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酒や金、女に賭博、この街にはあらゆる快楽が渦巻いている。
そんな街にとある日、一人の青年が足を踏み入れた。その手には、街の片隅にある寂れたホストクラブの求人票が握り締められている。
「──“ほすと”って、ほんとに稼げんだろうな」
純粋無垢な瞳がぱちくりと瞬く。
俗物的なこの街には到底相応しくない澄んだ瞳を持つその男は、知り合いが零していた『やっぱホストは楽に稼げるよなぁ~』という独り言を思い返しながら、更に一歩踏み出した。
“ほすと”とやらになれば、先日クズな父親から押しつけられた借金をしっかり返済できるに違いない。
そんな純粋な考えを胸に、青年はツートンカラーの髪を靡かせながらスタスタと目的地へ向かい歩き出した。
一人の青年が街に足を踏み入れてから、約一か月。
ネオン煌めく街の大通りから少し外れた裏路地で、太陽のような白髪をオールバックにした男が、上質な黒スーツを乱して覚束ない足取りで歩いていた。
「ッ、油断しちまったなぁ……」
雑居ビルの壁に寄りかかり、男は痛みを誤魔化すようにニッと笑う。
側近や幹部がほんの一瞬傍から離れ、一人になったところを奇襲されたのはつい数分前のことだ。
普段ならどんな不意打ちを受けても動じず全ての攻撃を避けるが、今回ばかりは状況が違った。男は連日の激務が重なり、今までにないほど疲労を溜め込んでいた。
ナイフの切っ先が脇腹を掠めたことで、絶えず出血が続く。
どうやら当たり所が悪かったようだ。まったく血が止まる気配がないことに溜め息を吐いた時、ふと男の背後から数人の足音が近付いてきた。
「ったく、ちょこまか逃げやがって。探すのに手間取ったじゃねぇか」
「よォ梅宮。お仲間はまだ来てねぇらしいな?」
“梅宮”と呼ばれた男が、緩慢な動きで振り返る。
集まってきた五、六人の敵を相手に、梅宮は緩慢に目を細めた。
いつもであれば一分もかからず制圧できる人数だが、今回ばかりは怪我が酷くて上手く動けない。
この街で一番強いと言われる梅宮も、流石に面倒な予感を抱いて表情を曇らせた。
梅宮の余裕の無さを察した男達が、勝利を確信した笑みを浮かべながら動き出す。
「今日こそ死んでもらうぜ、梅宮!!」
チンピラのようなセリフを叫びながら、男達が梅宮に襲いかかった。
その瞬間、梅宮はふと背後から軽快な足音が近付いてきたことに気付く。振り返る前に、視界の端で白黒のツートンカラーがさらりと靡いた。
──ドカッ!!
骨が折れるような鈍い音と共に、「がはッ!?」「ぐぁあッ!!」と男達の情けない悲鳴が響き渡る。
梅宮は、目の前で繰り広げられる光景を見て唖然と息を呑んだ。
「──……綺麗だ」
思わず、ぽつりと呟きが零れた。
大通りから射し込むネオン、その逆光に照らされながら、突如現れた“彼”はアクロバティックな動きであっという間に男達を制圧した。
その動きは、ただただ縦横無尽に暴れ回っているように見えて、けれど重力に逆らっているかのように軽快で、まるで桜が散るように美しく。
次々と敵を倒していく彼を熱烈に凝視していた梅宮は、やがて止まらない出血により意識が遠のいていくことを自覚し、我に返った。
ぐらりと身体が傾く直前、霞んだ視界の中、白黒の髪を靡かせた彼が勝気な声を上げたのが聞こえた気がした。
「大勢で一人囲んでんじゃねぇよ。ダッセェな」
“彼”はどうやら、圧倒的な容姿のオーラだけでなく、中身まで自分好みらしい。
それを悟った梅宮は、思わずふっと小さな笑みを零して意識を手放した。
ネオン煌めく大通りに人気を誇る夜の店が熱戦を繰り広げるが如く立ち並ぶ中、そのホストクラブは大通りから外れた裏路地にぽつんと店を構えていた。
特に名の知れたキャストがいるわけでもなく、しかし経営困難になるほど最底辺の不人気店というわけでもない。
いわゆる中の下のカーストに位置するそのホストクラブは、最近密かに注目を集めていた。それは、ほんの一か月前に異彩を放つ新人ホストが入ったからだ。
白黒のツートンカラーの髪に、琥珀色と黒のオッドアイ。
中性的で整った顔立ちをしており、幼さと色気の入り混じる絶妙な雰囲気を纏う彼は、『サクラ』という源氏名で彗星の如く現れた。
「──さっくらぁ~!!」
開店前のそのホストクラブに、ふとバカデカい声が響き渡った。
バンッ!と音を立てて開かれた表の入り口に、店内の掃除をしていた一人の青年が呆れ顔を向けた。
「お前、また来たのかよ」
背後から店長の「こらサクラ!その方に軽々しい口を利くんじゃない……!」という焦りと畏怖が滲んだ声がかかる。
しかしサクラと呼ばれた青年は、面倒くさそうにするだけで話し方を訂正することはなかった。その説教はもう何度もされているのだが、これまでも一度も訂正したことはない。
「いやいいんだ店長!むしろサクラとの距離を感じなくて嬉しいからさっ!サクラも、頼むから敬語なんて使わないでくれよー?」
「言われなくても使う気ねぇよ」
背後から再び「サ、サクラ!」と恐怖に染まった声が届くが、サクラは気にせず開店前の店に突撃してきた男に近付いた。
「あのな。毎回言ってっけど、準備中の店にほいほい入ってくんじゃねぇ。偉いのか何だか知らねぇが、ルールってやつは守ってもらわねぇと」
この街で一番強い影響力を持つ男を相手に怯んだ様子を見せず対峙するサクラを見て、店内のキャストやボーイ達が震えながら身を隠す。
情報に疎いサクラだけが知らないのだが、事実その男……店に突撃してきた梅宮一という男は、この街を支配する『風鈴組』の若頭だった。
つまり、街の全ての者達が畏怖し首を垂れる、正真正銘の支配者であり王者なのだ。
しかし当の梅宮は、その仰々しい肩書きに似合わないふにゃあっとした嬉しそうな笑顔を浮かべた。
意中の愛おしい青年からなら、呆れ顔だろうと何だろうと向けられるならどんな感情だって嬉しいのだ。
「ごめんなぁサクラ。サクラを困らせたいわけじゃないんだ。ただ、少しでもサクラと会える時間を増やしたくて……」
「どんだけ偉いヤツなのか知らねぇけど、特別扱いはできねぇよ。客なら店が始まってから来てくれ」
「あぁ、わかってる!だから、ちゃんとルールを守ってサクラと自由に関われるように、俺頑張ったんだ!」
「がんばったってなにを……」
相変わらず話通じねぇ、とため息を吐くサクラに、梅宮は満面の笑みを崩さず答えた。
「俺、今日からここのオーナーになったから!」
「…………は??」
数秒の静寂の後、サクラがものすごい勢いでブォンッ!と振り返る。
サクラから『まじで?』というびっくり顔を向けられた店長は、ソファの裏から顔を覗かせながら『その通りです……』と言わんばかりにウンウン頷いた。
街一帯を支配する風鈴組、そこの若頭である梅宮としがない新人ホストの桜。
二人の奇妙な関係が始まったのは、一ヶ月ほど前からだ。
ある日の夜、サクラは裏路地で絡まれている梅宮を助け、気を失った梅宮を住処のボロアパートに運んで介抱した。
目覚めた梅宮が桜に熱烈な勢いで猛アタックしたところ、しばらく迷惑そうにしていたサクラはやがて根負けして、自分が働くホストクラブと源氏名を教えたのである。
それ以来、梅宮はほぼ毎日のようにサクラに会うべくホストクラブへ通うようになった。
己の影響力を理解している梅宮は、あえて営業時間には行かず準備中の時間に通っていたが、梅宮がまさか街を仕切るヤクザの若頭だと知らないサクラは、その理由を察せず梅宮をただの迷惑客だと思っていた。
サクラに迷惑客として認知されることを危惧した梅宮は、ついに強硬手段に出たのである。
「オーナーって、そんな、なろうと思えばすぐになれるようなもんだったのか……」
店の隅にあるソファに梅宮と並んで座りつつ、サクラは困惑顔で呟いた。
梅宮があの『風鈴組』の若頭だからこそ行使出来た事だと知らないサクラに、遠くで掃除を再開していたキャストやボーイ達が無言でブンブンッ!と首を横に振っていた。
オーナーという立場、なろうと思えばすぐになれるようなものなワケないだろう……と。
「いやぁ、久々に本気出しちゃったな~。サクラとどんな時でも合法的に関われると思ったら、俺もう張り切っちゃってさ」
上機嫌に語る梅宮を、サクラは呆れ顔で見つめてため息を吐いた。
「……まぁ、オーナーなら仕方ねぇか。さっきは事情知らずに悪かったな。もうお前にごちゃごちゃ言わねぇよ」
「えっ!いやっ!俺に気に入らないとこがあったらこれからも遠慮なく言ってくれよ!?サクラの言うことなら何でも聞くから!」
「はぁ?オーナーって一番えらい……言っちまえば“てっぺん”みてぇなもんだろ。なんでえらいやつが俺なんかの言うこと聞くんだよ」
「あっこらサクラ!“俺なんか”は禁止っていつも言ってるだろー?」
ガシガシと頭を撫でられ、サクラは擽ったそうに目を細めた。
小さく唸りながらいやいやと首を振る姿はまるで猫のようで、梅宮はその愛らしさに「サクラはほーんと可愛いなぁ!」とだらしなく破顔した。
「──おい梅宮ァ!!」
梅宮が桜のことを撫で回していると、ふと既視感のあるドアの開閉音が響き渡った。
現れたのはツンツンとした短髪の男。手のひらで胃を押さえながら現れたその男は、店の奥で寛ぐ梅宮を見るなりドスドスと足音を立てて駆け寄った。
「お?どうした柊!腹でも減ったのか!」
「ちッげぇよ!!てめぇまた仕事サボりやがって!!」
“柊”と呼ばれたその男は、呑気に笑う梅宮に近付いて額に青筋を浮かべた。
梅宮の胸倉を掴んで無理やり立ち上がらせると、柊はきょとんと固まるサクラを見下ろして申し訳なさそうに頭を下げた。
「おうサクラ、うちの馬鹿がまた迷惑かけて悪かったな……」
「あ、あぁ。いや、気にすんな。そいつ今日からここのオーナーになったみてぇだし、俺ももう文句言わねぇよ」
柊は、梅宮がこのホストクラブに通うようになってから度々サクラと顔を合わせる人物だ。
大抵サクラと駄弁っていた梅宮を連れ戻しにくる役割で、サクラは柊のことを梅宮の秘書か何かだろうと推測していた。
流石のサクラも、梅宮が金持ちの権力者だということくらいはわかる。
きっとどこぞの社長とかで、柊はその秘書。そんなところだろうと思っているサクラだが、実際にはヤクザの若頭とその側近であるという事実をサクラが知るのはまだ先の話だ。
「……オーナー?おい梅宮てめぇ、ついにそんなことまでしやがったのか!?」
「まッ、待て待て!柊には後でちゃんと説明しようと思ってたんだよぉ!別に隠そうとしてたわけじゃなくてだな」
「言い訳すんじゃねぇ!もう許さねえぞ……罰としてしばらくサクラに会うの禁止だ!大人しく事務所に籠って仕事しろ!!」
「はッ、はあぁぁあ!?待ってくれ柊!ごめんて!反省するから!頼むからそれだけは!」
「うるせぇ黙れさっさと行くぞ!!」
柊が泣き喚いて暴れる梅宮を引き摺って店から出ていく。
遠ざかっていく泣き声を呆然と聞き届けたサクラは、カオスな沈黙に包まれた店内を見渡し、やがてぽつりと呟いた。
「あー……そろそろ時間だし、準備続けようぜ」
他人事みたいにあっさり語り欠伸をするサクラを見て、店の男達は『元はと言えばお前が元凶だろ……』と疲れ果てた様子でため息を吐いた。
再び梅宮が突撃してくることもなく、無事に閉店時間が近付いてきていた時だった。
サクラが客を店外で見送った直後、ふと背後からコツコツと軽い足音がサクラに近付いてきた。
「──やぁ、サクラくん」
シャラッとタッセルピアスが揺れる音が微かに聞こえ、サクラは特に驚いた様子もなく振り返る。
その声の主は、サクラにとっては梅宮と同じくらい……いや、それ以上に聞き慣れたものだった。なにせ“彼”は、サクラにとって初めての客でもあったから。
「蘇枋、今日も来たのか。でも……なんかいつもより遅かったな?」
暗い裏路地から颯爽と歩いてきたのは、背側に腕を組んだ黒いスーツ姿の男だった。
「ふふ、ごめんね。もっと早くに来ようと思っていたんだけど、ちょっと面倒な仕事が入っちゃって」
男の名は蘇枋隼飛。
彼もまた梅宮同様、サクラの甘い中毒性に魅せられた人間の一人である。
『風鈴組』の幹部である蘇枋は、ホストとして働き始めた桜を偶然見つけるなり一目惚れし、サクラの記念すべき初めての客となった。
そして以来、蘇枋は涼しい顔でエースに君臨しサクラに恐ろしい額を貢ぎ続けていた。
他でもない己が所属する組織のトップである梅宮が、先日からサクラに入れ込み始めたという噂は耳にしていたものの……。
蘇枋はなんてことない顔でその事実から目を逸らし、普通にサクラのもとへ通い続けた。蘇枋としては、恋敵が一番上の上司だからといって譲る気など到底なかったのである。
「んだよ、忙しいなら別に無理して来なくても……」
もごもごと呟くサクラを見て、蘇枋は微かに頬を紅潮させた。
嬉しそうに上がった口角が再び声を紡ぐ。
「いいや、俺の人生において意味のある時間は君と共に過ごす瞬間だけさ。今日も朝からずっと君のことだけを考えていたんだよ」
「んなッ……!……あ、相変わらずクセェこと言いやがって」
お前の方がよっぽどホストに向いてんじゃねぇか、と赤面するサクラを見て、蘇枋は意味ありげに微笑んだ。
今日も今日とてサクラは鈍感だな、と蘇枋は内心独り言ちる。
計算し尽くされた笑顔を向けるのも、甘いセリフを吐くのも、全てサクラが相手の時だけだ。サクラ以外に打算的な媚を売りたいと思う人間など存在しない。
全てはサクラを手に入れる為。サクラのことが欲しいから。
そんな欲望に塗れた仮面を、サクラは一向に堕ちる気配もなく淡々と躱すのだ。
蘇枋はそれがもどかしくて、けれどそんなサクラだからこそ愛おしくて、何としてでも手中に収めたいという感情が更に昂っていくのである。
「……さぁサクラくん、風邪を引いてはいけないからそろそろ中へ入ろう。君を独占できる残りの時間、全て俺が頂くよ」
そう言うと蘇枋は西洋の王子のように腰を屈め、サクラの手の甲に口付けた。
ゆるりと見上げてくる仄暗い執着を秘めた甘い瞳。口付けで既にキャパオーバーを迎え顔を真っ赤にして震えていたサクラは、その視線を間近に受けて危うく気絶しそうになった。
「ッ~~!!このっ、クセェことばっか言ってねぇでさっさと入れッ!!」
サクラはのしのしっと地団駄を踏むと、赤い顔を誤魔化すように店内へ駆けていく。
照れくさそうに速足で向かうサクラの後を、蘇枋はクスクスと笑いながら追うのだった。
「──まふぃあ?ふぅん、そんなのもいるんだな」
ホールの一番奥。仕切りで隠れて周囲から独立しているそこで、二人は健全に会話を楽しんでいた。
危機感が欠如しているサクラのために、蘇枋は街周辺の危険について説明していたわけだが……まったく警戒を見せず無防備に相槌を打つサクラに、蘇枋は苦く笑った。
「サクラくん、ちゃんと聞いているかい?最近勢力を広げている“獅子頭連”ってマフィアは、この店のすぐ近くにある高架の向こうに拠点を構えているんだよ」
「へぇ、だから?」
「だからって……君の行動範囲はこの周辺だろう。もし高架に近付いたら、例のマフィアと遭遇してしまう可能性だってあるんだ」
「んなもん、別に気にしなけりゃいいじゃねーか。その、ししとーれん?とかいうヤツらは、一般人相手に絡むような連中じゃねぇんだろ?」
「それはそうだけど……でもサクラくんのことだし、絶対例のマフィアにも気に入られちゃうよ。……特にあそこの副頭取とか、気に食わないけど俺と趣味が似通っていそうだし」
ブツブツと独り言を吐き始める蘇枋を見て、サクラは怪訝そうに首を傾げた。
オレンジジュースの入ったコップを取り、ストローをちゅうちゅうと吸って喉を潤す。ちらりと時計に目を向けると、時刻は深夜0時に近付いていた。
時間を意識すると、サクラの瞼はたちまち重くなる。
早起きして散歩をするのが日課のような健康優良児であるサクラは、街に来てからの夜行性の日々にまだ完全には慣れることが出来ていなかった。
「──いっそサクラくんに護衛をつけるか……って、サクラくん?」
低い声を小さく這わせていた蘇枋は、ふと肩に重みを感じて我に返った。
視界の端に柔らかなツートンカラーの髪が見えたことでハッと息を呑む。
「か、かッ、かわッッ!!」
蘇枋は柄にもなく赤面してワナワナと震えた。
見下ろした先には、蘇枋の肩に頭をのせて寝息を立てるサクラの姿があった。
むにゃむにゃと動く唇が可愛すぎて、蘇枋は危うくそれに吸い付きそうになる。柔らかい頬が蘇枋の肩でむにゅりと潰れて、餅のようになっているそれにも齧り付きたくなった。
サクラは蘇枋の声ではっ!と目を覚まし、慌てたように目をゴシゴシ擦りつつ姿勢を正す。
その顔はほんのり赤面していて、けれど同時に申し訳なさそうに眉尻が下げられた。
「わ、わりぃ……おれ、夜はどうしても眠くなっちまうんだ……この街に来るまえは、いつも9時にねてたから……」
「へ、へぇ、そうなんだ。まぁ夜だもんね、そりゃあ眠くもなるよね(赤ちゃん?赤ちゃんなの?可愛すぎない??)」
「店にいるときはぜってぇ寝ないようにしてるんだが……」
サクラは一度セリフを区切ると、ぽぽっと頬を染めて恥ずかしそうに続けた。
「蘇枋と一緒にいると、なんか気ぃ抜けちまうんだよな」
「──……」
蘇枋はにこやかな笑みを浮かべたまま、数秒ほど呼吸を停止した。
安らかな表情とは裏腹に、やがて鼓動はドッドッ!!と大きな音を立て始めて静まる気配がない。
「あはは、嬉しいことを言ってくれるね」と爽やかな声音を吐きながらも、頭の中はパレード状態だった。
「(ほんとサクラくんはいつも純情なくせに不意打ちでそういうこと言うんだから。これだから勘違いしたガチ恋客ばっかり増えていくんだよ俺のサクラくんだっていうのにまったく仕方ないなぁ。まぁ俺はサクラくんの初めての客だし?確実に一番のお気に入りだろうし?そりゃまぁ本命の俺と一緒にいると気も抜けちゃうよねほんと俺のサクラくんは可愛すぎる──)」
「あ、そろそろ時間だな」
上機嫌にぽわぽわと周囲に花を咲かせる蘇枋の隣で、サクラが0時を指す時計にふと視線を移してあっさりと声を上げた。
「……ねみぃ」
0時を少し過ぎた頃。
サクラは重い瞼を必死に上げて、よろよろと帰路についていた。
住処であるボロアパートに辿り着いた頃には瞳はほぼ閉じかけていて、サクラは鉄筋の階段をゆっくりと上る。
もうすぐ部屋に着くというところで、ついに耐え切れずぐらりと倒れ込んだ。
しかし、予想した痛みや衝撃が桜の身を襲うことはなかった。
「ぅん……ん?」
唇をむにゃむにゃと尖らせ、サクラは最後の力を振り絞って目を開く。
どうやら、倒れ込んだサクラの身体を誰かが抱き留めたらしい。背中にぎゅっと腕を回されていることに気付き、サクラはぼんやりと顔を上げた。
ぼやけたサクラの視界に、赤と黄のグラデショーンが美しい長髪が靡いた。
「……遅い。待ちくたびれた」
無機質な低音が淡々と響く。
ぱちぱちと瞬いて眠気を覚まそうとするサクラの頭を、今度はタトゥーで埋まった大きな手が優しく撫でた。
「おかえり“桜”。焚石の奴、待つの飽きたからって店にカチコミしに行きそうだったんだぜ。止めてやった俺のこと、よしよ~しって褒めてくれるよな?」
焚石と呼ばれた男の肩から顔を出したのは、ニッコリと胡散くさい笑顔を貼り付けた黒髪の男だった。
いかにも堅気ではないオーラをこれでもかと纏う二人の男は、どちらも甘く蕩けた瞳をサクラに向けた。
彼らは『風鈴組』と敵対関係にある『烽組』の若頭とその側近だ。
仁義を重んじる正統派の風鈴組とは異なり、烽組はあらゆる犯罪に手を染める悪名高いヤクザである。
最近発足したばかりの新興組織だが、既に知名度は街を越えてもその影響力を轟かせるほど。特に、ツートップである焚石と棪堂には常に畏怖の視線が向けられていた。
彼らを恐れないのは、世間知らずで風鈴組のことも烽組のこともよく知らないサクラだけ。
焚石と棪堂は二週間ほど前にサクラととある出会いを果たしてから、揃ってサクラに一目惚れし、こうして毎日のように仕事帰りのサクラを捕まえるようになった。
「たきぃし、えんどー……わり、ねみぃ……も、ねる……」
サクラは自分を囲む男達が知り合いだと気付くと、ほっと力を抜いて今度こそ完全に眠りについてしまった。
そんなサクラを、焚石が無言のまま当然のように抱き上げる。
顎をクイッと動かすと、心得たように棪堂が軽快な足取りで歩き出した。階段を下りた先に停めてあった黒塗りの車に二人を乗せ、自分は運転席へ意気揚々と乗りこむ。
「いっつもウチに泊まってるし、そろそろ同棲の話受け入れてくれてもいいのになぁ」
「このまま閉じ込める」
「エッ!焚石それマジで言ってんの……?いや気持ちは分かるけどよォ、それじゃ桜に好き好きぃ~って甘えてもらえる関係になるって計画が台無しになっちまうぜ?」
「…………」
「それは嫌だろ?だからもうちょい頑張ろうぜ。初めの頃と比べて警戒されなくなったし、たぶんあとちょっとだと思うんだよな~。それに……」
膝にのせたサクラに好き勝手口付ける焚石をバックミラー越しに眺めながら、棪堂は面倒そうに溜め息を吐いた。
「最近じゃ風鈴の奴らも桜に気付いて群がり始めてやがるし……ったく、この天然タラシは毎度毎度焦らせてくれるよなァ」
呆れたように独白を零した棪堂は、早く出せと椅子を蹴る焚石に急かされ、ハイハイと笑いながら静かに車を走らせた。
中の下のカーストに位置するホストクラブ。その店の新人ホスト、サクラ。
一人の純粋無垢なホストを巡り、水面下でヤクザ達の牽制と睨み合いが始まっていることに当の本人だけが一向に気付かない。
棪堂達と交流があることを知った梅宮や蘇枋がブチ切れて抗争を宣言したり、散歩中に高架下でとあるマフィアとサクラが邂逅したりすることを、幸か不幸かまだ誰一人知る由もないのだった。