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庫裡の廊下から本堂脇にある客間を眺めていると、襖を開け放った明るい座敷から子供達の笑い声が弾けていた。
寺入り(入学)間もない童の手習師匠を務める真秀(しんしゅう)も、楽しそうに笑顔で教えている。
今は、国尽(くにづくし)を学んでいるのか、みなで六十六か国の国の名を大声で唱えていた。
大円寺では、檀家の筆子(生徒)からは束脩(授業料)を取らぬという決まりで、手習所を開いていたが、若いのに誠実で心優しい真秀には、筆子からも、檀家である親からも厚い信頼が寄せられている。
ワシと目が合うと真秀は、わざわざ立ち上がって黙礼をよこした。
本当に良い子だ。
五年前、檀家総代である札差、和泉屋の番頭から旗本の嫡男を弟子にしてくれと頼まれた時は、お断りすべきだと考えた。
何故なら、十歳にもなる由緒正しき名門の子が、家を出されるということは、それなりに重大な問題を抱えていることが多いからだ。
家を継げぬほど手の付けられぬ悪童か、お役目が務まらぬほど虚弱な体質か…
いずれにせよ、猫の手も借りたいほど忙しいこの寺で、そんな問題児を抱え込みたくはなかったのだ。
ところが、本人に会ってみると全てがワシの勝手な思い込みで、杞憂であったとことを思い知らされた。
まだ前髪が残る幼い童子は、初めて会うワシの目を真っ直ぐに見詰めながらこう言ったのだ。
「私は、三年前に実の母を亡くしましたが、このたび、めでたくも父上の再婚が決まりました。
そこで、子である私が父上の新たな門出の邪魔にならぬようにと、家を出る決意を固めたのです。
つきましては、ご迷惑をお掛けするとは思いますが、どうかこの真秀(さねひで)をお寺の隅にでも置いてくだされ。
力仕事も厭いませぬし、多少の読み書きなら出来まする」
この言葉に、和泉屋の番頭である久兵衛も、付き添いで同席していた亀井家用人の佐々木も目を剥いておった。
それはそうであろう。
先ほどまで、いい大人が二人して世間体ばかりを繕った、薄っぺらい作り話を並べているのを尻目に、まだ幼い真秀が嘘偽りのない誠を口にしたからだ。
しかし、ワシはその言葉で全てを悟った。
この子は捨てられたのだ。
大人達の勝手な都合で捨てられて、その顔に泥と一緒に、詰まらぬ言い訳まで塗りたくられても、この子は、その全てを飲み込んだ上で、あの優しき言葉を紡ぎ出したのだと…
たった十歳の童なのに健気だとは思わぬか。
ワシは涙が出てきた。
そして、珍しく言わなくてもよい毒を吐いてしまう。
「どうやら、付き添いが必要なのは真秀様ではなくお二人のようですな」
この言葉に、二人はしきりに恐縮しておった。
手習所で楽しそうに国尽を教える真秀を見ておると、真秀(さねひで)から真秀(しんしゅう)に生まれ変わった折の、切ない経緯が思い出される。
そうやって五年前の出来事に思いを馳せておると、庫裡の奥から声が掛かったのだ。
どうやら人が訪ねて来た様子で、ワシを呼ぶ寺男の声が聞こえてきた。
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