
何の根拠もない考えだと分かっていながら、小依は紙を小さく折って袖へしまい、自室を出て庭へ向かった。
雨上がりの土はまだ柔らかく、草履の裏へ僅かな湿り気が伝わり、踏まれた竜の髭の細い葉からは溜まっていた雫が弾けて足袋の先へ散った。
塀の近くまで来ると、小依は昨日朔宵が最初に落ちてきた植え込みの周辺を眺め、何か目印になるものでも残っていないかと探してみた。
もちろん、何もない。
一晩前に不法侵入してきた忍びへ文を書き、再び同じ場所へ来るかもしれないと思って庭を探している自分が急に可笑しくなり、小依は袖の中の紙へ触れながら小さく息を吐いた。
「……何をしているのでしょう、わたし」
「俺も聞きたい」
声は、真上から降ってきた。
小依の身体がぴたりと止まった。
ゆっくりと顔を上げると、昨日雀が止まっていた場所より少し右側の塀の上に、一人の青年がしゃがみ込んでいた。
黒に近い鼠色の衣に、無造作な黒髪。
腰には昨日と同じ機械類がいくつも吊り下げられているのに、片手だけにはそれらとまるで似合わない、串に刺された三つの団子が握られている。
朔宵だった。
「…………」
「…………」
小依が何も言えないまま見上げていると、朔宵は何事もなかったように団子を一つ口へ入れ、もぐもぐと噛みながら小依の手元を見た。
「何してんの?」
「な、何でもございません」
「紙持ってるじゃん」
小依は慌てて紙を袖の中へ隠した。
「これは何でもない紙です」
「何でもない紙って何だよ」
「何でもないものは、何でもないのです」
昨日とは立場が逆になったようで、朔宵が怪訝そうに眉を寄せる。
小依はその視線から逃れるように袖を整えると、少し強引に話を変えた。
「それよりも、なぜまたいらっしゃったのですか? 昨日のお仕事は終わったのではないのですか」
「忘れ物」
「昨日、何か落とされたのでしょうか」
「ああ」
朔宵は残った団子を眺めながら少し考え、それから何でもないことのように答えた。
「秘密」
「秘密?」
「昨日ここに置いてっただろ。俺が来たこと」
小依はしばらく黙って朔宵を見上げた。
どうやら冗談を言っているらしいと気づくまで少し時間が掛かり、理解した途端、ほんの僅かに眉が寄った。
「……朔宵さん」
「何?」
「少し腹が立ちました」
「お、ちゃんと怒るんだな」
「わたしだって怒りますよぉ」
怒っていると伝えたはずなのに、言葉の最後では自分でも可笑しくなってしまい、小依は口元へ手を添えて笑った。
塀の向こうから夕方の風が吹き込み、朔宵の衣服を揺らしたあと、そのまま庭へ降りて小依の長い髪を撫でていく。
その風には、篠倉家の庭にはない匂いが混じっていた。
焼いた醤油の香ばしさ。
蒸気車が吐いたらしい僅かな煤。
雨に濡れた町の土。
そして、それらのさらに奥へ、庭池とは違う大きな水の気配を思わせる、湿った冷たい匂いが微かに混ざっている。
小依は無意識に鼻を動かした。
「朔宵さん」
「ん?」
「川へ行かれたことはありますか?」
朔宵は二つ目の団子へ口を近づけていた手を止め、不思議そうに小依を見た。
「そりゃあるけど」
「本物の?」
「偽物の川って何だよ」
「投影箱でしか見たことがありませんので」
その言葉を聞いた途端、朔宵の表情から僅かに笑いが消えた。
馬鹿にしたわけではなく、どうやら本気で驚いているらしく、食べかけの団子を持ったまま何度か瞬きをする。
「……川、見たことないの?」
「書物では何度も見ておりますよ。近くを流れている川でしたら、流域も水深も、どの辺りで何が採れるかも習いました」
「いや、それは見たって言わないだろ」
小依はすぐには答えられなかった。
川についてなら知っているつもりだった。
どこから流れ、どこへ注ぎ、どの季節に水量が増え、どの魚が棲み、どの土地の農業を支えているのか、教師から問われれば大抵のことには答えられる。
それでも朔宵にとって、それは川を「見た」ことにはならないらしい。
「では、川というのは、どのようなところなのですか?」
「どんなって……水が流れてる」
「それは存じております」
「じゃあ知ってるじゃん」
「今、見たことにはならないと仰ったではありませんか」
「面倒くさいな、お前」
小依が少し頬を膨らませると、朔宵は困ったように頭を掻き、塀の上から庭の細い水路を眺めたあと、何かを思い出すように遠くへ視線を向けた。
「冷たいよ。夏でも場所によっては結構冷たいし、石はぬるぬるしてて滑るし、深いところは上から見ても底が見えない。流れが速いところだと、膝くらいの深さでも立ってるだけで足を持ってかれる」
小依は黙って聞いていた。
「雨の後は茶色くなるし、晴れが続けば水が透ける。でかい石をひっくり返すと蟹とか変な虫がいるし、魚もいる。川沿いは風が通るから、暑い日は涼しい」
それは、小依が今まで習ってきた川とは少し違った。
平均水深でも流域面積でも、水利事業でも漁獲量でもなく、足の裏で感じる石の滑りや、肌へ触れる水の冷たさ、風の通り方や石の下へ隠れている小さな生き物についての話だった。
「あと、腹減ってると魚が美味そうに見える」
最後の一言だけは余計だったが、小依は思わず笑ってしまった。
「楽しそうですねぇ」
「そうか?」
「はい、とても」
朔宵は何がそんなに面白いのか分からないという顔をしていた。
小依はそんな朔宵から視線を外し、改めて目の前の塀を見上げた。
昨日まで、この塀はただ高いものだった。
庭と町を分け、自分が暮らす場所の端を示すものであり、その向こうから子供の声や汽笛が聞こえてきても、それらは自分とは別の場所にあるものだと思っていた。
けれど、一度でも人がそこを越えてくるところを見てしまえば、以前とまったく同じものとして眺めることは難しかった。
向こうから朔宵が来たように、風も町の匂いもこちらへ届くのなら、自分が向こう側へ行くことだって、本当はそれほど不可能なことではないのかもしれない。
「朔宵さん」
「今度は何?」
川へ連れて行ってください。
その言葉が胸の中で形を持ち、喉元まで上がってきた。
地図で確かめた川はそれほど遠くなく、朔宵なら道を知っているのだから、頼めば本当に連れて行ってくれるのではないかという期待まで、ほんの一瞬だけ生まれた。
けれど、その言葉を声に変えようとしたところで、三日後には婚姻相手になるかもしれない人が屋敷を訪れるという母の話が思い出された。
今まで一人で門の外へ出たこともない自分が、知り合ったばかりの忍びと川へ行きたいなどと言ってよいのだろうか。
そう考えてしまえば、まだ自分の中に生まれたばかりの小さな望みを、そのまま口へ出すだけの勇気は持てなかった。
「……お団子、美味しいですか?」
結局、代わりに出てきたのはまったく違う言葉だった。
朔宵は一瞬きょとんとしてから手元を見たが、そのときには既に最後の一つまで口へ運び終え、手には空になった串しか残っていなかった。
「あ」
「全部召し上がってしまいましたねぇ」
「……欲しかった?」
「少し」
「先に言えよ」
「聞かれませんでしたので」
「そういうのは自分から言うもんだろ」
朔宵にとっては何でもない言葉だったのだろうが、小依はそこで僅かに黙り込んだ。
欲しいなら、自分から欲しいと言う。
そんな簡単なことさえ、これまでの自分にはあまり必要がなかった。
食事は決められた時間に用意され、必要な本や道具は教師や両親が揃えてくれ、欲しいものがあるかと尋ねられれば、家に必要なものを考えて答えることが多かった。
自分だけが欲しいものを、自分から誰かへ求める。
それは思っていたよりも、経験のないことだった。
「次な」
朔宵が何気なく言った。
「え?」
「次に来ることあったら買ってくる」
小依は思わず顔を上げた。
「本当ですか?」
「団子くらいでそんな喜ぶ?」
「屋台のお団子は食べたことがありませんので、一度食べてみたかったのです」
朔宵の顔から、また表情が消えた。
「……お前、何ならやったことあるんだよ」
「何なら、と言われましても……」
小依は考えた。
琴なら弾ける。
剣も扱える。
茶も点てられる。
花も生けられ、書も読み、舞も踊り、蒸気機関の基礎構造について説明することもできる。
それなのに、屋台で団子を買ったことはない。
川へ行ったこともない。
市場を歩いたこともなければ、駅で自分の切符を買ったこともない。
できることなら幾つも思いつくのに、やったことがあるかと尋ねられた途端、答えが急に少なくなったような気がした。
朔宵はしばらくそんな小依を眺めていたが、何も言わず塀の上で立ち上がると、腰へ下げていた器具の位置を軽く直した。
「じゃ、行くわ」
「もう行かれるのですか?」
「仕事あるから」
「あの……」
小依が呼び止めると、朔宵は塀の上から振り返った。
今度こそ川のことを頼んでみようかと思ったが、やはり言葉にはならず、代わりにもう一つ、先ほどよりも小さな願いが口から零れた。
「また……いらっしゃいますか?」
昨日までの自分なら、見知らぬ青年にそんなことを尋ねただろうか。
口にしたあとで恥ずかしくなり、小依は袖の中で指を握った。
朔宵も少し意外だったらしく、僅かに目を丸くしたものの、すぐいつもの気の抜けた表情へ戻った。
「さあ。仕事次第」
「そうですか……」
自分でも分かるほど声が沈み、小依は少しだけ視線を落とした。
朔宵はその様子を見て何か言おうとしたが、結局は口を閉じ、代わりに空になった団子の串を軽く振った。
「でも、団子の借りできたからな」
「まだ頂いておりませんよ?」
「だからだよ。次に持ってくるって言ったまま来なかったら、借りたままだろ」
小依は一瞬きょとんとしたあと、その意味を理解すると、先ほどまで沈んでいた表情を柔らかく緩めた。
「では、お待ちしておりますねぇ」
「期待すんなよ。団子だからな」
「はい。お団子を楽しみにしております」
朔宵は何とも言えない顔をしたあと、今度は蒸気の器具を使うこともなく、塀へ片手をついて身体を持ち上げると、そのまま向こう側へ軽々と姿を消した。
少し遅れて着地する音が聞こえ、それから砂利を踏む足音が遠ざかっていく。
小依はすぐには屋敷へ戻らず、誰もいなくなった塀をしばらく見上げていた。
やがて袖から、先ほど書いた紙を取り出す。
『川は、お好きですか?』
渡す必要はなくなってしまった。
好きなのかどうかまでは聞けなかったけれど、少なくとも朔宵が知っている川は、書物に描かれたものよりずっと冷たく、滑りやすく、風が通り、石の下には蟹がいて、空腹なら魚が美味しそうに見える場所らしい。
それだけで、小依には十分に面白かった。
紙を捨てようとは思わなかったので、昨日受け取った文と重ねて丁寧に折り直し、もう一度袖の奥へしまった。
屋敷へ戻ろうと歩き始めたところで、塀の向こうから長く低い汽笛が聞こえた。
夕暮れの空へ響いた音は、庭木の梢を震わせるほど大きいわけでもなく、これまでにも毎日のように耳へ入っていたはずなのに、小依はなぜか足を止めた。
汽車が走っている。
あの塀の向こうを抜け、駅を離れ、地図の上に引かれた鉄路を辿りながら、自分の知らない町や川や山のそばを通って、さらに遠いどこかへ向かっている。
今まではただの音だった。
けれど一度その向こう側に場所があり、そこへ続く道があることを意識してしまえば、同じ汽笛を以前と同じように聞くことはできなかった。
小依は暮れ始めた空を見上げながら、音の消えていった方角へしばらく耳を澄ませていた。
そして初めて、その汽車がどこへ向かっているのだろうと思った。
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「川は、お好きですか?」——あの紙をしまいながら、自分でも理由がわからずそれを尋ねたくなった小依の気持ち、とてもよく伝わってきました。朔宵が語る川の感覚(冷たさ、滑る石、底が見えない深さ)は、教科書とはまったく別の、生きた世界の手触りです。教室の蒸気機関学が突然「誰かの手足」に見えた瞬間も、世界を認識する視点が変わるときの鮮やかさが巧みだと思いました。汽笛がただの音じゃなくなる——その変化に、胸がそっと鳴りました。