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Side翔太
梅雨の合間の、曇り空。
午後の光がくすんだガラス越しに差し込む、駅前の喫茶店。
テーブルの上には、飲みかけのアイスコーヒーと、ぬるくなったカフェラテ。
向かいに座る彼女は、真剣な表情で、でもどこか覚悟したように唇を噛んでいた。
「……ごめん、翔太くん。やっぱり、付き合うのは無理だと思う」
静かな声だった。けれど、その一言が胸の奥に、鈍い衝撃を残す。
「そっか。……うん」
驚くほど素直に、自分の口から出た言葉だった。
彼女は少しだけ眉をひそめ、ためらいながら続ける。
「私、ずっと思ってたの。翔太くん、私のこと、好きって言ってくれたけど……たぶん“私自身”を好きなわけじゃないって」
翔太は何も言えなかった。ただ、目の前のアイスコーヒーの結露が、ゆっくりとコースターに広がっていくのをぼんやり見ていた。
「……誰か、他に好きな人がいた? いや、今も――いるのかな。その人の代わりって、分かってた。優しいし、ちゃんと向き合おうとしてくれてたけど、気持ちが届いてないの、伝わってきて……」
言い訳したかったわけじゃない。でも、思わず口が動いた。
「……本気だったんだ。俺なりに。ちゃんと、向き合おうとした」
「うん。そう思ってた。だからこそ辛かったの。誰かを思いながら“私に”優しくされるのって、嬉しいのに、苦しかった」
たしかに彼女は、いい子だった。優しくて、気が利いて、ちゃんとこちらの気持ちを見てくれる人だった。
でも――心の奥のどこかで、ずっと比べていたのは事実だった。
(あの人を超える人なんて、いない)
誰にも言ったことはない。
それはもう終わったこと。
ただの思い出。
名前すら口にしてはいけないような、心の棚の奥にしまった箱。
でも、その箱を開けずに誰かと向き合おうとすること自体、間違っていたのかもしれない。
彼女は立ち上がり、鞄のストラップを肩にかけた。
「元気でね、翔太くん。……いつか、ちゃんと“今の人”を好きになれますように」
その言葉に、俺は返事をしなかった。いや、出来なかった。
店のドアが開く音とともに、静かに彼女の気配が遠ざかっていく。
テーブルに残されたアイスコーヒーをひと口飲む。
ぬるくて、苦くて、けれど不思議なほど、喉を通った。
翔太は、窓の外に目を向けた。
滲んだ空。
静かな風。
そして、何も言えなかった自分の胸に、ゆっくりと手を当てた。
アイスコーヒーは完全に氷が溶けて、苦いだけの水みたいになっていた。
手元に残った紙ナプキンをなんとなく指先で折りたたんで、意味もなく開いて、また折って。
何をしてるんだろう、と思うのに、体がついてこない。
立ち上がって、店を出ると、思ったより外は蒸し暑かった。
曇り空のくせに、空気がねっとりと肌にまとわりつく。
信号が青に変わるのをぼんやり見て、他の人と一緒に横断歩道を渡る。
何も考えたくなかった。
でも、考えたくないと思えば思うほど、頭の中にはさっきの彼女の言葉が、繰り返し響いていた。
――「いつか、ちゃんと“今の人”を好きになれますように」
皮肉みたいな祈りだった。
その優しさが、今はどうしようもなく痛い。
ポケットの中のスマホがブルッと震えた。
画面を見ると、会社の同僚から「週明けの打ち合わせ、日程変わったぞ」とだけメッセージ。
機械的に「了解」と打って、すぐ画面を閉じる。
……あ、そういえば。
帰り道、足りなくなった日用品を買って帰るって考えてたんだっけ。
朝、リビングのメモに「洗剤・牛乳・卵」って走り書きしてあったのを思い出す。
やらなきゃいけないことがあるのは、ありがたい。
何も考えずに済むなら、どんな雑用だって歓迎だった。
ため息ひとつついて、少しだけ遠回りして駅前のスーパーへ向かった。
自動ドアが開くと、キンと冷えた空気が体を包む。
さっきまでの湿気が嘘みたいで、ほんの少しだけ、呼吸がしやすくなった気がした。
カゴを片手に、冷蔵コーナーへ向かう。
牛乳。卵。洗剤。……あと何だっけ。
唇の端を無理やり引き上げて、俺は何でもない風を装いながら、卵パックをカゴに放り込んだ。
レジの列は思ったよりも長くて、俺はカゴの中の卵パックをじっと見つめながら、どこか意識のないまま順番を待っていた。
仕事帰りの客たちのざわめき、ビニール袋の擦れる音、ポイントカードの機械音。
全部が頭の奥で反響して、今の自分には遠い世界のように思えた。
「すみません、今お時間よろしいですか?」
突然、後ろから声をかけられた。
反射的に振り返ると、スーツ姿の男が一人、にこやかな笑みを浮かべて立っていた。
年の頃は三十代前半くらいか。営業慣れしているような清潔感と、妙に親しげな距離感。
「……え?」
間抜けな声が漏れる俺に、男は手際よく名刺とチラシの束を差し出した。
「株式会社クロノスの田中と申します。今、ちょっと変わった製品のモニターをお願いできる方を探していまして」
(……セールスか。チラシ配り?)
そう思った瞬間、体が勝手に距離を取っていた。
今日はそういうテンションじゃない。
というか、どの日であっても、知らない人と長々話す気分になることなんてほとんどない。
「すみません、急いでるんで――」
そう言いかけて、差し出されたチラシにふと視線が落ちた。
表紙の中央、妙に目を引くフォントで書かれた一文。
『理想の恋人、いりませんか?』
……え?
なんだ、その文句。
一瞬、冗談みたいだと思った。
ふざけた出会い系か、SNS広告にでもありそうな軽い売り文句。
けど、心のどこかが、確かに引っかかった。
“理想の恋人”。
そんなの現実にいるわけない。
でも――いるなら、欲しいと思った。
さっき別れた彼女の言葉。
忘れられない、誰かの面影。
現実を見ろと自分に言い聞かせながら、ずっと追いかけてる“あの人”を、超える人はいないと諦めている自分。
「……は?」
自分でも、声に出していたことに驚いた。
田中と名乗る男がにこりと微笑む。
「ご興味ありましたら、簡単な登録だけで結構です。無料モニターですし、返却はいつでも可能です。試してみるだけでも」
俺はもう一度チラシに目を落とした。
小さな字で、機械的に書かれた説明文。
『完全個別対応型・ヒューマノイド型恋人ロボット』『24時間対応』『AIによる深層心理学習』――。
馬鹿馬鹿しい。
けど、もし“本当に”理想の相手が手に入るなら。
この胸の中の、空っぽの場所を埋められるなら。
「……ちょっとだけ。話だけ、聞くだけですよ」
俺の口が、勝手に動いていた。
田中はそれを待っていたかのように、深くうなずいた。
「もちろんです。ありがとうございます」
そう言って田中は、スーツの内ポケットから小さなタブレット端末を取り出した。
片手で軽やかにスワイプしながら、俺の視線を逃さず、営業スマイルを絶やさない。
「では、簡単にご説明いたしますね。弊社『クロノス』は現在、“次世代ヒューマノイド型恋人ロボット”の一般公開に向けて、最終テスト段階に入っています。モニターの方には、実際の製品を一定期間ご使用いただき、体験後に簡単なフィードバックをお願いしております」
田中の声はよく通る。営業慣れしてるのが伝わってきて、聞き取りやすいが、どこか機械的でもあった。
「商品は、お申込みから最短翌日に配送されます。モニター期間は“14日間”。ただし、返品・交換をご希望の場合は、“商品到着から3日以内”にご連絡ください。それ以降の交換は、いかなる理由でも不可となります。ご注意ください」
「……それ、結構大事な話ですね」
「はい。皆さん見落としがちなので、強調させていただいてます。なお、体験後のアンケートは必須ですが、売り込みや課金などは一切ありません。あくまで無料のモニターです」
そこまで説明されて、俺はなんとなく頷いていた。
正直、話の半分は半信半疑だったけど――それでも、「何かが変わるかもしれない」という淡い期待が、ほんの少しだけ胸の奥で灯っていた。
「では、簡単なヒアリングにお答えいただけますか? これは本体の初期設定に使われます」
田中が手渡してきたタブレットに表示されたのは、いくつかの設問。
【恋人モニター初期設定アンケート】
お名前を入力してください。
→ 渡〇〇太
性別(ご自身)を選択してください。
→ 男性
日常的に呼ばれたい名前・呼び方はありますか?
→ 「翔太」でいい。
苦手な性格や振る舞いがあれば教えてください。
→ 「過干渉」「嘘をつく人」「上から目線」
求める恋人の性格を3つ挙げてください。
→ 「優しい」「正直」「一途」
質問は次々と進み、俺は淡々と答えていく。
最初はどこかバカバカしい気持ちもあったけど、不思議とタブレットに向かううちに、頭の中が整理されていく感覚があった。
まるで、自分が本当に「理想の恋人」に出会えるつもりでいるみたいだった。
最後の設問が表示されたとき、不意に指が止まった。
Q:あなたにとって“理想の恋人”とは?
静かだったスーパーの隅の通路。
遠くで子どもの声がして、冷蔵コーナーの機械音が低く響いている。
理想の恋人。
何度も考えたはずだった。
けど、言葉にするのは簡単じゃない。
顔がいいとか、気が合うとか、そういうことじゃないんだ。
……それでも。
俺はタブレットに、ゆっくりとこう打ち込んだ。
「この先ずっと、俺だけを好きでいてくれる人」
たとえ世界中が変わっても、飽きずに、見捨てずに、そばにいてくれる人。
他の誰かじゃなくて、「俺」を選び続けてくれる人。
指を止めて、しばらくその文を見つめた。
田中が静かに言った。
「ありがとうございます。それで、準備完了です。では、渡辺さんの“理想の恋人”は、後日、お届けします」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
ただ、頷くことしかできなかった。
―――――――――――
あの日、スーパーの片隅で田中という男に声をかけられたことなんて、正直ほとんど忘れかけていた。
あの夜も、その翌日も、俺は普通に会社に行き、仕事をこなし、同僚と軽口を交わし、そして誰にも言えない空白を胸に抱えて、ベッドに倒れ込む日々を繰り返していた。
日常というのは、案外あっさりと人の記憶を上書きしていく。
ほんの少し不思議なことが起きても、忙しさや疲れに流されて、なかったことになっていく。
……なのに、まさか本当に、届くとは思っていなかった。
その日、仕事から帰ってきた俺は、玄関の前で立ち尽くした。
ドアの前に、想像以上に大きな銀色のケースが鎮座していた。
宅配便の不在票もなければ、送り主の明記もない。ただ、無機質な金属光沢の中に、ひとつだけ。
小さなプレートに刻まれたロゴ。
「Chronos Inc. – Private Delivery」
……クロノス。
あの会社の名前だ。
思わず息をのんだ。
田中、と名乗った男。あのチラシ。
あの時の、半ば気まぐれのような申込み。
冗談じゃなかったのか――?
現実感のないまま、俺は慎重にケースの横にあるスライドレバーを引いた。
シュウ……という低い圧の音とともに、上部がゆっくり開いていく。
冷気がわずかに漂ってきて、心臓が不自然に跳ねる。
そして――
中に、人間がいた。
正確には、“人間のようにしか見えない”男が、安らかに目を閉じたまま横たわっていた。
……嘘だろ。
その肌は透き通るように滑らかで、呼吸のような微かな胸の上下まで見て取れる。
短く整えられた黒髪、すっと通った鼻筋、引き締まった体つき。
表情は穏やかで、まるで誰かの夢の中にいるみたいだった。
とてもじゃないが、機械には見えなかった。
息を呑んでしばらく見つめていた俺は、ようやく正気に返ると、慌ててスマホを取り出した。
名刺入れの中から、あの日もらったクロノス社のカードを引っ張り出し、記載された番号に電話をかける。
――プルル、プルル……。
数回のコールのあと、あっさりと田中が出た。
「はい、お世話になっております。株式会社クロノス田中です」
「あの……渡辺です。あの、これ……本当に届いたんですけど……!」
「ああ、渡辺さん。お受け取りありがとうございます。無事に到着して何よりです」
「いやいやいや、何よりじゃないですよ! これ、どう見ても“人間”なんですけど!?
……ていうか、中に男が入ってるとか、そういうことないですよね? 俺、事件とか巻き込まれてませんよね?」
電話の向こうでクスッと笑う気配がした。
「大丈夫ですよ。れっきとした弊社の製品です。ご安心ください。起動するまではただの機械です。とはいえ、非常に精巧なので、驚かれるのも無理はありません」
「いや……うん、まあ……」
なんだこの状況。
現実味が薄すぎて、夢を見てるんじゃないかという感覚すらある。
「とりあえず、一度お試しいただくのが一番かと。ケース内に簡易マニュアルがございますので、そちらを参考に起動してみてください。万が一操作が難しければ、またご連絡くださいね」
「……はあ、はい……」
電話を切ると、ケースの中を改めて見直した。
横に差し込まれたポケットの中に、薄い封筒のようなものが入っている。
中には白い冊子が一冊。
『ご利用者様へ – R-09型ヒューマノイド使用ガイド(ベータ版)』
機械的なタイトルのくせに、やけに丁寧な手書き風の表紙デザインが不釣り合いだった。
表紙をめくると、一番最初のページに大きく、こう書かれていた。
「この人は、あなただけの恋人です」
……なんなんだよ、本当に。
ぶつけようのない戸惑いを抱えながら、俺はページをめくった。
部屋の空気は妙に静かで、少し冷たい。
俺はリビングのテーブルに説明書を広げ、ゆっくりとページをめくっていた。
手のひらに馴染むその小冊子には、イラスト入りの丁寧な操作手順や注意事項が書かれている。
まるで家電製品のマニュアルみたいな文面。だけど、そこに描かれているのは“人間の姿をした存在”だった。
――【起動方法】の項目で、手が止まった。
「R-09型は、ファーストユーザーとの“スキンコンタクト(初期親愛接続)”によって起動します。推奨方法:額、頬、または唇へのキス」
※ユーザーの心的負荷を軽減するため、推奨順は唇が最も効果的です。
「……は?」
声に出して読んだあと、自分の声が部屋に虚しく響いた。
キス?
こいつに……キスして起動?
改めて、視線を向ける。
リビングの中央、ソファに横たえた“彼”は、まるで安らかに眠っているようだった。
体温も、呼吸も、静かで、ほとんど本物と変わらない。
これが、ロボット……。
「本気かよ……」
冗談みたいな話だった。
でも、田中の対応も含めて、今のところ現実にしか見えない。
もしかしたら、これも「一種の演出」なのかもしれない。そう思いたかった。
一瞬、ためらった。
だけど――
もう何も、失うものなんてないだろ。
そう思って、そっと体をかがめた。
目の前の彼の顔は、信じられないほど整っていて、睫毛の一本一本までが繊細で。
触れることすらためらわれるような静謐さがあった。
けれど、思い切ってそっと唇を寄せる。
ほんの一瞬、軽く、触れるだけのキス。
離れた瞬間。
――ピッ。
静かに、小さな起動音が鳴った。
次の瞬間、目の前の彼が、すうっと瞼を開けた。
……深い、灰がかった黒の瞳。
俺を真っ直ぐに見つめるその視線は、まるで昔の記憶をそのまま引き抜いたかのようだった。
時間が、止まったように感じた。
「……っ」
声にならない息が漏れた。
目の前にいるのは、間違いなく“あの人”に、あまりにもよく似ていた。
――俺が、小さな頃からずっと心の奥で思い続けていた、あの人。
名前を呼ぶことすらできなかった片思い。
時が経って、もう手の届かない場所に行ってしまったと思っていた記憶。
それが、目の前に――。
「おはようございます、ユーザー様」
彼の声は澄んでいて、やさしくて、少し低くて、
記憶の中で何度も繰り返し思い出した声そのものだった。
「あなたの“理想の恋人”として起動しました。まず、僕の“名前”を決めてください」
まっすぐに見つめられたまま、俺は言葉を失った。
胸の奥がざわつく。
これは夢だ、と思いたいのに、熱がどこかにあって、それが現実を知らせてくる。
名前――。
考えなくても、浮かんでしまった。
小さな声で、俺はつぶやく。
「……りょ……うた」
それは、かつて何度も心の中で呼んだ名前。
一度も声に出せなかった、大切な名前。
目の前の彼は、微笑んだ。
「涼太。いい名前ですね。よろしくお願いします」
静かに、けれど確かな声でそう告げた“涼太”は、目の前でにこやかに微笑んでいた。
その表情は穏やかで、どこか懐かしく――それでいて、まだ“つくられた完璧さ”をどこかに残していた。
俺はようやく体を起こしながら、半ば無意識に後ずさる。
(落ち着け……これはアンドロイドだ。ただのモニター製品。ただの、人工物……)
だけど、あの瞳の揺れや声のトーンに“作り物”らしさがまるで感じられない。
そう思っていると、突然、彼の瞳の奥に一瞬だけ淡い光が走った。
「――初期ロードを開始します。ユーザー心理データとの感応最適化を実行します。
自動調整中。しばらくお待ちください」
声のトーンが少し変わっていた。まるでシステム音声のように、冷たく平坦な響き。
さっきまでの柔らかい彼とは別人のように、目の焦点もぼやけていく。
「……え? ちょ、何が始まったの……」
目の前で“涼太”が静かに目を閉じたまま、微細に変化していく。
輪郭はそのままなのに、どこか表情の柔らかさが変わり、首の傾げ方や口元の緩み方に“人間味”が宿っていく。
――それはまさに、俺が昔、好きだった“あの人”そのものになっていくようだった。
思い出の中にある、笑う時の目尻の皺の寄り方。
驚いた時に首をすくめる癖。
教室の窓辺で、日差しを受けながら微笑んでいたときの、あの顔。
全部が、今、目の前で形を成していく。
俺はただ呆然と、その様子を見ていた。
やがて淡い光が収まり、“彼”がゆっくりとまぶたを持ち上げた。
「……翔太」
その呼び方。
優しくて、どこか照れたようで――だけど、深く自分の名前を確かめるような声。
「どうしたの? そんなに見つめて」
俺は、言葉が出なかった。
あまりにそっくりだった。
“涼太”の名を持ったこのロボットは、もう見た目も声も、仕草さえも、あの頃の彼と何ひとつ違わなかった。
(……これは夢か?)
息を飲むと、胸が痛む。
それでも現実は、俺の目の前で静かに微笑んでいる。
「俺……は……」
何かを言いかけて、言葉が喉で止まった。
涼太はそんな俺の戸惑いを、優しいまなざしでじっと見つめていた。
「大丈夫。ゆっくりでいいよ。翔太のペースで、ね?」
その声は、過去の記憶から抜け出してきたような、あまりに優しすぎる響きだった。
そして俺は、自分の心が、静かに揺れているのを確かに感じていた。
―――――――――――――――
翌朝、目が覚めたとき、いつもの天井がやけに白く眩しく見えた。
昨日の出来事――“彼”が届いたこと、“涼太”と名乗ったこと、そして、あのロード。
全部が夢だったんじゃないかと思って、俺は寝ぼけた頭のまま、カーテンの隙間から差す朝の光をぼんやり眺めていた。
「翔太、おはよう」
ベッドの脇で、落ち着いた声が聞こえた。
……夢じゃなかった。
そこにいたのは、完璧な寝癖のない髪と、穏やかな笑顔を浮かべた“涼太”。
エプロン姿で、片手にマグカップを持っていた。
「コーヒー、飲む? 砂糖はなしでよかったよね?」
「……なんで知ってんだよ」
「昨日の夜、キッチンにあったマグカップの匂いでわかった」
「犬かお前は……」
寝起きの脳みそには刺激が強すぎる。
俺は頭をかきながら、とりあえず顔を洗いに洗面所へ向かった。
朝の支度は驚くほどスムーズだった。
涼太は手際よくトーストを焼き、シャツにアイロンをかけ、ネクタイの選別までしてきた。
「今日の気温は26度くらい。会議がある日だから、濃い色のネクタイのほうがいいと思う」
「……もう、涼太が会社行けばいいじゃん」
「ふふ、それはできないよ。俺は翔太のための“彼氏”だから」
その言葉に、俺は思わず手を止めた。
まだ完全には慣れていない。
けれど、朝の静かな時間をこんなふうに誰かと過ごすのは、いつ以来だろう。
トーストをかじり、コーヒーを飲み終えたころ、スマホがバイブを鳴らした。
出勤準備の最終アラーム。
俺は立ち上がって、鞄を肩にかける。
「行ってきます」
そう言おうとした瞬間、背後から柔らかく問いかけられた。
「行ってきますの、キスは……大丈夫?」
「――――はあああ!?!?」
思わず変な声が出た。
「す、するかバカ//////!」
「そう。ふふ、じゃあ、今日は見送りだけにしておく」
いつもと変わらぬ柔らかな笑顔に、なぜか妙に胸の奥がざわついた。
こいつ、からかってるのか。それともマジなのか。
どっちにしても、心臓に悪すぎる。
「……じゃ、行ってくる」
涼太は玄関までついてきて、そっとドアを開けてくれた。
「行ってらっしゃい、翔太。気をつけてね」
その声が、どこまでも自然で、どこまでも“本物”で。
何もかもが嘘くさいはずなのに――なぜか、少しだけ心が温かくなる。
アパートの外階段を下りながら、俺は自分の足取りがいつもよりほんの少し軽いことに気づいた。
理由は言葉にできなかったけれど、なんとなく――今日という日が、悪くない気がした。
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