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あや
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「……あら。起きたの?」
ナオミが振り返る。
その声はいつも通り低く、どこか気だるげで。けれど、穂乃果の視線とぶつかった瞬間、ナオミの手元がわずかに狂い、ドリッパーの淵からお湯が少しだけ溢れた。
「オ、オハヨウゴザイマス」
平常心でいようと思ったのに、全然だめだ。緊張して固まってしまった穂乃果を見て、ナオミがふっと表情を崩した。
「相変わらず酷い顔してるのねぇ。 元がいいのに勿体ない」
「へっ?」
「なぁに? アタシの顔に何かついてる? コーヒー淹れてあげるからちゃっちゃと顔洗ってきなさいよ」
昨夜の出来事なんて、最初から何もなかったかのような、あまりにも自然な振る舞い。
穂乃果は拍子抜けしたように瞬きを繰り返した。あの、魂を分け合うような情熱的な口づけも、耳元で響いた切実な吐息も、すべては寝不足が見せた白昼夢だったのではないか――そんな錯覚さえ抱いてしまうほど、今のナオミは凛としていて、隙がない。
(なんだ……意識しちゃってたの、私だけだったんだ)
それもそうだ。ナオミは普段女性の装いをしているが、こうして黙って立っていれば、いかにも異性の目を惹きそうな風貌をしている。女性との経験だって、きっと数えきれないほどあるに違いない。自分とのあのキスだって、彼女(彼)にとっては数ある出来事のひとつに過ぎなかったのかもしれない。
「……っ!」
肩透かしを食らったような、そして、どこか言いようのない寂しさを覚えている自分に気づき、穂乃果は内心で激しく動揺した。
どうして、がっかりしているのか。昨夜の続きを期待していたとでもいうのか。
(ないない! だって、相手はナオミさんだよ? そんなわけ――……っ)
自分の心の中に生まれた、名付けようのない感情に戸惑いを隠せない。
ナオミの背中に向けていた視線を慌てて逸らし、穂乃果は逃げるように洗面所へと足を向けた。
背後で聞こえる、静かなお湯の音。
ナオミがどんな表情でコーヒーを淹れているのか。それを確かめる勇気さえ、今の穂乃果には持てなかった。