テラーノベル
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私は、水の魔女。静寂に包まれた森の上空を、箒と共に滑るように飛んでいた。次第に立ち込めてきたのは、ただの自然現象ではない。それは魔力を帯び、肌にまとわりつくように重く深い、意思を持った霧だった。
私は警戒して速度を落とし、地表近くまで高度を下げた。大気中の水分に意識を溶かし、周囲を探る。けれど、この霧は私の魔法をあざ笑うかのように情報を乱し、感覚を狂わせた。熟練の魔女であるはずの私が、方向感覚を失いかけていた。
「お母さん、どこ? どこにいるの……?」
視界を遮る白濁のなか、震える小さな声が鼓膜を叩く。
地上に降り立つと、そこには一人の少女が呆然と立ち尽くしていた。
「どうしたの?」
「お母さんが、いないの。さっきまで、手を繋いでいたのに」
不安に揺れる瞳を見て、私は彼女の手をそっと取った。その瞬間、指先に奇妙な違和感が走る。霧のなかを彷徨っていたはずなのに、彼女の小さな手は露に濡れることもなく、ひどく乾いて、そして氷のように冷たかった。
「……一緒に探してあげるよ。大丈夫、私がついているわ」
私は違和感を胸の奥に押し込め、霧の奥へと歩き出す。夜の間も霧は晴れず、私たちは小さな焚き火を囲んで夜を明かした。少女は火の粉を見つめたまま、一言も語らず、眠ることもなかった。
翌朝。
霧がわずかに薄れた一瞬、目の前に信じられない光景が浮かび上がった。そこにあったのは、地図には載っていないはずの、苔むした石造りの滅びた村だった。
「お母さん、いた!」
少女が駆け出す。その視線の先、村の中央広場には、陽炎のように透き通る姿の女性が立っていた。
その瞬間、私のなかの魔導回路が激しい警鐘を鳴らす。
ここは数百年前に滅び、時が止まってしまった「遺構」。今を生きる人間など、存在し得ない場所。
「お母さん!」
「おかえり、なさい……」
母娘が触れ合った瞬間、激しい突風が吹き抜けた。
白銀の霧が渦を巻き、砂塵に目を細める私の耳に、少女の鈴を転がすような声が届く。
「お姉さん、私を見つけてくれてありがとう。独りじゃ、お母さんのところへ辿り着けなかった」
風の中で、少女の姿がまばゆい光の粒子へとほどけていく。
その光は私の胸へと飛び込み、温かな魔力の奔流となって全身に馴染んだ。それは、この村の血脈にのみ秘かに伝わっていた、霧を晴らすための古い秘術:失われた魔法の記憶。
「……霧が、消えていく」
目を開けたとき、風は凪いでいた。
そこには村も、親子も、焚き火の跡さえも残っていない。ただ、ひっそりと苔むした石碑が一つ、寂しげに佇んでいるだけだった。
私は石碑に積もった枯れ葉を、そっと手で払う。そこには長い年月の果てに削り取られ、かろうじて読み取れる一文が刻まれていた。
『愛しき我が子へ。この霧の先で、いつまでも待っています』
「……無事に、会えたのね」
私は手のひらに宿った、新しい魔力の熱を確かめるように握りしめ、再び箒に跨った。
彼女たちが遺した数百年越しの想いと、新しく授かった光を胸に。水の魔女の旅は、これからも続いていく。
コメント
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霧のなかで出会ったあの少女の笑顔を、私は一生忘れないでしょう。 もしあなたが、この旅の終わりに何かを感じてくれたなら……その想いを、宿屋のポスト(下のコメント欄)へそっと届けてくれませんか? どんな短い言葉でも、私の旅の支えになります。 ――水の魔女