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ガミルトン行政区東部、北高地の麓の街陰の土地の宿『雛鳥亭』の食堂でシャリューレは食事を摂っていた。一日よく働いた者たちと働かなかった者たちで食堂は溢れており、調子外れの歌と賑やかな喧噪は本来人々の心を浮き立たせるような作用を持っているものだが、シャリューレはそれらから隔てられ、一人だった。
羊の挽肉と香草の包み焼は今にも倒れそうな体を支え、茸と山羊乳といくつかの香辛料の煮込みは毛羽立った心を微温湯に浸す。月の光に似た輝きを放つ蜂蜜酒はシャリューレの魂を囃し立てるように鞭を打った。
まともな食事だ。何日ぶりか、あるいは何か月ぶりかもしれない。シャリューレは思い出そうとするがそもそも何がまともな食事で、何がそうではないのか分からなくなっていた。元から分かっていなかったような気もした。
確かに心が満たされる。重荷から解放されるような幻覚を覚える。周囲の酔客の喧しい騒ぎが幾重もの幕の向こうの出来事のように思える。
「これでいいかい? お連れさんの食事」と一日の終わりになお溌剌として言ったのはこの食堂を切り盛りする女将だ。
シャリューレはびくりと体を震わせる。女将が話しかけるまで気づかなかったことに驚く。
女将が机の上に置いたのは木の盆といくつかの食器、シャリューレが食べたものと同じ食事だ。酒は温めた山羊乳に変えてもらった。
「ありがとう。面倒をかけて済まない」とシャリューレは無表情で、しかし柔らかい声音で言う。
「構いやしないよ。本当は駄目だけどね。気分が悪いんじゃあ仕方がない」そう言って女将は食堂と酔っ払いたちを見渡す。「気分が良くたってここにいちゃあ悪くならあね。部屋で零さないようにだけ気を付けとくれ。零すならせめて食べる前にしとくれよ」
そう言って女将は豪快に笑い、シャリューレは曖昧な笑みを浮かべる。
シャリューレはもう一度礼を言って、盆を持って食堂を立ち去る。宿の一番奥の一番良い部屋の前まで来ると、シャリューレは秘密めいた呪文を唱える。千古の囚人たちが隠し持っていたという呪文を軸となる魔法に括り付けたものだ。
扉を開けるとまやかしめいた冷気が漂ってくる。先ほどまで扉と窓を凍り付かせていた魔法が役目を失って溶けて消え、次の時に備えて大人しく呪文に還る。
奥の寝台にレモニカが、本来の姿のレモニカが一人、毛布に包まってシャリューレを睨みつけていた。
「近くに蜥蜴嫌いがいるわ。危うく死ぬところだった」とレモニカは少し青みがかった唇で訴える。
「申し訳ございません。その可能性には気づきませんでした」シャリューレは部屋の壁に造り付けられた食卓に盆を運ぶ。「どうぞお召し上がりください」
「貴女は多少顔色が良くなったようね。親衛隊長殿」そう言ってレモニカは冷たい床に触れるのを怯え、跳ねるように歩いて食卓に着く。「己の肉体を疎かにする戦士など聞いたことがないわ」
レモニカが素直に食事を摂ってくれて、シャリューレはひとまずほっとする。また何か臍を曲げられはしないかと懸念していたのだ。
「これは山羊の乳?」と食事を眺めるレモニカに尋ねられる。
「ええ、お好きでしたよね。牛乳はなかったようなので山羊を」
「子供の頃の話よ」
「失礼いたしました。よろしければ別の何かを取りに戻りますが」
「そうして部屋と私と、今度は料理を凍えさせるというわけかしら」
結局臍は曲がってしまったようだった。
「申し訳ございません」
「いいのよ。皮肉の一つも言えるようになったわたくしは、その実、昔よりも大らかになったようにさえ思えるの。怒っていないし呆れてもいない。むしろそうならないように、こういうことを言ってしまうのね。ついでに言えば牛乳や山羊乳を好む気持ちも思い出したわ」
レモニカはシャリューレも聞きなれた祈りの言葉を唱えて食事を始める。
シャリューレはぼんやりと過去を思い出す。言われてみると昔はもっと直截的な臍曲がりだったような気がした。たまらずシャリューレは尋ねる。
「いったい何があったのでしょう? 何故に国を出て、今まで何処にいて、どうやって変わられたのでしょう? 今の殿下はまるで国を出る前の、いえ、もっと昔の――」
「大きな罪悪感と少しの嫌悪感かしら」レモニカは食事の手を止めて壁に過去が映ったかのように宙空を見つめて答える。「それらが積もり積もって耐えきれなくなった最後の一押しが、母の死の原因がわたくしだと知ったこと。衝動のままに、ね。そしてなんやかんやあって。この、なんやかんやは、つまり語る価値がないということだけど。その後ユカリさまやベルニージュさまに出会い、今はこの呪いを解くために旅をしているの。少し寄り道することになってしまったけれど。どう? 素敵だと思わない?」
シャリューレはまた臍を曲げられないように言葉を選ぶ。「殿下が、ご生誕なさった時のことを知っている者は多くありません。殿下は一体どうやってその事を……」
「誰に聞かされようが、わたくしの取っただろう行動はそう変わらないわ。特に当時のわたくしは、ね」
食事に戻ったレモニカから見えてはいないが、シャリューレははっきりと首を横に振る。
「呪いに関しては大王国の総力をあげて解呪方法と呪いをかけた者の両方を捜索しています。何も御自ら探し回る必要はありません」
「わたくしは別に呪いをかけた者を探してはいないわ。でもそうね。誰かがわたくしを呪ったのよね。その人に話を聞いた方が手っ取り早いはずよね。それで、その者を見つけたらどうするの?」
「どのようにかは分かりませんが死は免れないことでしょう」
レモニカは大きな、皮肉めいたため息をつく。
「分からないと言えば一番分からないのが貴女だわ、シャリューレ。なぜわたくしを、わたくし自身をこのように嫌っている貴女がわたくしの親衛隊隊長でいられたのかしら?」
今シャリューレの目の前にいるレモニカがレモニカそのものの姿をしているということは、シャリューレがこの世で最も嫌っている生き物がレモニカだということだ。
シャリューレが言い淀んでいると、レモニカが付け加える。「目隠し用の布を頭からかぶっていた日々が懐かしいわね。あの日以来、貴女を含め誰をも拒み、暗闇の中で生活していたのは間違いだったわ。もっと早く、貴女の中の嫌悪に気づくべきだった。暗闇の中で時折考えていた。貴女はなぜわたくしの側にいてくれたのだろう。きっと強い心を持っているからだ、と思っていたわ。わたくしもそうありたいとさえ。とはいえ、少なくともわたくしのことが恐ろしいなんてことはないわね。少なくともわたくしの見た目はとても素敵だわ。ユカリさま流に言うなら見目麗しい、かしらね。ベルニージュさまは自惚れるなって仰っていたわ」くすくすと笑いながら話すレモニカはふと静まる。「……恐怖ではないのなら、憎悪かしら」
そんなことはない、とシャリューレは心の中で訴える。しかし、シャリューレ自身、その心の奥に煮え立つように蟠っているそれを何と形容すべきか分からなかった。
食事を終えてちらりとシャリューレの顔を見たレモニカが飛び上がるように立ち上がって数歩退く。
シャリューレは慌ててにこやかな笑みを浮かべようとするが、まるで凍り付いたように表情が張り付いている。その表情は恐怖でも憎悪でもない。無だった。自身の心に関わろうとする何もかもを拒む平らで堅牢な壁の如き表情だ。
シャリューレは何も言わずにレモニカの食事を終えた盆を引き取り、部屋を出て行く。そして全く同じ魔術を扉から部屋全体へと施す。閉鎖し、凍結し、封印する。
盆を食堂に返そうと廊下を行くと食堂からやって来た男に声をかけられる。「大丈夫ですか? お顔色がよろしくないようですが」
「いいえ、心配ご無用」それだけ言うとシャリューレは微かな会釈をして男とすれ違う。
その時、異様な、数え切れぬ人々に視線を向けられるような居心地の悪い気配を感じ、シャリューレは振り返る。
男の姿がない。いくつか扉はあるが、扉を開くような物音は聞こえなかった。
シャリューレは男の顔を思い出せないことに気づく。確かに見たはずのその顔は目から上だけ虚無に消えている。
そしてシャリューレは、守るべき王女の居る部屋の、厳重に施錠し、封印したはずの扉が少しだけ開いていることに気づく。