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縁側に座った典晶は、首を伸ばして隣家の石橋家を見つめる。美穂子の部屋から明かりが漏れていた。
あれから、美穂子に電話したところ、美穂子の足の怪我は軽傷で済んだが、理亜の意識はまだ戻らないようだ。理亜に目立った外傷はなく、脳に損傷があるわけでもないという。もちろん、美穂子は凶霊が原因だと知っていたが、それを医者に言うわけにもいかない。結局、理亜は勉強のストレスで、心神喪失状態になっていたと判断され、目が覚めたらカウンセリングを受けるよう、理亜の両親は医者に言われたようだ。
このまま、那由多が来るまで理亜が眠ってくれていれば良いが、そう思い通りにはいかないだろう。もし、次も同じような機会があったら、典晶はどうすれば良いのだろうか。典晶には直接凶霊を払える手段が無い。考えても、答えは見つからない。
「典晶」
振り返ると、黒い浴衣を着たイナリがいた。体はまだ小さいままだ。
「あの理亜という少女が、心配か?」
「ん? うん……」
イナリが横に座る。彼女も美穂子の家を見つめるが、その顔には何の色も浮かんでいない。
「イナリは覚えているか? 小さい頃、文也と美穂子の四人で遊んだ時のことを」
「もちろんだ。私はあの時のことを昨日のように鮮明に覚えているぞ。 よく、夜叉ヶ池の周りで遊んだな。典晶はとろくさかった」
幼いイナリは破顔する。同い年ではなく、まるで親戚の子を見ているかのような感じ。短い足をパタパタと揺らし、イナリは月を見上げる。僅かに欠けた月。その月光を浴びるイナリは、嬉しそうに目を閉じる。
「あの時は、私も典晶の嫁になるとは思ってなかった。何も考えず、あの一瞬を楽しんでいられた。今も、こうして典晶といることは楽しいけどな」
「あの時から、イナリは……」
「俺の事が好きだったのか?」という質問を聞けなかった。そんな質問を聞いてどうするというのだ。イナリの答えを聞き、優越感に浸りたいのか。それとも、もう一度彼女の心を確認しておきたいのか。
「典晶の事は好きだったか、か?」
ドキリとした。目を丸くした典晶に、イナリは得意そうに鼻を鳴らす。
「典晶の考えている事くらい分かる。昔から、顔に出やすいからな」
「……そっか……」
と言う事は、典晶が迷っていた事も、ずっとイナリは分かっていたのだろうか。明確に分かっていなくても、感じ取っていたはずだ。
「……思い出さないか……」
イナリは呟いた。顔を伏せ、月光に輝く足先を見つめる。彼女の小さな口から物憂げな溜息が漏れる。
「思い出さないって、何を?」
以前にもイナリはそんな事を仄めかしていた。イナリが典晶を好きになった切欠が、エピソードがあったのだろうか。
イナリは口を噤んだまま、月を見つめている。こちらが何も思い出さない事に呆れているようにも見えるし、怒っているようにも見える。
「私は、あの時の事を良く憶えている。忘れた事はない。典晶にとっては、何てこの無い事だったのかも知れないが、私にとっては……」
イナリは一旦口を止めた。赤い瞳がこちらに添えられる。
銀色の髪が月光を受けて輝いている。赤い瞳が闇の中で燃えるように光っている。典晶には真似のできない、強い意志、決意の光輝が宿っている。
月光に冴えるイナリ。彼女を前にすると、典晶は自分が新聞紙よりも薄い紙一枚に思えてしまう。如何に自分が卑小な存在であるかを改めて認めてしまう。典晶は、この眼差しが怖いのかも知れない。この瞳に映る自分は、何の取り柄もない取るに足らない存在なのだと、そう感じてしまう。同時に、そう思ってしまう自分の卑屈さが、醜くて、卑しくて、嫌になる。
イナリから視線を逸らし、同じように空に浮かぶ月を見上げる。美しい満月。月の周りには月の虹、月虹が浮かんでいる。
「明日は、天気が崩れるな」
スクとイナリが立ち上がった。
「那由多の奴が来るのだろう?」
典晶は頷く。
「理亜は助かると良いな」
少しだけ寂しそうに言ったイナリは、指先で典晶の肩に触れた。それ以上何も言わないイナリは、俯いて固まってしまった。
時が制止したかのような空間。月光の満ちた庭に動く物は無く、普段は五月蠅いくらいの虫たちの音色も、こちらに気を遣っているかのように静まりかえっていた。
肩に触れているのは、イナリの右手の中指だ。面積にすれば、ほんの僅かだが、典晶はリアルに指が触れる感触が感じられた。
熱い。焼けるような熱さがイナリから伝わってくる。これは、体温ではなくイナリの心。想いなのだろうか。
イナリは何も言わず、動かず、佇んでいる。典晶もイナリの温もりを感じながら、幻想的な光を纏う月を見上げた。
言わなければいけない事がある。だが、その言葉はどうしても胸の奥から出てこない。何度か溜息をついた典晶は、最後に胸一杯に息を吸い込んだ。
「あの……」
「おやすみ、典晶」
典晶の言葉を遮るように、イナリの指先が肩から離れた。彼女は音も無く歩み去ってしまった。
その夜、典晶は久しぶりに一人で床に入る事ができた。心安らかに眠れるはずだというのに、なかなか眠りにつけなかった。イナリ、理亜、凶霊。様々な事が頭の中を駆け巡った。