テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
その気持ちをはっきりと認識したのは、本当に唐突のことだった。
スケジュールの合間、いつものように楽屋で食事をしていたとき。勇斗は目の前に座っていた。
彼が、こちらを見てふっと綺麗に笑った。箸を置いて、「ごちそうさまでした」と丁寧に手を合わせた。水を一口飲んで、少しマネージャーと話してくるわ、と腰を浮かせるところまで、本当にいつも通りだった。
ただなんとなく想像してしまったのが、過ちだった。それはそれは大きな過ちだった。変わりのない時間を過ごす日々の中に、もしこの人がいたらと。いつかふたりで日々の食卓を囲めたらどんなに幸せだろうかと。
料理は俺がメインで作って、まあ、時間が合う時はふたりで作ってもいいかもしれない。それから、その日あったことなんかをお互い話しながら向かい合って食べる。いつだって目の前には楽しげに笑う勇斗がいて、料理は温かい。
あまりに、夢のようで綺麗な想像だった。
「──じゃあ、お疲れね」
仕事を終え、このまま事務所を出てお互いの行く道へ別れるのも、いつも通りのはずなのに。どうしても、離れたくなかった。
正直、どうすればよいのか分からないくらいに戸惑っていた。
今まで蓋をされていたものが解放されて、怒涛のように流れ込んでくる。ただ大切なメンバーというだけのカテゴライズだった彼に、初めて覚えたその感情。それは一人で抱え込むにはあまりにも大きすぎるものだった。
「……仁人?」
じゃあまた、と手を挙げた勇斗を、特に反応もせずイスに座ったままぼんやり目だけで追いかける俺を、彼が不思議そうな顔で伺っている気がする。
視界が霞む。よく通るはずの勇斗の声も、一枚フィルターを隔てたようにくぐもって聞こえた。
返事の一つもできない俺を不審に思ったのか、ドアノブに掛けていた手を外し近づいて来るのがわかった。
俺のためにわざわざ体の向きを変え、俺のことを優先してくれている。
そんな醜い優越感を消す方法なんて、今まで誰も教えてくれなかった。
「え、どうしたの、何かあった?」
変に深刻そうな表情にでもなっていたんだろうか、俺の顔を見た勇斗が慌てたように近寄ってきた。そっと肩に、大きな掌が触れる。
じんわりと体温を分け与えるような所作に、胸が痛んだ。
「どっか体調でも」
そんなことあってはいけないはず、なのに。
このまま目と鼻の先にある彼の胸に飛び込んでしまいたいと思ってしまった。自分から離れないでいてくれる確証なんて、どうしたって得られるはずもないのに、無茶苦茶にきつく抱きしめてほしくなってしまった。
「や、ごめん。大丈夫」
自然と俯いていた顔を持ち上げ、勇斗の目を見つめながら努めて普段通りの声色を意識する。もしかしたら、らしくない縋るような目を向けてしまったかもしれない。
勇斗は、目が合うと小さく息を呑んで、それから何も言わずにゆっくりと体温が離れていった。
当然、抱きしめてはくれなかった。
この出来事があって以降、確実に思考回路が狂い始めていた。仕事もプライベートも最低限やるべきところは無難に熟していた。でも、例えば収録の合間の休憩時間、会議までの待ち時間や帰りの車内。そんな隙間の余白を埋めていたのは、いつまで経っても消化しきれない質の悪い感情だった。どんなに考えても無駄なのはわかりきっていたけど、どうしても考えることをやめられなかった。
収録、ライブ、会議、楽屋、事務所。グループを組んで10年以上、隣になる機会なんて今までもごまんとあったはずなのに。無意識のうちに自分はほぼ間違いなく彼に、佐野勇斗という一人の人間に心の底を揺さぶられていたらしいと結論づけるまで、そう時間は掛からなかった。
𝕔𝕠𝕔𝕠
9,008
abc
730
#さのじん
さき
1,092