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その夜、洋子はいつものように研究所から帰り、薄暗い部屋の明かりをつけた。 机の上にはノートと砂時計。青い砂が静かに下へ落ちている。
落ちるたびに、何かが消えていくような気がする。
砂の音など聞こえるはずもないのに、耳の奥でかすかなざらつきが残っていた。
テレビをつけたのは、ただの習慣だった。
ニュースのあとに流れた特番のタイトルが目に入る。
「特集・時間のゆがみを追う ― 最新観測が示す未知の現象 ―」。
その言葉に、洋子の手が止まった。
画面の中で、白衣を着た男が天文台のドームを背に語っている。
キャスターが紹介する名前を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。 ——水島航。
かつて同じ研究棟にいた天文学者だ。
洋子よりも少し年上で、研究熱心で、理屈っぽく、しかし人当たりのやわらかい男だった。
長い夜の観測を終えたあとの廊下で、よくコーヒーを分け合った記憶がある。
いつのまにか連絡が途絶え、消息も聞かなくなっていた。
その水島が、全国放送の特番に出ている。
画面には、天文台の観測データが映し出されていた。
空間の一部で、光が逆流するような波形。 解析されたスペクトルグラフには、通常の赤方偏移では説明できない青の偏りが現れている。
キャスターが眉をひそめる。
「これはつまり、時間が“戻っている”ということなんでしょうか?」
水島は少し考えるように目を細め、それから静かに口を開いた。
「厳密には、“局所的反転”と呼ぶべき現象です。
私たちが観測しているのは時間そのものではなく、時間が記録する“光の情報層”です。その層の中で、情報が過去の状態へと一時的に回帰している」
洋子は息を呑んだ。
情報層の反転。
それは彼女が砂時計を使ったときに起きた、あの奇妙な現象そのものだった。
水島は続けた。
「観測上、反転領域の光は一定の波長を持つ。
それは青色スペクトルの極端な偏向で、コバルトブルーに近い。
つまり、時間の反転には“青”が関係している可能性がある」
コバルトブルー。
洋子は机の上の砂時計を見た。
透明なガラスの中を落ちる砂は、まさにその色だった。
光を当てると、青い粒がわずかに輝き、空気の流れをなぞるように沈んでいく。
画面の中で、水島は天文台の映像を示しながら説明を続けていた。
「この現象を“零時界”と名付けました。これは、全宇宙の時間が巻き戻るわけではないからです。極めて限定された領域――半径およそ数メートル以内で、ほんの数秒から数分程度、情報が逆方向に流れるんです。まるで、その部分だけが“記録を巻き戻している”ように」
洋子は背筋が冷たくなった。
彼が言う“零時界”とは、まさしく彼女の机の上で起きた現象だ。
砂時計をひっくり返した瞬間、時計の針が逆回転を始め、時間が数分戻る。
しかも範囲は部屋の中だけ。
誰もその変化を覚えていない。
「もし仮に、零時界の状況を人工的に作れるなら、 それは時間操作と呼ぶに等しい。しかし、同時に非常に危険でもある。“記録”そのものが壊れる可能性があるからです」
テレビの中で、水島は淡々と語った。
「たとえば、ある瞬間のデータが消える。カメラの記録が欠落し、電子機器のログが飛ぶ。私たちは時間を失うのではなく、“記録を失う”んです。その違いが理解されない限り、この現象は観測することさえ難しい」
洋子はソファに座り込んだ。
胸の奥で心臓が規則正しく打つたびに、頭の中で何かが繋がっていく。
——記録の欠落
——青の光
——零時界
「砂の落ちる分だけ時間が戻る」
最初にそう書き留めたノートの一文が、脳裏によみがえる。
もしあの砂が“記録の媒体”だとしたら?
それが空気中の情報層と干渉して、時間の情報を巻き戻しているのだとしたら?
洋子は立ち上がり、机の前に戻った。
砂時計を両手で包み、光にかざす。
粒がゆっくりと動く。
よく見ると、一粒一粒が微細な光を反射していた。
それはまるで、小さなデータの集合のように。
彼女はノートを開き、震える手でペンを取った。
〈観測記録 第21項〉
と書き、下に記す。
――零時界現象の原因は、青色スペクトル領域における情報の再編成にある。
――砂時計の砂は、その再編を誘発する媒介物質。
――砂一粒あたりの情報保持量は、光量子の干渉パターンに依存。
書きながら、心の中で水島の声を反芻する。
「時間を失うのではなく、記録を失う」。
その言葉の意味が、今なら痛いほど理解できた。
洋子は窓を開け、外の空を見上げた。
夜気が肌を刺すように冷たい。
空には薄い雲がかかり、その向こうに青白い星が瞬いていた。
星の光もまた、過去から届く記録だ。
遠い昔の光を、今ここで観測している。
つまり、彼女の目の前にある星空そのものが「過去の記録層」なのだ。
——ならば、時間とは記録の連続体。砂時計は、その連続を逆向きに辿る装置。
洋子の胸に、確信めいた感覚が生まれた。
砂を落とすことで、時間が戻る。
つまり、砂が落ちるたび、世界は過去の記録を“再生”している。
再生のたびに、今の記録が上書きされる。
だから、記録が消える。
それが“代償”。
ノートにペンを走らせながら、洋子はその構造を数式で表そうとした。
時間を t、観測情報を I(t) と置く。
通常は dI/dt ≥ 0、すなわち記録は増加する。
しかし砂時計の使用下では、一時的に dI/dt < 0 となる。
つまり情報が逆流する。
物理的には不可能でも、情報論的にはありうる。
彼女の頭の中で数式が躍り、論文の構成が自然と組み上がっていく。
「そうか……時間はエネルギーではなく、情報の方向性なのか」
口の中で呟いた瞬間、背後でテレビの音が変わった。
エンディングの音楽。
画面には水島が小さく映り、カメラに向かって微笑んでいた。
「いつか、この現象の本質に誰かが辿り着くと信じています」
そう言って番組は終わった。
テレビが静かになる。
洋子はリモコンを置き、深く息をついた。
その胸の奥に、言葉にならない熱があった。
——辿り着く。
その言葉は、まるで自分に向けられたもののように聞こえた。
机の上の砂時計が、静かに光を反射する。
砂はあと半分。
コバルトブルーの粒が、彼女の瞳の中で星のように輝いていた。
「水島さん……あなたも、これを見たの?」
呟いた声は、誰にも届かない。
けれどその夜、部屋の隅でわずかに空気が揺れた。
青い粒のような光が一瞬だけ舞い、闇の中に溶けていった。