テラーノベル
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結局、昨夜は一睡もできなかった。
仕事に追われ、その足でナオミの店を手伝って――。体は鉛のように重く、悲鳴を上げているはずなのに、困ったことに穂乃果の意識だけは爛々と冴え渡っていた。羊を数えるなんていう悠長な気休めは、一抹の慰めにもならない。
(それに……)
瞼を閉じれば、昨夜の情熱的なキスの感触が鮮烈に蘇り、全身の神経がざわめき立つ。まるで内側からじりじりと炎で炙られているかのように、落ち着かない。
意識すればするほど、心臓の鼓動は耳元でうるさく跳ね、益々眠れなくなる悪循環に陥っていた。、
(どうして、こうなったんだろう)
指先で、そっと自らの唇に触れてみる。 そこにはまだ、吸い付くような感触と、ナオミが纏っていたスパイシーなムスクの香りが生々しく残っているようで、じわじわと頬が熱くなっていくんが自分でもわかる。
(キスなんて、初めてじゃないのに)
二十九歳。それなりの経験はある。人並みに恋をして、それなりの経験もしてきたつもりだった。
けれど、これまでのどんな記憶を掘り起こしても、あんなにドキドキさせられた出来事は初めてだった。
「ナオミさんの唇、凄く柔らかかったな……」
流石普段からケアしているだけはある。そんな独り言が、静かな部屋に溶けていく。
(や、やだ……私、何を考えてるの。最悪……!)
けれど、ナオミがいけないのだ。普段は頼れる女性というイメージなのに、。あんな綺麗な顔であんな風に男性から抱きしめられて迫られたら、抗える人なんているんだろうか?
女に興味がないなんて言っておきながら、自分にキスしてくるなんて、一体何を考えているんだろう?
考えれば考えるほど、甘い底なし沼に足を取られていく。答えが出るはずもない問いを、幾度も幾度も脳内で繰り返す。
(……今日が、休みでよかった)
もし今日が仕事だったら、きっと使い物にならなかったはずだ。
穂乃果は乱れた呼吸を整えるように、もう一度、深く布団を被った。暗闇の中に浮かぶのは、あの人の射抜くような眼差し。
「~~~ッ、顔洗って来よう」
このままでは埒が明かない。のっそりと体を起こし、火照った頭を冷やすために部屋を出る。
すると、廊下の先にあるキッチンから、香ばしいコーヒーの香りが漂ってきた。
――トク、トク、と規則正しくお湯が落ちる音。
穂乃果は思わず足を止めた。
昨夜のあの嵐のような情熱と、逃げるように背を向けたナオミの赤い耳。その記憶が、コーヒーの穏やかな香りと結びつかず、脳が一瞬フリーズする。
(ナオミさん、もう起きてるの……?)
恐る恐るキッチンを覗き込めば、そこには昨夜の「男」の気配を幾分か和らげた、けれどやはり化粧気のない、素顔に近いナオミが立っていた。
背中越しでもわかる、すらりとした高い背。
昨夜、あの大きな手のひらが、自分のうなじに熱く重なったことを思い出し、穂乃果の頬は再びじわじわと熱を帯びていく。
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あや