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大蒜の香ばしさが伝わってくる。僕の嗅覚を刺激する。年季の入った黒黒した鉄の上では米粒が下では酸化した炭素が光熱を放ち踊る。八幡神社の近くの中華屋を眺めていた。そう眺めていた。眺めると同時に眺められていた。視線の気配、実際にそんなものがあるのかどうかは知らない、そう僕が感じ取ったものを辿る。居た。そこには男が立っていた。何処かで見かけたような。八幡。そう思ったが違う。髪の長さ、輪郭その他諸々が違う。しかし風貌というか雰囲気というか、どことなく八幡を感じさせる。
黒いスーツに身を包み、赤いネクタイ。
相対性理論には詳しくないが、その場を、その男は自分がいる空間を確かに歪ませていたのだ。時間と空間が濁っている空間の中、その濁りが即座に運動を止める。その男は口を開く。
「そう身構えなくていい、俺は怪しいものじゃない。少なくとも君より。それよりもこの街は黄色い。黄色いんだ。」
空気が澱んでいるという意味か。まあ中華屋の前なのだから大蒜の香ばしさをそう表現しても無理ない。するとその男はまた喋り出す。
「そう深く考えるな、そのままの意味だ。知識がついてくると、余計な事を考えてしまう。無知は恐ろしい事だが、知れば知るほどどれだけ自分は愚かかを思い知らされる。皮肉なものだ。」
僕は誰もが思うであろう素朴な疑問をこの男にぶつける。
「あの、貴方は一体誰なのでしょう。」
男はポケットにしまい込んでいた右腕を取り出し、眉間を抑え、鼻息混じりの薄い笑いと同時に目が宙を見上げる。男は僕を見て喋り出す。
「当然の疑問だな。いいだろう、俺の名前は九蘇蔵次(きゅうそくらつぐ)だ。猫は噛まない。
九つ蘇ると書いて九蘇、蔵屋敷の蔵に次世代の次で蔵次だ。」
「僕は蕪木智鶴と言います。蕪の木と書いて蕪木に叡智の智に千羽鶴の鶴です。」
自然に、意識とは離れて喋ってしまった。
「そうか、智鶴か、死ぬまで大事にするといい」
どういう意味だ。勿論、改名はするつもりは無いし、死ぬまでこの名前だろう。奇妙な人だ。
一日に二度も不思議な事に遭遇というか直面した事はない。しかし僕にはどこかひっかかるとこがあった。何処となく八幡に似たこの男。鎌をかけてみる価値はある。
「初対面でこんな事を聞くのは不躾がましいとは思うのですが、ご職業は何を」
男はあからさまに訝ったが、すぐに答えた。
「そうか、俺の仕事に興味があるのか。そうだな、俺の仕事は、営業マンだよ。足を運んで稼いでいるんだ。常に現場にいるという感じだ」
「そうですか。」思っていたよりも平凡な回答が返ってきて安心した。と、同時に疑念が湧いた。そうだなという発言。いや、この場合は失言。自分の職業を直接的には言えないのかもしれない。
「長い事話してしまったな。俺はこの街に用があるだけなんだ」
「道を聞きたいんですか」
「そんなところだ、この街の中心、構造的に中心の位置はあるか」
構造的に中心、どういう意味だ。市街地のことか。
「市街地なら、あちらです。」
僕は人として失礼な事をした。人に向かって指をさしたのだ。僕が指を指した方角には、升沢が立っていた。
「能登咲(のとざき)くん、ここで何をしているの」
升沢は僕の目を見て言う。
九蘇と名乗る男は垂れ下がってきた前髪をかきあげ笑う。
「それは君の心の中心の事かい、能登咲くん」
升沢は表情ひとつ変えなかった。しかし、僕は顔をこわばらせていたらしい、自称九蘇に指摘された。
「緊張が顔に出ているよ」
すかさず升沢は訪ねた。
「能登咲くんとはお知り合いなのでしょうか」
「いえ、私はこの能登咲くんに道を尋ねていたのですよ」
この男はずっと升沢の顔を伺っていたのだろう。ポケットに手をしまい込み、数秒の間目閉じた後にこう言った。
「お嬢さん、貴方は賢明な方のようだ。しかし、どうやら間違いを犯してしまったようだ」
「間違い」
升沢は相変わらず表情を変えなかったものの、言葉に重みが加わった。
「そうだ、君は俺を怪しい人間だと判断したようだ。だからこそこの能登咲くん、かな、この青年との関係性を尋ねたわけだ。にも関わらず君はこの青年と会った途端に能登咲と読んだわけだ、俺の前で。そして君のその冷静な、というより冷めている、そんな態度から見て、君は警戒心が強いと判断させてもらった」
九蘇、九蘇は淡々と続ける。僕の最大の失策。それを思い知らされる。升沢は態度を変えずに言った。
「つまり、何をおっしゃりたいのでしょう」
「つまり、つまりだ、お嬢さんが申し上げた、能登咲という姓は偽名なんだろう、蕪木くん」
僕の失策。乗せられるがままに名前を名乗ってしまった。升沢は表情を、曇らせた。
「どうやら、当たりのようだ。まぁ、悪いことではない。むしろ賢明な判断だったと思うよ。とにかく、俺は目的は果たせた。感謝する。」
九蘇は市街地の方へと消えていく。
無論のことその後、升沢には叱られた。
「最近はとても忙しそうだよね。テスト勉強に勤しんでいるのかな」
風が僕らを素通りする。
「まぁそんな感じだ、そんな感じ」
「なんだか、遠い。遠い気がする、前より」
「最近は一緒には帰ってなかったよな」
「それはしょうがない事だから別にいいんだよ。でもそうじゃなくて、別の何かを見ているというか、蕪木くんが当たり前のように見ているものが私には見えない」
「あ、あぁ」
返事にならないような生返事。いや、これは重言か。頭痛が痛いみたいな。
「気が向いたらでいいのだけれど、ちゃんと相談してよね。私、できる限りの事はするから」
僕はこの機会を逃さない。
「じゃあひとつ聞いてもいいか」
「何を」
「升沢は、両親は好きか」
僕は曲がりなりにも、推論を立てた。八幡の言っていた、友達に対する事は主な感情の蓄積の原因ではない。勿論そこに問題がないとは言えない。残す対人関係は家族か恋人か。升沢には恋人はいてもおかしくないと思ったが、今日の升沢と高音萩の会話を盗み聞きしていて分かったがおよそそういった人はいないらしい。特に意味がなかった事が意味を成したわけだ。しかし、文字通りこんな人の家に土足で足を踏み入れるような質問の仕方はよくなかった。
「実は僕、あんまり好きじゃないんだよ。なんというか過干渉というか、逐一僕のやる事に不平不満が飛んでくるんだよ」
嘘ではなかった。
すると升沢は例のごとく僕を真っ当な意見で諭す。
「思春期だね蕪木くん。いつかは分かる事だろうけど、そのありがたみを知る事になるんだよ。だから」
升沢は深く息を吸い込んだ。
「だから両親を嫌いとかいっちゃダメだよ」
ああ、僕は嫌いとは一言も言っていないんだよ。