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「えぇ、母が倒れたと妹から連絡があって。実家に帰りますので、今週いっぱいお休みを頂けないでしょうか……はい、有難う御座います、また連絡致します、失礼します」
とりあえず育代は、会社を休んだ。
冷静になって考えないと。
うちの銀行口座にある、恐らく数百万円は辰彦が管理しているが、通帳もカードも辰彦の部屋を探してみたが見つからなかった。
死亡が確定すれば、凍結される前に銀行に話して名義変更をする。ん……?死亡か。保険金が入るが事情が事情だけに自殺であれば支払われる可能性は極端に低い。
あ、先に警察に行こう。行方不明なんだから。
それからだ。
ピンポーン
黒川家のインターホンがなった。
「どちら様ですか」
「あ、1010室の山嵜ですが……」
1010室。歳を取った夫婦が二人で暮らしている部屋だ。時折、エレベーターで一緒になった時とか、他愛もない話をしていた。
ガッチャ
お婆さんが、部屋の前に立っていた。
「黒川さん、これ多く作っちゃって……良かったら」
鍋いっぱいのおでんが見えた。
白い湯気が、ふわりと育代の顔にかかる。
それが、なぜか涙の匂いに感じた。
「あぁ、山嵜さん。有難う御座います、頂きます。」
「なんかあったら、相談してね」
そう言うと、お婆さんはゆっくりと部屋に戻って行った。
廊下に、おでんの湯気だけが残った。
育代は、おでん鍋をコンロに置いて着替え始めた。
そして、近くの警察署に向かった。生活安全課で事情を話した後に、捜索届を提出した。
次に向かったのは、銀行だ。
東京第一信用銀行の融資管理部、佐原を訪ねる。
「あぁ、黒川さん。こちらにどうぞ。」
清潔感のある応接室に通される。
育代は、佐原に事の事情を説明した。
「あの事件ですか……お気の毒としか言いようがありません。」
「あ、あの……先ほど警察署で捜索届を出して来ました。私は通帳もカードも持っていなくて。それで夫の口座の名義変更は出来ないでしょうか。」
佐原は、困惑気味な表情を浮かべて、
「結論から申し上げますと、失踪宣告が出るまでは……」と説明をしていく。
「行方不明から7年が経過すると、民法上の「失踪宣告」を受けられます。これによって、法的に死亡したとみなされ、その後に初めて、名義変更・保険金・相続が可能になるのです。」
「また、家庭裁判所を通して、『不在者財産管理人の選任』を申請出来ます。この制度を使えば、妻が一時的に夫の財産を管理できて、生活費などの必要最低限の範囲で一部の引き出しが認められることがあります。」
「でもあくまで生活費レベルの金額であり、数百万単位の引き出しはほぼ不可能となります。」
銀行からの帰り道。
帰ったら、今日の事を整理しよう。
夕ご飯は……おでんがある。
スーパーに立ち寄り、安い甲乙混和の焼酎を買って帰る。
ガッチャ
「あ、おかあさん。おかえり。」
「あぁ……今日はピアノ教室無い日だったね。」
「おでん、作ったの?」
「山嵜のお婆さんがね、多く作ったからって持って来られたの。今日は、おでん食べようね。」
「うん。」
音の消えた部屋で
おでんの匂いだけが
二人を優しく包んでいた
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「沈黙もまた、音楽なんです。
音が終わった後に残る“呼吸”が、人の心を動かす。」
(出典:坂本龍一『音楽は自由にする』新潮文庫 2009)
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