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しろニキ
Dom/Subユニバース
前提認識
→ニキとしろは高校からの同級生
→キャメ、りちょはYoutube初めてから出会った
→ニキとしろは現在半同棲状態
しろせんせー視点
熱を孕んだ瞳に見つめられながら、悪戯っ子のような甘えに心を撃ち抜かれていた。目の前の彼は柔く、潤った唇で俺の唇を甘噛みして、積極的に口づけを交わそうとしてくる。
「Stop《待て》」
なんで止めるの、と言葉にされなくても分かるほどに見つめられる。どうも彼はSubの欲を満たしたい反面、Commandを使われるのが余り好きではないようで、唇を尖らせて少しばかり不貞腐れている。そもそも縛り付けられること自体が嫌だと以前、言っていたような気もする。そんな彼はマイペースそのもので、俺が縛り付ける分には良いのという強欲さも持ち合わせている。そんな彼に少し意地悪をしたくなってしまって、新たにCommandを出そうと口を開いた。
「Look《俺の目、見て》」
俺の命令に彼のぼんやりとしていた瞳はやがて輪郭をはっきりとさせ、俺に釘付けになる。Subの欲求を満たすためとはいえ、Commandに忠順に従う彼。自己中心的な彼の主導権を俺が握っていると思うと、興奮という火に油を注いだ。
「…っね、ぼび、」
本当、我儘な王子様だ。だが、俺は彼のその期待の眼差しに滅法弱い。その身勝手なお強請りに答えるように先程の続きをしようと俺から口づけてみれば、ぴくりと肩を跳ね上げさせる。節々の呼吸から鼻を掠める熱っぽい吐息がやけに扇情的で、勝手ながらにその気にさせられた俺は啄むキスが止まらなかった。
止まる様子のない俺に彼は待ってと零しながら、弱々しく俺の肩を押す。流石にこれ以上は彼が気を損ねてしまう気がして自制した。呼吸を整えている彼は熱っぽい視線を俺に向けたまま、彼の頬に添えていた俺の手を包むように彼自身の手が覆い被さる。そのまま彼のすることに口を挟まずにじいっと見つめていれば、きゅ、と俺の指を握って、目をゆったりと瞑って、まるで擦り寄ってくる猫のように頬を擦り付けてきた。
可愛い
彼の仕草にそう思ってしまったのは、どこぞの猫愛好家の云う”愛猫”に対する愛しさからなのか、それともこのSubに揺すられた”Dom”としての本能からなのか、何なのか。
「ぼびー、だめ。ぜんぶ、わすれさせてくれるんでしょ…?」
余所事を考えすぎたせいか閣下は少しばかりお怒りだ。こっちに構え、という欲望の眼差し。目は口ほどに物を言う、まさにその通りだと思った。あの日からの痛む傷を完治できないままの彼は俺に縋る以外の選択肢が残されていないというのに、俺は一瞬彼への救いの手を振り払いかけた。やってしまったと募る罪悪感からも俺が今一番にしなければならないことは決まっており、馬鹿正直に思いを吐き出してくれる彼にあんな過去を思い出させてしまったことへの謝罪とそれに耐えきった事実を褒めるのみ。
「思い出させてすまんな」
「ううん、別にいいけど…」
そう言葉を濁す彼はSubとしての欲求を満たしてくれと、もの言う目で見つめられる。その欲深さを満たしてあげたいと思ってしまったのはDomとしての本能だと、先程から煩いほどに高鳴る鼓動を無視し続ける。興奮のあまり震える声でこの目の前のSubへのご褒美を与えようと口を開いた。
「Goodboy《偉い子》甘えたさんやね」
彼にとって思い出したくないあの日は俺にとっても思い出したくもない胸糞さだ。
❖
ニキは高校時代から周りに持て囃さる人間だった。だがそれは同級生間で留まることを知らず、教師をも魅了した。
ある日、顧問の出張により部活動が急遽無くなり、休日にのんびりしたかった俺は今のうちに課題を済ませてしまおうと図書館でおよそ二時間前後過ごした後、教材をロッカーに仕舞おうと教室に踏み入れた時のことだった。
「は、ッ…ふ、ぐ…、…ぅ、ぅ……」
「に、き?」
必死に声を押し殺して、嗚咽混じりに小刻みに肩で呼吸する友人のニキと鉢合わせた。当たり前だが俺はこいつが泣いている理由は分からなかった。ただの直感があの瞬間働き、ニキはSubだと認知した。そしてこいつはSubなのかという驚きと、何故Subdropを起こしているのにも関わらずCareをするDomさえ居ないのかという様々な疑問が浮かび上がり、さらに枝分かれしていった。それでもいまこの状況は俺らの言う”当たり前”の生活をしていれば、起こり得ない状況で、何が正しいのかなんてわからないながらに必死に頭を回して、その場しのぎの正解を求めた。
「ニキ、Safewordは『嫌』な」
辿り着いた結論はこの状況下において、俺がするべきことはただひとつだと、状況の有無を言わさず彼のCareをすることだと思った。
「ニキ、Come《おいで》」
「ぁ……」
何があったかなんて俺はわからないし、強姦まがいなことをしている自覚だってある。けれども目の前の彼がSubdropを起こしているのならば、俺以外にDomがこの場に居ないのならば、やるべきことは限られていて、きっと彼も許してくれると罪悪感を少しでも減らそうと自分を宥める。そんな事をしているうちにもSubである彼はDomである俺のCommandに逆らうすべなく、覚束無い足取りで、ゆっくりと、確実に一歩を踏みしめて俺の元へやってくる。
「ぼ、び…」
俺の元へやってきた彼は酷く震えた手で、きゅっと俺の服を摘み、俺の名前を弱々しく震えた声色で呼ぶ。
「Good《よう出来ました》」
褒めてやれば、虚ろな瞳ではあったがゆっくりと俺の方を向き、怯えていた様子も少しはなくなった気がした。どうやら彼は精神的にも体力的にも満身創痍だったようで、たったこれだけのPlayではあったものの、膝から崩れ落ち、俺の方へ倒れ込んできた。そんな彼を既のところで受け止め、俺も膝を床につけてお互いが楽な体制にした。ぼんやりと俺に身を預けている彼はどうやら途方もない大海原を彷徨しているらしく、意識を連れ戻そうと幾分か名前を呼んだ。
「どうや、大丈夫か?」
「…うん、ありがとう」
暫くは何か変な刺激を与えないようにと何かしらのアクションを起こさずに居たが、大海原から意識を引き上げれば、ボビーと俺の名を呼べる程度には落ち着いてきたのか会話は出来そうだ。
「着替えてくる」
そう言った彼はぱっと俺の服を摘んでいた手を離し、Subとしての面影は何処にもなく、俺が知るいつも通りのニキだった。
「ここでもええやん」
「いや、流石にそれは…」
俺だって強引な人間では無いので、嫌なら別にと選択は彼に委ねた。その時にただ少し、嫌な予感がした気がした。
それから十五分くらいだろうか、たかが着替えにこんなに時間がかかるか?と思った。その事実になんだか胸騒ぎがして、焦燥感に駆られた。やがて、ただの疑問は徐々に不信感へと変化し、その不信感が最高潮に達する。もう我慢ならないと、彼の方へ向かおうと教室を出た瞬間
「おー白井!これ頼んでもいいか?」
まるで足止めかのようにタイミングよく先生から話しかけられた。嫌だ、という顔をすればそこをなんとか、これ以外にも仕事があるんだよ、と懇願された。そもそも教師が生徒に仕事を押し付けるなよと思いつつ、ここで受け入れなかったときに単位を落とされたりでもされたら困るので、甘んじて了承した。
「本当にありがとうなあ、後でそれ渡してくれ」
と安堵の表情をさせてそそくさと先生は去っていった。まるで嵐のような出来事にため息をついた。
とはいえ、これをやる前に彼の方へ行く時間くらいある。そう思って、彼の方へ向かおうと足を動かした。その瞬間、着替え場所を聞いておけばよかったと強く後悔した。何処だ、と分からないながらに走ってはいけない廊下を全速力で走った。この時は焦りすぎて、あまりに心配で、感情に飼い慣らされたからか息が上がることさえ気にも止めなかった。どちらかと言えば、気にも止まらなかったの方が正しいのかもしれない。不意に足を止めて、何処か有り得ない所から音が聴こえるかもしれない、と僅かな希望を胸に耳を澄ました。
「……ッ!…ゃ、め……やだ、ぁッ……」
どうやら俺の悪い予感というのは的中してしまったようで、酷く懇願するような声が微かに聴こえた。
「ニキ!!」
自分はこんなにも声を張ることが出来たのかと驚くほどに歴代最高の大声で彼の名前を叫んだ。もし彼が誰かに被害を及ぼされているのなら、その誰かにとって人が来ること自体、都合が悪い。かつ俺が大声で騒いだこともあり、教室などに残っている人ももしかしたら冷やかしに出てくるかもしれない。その可能性があることを理解していたのかニキを苦しませる人間がトイレから出てきたのを見た。そいつの腕を掴んで、今すぐにでもニキを苦しませる人間を問い詰めてやりたかった、後悔させるほどのトラウマをそいつにも植え付けてやりたかった。そう湧き出る憤りを必死に押さえつけて、俺はニキの安全確認を最優先にした。
「ニキ、ニキ…大丈夫か」
「ぅ、ぅ…ッ、なんでッ…ぉ、れが…」
まだ未遂で済んだものの、膝から崩れ落ち、怯える様はたったの数十分の出来事とは思えないほどの恐怖を享受したことが分かってしまう。
「ニキ、深呼吸。落ち着け、もう大丈夫やから、」
どうして彼が狙われてしまったのか、これから彼はどうなってしまうのか、俺はどうすればいいのかという疑問と不安が燻る。決してこの不安が伝わらぬようにと、ざわめく情を鎮めて、冷静に、冷徹に、細心の注意を払って彼を慰めた。
「ひゅ、ーッ……あ、あぁ…っ…」
あぁ、うぅ、と言葉にならない音ばかりを発音させながら泣き喚き、俺に縋るお前をどうすればいいのか本当にわからなかった。ただ漠然とどう考えてもすぐに落ち着ける状況ではないということだけを理解しながら、傍から見ればニキの独りよがりにしか見えなかったが、俺らの間では確実に、お互いがお互いに縋っていた。彼は勿論、俺も平常心という概念すら吹っ飛んでいた。
◇
それから数ヶ月後の金曜日の昼下がり。
「ボビー俺の話聞いてくれる?」
「…それは俺ん家の方がええんか?」
「……そっちの方がありがたい、かな」
昼食を共に食べていたところ話をしたいと言われ、真剣な眼差しを浴びた。無論断る理由も無いので彼を受け入れた。
彼が学校に復帰したのは今日から丁度一週間前だ。あの日は俺の家に泊まれと彼に言い渡し、数週間かけて俺も付き添いながらカウンセリングにも連れて行った。家に帰ることさえもままならなくなった彼は俺の家で何度もSubdropを起こし、それを俺がCareして…と繰り返しながら彼の精神面の安定を図った。それで漸くの復帰。正直なところ、たった一日の出来事がここまで響くのだとは思いもしていなかった。たった一日どころか、数十分に過ぎない出来事がトラウマとしてやってくる可能性もあるのだと知った。けれどそれは記憶の形を朧気に捉えるだけで、触れようとしても触れれない。そんな抗いようの無い現実のようで、なんと醜く、それを抱える人生はなんと苦痛なものか。それをこの数ヶ月間、ずうっと考えていた。今もまたそう考え続けて、まともに授業も部活動も何もかも身につかないまま時間だけを浪費させた。そうやって考え続けていると、気づけば最終下校の音楽が校内を支配した。その音楽を耳に部活動が終わり次第すぐさま支度をし、帰路に着く前に教室へ向かった。
「ニキ」
「あ、ボビー」
「帰ろうや」
教室に向かった理由は単純で、俺の部活が終わるのを待っている、潮らしくなってしまったSubのニキと帰るため。あれからというもの彼は男性恐怖症を発症した。関わりのない奴らは然ることながら、数回程度しか話したことのない奴、後は何よりも男性教師に怯えながら過ごすようになった。だからこそ、一刻も早く彼の隣にと考えながら、教室まで急いだ。それでも、男性恐怖症になってしまった彼だったが、俺とは明るく振舞ってくれる。それを不幸中の幸いかと思ってしまうのは身勝手だろうか。
「あ、今日も泊まってっていい…?」
彼は俺の家に泊まるようになった。というより、ここ数ヶ月は彼自身、家に帰っていない。いや、一度だけ服やら教材やらを取りに行った。逆に言うとそれっきり。それ以外は俺の家に居る。俺はというと、母親も親父も家に居ることの方が少ないので別に迷惑ではなかった。それにこんな状態のSubをひとりにさせること自体タブーかと思ってしまったのも許容してしまう理由のひとつ。そんなこんなで今日もまた、俺は彼と帰る。
「菓子パしようぜw」
「はは、それええなあ!w」
帰路に着くまでの間は男子高校生らしさ溢れるお調子者の餓鬼だ。悪巧みの笑みを浮かべながら、コンビニを指差す彼は到底何ヶ月も学校を休んでいた人間には見えない。それはきっと彼の強さなのだろう。もしかしたら、彼が周りに明るく振る舞うのは周りに心配をかけさせたくないという思いからなのかもしれないけれど、所詮人間なんてそんなもの。理解して欲しい癖に口を割ったりはしない。そんな風に人間として生きるための日常に溶け込みながら帰路に着き、風呂やら菓子パやらなんやらを済ませればそこそこ良い時間になり、一夜の独りよがりが始まる。
「ニキ」
彼の名を呼び、ぽつりぽつりとCommandを零す。揺らがないSubを従えているという事実がDomの幸福を満たす。俺の支配欲を刺激する。
ああ、どうしてお前を俺のために利用してしまうのか。お前を苦しめたくはないのに。
「ニキ、すまん。ほんま身勝手なんはわかっとんねんけど……ゆっくりでええ、全部、話してくれんか…?」
口は勝手に動く。それがお前を傷つけること知っていながら。
「……っ…ッ、…」
俺の提案に彼は酷く青ざめた顔で怯えながら、浅い呼吸になっていく。俺の服の裾を何度も強く握って、嫌だと伝えられる。嫌なら言わなくていい、無理矢理聞こうとしてごめんと訂正しようと口を開こうとした。いや、口は開いた。
「………ぼびー、おねがい…ぜんぶ、きいて……」
俺が何か言う前に彼は嫌だという思いも全部、何もかもを飲み込んで、話す覚悟を決めた顔をしている。あまりに彼は強い。どれだけ絶望の底に叩きつけられても、人間の醜さを知っても、何度も這い上がるその執着。その姿を見せられて、その勇ましさに俺はまた惹かれないわけがなかった。そして俺は、そんな彼のお願いを断る理由なんてない。拒絶なんて出来ないのだ。
俺の裾を掴み続けたまま、目を瞑る。ゆっくりと何度も深呼吸をして、震える肩を抑えながら、彼は口を開いた。
「……おれ、あの日_____」
そこからはあまり覚えていない。戸愚呂を巻くように汚らしい大人への侮蔑と嫌悪が俺を支配していた。自身がDomで彼がSubであることをいいように、高校生という未成熟な身体であることをいいように、身勝手で無責任に性的処理の玩具として彼に一生分のトラウマを植え付けた。そんな人間を屑と呼ばずしてなんと呼ぶ。ましてや、俺ら生徒に勉強を教える教師という存在がだ。だが幸いな事に、半年前の上級するタイミングで彼へトラウマを与えた教師は転任した。
____そのまま首も飛んじまえばよかったのにな
と本気で思った。
「…っ、……」
あの日のことを全て話し終えた彼は思い詰めた顔をしており、掘り起こしてしまったトラウマにとてもじゃないけれど精神はまともだとは言えない状態。
「ニキ」
「まってッ…」
俺が感謝の言葉と褒美の言葉を伝えようとすると、彼は待ってと口を開く。はくはくと言葉にならない吃音を音にしようと必死に物言う目で見つめられて、まだ何か伝えたいことがあるように感じ取った。
「ニキ、Say《話してみ》」
「…ぉれ、最近ストーカーがいる気がしてて…」
Commandを与えてやれば、彼はすらすらと言葉を吐いた。その一方で、耳にしたその言葉はあまり気分のいいものではなかった。
「…あいつか?」
「たぶん…」
「っぼび、ぐれあ出てる…」
「っああ、すまんな」
渦を巻いた感情からGlareが出てしまい、多少なりとも彼には影響があったようで、Subdropに陥らないようにCareを施した。全て洗いざらい話してくれたことも含めて、彼が落ち着くまでの間メンタルケアとして沢山のCommandを与えた。
「……ごめ、ねるかも」
毎度ながらだが、Play後の彼はSubspaceに入ったきり微睡んでしまう。従来ならば宜しくないことは理解しているつもりだが、どうも彼がボビーが朝隣に居てくれれば大丈夫の一点張りをしてくるので、彼がおかしくなってしまわない限りは従っている。それはそれとして、今しがた俺に身を預けている彼を起こしてしまわぬようにと慎重に布団に寝かせて、彼の顔を見た。よく見ないとわからないくらいの隈が目許にできており、それは先程伝えてくれたトラウマが悪夢として出てくる日もあるのかもしれないと俺に思わせた。彼が少しでも多幸感に包まれた夢心地でありますようにと願って、彼の目許に軽い口づけをした。
「おやすみ」
俺はこの日初めて心の不貞とも言える行為をした。
◇
翌朝になって、朝食も早々に済ませたところで彼は神妙な面持ちで話を持ちかけてきた。
「あの、家行きたいんだけど、着いてきてほしい」
なんだそんなことかと、そんなのお易い御用だと受け入れたこの行為は結果的に幸を成したのである。
「ええよ、行こか」
俺のその言葉に感極まったのか泣きそうな、張り詰めた糸が解れたような顔をする彼。その逃げ出したくなる恐怖は痛いほど俺に伝える。懇願するような、号哭に似た思いが俺を突き刺す。俺にまで苦しさを分かち合わせる。
「ちゃちゃっと済ませて、ゲームでもしようや」
俺はどうすれば彼に寄り添えるのだろうか、俺は少しでも彼を救えているのだろうか、俺はこれで正しいのだろうか、と吐き出せない数々の解のない質問が頭の中で騒いでいた。
「…!うん」
俺の提案に微笑み、返事をする彼はあまりに乙女らしく、愉しみの表情。例えそれが心からでなかったとしても、俺とは屈託のない笑みで会話を繰り広げられる彼に安堵を覚えながら、身支度をした。
服を着替え、スマホや家の鍵などの必要最低限な物だけを手に持って、ニキの家に向かった。
「あっちぃ〜…」
「真夏に全身黒はアホ」
「うるさいねん、お前も黒のくせしてよお?」
そうやって普段通りの馬鹿騒ぎをし、夏特有の暑さにうんざりしながら目的地へと足を進めた。駄べりながら暫く歩き続けて、漸く辿り着いた目的地。
彼が鍵を取り出して、一捻り。
だが、解錠の音が鳴ることはなかった。
「鍵かかっとらんのちゃう?」
「まっさかあ」
その事実に俺も彼も違和感を感じて、もしかしたら鍵がかかっていないのかも、なんて冗談交じりに話した。彼は俺の揶揄いに半笑いしながらもレバー式ドアノブを手にかける。
「え…?」
「っは…?」
ガチャリ、と音を立てて玄関が開いた。
全身から体温が引いていく感覚がした。
彼は一歩も動かない。いや、動けないの間違いか。
どう考えても有り得ない話だった。家主不在なのに解錠されている事実がそもそも可笑しいのだ。それに加えて、ストーカー被害に遭っていると気づいている彼が家の施錠を忘れることがあるのだろうか。俺は到底そうだとは思えなかったし、そもそも彼が鍵を取り出す仕草をしている時点で予期せぬ解錠であることくらいわかる。そんなこと有り得るのか、という疑問を感じつつ、今目の前で起こっていることが現実で、目を背けることさえ許されなかった。それに俺は彼がひとりで行っていたらと思うと気が気じゃなかった。
「ニキ、…ニキ!」
一歩も動かずに夏の暑さか、恐怖からか分からないが、汗を流す彼は意味不明な現状を理解している途中なのであろうが、俺は今すぐにでも彼をこの場から離したくて、必死に名前を呼んだ。
「これはあかん、帰ろう…」
「う、うん…」
俺があまりに強く名前を呼んだせいかびくりと肩を震わせた彼を宥めるように、帰宅を促した。予期せぬ解錠という時点で中には誰かが潜んでいるのかもしれない。そうじゃなかったとしても、ストーカーが盗聴器などを仕掛けられていたっておかしくない。そんな状況なのだ。ただの空き巣なのかもしれないが、解錠されているということは一度誰かが足を踏み入れているに等しいのではないのだろうか。複数ある可能性の中からただの空き巣であることを一番に願ってしまうのはあまりに奇妙な感覚だった。足早に彼の家を後にしながら、無駄に回る頭で何度も考えたくもないことを考え続けた。
そんな身の毛のよだつ思いをした八月下旬の日。
◇
その日、俺の家に帰って早々に慟哭をあげる彼はもう再起不能なのかもしれないと思った。これ以外に何か考えていた記憶があった気がしたが、朧気にしか覚えていない。それ以上に脳裏に焼き付いた胸糞さだけが鮮明に色づいてしまっているから。
それ以外に覚えていることとすれば、数日の彼の姿だった気がする。あれ以降、再び外出さえままならなくなるほどに彼は塞ぎ込んでしまった。生気を失い、食事を取れたとしても逆流させてしまうのが当たり前になってしまって、日々痩せこけていく彼は見るに耐えなかった。それと同時に彼を苦しませる人間が心底憎くて、それなのに何も出来ない無力な俺が嫌だった。
「ぼびー…ぼびぃ、ぼび…」
永遠に俺の名前だけを呼び続けて、その細い腕からは想像出来ないほどの力で痛いほど縋ってきた。
「おねがい…もう、なんでも、いい…ぜんぶ、…ぜんぶわすれたい…」
その言葉が狼煙をあげるきっかけかのように歯車が回り出した。それから間もなくして互いの欲を満たしつつ、ストーカーやら何やらを対策していくこの関係が成立する。
❖
この関係は未だ続いていて、それは俺らを固く結びつける呪いにまでなってしまった気がする。
これまでも、この先何十年もきっと俺らはこの呪いに縛られ続けたままなのかもしれない。きっとそう。なんせ、彼が大の大人に対抗出来る力を手に入れようと鍛えたところでSubという第二の性はCommandに逆らえないから。彼がここ数年で多年草のような笑顔を見せてくれた事が何よりの奇跡で、それは彼が必死に努力したからこその賜物。だからこそ、俺は彼の努力を枯らす訳にはいかないのだ。
「なあ、ニキ」
「どったの」
それでも呪いは永遠に俺らを蝕み続ける。
だったらいっその事_____
「俺らClaim結ばんか」
俺が必ずしも彼を守れるとは保証できないからこそ、彼の近くでは常に小回りの効く状態で在りたい。それは社会の荒波に揉まれて、多少なりとも危険な人物かそうじゃないかくらいは見定められるようにもなったから。危険な人物との接触を避けたとしても、それは俺らの意識で避けただけ、彼のように危険な人物に魅入られてしまえばそんなのは関係ない。俺らがどれだけ避けたいと庶幾ったとしても、危険な人物に気に入られてしまうことなんて有り得る話だと俺も彼も理解しているのだ。
いや、こんな考えは自我境界の線引きに過ぎない。
俺はもうニキから離れられないのだ。それは彼から頼まれた訳じゃない、ただただ俺が彼の隣に居たいと思ってしまっているのだ。彼には笑顔でいて欲しい、彼が笑顔になる要因が俺なら尚嬉しい。身近に彼を感じていたい、隣にいて欲しい。そう自己中心的ながらに思ってしまうのはもう彼に惚れてしまったが故。日を重ねるごとに彌増す彼へのこの想いはきっと『恋』と表すに他ならない。
「ボビー」
彼に名前を呼ばれて意識を戻せば、覚悟を決めたような真剣な顔付きをしたニキが居た。そんな彼を見て、なんて言われるのだろうかと少しの不安を抱えながら、彼の言葉を待った。
「…俺は別にいいよ?ボビーとなら、全然」
これは俺のエゴでしかないが、きっかけは最悪ながらも、俺らはこうあるべきだったのかもしれない。そう思いながらも、拒絶されなかったという事実に彼を抱き締めた。喜びが俺を支配する。心の内に残った微笑みの温もりが愛しくて、その情も、先程自認した依依恋恋も、全てが指先から内臓、神経の隅々までを染め上げた。
「ぼび、ちょっと、くる、し…」
それはもう彼を締め上げるかの如く、強く強く抱きついていたようで、苦しいとまで言われてしまった。
俺はお前が幸せならなんでもいいんだ。
俺が守るからお前はりぃちょ達と老耄になるまで笑っていてくれ。これが自己中心的な願いなのも理解っている。理解っているのだ。その不変的生活は彼にとって、この世界が生きずらいことの再認識だということも、新たに足を踏み出すことが億劫になってしまうことなのも、全部。だからこそ、俺は第二の性こそ違うものの、彼のその一面に心を撃ち抜かれて、そんな彼を守りたいと思ってしまった。この燻る感情を押し殺して 、以前から彼と何年も共に生活してきたりもした。そこで見えてくるものはやはり、この言葉社会の生きずらさ。これに関してはきっと彼の方が痛いほど理解しているのだろう。俺の話と彼の話を重ね合わせる度に、Subの扱いの酷さに毎度唖然としてしまうほどに、言葉格差が絶えなかった。
Domが上で、Subが下
それがこの世の摂理で、覆ることの無い絶対的存在。
言葉は時に幸福にもなり得るし、時に人を傷つける道具となる。この認識さえ持ち合わせていれば、言葉社会で言葉格差の酷いこの世を形成する一員になる。あまりに卑屈なこの社会は、彼の持ち合わせるSubという第二の性は、再び彼にトラウマを与えるかもしれない。そんな溢れる思いに心配だ、と言葉をこぼしてしまった。
「ボビーは拗らせすぎ」
そう言葉にする彼は八の字に眉を下げながら、心配げに笑っていた。
そんなお前には、今の俺はどう映っとるんや。
男として情けないか、お前に固執し続けて無様か、哀れか、惨めか、滑稽か、なあ教えてくれ。
「ニキにはずっと幸せでいて欲しいねん」
俺のこの想いは一生もんなんだ。