テラーノベル
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全国コンクールでの銀賞受賞から3ヶ月。美術室を包む空気は、あの秋の西日とは違い、少し肌寒い冬の光に変わっていた。千尋は、美大進学に向けた実技講習の課題である「静物画」のキャンバスに向かっていた。並べられたリンゴや白い布、ガラス瓶。教科書通りの正確なデッサンを求められる日々の中で、千尋はまた、小さな焦りを感じていた。「千尋、まだ残ってたんだ」ガラガラと引き戸が開き、マフラーを巻いた航が顔を出した。3年生の冬。サッカー部を引退した航は、受験勉強のために放課後は図書室にこもっている。その帰りに美術室を覗くのが、今の彼の新しいルーティンだった。「あ、航。勉強お疲れさま」「そっちこそ。なんか、前の絵のときみたいに眉間にシワ寄ってるぞ」「……分かる? なんか、最近また迷っちゃって。美大の受験実技ってさ、正解の形があるじゃない? 私の『群青色』をそのまま描くだけじゃ、合格できない気がして」千尋は筆を置き、冷えた両手を息で温めた。自分の世界は見つけた。けれど、それを「大人の基準」で評価される受験という壁を前にして、また足がすくんでいたのだ。航は美術室のストーブに近づき、手をかざしながら言った。「前のコンクールのとき、千尋は『これが今の私の世界だから』って笑ってたじゃん」「それはそうだけど……受験は綺麗ごとだけじゃ通らないよ」「じゃあさ、ちょっと付き合えよ。息抜き」航に促され、千尋はコートを羽織って外に出た。向かったのは、かつて航が泥だらけになって走っていたグラウンドだった。今は部活の現役たちが声を掛け合いながらボールを追っている。二人はバックネット裏のベンチに腰掛けた。冷たい冬の風が通り抜ける。「ほら、見てみろよ」航が指さしたのは、夕暮れのグラウンドの端、照明灯の影が長く伸びる場所だった。「あそこのライン際、冬になると影がすごく濃くなるんだよな。夏とは全然違うんだ」「……本当だ。青みがかかった、深い影だね」「だろ? 俺、現役のときは寒くて早く帰りてえとしか思わなかったけどさ。こうして引退して離れて見ると、グラウンドも毎日違う顔してるんだなって気づいた」航は千尋を振り返り、悪戯っぽく笑った。「千尋は、基礎っていう『正解の枠』に閉じ込められてるって思ってるかもしれないけどさ。その枠の中で、また新しい見え方を探せばいいんじゃないの? 基礎をちゃんとやりつつ、千尋にしか見えない冬の影の色とか、ガラス瓶の光の反射とかさ」千尋は、グラウンドに落ちる濃い影と、その上に広がる冬の澄んだ空を見上げた。秋の鮮やかな群青色とは違う、どこか冷たく、けれど凛とした透明な青。「……そっか。型を覚えることは、自分の世界を狭めることじゃないんだ。むしろ、自分の世界をもっと正確に、誰かに伝えるための武器なんだね」胸の奥の冷たい塊が、すうっと溶けていくような感覚がした。千尋はベンチから立ち上がり、航に向かって微笑んだ。「航、ありがと。私、もう一回描いてみる」「おう。今度はどんな変なこだわりが入るか、楽しみにしてるわ」美術室に戻った千尋は、再びパレットを握った。ガラス瓶の輪郭を正確に捉えながらも、その透明な底に、ほんの少しだけ冬のグラウンドで見つけた、あの深い影の色を混ぜていく。受験という現実の先にある、まだ見ぬ自分の世界へ向かって、千尋の筆は迷いなく動き出していた。
コメント
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航が千尋をグラウンドに連れ出して、冬の影の話をするところ、すごく良かったです。「基礎は枠じゃなくて武器になる」っていう千尋の気づきが、静かに心に響きました。前の「群青色」の話と繋がって、ちゃんと成長してるんだなって感じられて、胸が温かくなりました。ふたりのやりとりの自然な距離感も、相変わらず素敵です。次も楽しみにしてますね。