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こんな時でも腹は減る。私は木のトレーに雑然と置かれた石のように硬いパンと、冷えた野菜スープの上澄みを前に胡座をかいていた。惨めさが込み上がるが、けれどひもじさに打ち勝つことが出来なかった指先は、プライドを捨てその塊を握った。パンを両手で持ち左右に引っ張ってみたが、それはメキメキと音を立て木屑のように呆気なく崩れた。足元に散らばるライ麦の粉、鼻をひくつかせたドブネズミがあちらこちらから集まって来る。その光景に怖気が走った。
「……くっ、トメさんの肉じゃがが、食べたい!」
家政婦のトメさんの作る温かな肉じゃが……砂糖と醤油の塩梅が絶妙な肉じゃが……けれど今の私は囚われの身……。
「日本の刑務所の方が……もっと美味しいものを食べてるよね……うん」
私は愚痴をこぼしつつ、ドブネズミとのディナーを楽しむことにした。
「……ん?」
すると、石畳の奥から鎧の重厚な足音と剣の擦れる気配が近づいてきた。それはもぬけの殻になった牢屋を素通りし、月明かりが差し込む私の独房の前に立った。「……な、なに?」彼は私を見下ろすと、言葉を発することもなく、恭しく冷たい石の床に跪く。
「あのう……な……んでしょうか?」
私の声は緊張で掠れ、上擦っていた。衛兵は顔を上げると、黒い鎧の奥の瞳を揺らす。
「オランジェット様、今しばらくこちらでご辛抱下さい」
それは昼間、独房に引き摺られて来た時に聞いた声だった。この様子からして衛兵はオランジェット・ドナー伯爵令嬢に近しい存在、味方なのだろう。私は石のようなパンを投げ捨て、鉄柵を力一杯に掴んだ。鉄柵の禿げた感触がこれは現実なのだと思い知らされる。ドブネズミは我先にとパンに齧り付く。鉄柵の音が、空虚な地下牢に虚しく響いた。彼は唇の前に人差し指を立て、「お静かに……!」と目配せをする。
「私、なにをしたの!?本当におう……おう……?」
聞き慣れない言葉に私は戸惑った。
「王太子様です」
「そう!王太子さんを殺しちゃったの!?」
私の声は静寂を切り刻み、彼の鋼の腕にしがみついた。鋭い鎧の音が響きわたる。
「いえ、王太子様はご無事です」
「良かった……!」
「ご安心ください」
私は、顔も見たこともない王太子とやらの無事に、安堵の息が漏らした。独房に天井から滴る水音が侘しく響く。この名もない衛兵は落ち着いた低い声で「リバーとお呼びください」そう言って頭を下げた。そして無情にも、明日の朝、私が断頭台に登る時刻を告げる。明けの刻……それは日本でいうところの月が沈み、太陽が昇る頃だと思われた。
「それって……午前5時?6時頃……?」
普段なら、ベッドでぬくぬくと毛布を被り涎を垂らしている頃だ。絶望と焦燥が渦を巻いて押し寄せる。私はプラチナブロンドの髪をクシャクシャと掻き、足は激しく地団駄を踏んだ。もう、理解の範疇を超えている!
「もう!何でこうなっちゃったのぉぉぉ!」
「オランジェット様……お静かに……」
私はまた叱られてしまった。
「……ごめんなさい」
それにしてもこの遣り取り……リバーの冷静で知的な身のこなし、包み込むような言葉遣いはどこかで、既視感という……あれ? どこかで会った?いや、そんな筈はない。こんな厳つい鎧を着た知人友人なんて一人もいない。
「それでは明日、階段を登ったオリーブの茂みでお助けします」
「ありがとう!リバー!」
「オランジェット様……お静かに」
私はまた叱られてしまった。それにしてもこの声、この仕草……既視感というより、まるで会ったことがあるような?黒い鎧の奥の瞳は優しく、私とリバーの間に緩やかで温かな時間が流れた。
温かい!?いや、全然、寒いし!
鉄格子から夜の湿り気を帯びた風が滑り込み、独房を足元から冷やしてゆく。這い上がる冷たさに震えていると、リバーは肩ではためいていた深紅のマントを脱ぎ、そっと手渡してくれた。触れた鋼の指先は雪のように冷たかったけれど、不安な私の心を解きほぐすには十分だった。
「……っ」
私は目を瞬いて堪えたが、頬を一筋の涙が伝う。この獅子頭橙子が人前で泣くなんて有り得ない。けれど私の涙はポロポロと溢れ、その姿にリバーは戸惑っているようだった。
「ごめん……気にしないで」
「……はい」
そこで重厚な鋼の足音が遠くから響いてきた。リバーは私の手を優しく解き、また恭しく頭を下げた。鎧の音が耳に冷たい。孤独と不安に押しつぶされそうになる。
「オランジェット様、それでは……おやすみなさいませ」
「……うん」
衛兵の交代の時間が来たのだろう、石畳の通路の奥にランタンの明かりがゆらゆらと揺らめいている。リバーは踵を返すと鎧の音と共に、長い影を残して姿を消した。私は涙を手で拭い、彼が貸してくれたマントを羽織って独房の隅に蹲った。気味の悪い動物の鳴き声が孤独な房に反響する。明日の朝には冤罪で断頭台の階段を登る。リバーは助けてくれると力強く頷いたが、彼一人でどうするというのだろう……そこで私はあることに気づいた。
「……この匂い」
リバーの深紅のマントからは、森の奥深くで深呼吸をしたようなウッディな香りが漂ってきた。それは今、獅子頭組でトレンド第一位のオードパルファムの香りと全く同じだった。そこで私は「え、そんな単純な……」という答えに辿り着く。
「でも……」
誰が決めたか、私の名前は橙子。橙子とは、橙色の橙……オレンジ、そしてオランジェットという実に単純明快なネーミングセンス。私は胡座をかいて腕組みをした。
「その流れでいくと……そうなるよねぇ、うん」
オランジェットを「様」と呼ぶリバーは彼女の家臣なのだろう。そうなると……。日本での私の側近はただ一人。
「……川上よね、リバーだし」
冷徹で残忍、狂犬と恐れられる獅子頭組の若頭。その名は、川上。細長いサングラスを外せば切り裂くような鋭い眼光で誰もが道を譲った。(ただし……女子供には優しく、ご高齢の方には手を貸す優しい面も持ち合わせている)その川上は私のお目付け役で、どこに行くにも一緒だった。
「……だから、彼氏なんて夢のまた夢!」
下駄箱に入っていたラブレターは蒸したタバコで業火の如く焼き捨てられ、校門で待ち合わせたクラスメイト(男子)は迎えのBMWに引き摺り込まれ詰問された。私の甘酸っぱい初恋は、蕾のまま花開くことはなかった。
「川上か……そりゃ……助けてくれるよね」
きっと彼は、明日の朝、その身を挺しても私を守ってくれるだろう。けれど問題は、リバーにその記憶があるかどうかだ。あの事故の瞬間に、私がオランジェットになったように、川上もリバーになったのかもしれない。荒唐無稽だがそう考えると納得がいく。
「そうなると……若い衆のみんなも……この国のどこかに?」
私は鉄格子の向こうに顔を覗かせる丸い月を見上げた。その月は涙が溢れるほどに綺麗な月。リバーのマントに頬擦りをしながら、私は浅い眠りについた。