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世利里🗝️🫧🖤
112
#🐢超えて🐌超えて🦥投稿
アイリス🌙
3,255
下町へ向かう道を歩きながら、アーティは何度もこれからのことを考えていた。
エーレンフェストの神殿へ行くつもりだった。
けれど、そこで足が止まった。
自分の姿は魔術具で変えてある。顔を見られたとしても、すぐに正体が知られることはないだろう。
しかし、問題はそこではなかった。
服装も、立ち居振る舞いも、どう見ても下町の孤児には見えない。神殿に入れてもらうには、それらしい事情を説明しなければならないだろうし、そもそも、身元もわからない自分が簡単に受け入れてもらえるとは思えなかった。
「……困ったなぁ」
小さく呟いて、アーティは周囲を見回した。
そして、ふと思い出す。
ローゼマインがまだマインだった頃。
この下町を案内してくれたことがあった。
一緒に歩いた道。見慣れない建物。人々の声。活気のある商店街。
思い出と呼べるほど多くの時間を過ごしたわけではない。それでも、アーティにとっては、今いる場所の中で最も安心できる場所だった。
ローゼマインがいた場所。
彼女と一緒に歩いた場所。
そう考えると、張り詰めていた気持ちが、ほんの少しだけ緩んだ。
「……よし」
アーティは顔を上げた。
まずは服装だ。
この格好では、歩いているだけで目立ってしまう。
幸い、手持ちのお金はある。ただし、持っているのは大きな金額ばかりだ。下町の店で使おうとしても、お釣りを用意してもらえない可能性が高い。
それに、これから先、いつまでここにいることになるのかもわからない。
お金はある。
けれど、働かなければならない。
そう考えたアーティは、まず下町で手に入る服を買い、できるだけ周囲に馴染むように着崩した。
上品さを完全に消すことは難しかったが、少なくとも、先ほどまでの格好よりは目立たない。
袖を整え、裾を確認し、もう一度自分の姿を見下ろす。
「……うん。これなら、たぶん大丈夫」
そう言って歩き出したものの、数歩進んだところで、アーティは再び考え込んだ。
働くとして、どこで?
下町の常識など、ほとんど知らない。
仕事の探し方も、相場も、雇ってもらうために必要な手続きもわからない。何も知らない状態で適当な店に飛び込んだところで、まともに働けるとは思えなかった。
そこで、ひとつの場所が頭に浮かんだ。
ギルベルタ商会。
ローゼマインと一緒に、何度か訪れたことがある。
ベンノは厳しいが、商売に関しては信頼できる人物だ。そして、何よりも。
ローゼマインが関わっていた事業について、詳しく知っている。
アーティも、ローゼマインと事業の話をしているところを何度か見聞きしていた。少なくとも、何も知らない店で一から仕事を覚えるよりは、自分にできることがあるはずだった。
「……よし。ギルベルタ商会に行こう」
意地でも働かなければならない。
そう決めて、アーティはまっすぐ歩き始めた。
その道すがら、頭の中では今後の計画がぐるぐると回っていた。
まず、仕事を見つける。
次に、生活の基盤を整える。
それから先は、状況を見ながら考えるしかない。
いつまでここにいるのかも、これからどうするのかも、今はわからない。
ただ、少なくとも今日を乗り切らなければ、明日のことなど考えられないのだ。
「……ローゼマイン、こういうとき、どうしてたんだろう」
ぽつりと漏らした言葉に、アーティ自身が少しだけ笑った。
思えば、ローゼマインはいつだって、普通では考えられないようなことを成し遂げていた。
けれど、その裏でベンノに怒られたり、フェルディナンドに呆れられたりしていたことも知っている。
そう考えると、少しだけ気が楽になった。
自分だって、なんとかなるかもしれない。
そうして歩いているうちに、見覚えのある建物が見えてきた。
ギルベルタ商会だった。
アーティは一度立ち止まり、建物を見上げた。
「……よし」
今度こそ、迷わず扉を開けた。
1.ギルベルタ商会
店内に入ると、見慣れた光景が広がっていた。
商会の人々が忙しそうに働き、商品の確認や帳簿の整理をしている。
アーティは周囲を見回し、以前ローゼマインと来たときのことを思い出しながら、奥へと進んだ。
目的地は決まっている。
ベンノがいつもいる部屋だ。
何度か来たことがあるのだから、場所はわかる。
そう考えたアーティは、迷うことなく廊下を進み、目的の扉の前に立った。
その部屋の中では、ルッツとトゥーリ、そしてベンノが話をしていた。
話題は、ローゼマインについてだった。
「……あいつ、本当に昔から無茶ばっかりだったよな」
ベンノが呆れたように言う。
「でも、マインはいつも一生懸命でしたから」
トゥーリがそう返すと、ルッツも小さく頷いた。
「一生懸命なのはわかるけど、もう少し周りのことも考えてほしかったよ」
「それをあんたが言うのかい、ルッツ」
「ベンノさん!」
いつものようなやり取りだった。
そこには、長い時間を共に過ごしてきた者たちだけが持つ空気があった。
扉の外に立つアーティは、その会話を聞きながら、胸の奥に何かが引っかかるのを感じた。
ローゼマイン。
その名前を聞くだけで、どうしてこんなにも気持ちが揺れるのだろう。
会いたい。
けれど、今は会えない。
話したいことはたくさんあるのに、何から話せばいいのかもわからない。
アーティは一度、目を伏せた。
そして、気持ちを切り替えるように、小さく息を吸った。
今は感傷に浸っている場合ではない。
働かなければならないのだ。
アーティは扉をノックした。
コン、コン。
部屋の中の会話が止まる。
「誰だ?」
ベンノの声が聞こえた。
アーティは扉を開けた。
そして、部屋に入るなり、勢いよく頭を下げた。
「いきなりで申し訳ございません。働かせてください!」
その勢いは、まさしく、悪事を働いてしまったときにフェルディナンドから無言の圧をかけられ、思わず頭を下げてしまうときのそれだった。
深々と下げられた頭。
あまりにも突然の申し出。
そして、見知らぬ少女。
部屋の中は、一瞬で騒然となった。
「…………は?」
ベンノが固まった。
ルッツは目を丸くし、トゥーリは思わず立ち上がった。
誰だ、この子は。
どうやってここまで来た。
いや、それ以前に。
なぜ、関係者しか入れないベンノの部屋の場所を知っている?
全員の頭の中に、同じ疑問が浮かんでいた。
2.困惑するベンノたち
「ちょ、ちょっと待て!」
最初に我に返ったのはベンノだった。
「……まず、お前の名前は?」
ベンノに尋ねられ、アーティは一瞬だけ息を止めた。
アーティと名乗るわけにはいかない。
もしローゼマインが自分を探し始めたら、ベンノならすぐに気づいてしまうだろう。ローゼマインと親しい少女が、突然姿を消した。その少女の名前と特徴が伝われば、先ほどの自分と結びつけられる可能性は十分にある。
今は、見つかるわけにはいかなかった。
アーティは顔を上げ、できるだけ落ち着いた声で答えた。
「……アタナシア、と申します」
「アタナシア?」
「はい」
ベンノは聞き慣れない名前を繰り返したが、それ以上は追及しなかった。
「それで、アタナシア。どうしてうちで働きたいんだ?」
とうとう本題が来た。
アーティは膝の上でそっと手を握った。
ここで説明を間違えれば、追い返されてしまうかもしれない。
けれど、嘘をつくにしても、相手が納得できる事情でなければならない。
「……私は、以前、下級貴族の側仕えをしておりました」
その言葉に、ルッツとトゥーリが顔を見合わせた。
ベンノの目がわずかに細くなる。
「下級貴族の側仕え、ね。それがどうして、こんなところで仕事を探してる?」
「事情があって、これまでの主人に仕えることができなくなりました。今は給金もいただけない状態で……」
アーティは一度、言葉を切った。
「手持ちのお金はあります。でも、これから先の生活を考えると、いつまでもそれに頼るわけにはいきません。自分で働いて、お金を稼がなければと思いました」
それは、完全な嘘ではなかった。
手持ちのお金だけで生活を続けるつもりはない。
自分の力で生活の基盤を整えなければならないという考えも、本心だった。
ただし、今まで仕えていた主人が誰なのか。その事情が何なのか。それについては、口にするわけにはいかなかった。
「だったら、ほかの店でもいいだろう。どうしてギルベルタ商会なんだ?」
ベンノの質問はもっともだった。
アーティは、答えを用意していた。
「貴族と関わりの深い商会だからです」
「……ほう?」
「私は貴族に仕えていたので、貴族の方々が何を求めているのか、どのようなことを気にされるのか、多少は理解しているつもりです。もちろん、商売のことは勉強しなければなりませんが、これまでの経験を活かせるのではないかと思いました」
ベンノは腕を組んだ。
確かに、貴族との付き合いがある商会なら、貴族の習慣や好みを知っている人材が役立つこともある。
しかし、それだけではまだ足りない。
「貴族の側仕えをしていたなら、なぜ神殿に行こうとは思わなかった?」
その質問に、アーティの指先がわずかに強張った。
予想していなかったわけではない。
むしろ、最初から考えていたことだった。
神殿に行けば、食事や寝る場所を得られる可能性がある。
けれど、アーティは知っていた。
貴族たちが神殿をどのように見ているのか。
神殿に対する偏見が根強く、神殿に関わることそのものを快く思わない貴族もいることを。
貴族に仕えていたからこそ、そうした空気を身近に感じてきた。
「……神殿に対する貴族の方々の印象が、あまりよくないことを知っているからです」
部屋が静かになった。
アーティは慎重に言葉を続けた。
「神殿に入れば、生活できるようになるかもしれません。でも、今後また貴族に仕える仕事を探すことになったとき、神殿にいたことが不利になる可能性もあります」
もちろん、すべての貴族が同じ考えを持っているわけではない。
それでも、アーティがこれまで見てきた世界では、神殿に対する印象は決してよいものばかりではなかった。
「私は、できることなら、これまでの経験を活かして働きたいのです。神殿に行くことは、最後の手段にしたいと思っています」
ベンノは、すぐには答えなかった。
目の前の少女は、言葉遣いこそ丁寧だが、ただ仕事を探しているだけの娘とは少し違う。
貴族の側仕えをしていたという話にも、不自然なところはない。
服装を下町風に変えてはいるが、立ち居振る舞いには育ちのよさが残っている。
そして、神殿に対する貴族の印象についても、実際に貴族のそばにいた者らしい話し方だった。
もっとも、だからといって、すぐに信用できるわけではない。
「……それで、うちなら自分の経験を活かせると思ったわけか」
「はい」
「商売の経験は?」
「ほとんどありません」
「帳簿は?」
「勉強が必要です」
「商品の値段や相場は?」
「……これから覚えます」
ベンノは深々とため息をついた。
「お前なぁ……」
アーティは思わず背筋を伸ばした。
まずい。
やはり、無理だっただろうか。
「貴族の側仕えをしていたからって、商会の仕事ができるとは限らねぇんだぞ」
「はい。承知しております」
「それに、うちは慈善事業をやってるわけじゃねぇ。雇うなら、働いてもらう。それが条件だ」
「もちろんです!」
返事だけは、即座だった。
その勢いに、ルッツが目を瞬かせる。
「……そんなに働きたいんだ?」
「はい」
アーティは迷わず答えた。
「働かなければ、これから先、生活できませんから」
その声には、飾り気がなかった。
働きたいのは、商会に憧れているからだけではない。
ここで断られたら、また一から働き口を探さなければならない。
自分には下町で生きていくための知識がほとんどない。頼れる人もいない。
だからこそ、ここで仕事を見つける必要があった。
トゥーリは、そんなアタナシアをじっと見つめていた。
「……ねえ、アタナシア。今、住むところはあるの?」
「ありません」
「えっ?」
思わず声を上げたのはルッツだった。
「住むところもないのに、仕事だけ探しに来たの?」
「はい。仕事が見つかれば、その後で考えようと思っていました」
「順番がおかしいだろ!」
ベンノの声が響いた。
「住む場所も、仕事も、生活するためには両方必要なんだぞ!」
「申し訳ございません!」
「だから、すぐ謝るな!」
アーティは口を閉じた。
ルッツはとうとう顔を背けて笑いをこらえ、トゥーリも困ったように微笑んでいる。
ベンノだけが、相変わらず頭を抱えていた。
しかし、その騒がしさの中で、アーティはほんの少しだけ安心していた。
ローゼマインがまだマインだった頃、彼女がこの場所で過ごしていた時間。
ベンノに怒られ、ルッツと話し、トゥーリがそばにいる。
自分はローゼマインではない。
ここにいる誰も、自分の正体を知らない。
それでも、この場所には、どこか懐かしい空気があった。
帰る場所を失ったわけではない。
けれど、今は帰るわけにはいかない。
ならば、ここから自分の居場所を作るしかなかった。
アーティは膝の上で手を握り直し、改めてベンノを見た。
「ベンノさん。どうか、私を働かせてください」
今度は、頭を下げなかった。
ただ、まっすぐに彼を見つめた。
「どんな仕事でも、まずはやってみます。足りない知識は勉強します。役に立てるように努力します」
ベンノは、しばらく黙っていた。
そして、ようやく口を開いた。
「……わかった。ひとまず、簡単な仕事からやらせてみる」
アーティの表情が明るくなる。
「本当ですか?」
「ただし、試用だ。仕事ができなければ、雇い続けるわけにはいかねぇ。それでいいな?」
「はい! ありがとうございます!」
アーティは、またしても勢いよく頭を下げた。
「だから、頭を下げる勢いが強すぎるんだよ!」
ベンノの声に、ルッツが吹き出した。
トゥーリも笑っている。
その光景を見ながら、アーティは胸の奥に残っていた緊張が、ほんの少しだけほどけるのを感じた。
こうして、アタナシアという名前での生活が始まった。
まだ何も解決していない。
いつまでここにいられるのかもわからない。
ローゼマインに見つかるわけにはいかない。
それでも、今は働く場所を得ることができた。
アーティは、心の中でそっと呟いた。
――ローゼマイン。少しだけ、ここを借りるね。
あなたがマインだった頃に歩いた、この下町で。
今度は私が、自分の力で生きてみるから。
本好きの下剋上 二次創作
第三話「神殿にいないアーティ」
エーレンフェストは、かつてないほどの混乱に包まれていた。
発端は、アーティの失踪だった。
卒業式での騒動の後、護衛の目を離れた隙に姿を消したアーティ。魔術具によって姿を変えている可能性もあり、目撃情報だけで所在を特定することは難しい。
しかし、彼女と関わりの深い者たちは、ある場所を真っ先に思い浮かべていた。
神殿。
ローゼマインがマインだった頃を知り、アーティ自身にも思い出がある場所。そして、貴族社会のしがらみから離れようとした者が向かう可能性のある場所だった。
「……神殿でしょうね」
ローゼマインがそう口にすると、フェルディナンドも否定しなかった。
「可能性は高い。だが、確証はない」
「それでも、まずは確認しなければなりません」
「当然だ」
二人の会話を聞いていたハルトムートは、表情を引き締めた。
アーティがどのような思いで姿を消したのか、まだ誰にもわからない。
ただ、彼女が自分の意思で姿を消したのであれば、無理に追い詰めることで、さらに遠くへ行ってしまう可能性もある。
一刻も早く見つけたい。
けれど、見つけた後、どう接するべきなのか。
それもまた、考えなければならない問題だった。
そして、この騒動には、もう一人、予想外の人物が関わっていた。
アナスタージウスである。
王族が中央から突然移動する。
それだけでも異例の事態だった。
ましてや、今回の移動は、王族としての公務でも、領地間の正式な訪問でもない。一人の少女の行方を追うためのものだった。
それでも、アナスタージウスは引き下がらなかった。
アーティを見つけるためならば、王位を捨てる覚悟すらある。
そうして彼は、関係者との直談判を重ね、ついに移動の許可を得たのだった。
ローゼマインは、その決意を聞いたとき、何も言えなかった。
アナスタージウスがどれほど本気なのか。それは、彼の行動そのものが示していた。
ただ、だからといって、アーティがどこにいるのかがわかるわけではない。
そして今、彼らは一つの場所へ向かおうとしていた。
エーレンフェストの神殿へ。
1.神殿へ向かう一行
「本当に神殿にいるのでしょうか……」
馬車の中で、ローゼマインが小さく呟いた。
「いると断定したわけではない」
フェルディナンドは淡々と答えた。
「だが、現時点で最も可能性が高い場所だ。確認する価値はある」
「そう、ですよね……」
ローゼマインは窓の外へ目を向けた。
アーティは、なぜ何も言わずに姿を消したのだろう。
何かに耐えられなくなったのか。
それとも、誰にも知られずに一人になりたかったのか。
考えれば考えるほど、胸の奥が落ち着かなくなる。
以前の二人なら、何かあれば遠慮なく言い合っていた。
疲れていると感じれば、相手を連れ出して休ませることもあった。
「疲れてるかな?って思って。また二人で怒られちゃうね」
そう言って笑ったアーティの顔が、ふと頭をよぎる。
あの頃の二人には、身分の違いも、立場の違いも、今ほど大きな壁ではなかった。
けれど、今は違う。
ローゼマインは領主候補生であり、アーティにも貴族としての立場がある。
互いを大切に思っていても、以前と同じようには振る舞えない。
それでも。
「……見つけたら、ちゃんと話したいです」
ローゼマインは静かに言った。
フェルディナンドは、彼女を一瞥した。
「それは本人の意思を確かめてからだ。こちらの都合だけで話を進めるな」
「わかっています」
返事をしながらも、ローゼマインの表情は晴れなかった。
その向かいでは、アナスタージウスが黙って座っていた。
普段なら、王族としての立場を意識した振る舞いを崩すことはない。
しかし、今は違った。
アーティがどこにいるのか。
無事なのか。
なぜ自分たちの前から姿を消したのか。
その答えを知らないことが、彼を苛立たせていた。
「……神殿にいなかったら、どうするつもりだ?」
唐突な問いに、ローゼマインは顔を上げた。
「え?」
「神殿にいなかった場合だ。次はどこを探す?」
ローゼマインは言葉に詰まった。
「それは……」
答えられない。
アーティがどこへ向かったのか、手がかりがないのだ。
フェルディナンドが静かに口を開いた。
「まずは神殿を確認する。その後は、得られた情報から判断するしかない」
「悠長なことを言っている場合か?」
「焦っても、いない場所から人間が現れるわけではない」
フェルディナンドの言葉に、アナスタージウスは眉を寄せた。
「……わかっている」
わかっているからこそ、焦るのだ。
王族として、簡単に許される行動ではないことも承知していた。
中央を離れることの重大さも、今回の行動がどれほど異例なのかも理解している。
それでも、アーティを見つけずにはいられなかった。
やがて馬車が止まった。
神殿に到着したのだ。
一行は、各々の護衛と側仕えを伴い、神殿の中へと向かった。
神殿側にとっては、まさに青天の霹靂である。
領主一族に加え、フェルディナンド、ローゼマイン、そして王族までが突然訪れる。
何事かと騒然となるのも当然だった。
しかし、彼らの目的はただ一つ。
アーティの所在を確かめることだった。
2.神殿の側仕えたち
神殿の中では、すでに対応に追われていた。
領主一族が訪れるだけでも十分に大事である。
そこにローゼマインとフェルディナンドが加わり、さらには王族のアナスタージウスまでいる。
神殿に仕える者たちは、突然の訪問に驚きながらも、失礼のないように対応しようとしていた。
しかし、ローゼマインとフェルディナンドの側仕えたちは、周囲が騒然としている中でも、比較的落ち着いていた。
彼らは、神殿がどのような場所なのかを知っている。
そして、アーティがここにいると決まったわけではないことも理解していた。
ローゼマインの側仕えが、神殿側の者へ確認を始める。
「最近、こちらへ新たに入った者はいませんか?」
「いえ、そのような者はおりませんが……」
「貴族の娘と思われる者や、身元のわからない者が訪れたことは?」
「ございません」
返答は明瞭だった。
誰かが隠しているような様子もない。
質問を変え、確認する相手を変えても、返ってくる答えは同じだった。
アーティは来ていない。
アーティでなくとも、身元のわからない少女が神殿に来たという話すらない。
ローゼマインは、その報告を聞いて、顔を曇らせた。
「……そんな」
神殿にいない。
では、どこへ行ったというのだろう。
一方、フェルディナンドの側仕えも、神殿内の者たちへ冷静に確認を続けていた。
「念のため、各所を確認してください。本人が名乗っていない可能性もあります」
「承知いたしました」
しかし、確認を重ねても、結果は変わらなかった。
新しく来た者はいない。
見知らぬ少女もいない。
神殿の者たちには、嘘をついている様子がまったく見受けられなかった。
フェルディナンドは、その報告を受けて目を閉じた。
そして。
「…………」
頭を抱えた。
「フェルディナンド様?」
ローゼマインが不安そうに声をかける。
「……いや。少し考えさせろ」
神殿にいるという予想は、もっともらしかった。
アーティが貴族社会から距離を置きたいと考えたなら、神殿は候補の一つになる。
だが、実際にはいない。
ならば、次に考えるべきは別の場所だ。
問題は、その候補が多すぎることだった。
貴族の屋敷。
知人のもと。
領地内のどこか。
あるいは、エーレンフェストの外。
しかし、どれも確証がない。
アーティが何を考えて行動したのかさえ、今の彼らにはわからないのだ。
「……まさか、本当に神殿ではないとはな」
フェルディナンドの呟きに、誰も答えられなかった。
3.アナスタージウスの苛立ち
「では、アーティはどこにいるのだ!」
アナスタージウスの声が、神殿の一室に響いた。
ローゼマインは肩を震わせた。
「わ、わたくしにもわかりません……」
「お前はアーティと親しかったのだろう!」
「それは、そうですが……」
「ならば、なぜ行き先がわからない!」
ローゼマインは、唇を噛んだ。
アナスタージウスが苛立つ理由はわかる。
王族としての立場を危険にさらしてまで、アーティを探しに来たのだ。
中央から移動すること自体が異例であり、そのために彼がどれほどの覚悟を決めたのかも、ローゼマインには想像できた。
それなのに、肝心のアーティがいない。
焦りも苛立ちも、当然だろう。
しかし。
「……わたくしだって、アーティがどこにいるのか知りたいです」
ローゼマインの声は、いつもより小さかった。
「わたくしだって、こんなことになるなんて思っていませんでした。アーティが何を考えていたのかも、どうして姿を消したのかも、わからないんです」
「……っ」
アナスタージウスは言葉を止めた。
ローゼマインの顔には、困惑だけではない感情が浮かんでいた。
心配。
後悔。
そして、アーティのことを何も知らないまま、ここまで来てしまったことへの不安。
ローゼマイン自身も、アーティを探したいと思っている。
それなのに、手がかりがない。
「……アーティが、何も言わずにいなくなるなんて」
ぽつりと漏らした言葉は、誰に向けたものでもなかった。
アーティは、何かあれば自分に話してくれると思っていた。
少なくとも、そう信じていた。
けれど、実際には違った。
アーティは姿を消し、ローゼマインには何も残されていない。
何を考えていたのか。
何に苦しんでいたのか。
自分が気づいていなかっただけなのか。
それすら、わからない。
アナスタージウスは、ローゼマインの返答を聞いて、苛立ちを抑えるように息を吐いた。
「……すまない。お前を責めても、仕方がないことはわかっている」
しかし、その声から焦りが消えたわけではなかった。
「だが、ここにいないとなれば、次はどこを探せばいい?」
ローゼマインは答えられなかった。
その問いに答えられる者は、ここにはいなかった。
4.誰も思いつかなかった場所
神殿にアーティはいなかった。
その事実を前にして、一行は次の行動を考えなければならなかった。
フェルディナンドは、神殿側から得られた情報を整理しながら、考え込んでいた。
「神殿にいない以上、当初の予想は外れたと考えるべきだろう」
「では、貴族の屋敷でしょうか?」
ローゼマインの問いに、フェルディナンドはすぐには答えなかった。
「可能性はある。だが、今のところ根拠がない」
ハルトムートもまた、思案していた。
アーティは貴族として生きてきた。
その知識も、振る舞いも、周囲との関係も、貴族社会を前提としている。
だからこそ、彼女が行くとすれば、貴族の関係者がいる場所だと考えるのが自然だった。
「誰かのもとへ身を寄せた可能性はないでしょうか」
「否定はできない。だが、候補を絞るには情報が足りない」
フェルディナンドは、眉間を押さえた。
まったく、どこへ行ったのだ。
手がかりがない以上、考えられる場所を一つずつ確認していくしかない。
だが、その一方で、彼らが見落としていた可能性があった。
あまりにも当たり前すぎて、誰も真剣に考えなかった場所。
貴族社会の外側。
アーティが、それまでの生活とはまったく異なる環境へ移動した可能性である。
彼女は貴族として生きてきた。
だから、貴族の知人を頼るだろう。
貴族の屋敷へ行くだろう。
神殿へ向かうとしても、神殿に関わりのある者を頼るだろう。
彼らは、無意識のうちにそう考えていた。
しかし、アーティは違った。
神殿へ向かおうとしたものの、自分が受け入れられるとは思えなかった。
貴族社会の中にいれば、いずれ見つかってしまうかもしれない。
だからこそ、彼女は下町へ向かったのだ。
その可能性を、誰一人として思いつかなかった。
ローゼマインでさえも。
「……アーティ」
ローゼマインは、誰にも聞こえないほど小さな声で、その名前を呼んだ。
どうか無事でいてほしい。
どこにいるとしても、無事でいてくれればいい。
今は、それだけだった。
けれど、彼女たちはまだ知らない。
アーティが今、貴族たちが探している神殿から遠く離れた下町で、アタナシアという名前を名乗っていることを。
そして、ギルベルタ商会で働くために、必死に頭を下げていることを。
まさか、貴族として生きてきた少女が、下町の商会で働き口を探しているなどとは。
誰が予想できただろうか。
アーティを探す者たちが神殿に集まっている頃、当の本人は、彼らが最も予想しなかった場所で、新しい生活を始めようとしていた。
コメント
1件
アーティがアタナシアとして下町で一から働こうとしてるの、胸がぎゅってなった……。ベンノに頭を下げまくる姿、思わず「それ、フェルディナンドの教育の成果やん」って笑っちゃった。ローゼマインたちが神殿で探してる間に、本人は一番身近な場所にいるっていうすれ違いが切なくて、でもアーティが自分の足で生きようとする姿がまぶしかった。続きがすごく気になるよ🥀