ユカリが泊まっている部屋は沼の小人が使ってそうな薄汚れた寝台の他に、がたの来ている小さな机と椅子があるくらいで、他には何も入らない狭い部屋だ。北向きの窓しかないためか、単に壁が薄いだけか日中は少し肌寒いが、すり鉢状の街を一望できる景色には面白いものがある。
街の中心にある古びてもしっかりと立つ旧天文台と、街の輪郭に建つ新天文台が丁度縦に一直線になって、窓の中の街を二つに分けている。
窓蓋は両開きになっていた。開け放した途端、斜めに差す温かな光と共にグリュエーが飛び込んできて、ユカリの顔に飛び掛かってくる。
「ぶぇあ」とユカリは変な声を出してしまう。「ちょっとグリュエー! 砂混じりじゃない? 何してたの?」
目に入った異物を涙で流そうとユカリは瞬きを繰り返す。
「旋風が悪いんだよ。あいつらはどこでもからかってくるんだから。消し飛ばしてやろうと思って」
「何それ。縄張り争いでもしてたの? 風の世界って物騒だね。それよりちょっと手伝って欲しいんだけど」
「お手伝い?」と言いながら、グリュエーはユカリの黒髪を月夜の枝垂れ柳のように静かに揺らす。「何を吹き飛ばすの?」
「吹き飛ばさないよ。ほら、前に試したでしょう。息吹を運ぶやつ」
「ああ、あれね。また実験するの?」
「ううん。今日は実践。鳥に憑依して、あの天文台に忍び込む」
そう言ってユカリは窓の景色の真ん中を指さす。グリュエーが見ているのかは分からない。
「ふうん。鳥に変身すればひとっ飛びなのに、『プリンセスのおまじないポエム』は使えなくなっちゃったもんね」
グリュエーの言う通り、せっかくミーチオン地方で完成させた魔導書の魔法は一切が使えなくなっていた。それはそれとして、ユカリはきちんと訂正する。
「『咒詩編』の魔法は使えなくなったけど、触媒としては変わらず強力だよ。それに、どちらにしても、あんな巨大な鳥に変身したらすぐに見つかっちゃう」
ユカリは長い旅でぼろぼろになった合切袋から魔導書『わたしのまほうのほん』もとい『我が奥義書』を取り出す。
『咒詩編』の完成か、もしくはププマルに封印された時か、それはユカリには分からないが、いつの間にか『我が奥義書』に、つまり魔法少女の魔法に第三の魔法が記されていた。
一つ目の魔法は今より幼い姿に変身し、呪い除けの力を持つ衣装に着替え、派手な宝飾品に飾られた何のためにあるのか分からない杖を所持する魔法。その姿を魔法少女という。魔法少女に変身する前の所持品がどこに片づけられているのかは未だに分からない。
二つ目の魔法は万物と会話する魔法。人間以外で初めて喋ったのがグリュエーで、以来ついて来ている。本人にもよく分からない使命があるらしい。同じだ、とユカリは思う。本当に万物と会話できるのか、一つとして例外がないのかまでは検証しようがない。
そして三つ目の魔法は生物に憑依する魔法だった。ユカリが生物に息を吹き込むとその生物の精神を一時的に乗っ取れてしまう。息を吹きかけられるほど近づくこと自体がそもそも難しく、使いどころが限られる。と、初めはそう思っていた。しかしグリュエーに息を運んでもらうことが可能だと分かり、ある程度離れていても憑依できることが分かった。ただし『咒詩編』の人形遣いの魔法と違って、本体であるユカリの意識を保つことが出来ないため、慎重に状況を見極めて使わなくてはならない。
ユカリは窓の前の机に突っ伏すような態勢で椅子に座る。
ユカリは窓から街を眺める。街に冠する空は輝かしいばかりに青く、梅雨の時期に野原を覆う露草の青に似ている。染み渡るように広がる濃い影が西の城壁の向こうからやって来て、すでに街は呑まれつつあった。
窪地の中にあり、その縁を城壁に囲まれているこの街は構造上、一年を通して昼が短い。秋の太陽が地平線の向こうに沈むのはまだ先だが、その前に高い城壁に隠れてしまう。
ユカリは椅子に座った姿勢のまま、屋根の上に集まっている数羽の鳩を見つける。グリュエー任せなので狙いを定める意味はないのだが、矢を射る時のようにじっと鳩を見つめる。
「グリュエー、準備は良い? あそこの鳩の群れのどれかでお願い」
「了解。いつでもどうぞ」
ユカリは大きく息を吸い、肺一杯に空気をため込むと、窓の外へと思い切り、【息を吐き出す】。その魔法の息吹をグリュエーが巻き取り、鳩に目掛けて飛んで行く。全ての息を吐き出しても少し時間差があった。
ふと気が付いた時にはユカリは屋根の上で目をぱちくりとさせている。大風が吹いたのだろう、他の鳩たちは飛び立っている。慣れない鳩の広い視界に酔いそうになった。
ユカリが憑りついた鳩は自分の本体がある宿屋の三階の北向きの部屋に飛んで戻る。念のために、変な態勢になっていないことを確認したかったのだった。まるで楽しい夢でも見ているかのように安らかな寝顔だ。どうやらこの魔法を使っている時は眠っているような状態らしく、体が強い衝撃を受けると解けてしまうことがある。一度、意識を失った途端に頭をぶつけて魔法が解けてしまったことがあった。今回はそのような心配はなさそうだ。
鳩は街の中心へ、旧天文台の方へと飛び立つ。
旧天文台に巣を作る鳩たちはどうやら同じ群れの仲間らしい。出来るだけ怪しまれないように無難な挨拶を返す。
紅と金に世界を彩る秋風に乗って、蔦に覆われた塔の頂付近にある鳩の糞だらけの露台の白くなった欄干に舞い降り、中の様子を伺う。
マーニルの期待とは裏腹に幼い頃に幻想的な夢を見せてくれた観測器具はもう残っていないようだった。代わりに信仰篤き神殿のごとく彩り豊かな布で飾り立てられ、幾本もの長い燭台の蝋燭で室内を照らしている。
しかし粛とした雰囲気ではなく、そこには緊張感が漂っている。礼拝室というよりも謁見の間だ。目の飛び出した暗緑色の畏ろしい偶像の代わりに、玉座のような豪華な椅子が据えられている。そしてそこに豊かな土地を支配し、多くの人々が平伏する偉大な君主のごとく、セビシャスが露台に背を向けて座していた。
両脇にキーツと同じ衣装を着た神官たちが自由を知らない影のように控えている。その中には大河の放浪民族であるセンデラらしき人々もいた。神官の衣装の下に、あの魚の鱗のような飾りのついた服を身に纏っている。
そして玉座の前には部屋を二分するように大きな幕が張られ、その向こうに多くの人々が控えている気配、息遣いと囁きがあった。
しばらくして幕間から一人の男が入ってくる。裕福そうな身なりで白髪交じりの老年の男だ。少し緊張し、戸惑っているようだが、その瞳には強い期待が灯っている。静々と進み出て、セビシャスの姿を見ると恭しくお辞儀し、石の床に膝をついて何かを待つ。
誰一人、何も喋らず、セビシャスが玉座から立ち上がると、頭を垂れたままの老年の男へと近づく。そしてその右手で男の額に触れた。すると、目に見えて老年の男の白髪が黒く濃く色づき、長い年月をかけて深く刻まれた老いの証が薄くなっていく。
鳩の中のユカリは心底驚いていたが、それを鳩の身で表現する方法は知らなかった。
これがセビシャスの言っていた不思議な力だ。
《時》の忠実な家来である《老い》が払われ、体が若返っている。しかし男が完全に若者へと戻る前にセビシャスは手を離し、再び玉座に座った。
さらに若返らせることも出来そうだったが、しかし老年だった男はその奇跡を目の当たりにして十分に喜んでいるようだった。神官の一人に促され、男は幕の向こうに戻っていく。すると抑えようとしても溢れてしまったのだろう歓声が幕の向こうから響いた。奇跡の一端を見て、また奇跡の主の前でもないので、臆することなくその若返りを讃えているらしい。
もしや、これが記憶の回復現象なのだろうか、とユカリは考える。老いは多くの過去を押し流し、ただ輝かしい歴史だけを残すという。老人を若返らせれば記憶を蘇らせることも出来るかもしれない。
しかしそうなるとベルニージュが聞いたという噂には一致しない。誰かに何かをしてもらったという人はいない、という。それに、物心つくまえの記憶を取り戻した者がいる、とのことだった。若返りでは説明がつかない。例え可能だとしても、まさか若返らせて幼子まで戻すことはないだろう。何より、セビシャス自身が記憶の回復現象の噂を聞いてこの街に来たのだ。
そして、やはり、魔導書の気配をユカリは感じなかった。ユーアの例もあるので、断定は出来ないが。これが魔法だとして彼らの喜びようを見るに、そう簡単には成し遂げられない力であることは間違いない。
未だにユカリは魔導書と他の魔法の違いを正確に理解しているとは言えなかった。この出来事がただの魔法で可能なのか、魔導書の魔法でなければ不可能なのか。
また、仮に魔導書だと確信を持つに至ったとしても、それを手に入れる手段がまだユカリには分からない。
あの時、ユーアから魔導書が現れた理由もはっきりしていない。
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