時は江戸時代。卯月の日、そこそこ広い華野長屋というところに親子らしい人が引っ越してきた。子供は9才そこそこぐらいで、母親を「つきねえ」と呼んで慕っている。らしいと言うのは、母親が子を産むのには若すぎるような歳なのだ。それに血がつながっているとは思わないくらい似ていないのだ。人というのは新しいものにはとても興味を持つものだ。この長屋の連中もそうだった。だが、どこから来たのか、なんの仕事をしているのかなど、何を聞いても母親は笑うばかりで何も答えず、子供の方も淡い笑みを浮かべるだけだ。そのため、長屋の人たちは自分達であの親子のことを想像して楽しんでいた。もしかしたら子どもの方は貧しい家柄のため、捨てられたところを母親が拾ったのではないか、それとも…などと色々想像して楽しんでいた。だがその予想は外れてはいなかった。久太は月音に拾われた子なのだ。それを長屋の人たちが知るのはもう少し経ってからだった。
その日、久太は養い親である月音とそこそこ広い華野長屋というところに越してきた。月音は少しほっそりとした若々しい女だ。そして久太には目に入れても痛くないほど可愛がっている。久太も良くしてくれる月音が大好きだ。
最近、なれないところに来たせいかすぐに疲れるのが多くなっている。そんな久太に月音は心配して「ちょっと夜の散歩に行っておいで。夜風は気持ちいいものよ」と言ってくれた。久太は迷わず「行く!」言った。昼間はあんなに賑わっていた江戸の町も夜はひっそりとしている。歩いているうちに久太はいつの間にか林の入口の前にいた。慌てて踵を返そうとするとふと、「くぅぅ」というかすれた声が聞こえた。久太はよく耳をすませた。「くぅぅ」また聞こえた。今度はさっきよりかすれた声だ。久太はたまらなくなって声のする方へと走り出した。夜風が冷えてきたけど構わなかった。「なんだろう、でも猫じゃないよな。だったら犬か?」そう思いながら走る足に力を込めた。
ついに声の主が現れた。それは茂みの中にポツンといて、「くぅぅ」と鳴いている。久太はそれに近づいた。「キツネ?」そう、それはまだ幼い子どものキツネだったのだ。久太は戸惑った。まさかキツネと出会うなんて。もし、連れて帰ったらつきねえはなんというだろう。親馬鹿というほどではないが久太には甘い月音は久太以外の人と一緒にいるのを嫌がり、「おいてきなさい」と言うかもしれない。そんなことを考えていても母狐は一向に現れる気配は無い。久太は子ぎつねに「大丈夫だよ」と優しくささやきかけながら両手でそっとすくい上げた。そしてその子ぎつねを懐にしまった。よく見るとまっ茶色だと思っていた子ぎつねはよく見るとところころ銀色の毛並みだった。久太はもしやと思い子ギツネの体の茶色の部分を手で払った「うわあ、やっぱりだ」思わず歓声をあげてしまった。子ぎつねの毛並みはとてもきれいな済んだ銀色だったのだ。もう一度懐に丁寧にしまうと、あれほど鳴いていたのが嘘のように静かになった。そして、そっとすりより、そっと身を委ねてきたのだ。久太は懐に軽く手を当て、「大丈夫だよ」ともう一度ささやきかけた。そして急いで大好きな月音の待つ、華野長屋に帰ったのだ。
「久太?おかえり。早かったね」「…ただいま」少し黙ったからか違和感を感じた月音に「どうしたの?」と聞かれてしまった。久太は仕方なく「その..俺、キツネ拾ったんだ」「……」いつもは久太の事以外何事にも動じない月音だが、今回ばかりは面食らった顔をしていた。久太はそのまま懐にしまっていた子ぎつねと取り出しながら事情を話した。「そのキツネ見せてもらえる?」「いいよ」月音は手慣れた様子で子ぎつねを見ていった。やったことあるのと訪ねようとしたところで月音が口を開いた「この子はそこまででは無いけど弱ってる。久太、今日の残りの粥があったはずだよね。それをあげてくれる?」「うん」久太は戸棚から今日の昼餉で炊きすぎた粥を茶碗に半分くらいよそって子ぎつねの前に差し出した。「はい。今日の残りの粥だよ。腹減ってるだろ?遠慮せずに食べな」だが子ぎつねは一向に食べない。どうしたものかと考えているとふと、猟師の甚兵衛から立派な雄雉をもらったのを思い出した。その雉は月音といっしょに茹でで食べた。とても柔らかく、甘かったのを思い出した。「あっ!」久太はハッとしてその残りの雉を粥に混ぜて与えた。すると子ぎつねは目は合わせないもののくりりとした可愛い目を向けてきた。かと思うとおぼつかないが懸命に食べ始めたのだ。久太は拾ったときからうすうすと考えていたことを意を決して月音に言った。「つきねえ、俺、この子家の子にしたい」「久太、その子は林で拾ったんでしょう。ならばその子は林の子同然。だから家の子にはできないよ」だが久太に甘い月音。なんとか久太のためにできないか。そう考えある事を思いついた。「久太、家の子にはできないけど大きくなるまで育てようか」「うん!ありがとう!つきねえ!」久太の顔がパッと輝いた。久太は子ぎつねに銀水と名付けた。銀水はすくすくと育った。銀水を育てている最中、今度は長屋の前に捨てられていた銀色のように輝く毛並みのメス犬も拾い、白銀と名付けた。白銀はすぐに九太に懐き、銀水の面倒もよく見た。やがて6ヶ月が過ぎ、銀水は立派なギンギツネとなった。「そろそろ銀水を林に返さなきゃだね」月音が名残惜しそうに言った。「あっ」久太はやっと思い出した。今の今まで銀水と白銀を育てるのに夢中で何もかも忘れていたのだ。いっそのこと、つきねえに秘密で銀水と白銀を連れ出せば銀水を返さずにいいんじゃないか。そう思ってしまう。だが正真正銘、銀水は林の子で、あくまで久太は育ての親であるのだ。そういうのも考えてしまった。
次の日、久太は銀水を懐に入れ、夜道を歩いていた。むろん行くところはころはあの林だ。「またな。銀水」銀水はすぐにふところから出てきた。光寿は林の唯一広いところに行き、久太をじっと見つめてきた。久太は意識しなくとも銀水の気持ちが分かってしまった。(ありがとう。久太殿。また会えるとようの)久太はしばらく立ち尽くしていた。だが我に返り、急いで華野長屋に帰った。気持ちがわかったことは白銀以外、誰にも言わないつもりだった。だが、久太に関しては異常なほど敏感なため、言わずにすむことは無理だと思うのだが。いつもどおりの華野長屋。だが、今日は空気がぽっかり空いたような気がする。「銀水」思わずつぶやいた。でも月音と同じくらい「久太命」の白銀はいつもどおりお出迎えしてくれた。「今日もありがとな、白銀」そう言って白銀の頭を撫でるのが久太の日課でもある。銀水を林に返して少したったある日、久太は月音と夕方の散歩に出かけた。久太は今日の天気だのいろいろおしゃべりを楽しみながら、歩いていた。歩いているといつの間にか霧に包まれていた。その霧はどんどん濃くなっている。「つきねえ!?」久太は知らない場所でいきなり月音と離れるのが何よりも嫌で怖いのだ。とても濃い霧の中、足元を気をつけながら月音を探し回った。探しているとだんだん頭がぼうっとして、どっと眠気が押し寄せてきた。そして久太は眠るように気を失った。
「久太!久太?」「うるさいの、月音。もっと周りを考えてもいいと思うが」「これ、起きよ、人の子久太」「わしらは恩人が起きてくださるの一日千秋の思いで待っていたのですよ」大好きな月音の声、清水のように済んだ声、全く知らない声が聞こえてきた。月音に一刻でも早く月音に会うために久太は眠い目を無理矢理こじ開けるようにして起きた。するとまたあの済んだ声が聞こえてきた「月音、うぬの養い子は目覚めが悪いの」すぐさま少し噛みつくように言い換えした。「いいえ。久太はとてもかわいいく、器量よしの子です。」「まあよい。久太?起きたか。」あの済んだ声の主が言った。晴れやかに、そして優しくほんのりと言ってきたのはとても大きな紅白のキツネだった。顔はとてもとても美しく、秋の心の精のようだった。そして背には紅白の花柄の手ぬぐいをまとっており、尾は久太と同じぐらいの長さだ。目は凛とした、でも優しげな目だ。「…‥っ」久太はびっくりして声も出なかった。ただただ目の前にいる大きな紅白のキツネを見つめることしかできなかった。紅白のキツネというだけでも驚くがまさか喋るなんて。あたりを見回すと周りにはキツネを中心に様々な動物たちがいた。みんな揃って親しみの目を向け、顔を覗き込んでいた。
だが紅白のキツネが九太に近づくと皆、うやうやしく頭を下げ、下がった。「すまぬ。驚かせてしまったの。吾は王妖弧炎族の長であり、キツネ達の長である華妖じゃ。突然だが、銀桃を助けたのはおぬしであると聞いたがどうじゃえ?」「銀…桃」「そうじゃ。吾の大事な眷属の末の子じゃ。とてもかわいいぞえ」「もしかしてその子って銀色?」「おぬし、心あたりがあるようじゃの。」「いや…」久太はほんとに心当たりがなかった。銀水を拾って育てたのはむろん、覚えている。がそれとこれとは話が別だと思っていた。「悩んでおるの。銀桃!銀桃!」「はい。なんでございましょう、華妖様。」ハキハキとした、でも愛らしい声が聞こえ、ぴょこっと小さなギンギツネが出てきた。「この子が銀桃じゃ。」「…‥」華妖が言ったのと久太が気付いたのはほとんど同時だった。「銀水‥」「おぬし、銀桃と銀水と呼んで育てたようじゃの」「もう一度言う。銀桃を拾ったのはおぬしかえ?」久太はこくりと頷いた。そして初めて華妖は満面の笑みを浮かべた。「やはりな」「あの、ど、どうして銀水は人界の林の入口にいたの?だってあんた、れっきとしたキツネじゃないでしょ。妖‥でしょ?」「おぬし、感が鋭いな。銀桃はな、お忍びで家を抜け出し、誤って人界の通り道にたどり着き、その道をたどるとあの林があり、林の中で迷子になって、出口を探していたところをおぬしが拾ったのであろう」久太は人界への通り道があるのかと妙なところで関心し、訪ねた「人界と妖界の道って?」「ん?ああ、それな。それはの、久太、魂夜橋とその大通りの道じゃ」少し早口で言ったあと華妖達は改まった様子で久太を見つめた。ハットするような目だったがその目には優しさがあった。「わが眷属の末、銀桃を助け、育ててくれたこと礼を申す」みんな揃って頭を下げる。「いや、ちょ…いや別に当たり前の事しただけだし。」「いや、謙遜なさんな。久太様は私の子を救ってくださったんやからな」柔らかな声が響いてきた。「あの、あんたはもしかして銀水‥いや銀桃のおっかさん?」「あい。私は銀桃の母、桃音です」桃音はにこやかに答えた。「いい名前だね」「ふふ。どうも。そちの名は久太と申すのでしょう。良い名だと私は思いますよ」桃音はにっこりと微笑んだ。桃の精のような淡く、それでいて晴れ晴れとした笑みだった。「ありがとう」思わず微笑み返したくなる笑顔に久太も笑顔になった。久太は礼として、宴に誘われた。子牛のように大きな純白と純黒の二匹の双子の兎の長の桃子と墨夜や、鳳凰の如く美しく、金の尾羽がなびく鳥の長の王音、立派で金色がかかった朱色の大きな鶏冠、金がかかった純白の羽毛の鶏の長の白金、キリッとした顔立ちと耳で足と尾の先に金と銀のぼかしが入った犬の長の鈴丸、三毛の模様で薄い銀色が足の先に、尾の先には太陽が反射して光っている金が入っている猫の長の咲音、金茶の体でさらさらとしている金銀のたてがみをなびかせる馬の長の王希、黄色と黒の毛に、尾を陽炎のようにゆらゆらと揺らす虎の長の虎千代などがみな、久太に挨拶をし、甘酒を盃に注いでいく。さらに進められるままにごちそうを食べ、お腹が膨れるまで食べ続けた。久太べったりの月音は早く帰って久太と二人きりになりたいやら、久太が楽しんでいるからそのままにしようやらもんもんと考えている月音であった。そのうち、夜が開ける頃になると小妖達は波打つようにさあっと木陰に隠れてしまった。華妖は「久太、銀桃の事、改めて礼を申す。それからな、孤児の動物たちを預かり、育てる役目を任そうと思うがよいか?」久太は月音を見た。久太と二人きりがいい月音がいい顔するわけないと思ったのだのだ。だが月音はほとんど聞き取れないような声でささやいた「久太がいいならいいよ」聞き取った瞬間、久太は言っていた「やります!」華妖はにっこりとした。「ではこれから夜な夜な孤児の動物たちが子を預けに来る。ああ、そう、やってくる動物たちは皆、喋るからの」華妖の声は安堵と気にかけている様子があった。
初めての預かり
「久太!」鐘が大きく響くような大声に久太は飛び起きた。目の前には月音がいた。思わず月音に聞いた。「つきねえ?どうしたの?」「どうしたのじゃないよ!無事に帰ってきたかと思ったらいきなり微笑んで倒れたんだよ!」月音は叫んだ。それからまるで二日酔いになったようだったと言った。もういいからと言おうとしたところで戸がトントンと叩かれた。ちょうどいいタイミングだと久太は土間に飛び降りた。そして心張棒を外し、「入れ」と呼びかけた。するとすっと戸が開いた。その姿を見て久太は絶句した。月音は平然としているが。それは大人より少し小さい白いキツネで尾が3本あり、額に金と朱色できれいな文様がついていた。するとそのキツネが口を開けた。「私は希鈴。子を預けに華妖様の使いとして参りました。」「うん。預かるのはどの子?」「あのぅ、預かるというより一時ほど育てていただきたくて。」希鈴は背中の籠を降ろし、中から小さな茶色の犬をくわえ出した。「うわあ、ちっちゃな子ぎつね!」久太は歓声を上げた「いえいえ。この子は犬ですよ。これからは私と私の身内が子を届けにきますよ。そうそう、始めはわかりやすいよう、動物たちを喋れるように」ではと希鈴は闇の中に溶け込むように去った。久太は土間にいる犬をそっと抱きかかえて行燈の側に連れて行った。そして土間にある手ぬぐいを水を張った桶に入れて絞り、犬の体を拭いていった。すると茶色の犬が見る間に白い犬となった。きれいな白い犬だがとても痩せている。見かねた久太は卵と雉肉を入れた粥を上げた。久太は料理が大好きだ。久太が幼い頃、月音がこしらえた料理があまりにも美味しかったため、今度は自分が、そして月音と同じぐらい美味しいものを作りたいと料理に没頭し始めたのだ。白い犬は粥をぺろりと食べつくした。すると白い犬が言った。「あなたが新しい子預かり屋さんで?」「…‥うん」驚きのあまり言葉に詰まったがなんとか返すことができた。「俺は久太って言うんだ。そっちは?」「…ない」「へ?無い‥の?」白い犬はこくりと頷いた。「希鈴姐さんにはなんて呼ばれてた?」「呼ばれてない。つい昨日希鈴姐さんに会ったから。」「そっか。んじゃこれからははこゆきって呼ぶよ。」「希鈴姐さんが久太殿に名前つけてもらってと言うておった気がする。」「んじゃ、こゆき、散歩しよ」するとこゆきはそそくさと部屋の隅っこに避難した。「きっと人が嫌なんだろうね」月音がさりげなく言った。「奉行の命で少し喋れるようにしてあるらしいから話しを聞いてみたら」そう言ってせっせと羽織作りに取り掛かっていった。久太は妖怪でも奉行がいるのかと妙なところで関心しながらそっとこゆきに近づいた。「こゆき。人が嫌なのか?何が会ったんだ?」こゆきは元々大きな目を更に大きくして、目で語り始めた。その目は悲しみの中で希望に満ちていた。
ある日、一匹の白い野良犬がいた。その野良犬は母親一人で4匹もの子供達を養っていた。育てて約2ヶ月、狩りに出かけた母親が帰ってこなくなった。母親は狩りの最中、油屋の飼い犬になったのだ。4匹の子どものうち、3匹は里親が見つかったが、最後の一人、こゆきは貰い手がつかなかった。くうくう鳴いていると側の茂みから大きなキツネが現れたのだ。そのキツネは一人きりでいるこゆきを拾い、久太のもとへ預けたのだ。こゆきは野良生まれのため、人を嫌い、仲間である母と兄妹を探し求めていたのだ。本人と久太は気づいていないがこゆきは半化けになっていたのだ。半化けとは半分化け動物で半分生身の動物のことだ。こゆきの場合、半化け犬だ。化け犬と犬が交雑して生まれるのが普通で魂の半分が妖界入りをし、魂のもう半分が人界にいる半化け犬はとても珍しく滅多にお目にかかれない代物なのだ。目で語るこゆきの物語はむなしいものだった。月音はそれを敏感に感じ取ったらしい。すぐさま言った。「久太、嫌ならすぐに華妖のところに返してくるよ」久太は慌てた「いや、大丈夫だよ」と、こゆきがさりげなく月音に近づいてきた。「わあ。あまり見ないような美人さんだな」久太は少しイラッとした。理不尽だが自分だけの月音を取るなんてと嫉妬もわいてきた。「こら。つきねえに構わないでくれよ。」だがこゆきは月音に甘える。でも怒鳴ることもできないので無言でこゆきをつまんで離した。一瞬、長持に入れておこうかとも考えてしまう。月音はその気持ちを敏感に感じ取った。この華野長屋の大家の身内であり、刷り師の正蔵からもらった大きい木箱。大きさも高さもこゆきには十分だ。月音はこゆきをそっとつまみ上げ、木箱の中に入れた。さすがに蓋はしなかったが。なんか哀れに思えたのか久太はかつお節を置いてやった。トントン。戸がたたかれた。久太は心張り棒を外して呼びかけた「入れ」戸がすっと開いた。戸の向こうには6才ぐらいの少女がいた。髪は肩のところで切りそろえ、市松柄の着物を着た小ぎれいな女の子だった。
「名前は?」久太はやっとのことで訪ねた。「とね」ぽそっとあの小ぎれいな女の子が言った。「あんた、とねっていうのか?」「うん」「おっかさんは?おとっつぁんは?あんちゃんや親戚とかの付き添いは?」「いない」今度こそ久太は仰天したこんなちいさな女の子が一人で来るなんて。しかもなんで?「どこから来たの?」「前は仲人屋のとこにいた」「仲人屋!う〜ん知らないな」おかみ達は新しいこと大好きだ。いつもいつも噂をしている。だが仲人屋から6才ぐらいの少女消えたという噂は一切耳にしない。念のため、聞いたがそんな話は知らないというのだ。それまで熱心に針仕事をしていた月音が顔を上げた。そしてその柔らかくはあるが冴え冴えとした目が大きく見開かれた。と、思うと急き立てるように言った。「とね。上がっておいで。そこじゃ寒いだろう。温かい葛湯を用意するからね。あ、飴湯の方がいいかい?」それまでとは打って変わった声だ。いつもは久太以外ほとんど何も興味がないのでこれまた珍しいものだ。「葛湯…」とねが言った。「そうかい。わかったよ。久太、葛湯をこしらえてくれるかい?ああ、そう。とね、久太のこしらえる葛湯はとろけるよに美味しいんだよ。絶対飲んだ方がいいよ。冷えた体にぴったりだからね。」久太のいいところをとねに自慢する月音に久太は呼びかけた。「つきねえ、迷子かもしれないよ。一応番頭に届けた方がいいんじゃ…」「いや。そんなもったないことできるもんですか。できたらすごいですよ」間髪入れず月音が答えた。「もったいない?」「まあまあ」無理矢理話を遮って月音はさらに話を続けた。「よし。この子は久太の妹にしよう。いいね久太。それとご飯はもちろんとねの分もね」「わかった」答えたところで音が聞こえた。カリカリカリカリくーうくーう。こゆきだ。「わかったわかった。こゆきちょっと待ってな。」そういってこゆきを木箱からそっと出してやった。するとこゆきはすんすんと空気を嗅いだ。そしてとねのところに行くと恐る恐る匂いを嗅ぎ始めた。するといきなりこてんと転がった。尻尾をちぎれんばかりに振り回している。その愛くるしい姿にその場のみんなが笑った。「その子…」「ん?こゆきがどうした?」「とね、こゆきを飼いたい」あまりの出来事に久太は驚きのあまり腰を抜かしかけた。「ええっ。とねは親戚とかいなくて一人なんだろ。無理だって。」「とね。できる」思い出すととねは働く月音や久太を品定めするような視線を何度も送ってくるのだ。それがなんとも子供らしくない。久太はハッとしてとねに言った。「とね、お前、もしかしてだけど座敷わらしだな?」「うんそう。とねは座敷わらし」「…分かった。こゆきはとねに預けるよ。分かってると思うけど捨てないでね」「うん」またねととねは出ていってしまった。こゆきを抱えて。なんかさみしい。戸をしめ、心張棒をかけようとするところで戸がトントンと叩かれた。正直こんなタイミングでとうんざりしながらも戸を開けると爽やかな香りと同時に久太より少し大きめのキツネが現れた。「希鈴さん!」「久太。久しいの。子育てやになってどうだえ?」軽やかな明るい声だった。「うん。なにもないよ。」「そうか。それは良かった。」「希鈴さんが来たってことは伝言や何かあるの?」ほうっと希鈴は関心したような声を上げた。「そなた、人のくせに妙に感が鋭いのう。そうそう。主様が言うておったぞえ。」「主様って華妖?」「むろん、そうだ。華妖様がな、これからは、華夜公と呼んでほしいそうじゃ。」「華夜公…」「うん。じゃあ。われはこれで。息災でな。」名残惜しさをあわらにして希鈴は去った。ここで久太は初めて預かったことを実感したのだ。
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