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十九時。
夕方、店仕舞いをしてから、まだ一時間しか経っていない。それでもアンリエッタの視線は、時計へと向いていた。
二十時。
アンリエッタはまた、時計を見た。
そろそろ帰ってくる頃だけど……。
思わずアンリエッタは、ハッとした。
話し合いをした日から、マーカスは約束通り、二日に一度は帰るようになった。まだ、忙しいことには変わりないようだったが。
それでもこうして、指折り数えたり、時計を気にしたり。マーカスに見られでもしたら、茶化されることこの上ない行為だと、分かっていても、気がついたらやり出していた。
「!」
私と同じ神聖力が、家の中に入ってきたのを感じた。
学術院で神聖力を学び出してから、独学でやるより、やはり効率が良いということを実感させられた。何より、実践しても危険がないことが一番良かった点だった。
本来は、力を出すことで制御するらしいのだが、私の場合は、その力自体が多いため、出す前に制御をしなければならなかった。要するに、蛇口を捻ってから、多く出したり少なく出したりして、調整するのではなく、最初からちょろちょろ出すことを、学ばなければならない。
孤児院にいた時も、イズル夫妻と旅をしていた時も、そんなに頻繁に力を使っていたわけではなかった。使っても、怪我を治す程度だったため、あまり加減がなくても大丈夫だったらしい。怪我の分で余った神聖力は、相手の体に分け与える分となるからだ。
けれど、身を守るためには、防御から攻撃まで出来なくてはならない。さらに、こないだの事件で、私自身が本来持っている量を、最大限に出してしまったせいか、ちょっと出したつもりが、ちょっとどころではなくなり、加減が出来なくなってしまったのだ。
先生が言うには、箍が外れてしまったらしい。元々、普段から体の周りを漂うほど、神聖力を多く持っていたのだから、制御をすることが、何よりも身を守ることだと教わった。
皮肉なことに、こないだの事件で、自分の力を感じ取れるようなったのが、制御する近道になった。先生という、別の神聖力を感じ取ることで、また自分の神聖力との違いを実感できたことも、制御できるようになった要因だった。
すると、今度は別の問題が生じたのだ。それは、今のような状況である。
なかなか帰って来られないマーカスが心配で、祝福をするのだが、それが原因で、このように帰ってきたことが、瞬時に分かるようになってしまったのだ。つまり、前世でいうところのGPSのようなものと、同等の働きを神聖力が果たしてしまい、嫌な気分になった。
束縛を嫌う自分が、相手の位置が分かってしまう力なんて、気持ち悪いにも程がある。もし、自分がその立場になったら、全身で拒否するだろう。
けれど、黙っているのも気が引けたため、先日マーカスに打ち明けた。すると、
「悪用しないのは知っているし、元々束縛してくれないんだから、ちょうど良いんじゃないか」
気にしないと言われ、安堵した。が、束縛が嫌いなのに、相手に強いるわけがない、と一応反論しておいた。私は基本、来る者は選ぶが、去る者は追わない主義だから。
それでも気が引けるようなら、とある条件を出された。今のように帰ってきたこと分かるのなら、出迎えてほしい、と。
「おかえりなさい、マーカス」
笑顔で言うのも、追加注文された。それについては、状況に応じて対応を考える、と返答した。今日は勿論、何もないため笑顔で出迎えた。
「ただいま、アンリエッタ」
二日振りに見るマーカスは、以前のような疲労は見られなかった。怪我もしている感じはしない。安堵したアンリエッタは、リビングへと歩き始めた。
帰ってきたら、食事。まずそれが、二人が取り決めたルールの一つだった。二日の内、きちんと食事を取れているのか、怪しかったため、それだけは譲れないと、アンリエッタが押し切ったのだ。
「!」
しかし、アンリエッタはすぐにリビングに入ることは出来なかった。マーカスが後ろから抱き締めてきたからだ。
「帰って来ない方が良かった?」
髪を掛けられたことで露わになった耳に、マーカスはそう囁いた。くすぐったくて、耳を押さえながら、アンリエッタは振り向いた。
「何でそんなことを言うの。嫌なら出迎えたり――……」
しない、と言おうとした言葉は、最後まで言わせてもらえなかった。頬に手を当てられ、口を塞がれたからだ。そして、キスしたまま、横抱きにされた。
無理な体制だったため、自然と腕がマーカスの首を抱くようになってしまった。他から見たら、キスを自ら強請っているように、見えるかもしれない。
「んんん~~!」
しかし、それだけの理由で、顔を離したわけじゃない。横抱きにされた後、歩き出したマーカスの向かった先に、原因があった。
リビングは、玄関から歩けば、すぐの場所にある。歩く速度を考えたとしても、リビングを通り過ぎたことは、明白だった。それならば、向かう先は……。一つしかなかった。
「待って! もうルールを忘れたの」
「アンリエッタはさっきの態度で、良かったと思っているのか」
暗に出迎えの態度が気に食わない、と言っているのは分かる。が、そんな毎回、仰々しく出迎えられるわけがない。
「悪かったとは思うけど、それが理由で、毎回こんなことされたら、私のみ、身が持たない!」
「……我慢できないんだ」
そう言って、マーカスはアンリエッタの額にキスをした。その真意が読み取れず、どうしていいのか分からなかった。だから、マーカスの首元に顔を置いた。
「それでもルールは守って。帰ってくる頃に合わせて、用意しておいたんだから」
待っていたのだと懇願した。が、それは逆効果だった。一度歩みを止めていた足を、マーカスは再び動かした。しかも、さきほどより速度が速いような気がした。
「マ、マーカス⁉」
慌てて呼んだが、もう遅かった。マーカスは自分の部屋を開け、ベッドの上にアンリエッタを置いたからだ。
「ちょっと待って!お願いだから、せめて話だけでも先にして」
二人が取り決めたルールは、まだあった。それは、銀竜やカラリッド侯爵家のことなどといった、アンリエッタが関わっている情報で、新たに分かったことは話すこと。
その二つを守らなければ、マーカスの要求は受け入れない、と苦肉の策でアンリエッタが提案したものだった。
愛している人に愛されるのは嬉しい。けれど、すべて受け入れるのには限度があった。覆いかぶさってくるマーカスを、何とか腕で押したが、気休め程度にしかならなかった。
「話は後でする」
「ダメ!」
「愛しているんだ、アンリ」
「~~~~~っ!」
滅多に呼ばない愛称まで持ち出し、さらに抱きついて懇願してきた。卑怯だと思いつつも、結局アンリエッタは、マーカスの背中に腕を回した。
***
食べ物の匂いがした。今日は、いつ帰ってくるか分からないため、温め直しても大丈夫なハンバーグを用意しておいたのだ。デミグラスソースなら、パンにも合うから、余分に作って。食べずにいたから、夢の中でも匂いがするのかな……。
「起きたか?」
「……マーカス?」
まだ眠たそうに、アンリエッタは何度か瞬きをした。だが、次の瞬間、目が一気に覚めた。
「!」
お腹の音が鳴り、恥ずかし過ぎて布団を被った。
「ごめん。先に食事を取らなかったから」
優しく語りかけてはくるが、行動はそれに伴わなかった。布団を剥がし、アンリエッタの体を持ち上げて、自らの膝に乗せたのだ。そして、水の入ったコップを手渡した。
「あと、これも」
「まだ飲むの?」
コップを返すと、また別のコップを手渡された。マーカスが変なものを渡すとは思えなかったため、口に入れた。
「‼」
途端、あまりにも苦くて驚いた。
「口直しに、甘いものを食べた方がいい」
「何を飲ませたの?」
「……避妊薬。飲まなかったから」
本当に、さっきから行動が伴っていない。申し訳なさそうな口調とは裏腹に、マーカスは顔を近づけ、口の中にあった苦味を拭ってくれた。それにも関わらず、甘いものと言って差し出したチョコレートを、アンリエッタの手に乗せた。
アンリエッタは、それを半分にしてマーカスに差し出した。すると、わざと可愛く見せて、口を開けた。そう、まるで食べさせて、とでも言うように。
他の人のあざとい行動には、全く靡かないアンリエッタだったが、マーカスのこれには弱かった。だから結局、求められるがまま、チョコレートをマーカスの口に入れた。
「食事を先にしよう」
そう言って、当然のように食べさせようとするマーカスに、どう対応するべきか悩んだ。一先ず、差し出された一切れのパンを口に入れた後、マーカスの手が離れた隙をついて、膝から降りた。
サイドテーブルに置かれた食事を、お盆ごと持って、マーカスの隣に座った。それがせめてもの譲歩だった。不満そうな顔をされたが、お腹が空いているのに、ちまちま食べていられないのだ、とばかりに急いで食べた。
「ごちそうさま。マーカスはもう食べたの?」
サイドテーブルには、一人分しかなかった。
「アンリエッタが寝ている間に、全部済ませておいた」
「じゃ、話を聞かせて」
マーカスは、アンリエッタの膝の上にあったお盆を取り、サイドテーブルに戻した。そして、再び手をアンリエッタに伸ばした。が、叩かれた。
「怒っていないとでも思った?」
「いや。完全に目が覚めて何よりだ」
ふてぶてしく言う顔に腹が立ち、アンリエッタは手首に巻かれたリボンを、マーカスの頭に巻いた。嫌がらせでカチューシャのように巻いたのに、思いの外似合っていて、微妙な気持ちになった。
「満足したか?」
「全然」
苦笑いしながら、マーカスはリボンを外し、隣に座り直したアンリエッタの頭に、先ほどされたのと、同じように巻き直した。
「ルールを破ったのは悪かった。だから、機嫌を直してくれ」
「説明は?」
勿論してくれるんだよね、と髪を撫でてくれているマーカスに向かって睨んだ。すると、分が悪そうに、目を逸らした。
「しばらくは無理そうだから、我慢できなかったんだ」
「二日置きに帰ってこられなくなるってこと?」
「違う。ポーラが帰ってくるからだ」
あっ、とアンリエッタは、あることを思い出した。つい二日前に、マーカスから聞いたことだった。この計画には、どうしてもポーラの存在が、必要だと言っていたことを。
「そっか」
「気が乗らないか?」
「ううん、大丈夫。どうにかしないと、安心できないもの。……ただ、お店が心配なだけ」
マーカスの計画に不満はなかった。それは本当だ。後手に回って、不利な状況になるのは、もっと嫌だった。そして、築き上げてきたものが損なわれるのも、嫌だった。
そんなアンリエッタの頭に、マーカスは再び手を置いた。時折、落ち着かせるように、髪も撫でた。
「前も長いこと閉店していたし、危険な場所って認識されたら……」
「そしたら、別の場所で店を開けばいい」
「簡単に言わないで! 軌道に乗るのだって大変だったのよ。常連さんだって、なかなか付いてくれなかったんだから」
イズル夫妻も、そこまでは見守らずに行商に行ってしまった。時期を外すと、行商も大変だったからである。だから、それまでは一人で、耐えるしかなかった。
雇われていた時は、それを他の誰かがしてくれていた。が、一人で店をやることは、何もかも一人でやり、失敗も全て、自分の責任だった。雇われている方が、どんなに楽だったか、痛感させられた。
「悪かった。でも、そこまで考えておいた方がいい」
「?」
「銀竜の所に行くのならば、それこそ店なんか開くことは出来ないだろう」
そうだ。どうして、そんな簡単なことに気づけなかったんだろう。行かなくちゃいけないと言いながら、お店は休みたくない。何て矛盾した考え。
「ごめんなさい。考えが浅はかだった。そんな想像すら、してなかった」
「いいんだ。まだ先のことだからな。それに、目の前のことに集中するのも、大事なことだ」
マーカスの手が、髪から背中へ、そして腰に伸びると、グッと引き寄せた。アンリエッタもまた、拒絶することなく、頭をマーカスの肩に乗せた。
「それともう一つ。パトリシアの調べものが終わった」
「どうだったの?」
アンリエッタは、顔をマーカスに向けて聞いた。すると、マーカスはアンリエッタの頭を掴んで、先ほどの体勢に戻した。
まだダメだったのね。アンリエッタは内心、溜め息をついた。
「やはり、カラリッド侯爵家しか、見つからなかった。だが、こっちの調べでは、銀竜との関連はない」
「でも、銀竜は神聖力を、必要としている可能性があるのよね」
「完全に関連がないわけじゃない、とでも言いたいのか?」
そこまでは言っていない。ただ、銀竜とカラリッド家の共通点は、神聖力だということだ。それが何を意味しているのか、までは分からない。
「ただ、そう決めつけるのは、どうかなって思ったの。そうだ。銀竜を呼び出しかもしれない人って、見つかったの?」
「いや。ゾドの方も調べるよう、ポーラに助言してきたところだ」
「そっか。そっちはまだだったんだ。写真については、あれから伝えてくれた?」
マーカスが、いつポーラたちと話し合いをしているのか、アンリエッタは知らないのだ。だから、こうして確認するしかなかった。
「あぁ。今日、パトリシアに手紙を渡しに行ったついでに、伝えてきた。カラリッドの魔術師に直接聞いてみるそうだ。実の親のことより、気になるか」
「薄情だと思われるかもしれないけど」
「そうは思わない。ただ聞きたくなったら……」
上手く首が動かせなかったため、マーカスの肩を、少し叩くようにして意思表示した。マーカスの反応から、いい答えが返ってきそうにもないからだった。わざわざ聞き出したいほどの内容でもなかった。
「実はね、今は親のこととか、銀竜のことよりも、写真の方が気になるの」
「憶測でもいいから、話してくれ」
目を閉じて言うアンリエッタの様子に、マーカスは優しく促した。どんなに馬鹿げた仮説でも、受け入れるとばかりに。
「うん。仮にあの写真が、私だとしたら。私もユルーゲルさんと同じように、この時代に来たのかなって思ったの」
「十八年前と言っていたからか」
アンリエッタは頷いた。マーカスの手が、ようやく頭から離れてくれたからだ。
「私は当時、零歳だったから、ユルーゲルさんのように分かるような年齢じゃなかった。それを仮定すると、辻褄が合うと思わない?」
マーカスには小説『銀竜の乙女』のことまでは、話せていない。
私が転生者である以前に、この時代の人間でなかったら、『銀竜の乙女』の中では、完全なイレギュラーの存在になる。だから、パトリシアが原作通り旅に出るどころか、ギラーテにいるのも頷ける。
パトリシアとルカの出会いから、すでに原作から離れてしまっているのは、私の存在が。そして、パトリシアがギラーテにいるのは、ユルーゲルの存在が原因だった。
『銀竜の乙女』でユルーゲルは、名前のみ出ているだけで、直接いるわけではないため、イレギュラーであることが、十分証拠となった。
アンリエッタとユルーゲルが、『銀竜の乙女』のイレギュラーになっている。その共通点は、考えなくとも答えは出ていた。五百年前の人間であることだ。
マーカスから、ユルーゲルがそのことについて、『連れてこられた』と証言していたこと聞いた。つまり、巻き込まれたという意味にも捉えられる。
赤ん坊だった、私に? それとも、他の誰かに巻き込まれた? さすがに、そこまでは調べようがなかった。
だが、『銀竜の乙女』の存在を知らなくても、マーカスにはある程度、伝わるはずだ。
「アンリエッタの実の親が分からないのも、そのせいだと?」
「すでにこの世にいなければ、調べようがないもの」
「その仮説が合っていたとしたら、何故銀竜がアンリエッタを指名するんだ」
「……そこまでは」
考えていなかった。確かに、この仮説が正しかったら、ポーラが示した仮説を否定し兼ねない。そうなると、振り出しに戻ることになる。
マーカスもそこまで思い至ったのか、溜め息をついた。
「でも、この時代に聖女がいなんだから、手っ取り早く、神聖力が強い私を指名したんじゃないかな。この時代の人間かなんて、銀竜には関係ないんだから」
飽く迄、『銀竜の乙女』と関係ないのであれば、ポーラの仮説も、辻褄が合う。
「それもそうだな。とりあえず、ポーラが写真の情報を、持ってやってくることを祈るしかないな。すぐに来そうな雰囲気だったから、期待は出来そうにないが」
「その前に、カラリッド家からの刺客を、どうにかするのが先でしょう」
「あぁ。まずは、そっちを成功させないとな」
よくできました、とばかりにアンリエッタは、マーカスの頬にキスをした。
「パトリシアの手が空いたから、これからはわざわざ手紙のやり取りをする必要はないぞ」
「え?」
「そうだろう」
暗にしてほしくない、と聞こえるのは、気のせいだろうか。持っていくのが嫌だったら、もっと早くに言っているはずだから。
「う~ん。私の一存じゃ、決められないよ。パトリシアさんが手紙をくれたら、返さなかったら失礼でしょ」
「俺がパトリシアに伝えておくよ」
「ちょっと!」
それは横暴でしょう、とマーカスの胸を叩いた。すると、マーカスは笑いながら、アンリエッタの体を持ち上げた。
「そろそろ眠くなる頃合いじゃないか」
「あっ」
ベッドに寝かされ、布団まで掛けられた。お腹が満たされたのか、いつもならこの時間は、寝ているせいか分からないが、急に眠くなってきた。マーカスとの話も、ひと段落ついたから?
「食器……片付けない、と……」
「やっておくから、気にするな」
「ありがとう、マーカス」
目を閉じるアンリエッタの額に、マーカスは口付けを落とした。まさかその日、マーカスが一睡もしなかったとは思わずに、アンリエッタは眠りについた。