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硝子張りの部屋で、硝子の屋根越しの狭くて厳かな夜空に粛々と瞬く神秘の星々をユカリは仰ぎ見て、ついつい月を探してしまうが、他の建物に隠れて姿が見えない。
ユカリは次いで青臭い植物にも目を向けた。蒔蘿、目箒、浅葱に立麝香草。この部屋では香草も育てられている。盗賊と香草、どこに繋がりがあるのか、ユカリにはまるで分からない。羊の燻製の羹に使わせてもらったが。
「時間が迫ってるよ。一人は『至上の魔鏡』を使えばいいとしてもう一人はどうする?」といつもの最も重厚な椅子に座るネドマリアが言った。
ベルニージュはその向かいの入り口に最も近い椅子に座ってレシュが淹れてくれたお茶を飲んでいた。
ユカリは歩き回りながら硝子の部屋を見渡して言う。「突然この部屋でやると言われても。ここは中にも外にも隠れられるところがありませんよ」
ユカリは狭い庭も眺めるが、身を隠せそうな立ち木もない。
不快そうに鼻をひくつかせてベルニージュが付け加える。「そもそも他の部屋じゃ駄目なんですか? ドボルグとシャリューレの最終調整とやらは」
シャリューレは椅子にもたれかかって言う。「さあね。この部屋を指定したんだとさ、先方がね。雇用主側の指示に逆らえば疑われるぞってドボルグが言うもんだから。まあ、それもそうかなって。それこそ隠れられるところがないからこの部屋を選んだんじゃない?」
「怪しいですね」とベルニージュが目を細めて不満げに言う。「ドボルグがもう向こうに告げ口してるんじゃないですか? ワタシたち罠にかけられるのかも」
「それはないと保証する、私が」ネドマリアは自信を示すように胸を張って言った。「ちなみに私はこの建物のあらゆるところに結界を張り巡らせているから、この館内でなら自在に姿を眩ませられる」
「手伝ってくれるんですか? ネドマリアさん」ユカリは少しだけ驚いて、月光に照らされた庭からネドマリアの方へ視線を戻す。
てっきり姉探し以外何も興味がないのかと思っていた。
「私とユカリの仲じゃない。接点がなかったとしても、その友達は私の友達も同然だよ」とネドマリアははっきりと言う。「そもそも私たち仲良くなったもんね、あの船の上での一か月で」
ネドマリアの言葉に対して、「ええ、まあ」とだけベルニージュは答える。
照れているのだろうか。
「ありがとうございます」ユカリは礼を言って、「そうだ。ベルは普通に同席するっていうのはどう? どうせドボルグは何人か部下を引き連れるんでしょう? その内の一人ってことにすればいいんじゃない?」
「何でワタシ?」ベルニージュが紅い瞳を見開く。「ユカリでも良いじゃない」
「何言ってるの」ユカリは真っ向から否定する。「私はシャリューレさんにもう会ってるんだから」
「そうだった」と言ってベルニージュは項垂れた。「いや、ちょっと待って。ワタシも顔を見られてるんじゃない? レモニカが攫われた時にその場にいたんだから」
「ううん。見られてないよ。ベルは少し離れた場所にいたから暗くて見えなかった」
「で、でも――」
「そんなに盗賊のふりするの嫌なの?」問うて、ユカリは気づく。「あ、別にドボルグに近づかなくていいよ?」
ベルニージュは頑なに首を振る。「そうじゃなくて、ドボルグの部下のふりするのが嫌なんだよ」
「私も嫌」と聞かれもしないのにネドマリアが答えた。
ユカリはおおよそ半月ほどの間、盗賊団の一員のような生活をしていた。それが過ちだったかのように感じられ始めた。
さらに夜の暗黒は深まり、目立ちたがりの星々は強い風に運ばれてきた厚い雲に隠された。硝子の燭台に沢山の蝋燭が灯され、空気の僅かな揺れに合わせて温かな灯火が揺れ、照らされた机や草花まで揺らめく。硝子の部屋はそれそのものが巨大な燈火のように周囲の庭から夜闇を追い出す。
ユカリは『珠玉の宝靴』を履いて、土のある香草のそばへ行く。いざとなれば踏まなくてはならない。そして水に満ちた『至上の魔鏡』をかぶり、その存在は誰にも認識できなくなる。
この魔法は一度シャリューレに見破られた。そのことをベルニージュに話すと、埃だのなんだのははったりだと断言した。元から、あの廃屋に全員が集まった時点で『珠玉の宝靴』を使うつもりだったのだ、と。『至上の魔鏡』が既に盗まれていたことを知っていたなら、それくらいの警戒はするだろう、と。
その説明は筋が通っているかもしれないが、シャリューレが埃の動きを見抜いたという話に真実味の欠けるところはない、とユカリは感じていた。
ネドマリアも姿を隠してこの硝子部屋に潜んでいるはずだが、ユカリにもまた姿が見えない。
三冊の魔導書を懐に備えたベルニージュは盗賊らしい格好をしてドボルグたちと共に玄関の辺りでその時を待っているはずだ。
事ここに至ってなおユカリは不安に苛まれている。本当にシャリューレを捕らえることができるのだろうか、と。しかし他に選択肢はない。レモニカを救う。それだけだ。
そして今、硝子の部屋と館を隔てる唯一の扉がぎいと軋んで開く。緊張した表情のドボルグが先行して、その後ろをついて行く部下はたったの二人に絞られていた。うち一人がベルニージュでもう一人はレシュだった。更に後から部屋に入って来たのはシャリューレではなくジェスランだった。
ベルニージュとレシュは扉のそばに衛兵の如く待機し、ドボルグは長い机の奥の椅子に、ジェスランは手前の椅子に座る。
大仕事の最終調整は滞りなく終わらせ、その後シャリューレを捕まえる、ということになっていた。作戦は修正を余儀なくされる。しかし今更ベルニージュやネドマリアと相談することはできない。
最大の目的はレモニカだ。そこへ至る可能性の糸を手繰り寄せなくてはならない。と、すると自ずとやるべきことは絞られる。ユカリは少し混乱したが、このままシャリューレの代わりにジェスランを捕まえるということで良いだろう、と一人納得する。
「それで、何でシャリーじゃなくて、お前なんだ?」とドボルグは久しぶりに椅子に深く座って言う。「事前に連絡の一つも寄越せないのか?」
「実は数日前からシャリちゃんと連絡がつかなくてね」とジェスランは軽い口調で正直なことを言った。
「おいおい。まさかやられたんじゃないだろうな? ユカリに。そういえばもしも奴を引き渡したなら救済機構にそれなりの反応があるはずだが、特に何もないな」
ドボルグには救済機構の組織内部の様子を知る手段があるらしい。
「まさか。シャリちゃんに限って負けることだけはないよ。まあ、引き渡しは、恐らく失敗したんだろうけど」
「それで、どうするんだ?」
「ご心配なく。おじさんはミージェル君に付き従うだけだからね。君もそのようにしてくれればいいよ。予定通り決行してくれれば予定通りの報酬を払う、と仰せだよ」
ドボルグは顔を歪ませる。ジェスランの言葉を疑っているらしい。
「あんたが奴らの仲間になった経緯は聞いたが、正直信じられないな」
ジェスランは大袈裟な身振りで主張する。「おじさんは本当に真面目に彼らに尽くしてるよ。命がけと言ってもいい」
「いや、そうじゃねえ」ドボルグは机に肘をついてジェスランを指さす。「奴らがあんたを信じていることを、さ。普通は信じねえよ」
「ああ、そういうことね」ジェスランは笑って言った。「君には言っていなかったけど。実のところおじさんは元からシャリーと知り合いでね。彼女の剣の師匠なうえに育ての親、みたいなものなんだよ。だから信頼されているってわけだ」
そう話しながらジェスランは首飾りを、群青色の石を弄んでいた。ユカリがその手つきをじっと見ていると、唐突にまるで幽霊のようにネドマリアがジェスランの背後に現れた。そして冷たい声で問う。
「その石をなぜおまえが持っている?」