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夜の研究室には、時計の針の音だけが響いていた。
窓の外はすでに真夜中。都市の灯りも遠く、わずかな月光が机の上を淡く照らしている。
洋子はペンを握り、ノートの上に走らせた数式をもう一度見直した。
「零時界——“情報の反転”と読み替える」。
その仮説を立ててから、数日が経っていた。
テレビで見た水島の言葉は、頭の奥で何度も反芻される。
「時間を失うのではなく、記録を失う」。
彼が語った“記録”という概念が、洋子の中で次第に具体性を帯びてきた。
時間とは流れるものではなく、記録が更新される順序のこと。
その順序が反転すれば、世界は過去を再生する。
彼女の理論ノートには、細かい走り書きが重なっている。
“情報層の歪み=時間の歪み”
“観測者の意識は情報の一部か、それとも別層か”
“もし意識が層を超えて移動できるなら、時間知覚は可逆となる”
洋子は深く息を吐いた。
頭が冴えて眠れそうにない。
ふと視線を上げると、机の隅に例の砂時計が置かれている。
青い砂が、今も静かに積もっていた。
「試してみようか……」
独り言のように呟いて、砂時計を手に取る。
これまでの実験では、外部機器の記録の欠落や時刻の巻き戻りが確認されていたが、今回は、自身の“意識”に焦点を当てるつもりだった。
彼女は机の上に置いた録音装置を起動させる。
そして、手元のノートに日付と時刻を記し、砂時計を静かに反転させた。
砂が流れ始める。
コバルトブルーの粒子が光を帯び、空気の中をゆっくり落下していく。
部屋の中の空気がわずかに震える。
耳鳴りのような微かな振動音が響き、意識の焦点がぼやけていった。
——次の瞬間。
洋子は、何かが“重なる”感覚に包まれた。
頭の中に、もうひとりの自分がいる。
それは過去の自分の思考だった。
昨日の夜、同じ実験を計画していたときの、自分の思考の断片。
“砂時計を使えば、情報層に干渉できるかもしれない”
——その言葉が、脳内で二重に響く。
まるで二つの意識が同じ座標を占めている。
どちらが今の自分で、どちらが過去なのか、判別がつかない。
頭の奥で映像が交錯する。
書きかけのノート、消した数式、指先の感触。
記憶が重なり合い、境界が溶けていく。
「これが……零時界……?」
声を出したつもりなのに、声が届かない。
代わりに、別の声が頭の中で応じた。
“それを知ってどうするの?”
自分の声だった。
だが、その声はほんの数日前の“自分”の記憶と同じ調子をしている。
問いかけられている。
過去の自分から、今の自分へ。
洋子は胸の奥がざわめいた。
——零時界は、空間の中だけでなく、意識の層にも及ぶのかもしれない。それは単なる記録の巻き戻しではなく、“思考の回帰”だ。もしそうなら、人間の記憶とは、時系列的に蓄積される情報の連鎖ではなく、層構造をもった空間的ネットワークだということになる。
彼女の意識は徐々に揺らぎ、空間が膨張するような感覚に包まれる。
時計の音が遅くなり、光の速度さえも変わって見えた。
目の前の砂粒が、宙に浮いたまま止まっている。
その瞬間、洋子ははっきりと“自分が二つ存在している”と感じた。
一方の意識は今を観測している。もう一方は、数分前の自分を再体験している。
ふたつの時間が、同一の身体の中で重なっていた。
——もし意識が時間の情報層を越えて重なるなら、過去も未来も「観測者の選択」で変化するのではないか?
洋子はノートに走り書きをした。
〈仮説補足〉
零時界領域では、観測者の意識が多層的に分岐する。
そのうち一層が“現在”を維持し、他層が“過去”の情報層と干渉する。
干渉が強まると、意識が再帰的に自己を観測し、時間感覚が崩壊する。
ペンを握る手が震えていた。 視界の端で、砂時計の青が強く輝く。
光の波紋が部屋いっぱいに広がり、空気が水のように揺れる。
——時間が、記録の層として折り畳まれていく。
——その中心に、自分の意識がある。
洋子は息を吸い、目を閉じた。
目の裏に、青い光の網のような構造が広がっている。
無数の線が交差し、点が結びつき、全体が呼吸するように明滅している。
その網はまるで神経回路であり、同時に宇宙の構造のようでもあった。
「意識の構造は、宇宙の記録構造と相似している……」
自分でも信じられない言葉が口をついて出た。
人間の意識が宇宙の“情報層”の縮図であるなら、零時界を理解する鍵は、脳の記憶そのものにある。
次の瞬間、光が弾けた。
砂時計の中で最後の粒が落ち、音もなく世界が静止した。
……気がつくと、洋子は椅子に座っていた。
砂時計は元の位置にあり、すべてが元通り。
録音装置は作動している。
再生すると、ノイズ混じりの音声の中に自分の声がかすかに残っていた。
「——意識の層が……重なって……」
その後は何も録音されていない。
洋子は顔を両手で覆った。
あの数分間の出来事が幻覚なのか現実なのか、判断がつかない。
けれど確かなのは、記憶の中に「もうひとつの自分」が残っているということだった。
彼女はノートを開き、ゆっくりと書き込んだ。
〈観測記録 第29項〉
——零時界は、情報の層だけでなく意識層にも及ぶ。
——観測者がその層を同時に認識したとき、“記憶の共鳴”が起こる。
——それは、過去と現在が一瞬だけ重なる地点。
ペン先が止まる。
窓の外では、夜が明けかけていた。
薄い青の光が空に滲み、世界の輪郭が少しずつ浮かび上がっていく。
その青は、砂時計の砂と同じ色だった。
洋子は立ち上がり、カーテンを開ける。
光に満ちた空の向こうで、太陽が昇ろうとしている。
その光もまた、過去から届いた記録。 けれど、今この瞬間にしか感じられない現実でもある。
「記録と現在は、同じものの裏と表……」
静かに呟き、洋子はもう一度砂時計を見つめた。
世界はいつも、誰かが観測することで形を保っている。
もし観測が“記録の選択”であるなら、私たちは毎瞬、自分の宇宙を選び直しているのかもしれない。
砂時計の青が、朝の光に溶けていく。
洋子は微笑んだ。
零時界は恐れるべきものではない。
それは、世界がまだ“記憶している”証なのだ。