コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
その日の夕方。
東京駅の近くの喫茶店で、私と川邊専務と、滝沢斗希の三人で会う事となった。
今、私と川邊専務は二人、その喫茶店で向かい合い座っているが、
交わす言葉はなく、夕べ二人で飲みに行った時のような雰囲気は一切皆無。
目すら、私達は合わせなくて。
そんな私と川邊専務のテーブルに、
滝沢斗希は暫くして現れた。
「篤、なに?相談したい事って?
仕事と仕事の間縫って来てるから、一時間くらいしか時間取れないけど」
「いいから、座れ」
川邊専務のその言葉で、滝沢斗希はこの場の空気の重さを感じ取ったのか、
表情を固くした。
川邊専務の横へと腰を下ろした。
あの話し合いの時と同じように、
近くにいたウェイターにコーヒーを頼んでいる。
私と川邊専務の前にも、コーヒーが置かれているが、
お互い手はつけず、冷たくなっている。
何処か敵意を含んだ眼差しを、滝沢斗希は私へと向けて来る。
相変わらず、綺麗な顔をしていて、
スーツの襟元の金色の弁護士バッチが忌々しく見える。
滝沢斗希の頼んだコーヒーは、すぐに運ばれて来た。
そして、私と川邊専務とは違い、滝沢斗希はそれに口を付けている。
一口それを口に含むと、滝沢斗希は持っていたコーヒーカップをテーブルに置いた。
「話って、何?」
そう、切り出して来た。
「俺が夕べ、小林を無理矢理…。
全部言わなくても、それで分かんだろ?」
「は?なんの冗談?」
滝沢斗希は笑い飛ばそうとするが、
川邊専務の表情が険しいままで、スーとその笑いが表情から消えて行く。
「俺は、小林にちゃんとそれを償いたいと思っている。
けど、その事を公にはしたくない」
「え、いや、その前に、それは事実なの?
篤がそんな風に女に無理矢理とか、ないだろ?」
少し焦っているようには見えるけど、滝沢斗希はまだ冷静さが残っている。
滝沢斗希の言うように、川邊専務は女性を無理矢理抱くような人間ではないだろう。
普通、ならば。
「夕べ、すげぇ酔ってた…。
だから、あんまり覚えてねぇけど、小林の事無理矢理…」
「酔ってて覚えてないなら、本当にそんな事があったかどうか怪しい。
この女の狂言かもしれないだろ?
篤の事をゆすろうと」
そう言って、滝沢斗希は先程とは違い、しっかりと敵意の籠る目を私に向けて来た。
私もそれを受け止め、睨み返す。
「あんまり覚えてないって、言ってんだろ?
全く覚えてねぇわけじゃない。
俺から逃げようとしてる小林の事を、押さえ付けてたのも、覚えてる」
遠慮がちに言われるその言葉。
その遠慮は、私に対してだろう。
「あり得ない…。
本当に、あり得ないだろ?
酔ってたからって。
篤、お前何か嘘付いてないか?」
そう川邊専務の顔を覗き込むように見ている滝沢斗希は、言葉で表現するなら、必死で。
この男の、こんな姿が私は見たかったのだと、胸がすくような感覚を覚える。
「お前、時間ないんだろ?
早く話を進ませろ。
こういう場合、どうすりゃあいい?
金くらいしか、俺は思い付かねぇけど」
「…大概は、お金で示談って形になる。
後日、この件での示談書にお互いサインして貰って」
「じゃあ、それ用意してくれねぇか?
示談の金額は、小林お前が決めろ」
この店に入ってから初めて、
川邊専務と目が合った。
いや、今日は殆どまともに川邊専務は私の顔を見ない。
仕事中も視線だけではなく、私と離れて歩き、話しかけて来る事もない。
帰りの新幹線も、川邊専務は取っていたグリーン席には座らず、一人自由席の方へと行っていた。
彼なりに、それらは私に気を使っての行動なのだろう。
自分から仕掛けておいてこんな事を言うのもおかしいけど。
今もそうなのだけど、
川邊専務の存在が怖くて、体が震える。
私のそれを、川邊専務も感じ取っている。
「篤、外してくれないか?
小林さんとこの後の事は、二人で話させて」
「あっ?なんで小林と二人で?」
滝沢斗希の言葉に、川邊専務はいぶかしむように、視線を向けている。
「篤が居たら、小林さんも怖くて、本当の事が話せないでしょ?
小林さんにとって篤は、加害者だし。
それに、仕事上の上司で。
ただ、俺は警察じゃないから、夕べの事は追及してもう彼女から聞かないから。
その示談金の額で、少し小林さんと二人で話させて」
「…分かった。
小林、お前斗希との話し合い終わったら、そのまま直帰していいから」
「はい…」
「俺は、一度会社戻るわ」
川邊専務は、コーヒー代として財布から1万円札を一枚テーブルに置いて、
店から出て行った。
どうやって川邊専務に席を外して貰おうかと色々と考えていたが、
滝沢斗希の言葉を特に疑わずに川邊専務は私と彼を二人にしてくれた。
川邊専務が店から出て、暫くした頃。
再び、滝沢斗希はコーヒーに口を付けていた。
それに目を向けると、目が合う。
少し苛立ったように、その目を細め、コーヒーカップをテーブルに置いた。
「眞山社長の事があって、味をしめて、またって感じですか?」
その問いかけに一瞬意味を考えたが。
ああ、お金って事か、と思った。
「先程迄の話聞いてませんでした?
私、川邊専務にレイプされたんですよ?」
少し、乱暴な言葉を使う。
「篤は、酒に飲まれるタイプじゃない。
まさかと思うけど、あいつに薬とか飲ませた?」
そう訊かれて、素直に私がそれを認めるとは、この男も思ってはいないだろう。
けど、少し教えてあげる。
「あくまでも、例えばですけど。
例えば、あなたが言うように、私が何かの薬の入ったお酒を川邊専務に飲ませたとしましょう。
例えば、ですけどね。
それで、川邊専務が我を失い、私をレイプしたのだとしたら?」
「もしそうなら、レイプドラッグを使用したとして、男女逆でも小林さんも準強制性交等罪に問われるかもしれませんよ?」
「じゃあ、私を訴えてくれても構いませんよ?
裁判でも、します?」
その私の言葉に、目の前の滝沢斗希は悔しそうに口を結んだ。
もし、裁判なんかになれば、
今回の事が公に知られる。
もし、私が仕組んだ事だとしても、
私と川邊専務の間に性行為があった事実が、公に知られる。
目の前の滝沢斗希は、それによって川邊専務の社会的地位が失われる事が一番に頭に過っただろうけど。
川邊専務本人は、奥さんや子供達家族の事しか、頭に無かった。
今朝の、あの瞬間。
“ーー俺、小林に誠心誠意償うから、
この事は、黙っててくれないか?
嫁も子供も、本当に大切なんだーー”
今朝の、川邊専務のその言葉が、言霊のように今も私を責める。
「そんな怖い顔しないで下さい。
今私が話したのは、”例えば”の話ですから」
そう言って、私は鞄に入れていたスマホを取り出して、
それを触る。
それを滝沢斗希は、睨み付けるように見ている。
「何も残ってないと、またあなたに、無かった事にされるから」
そう言って、スマホで録音したその音声を再生させる。
『川邊専務、もう辞めて下さい』
その声は私のもので。
夕べ、二度目の性行為の時、
私は隙をついて床に落ちている私の鞄に手を伸ばして、スマホを触り、それを録音した。
その次の瞬間には、川邊専務に後ろから腰を捕まえるように持たれて、
私の体に自身のものを押し込むように挿れられた。
『…辞めて…いや…。
もう辞めて!
いや…』
その振動で、その私の声は震えている。
その台詞は、録音する事を意識して、わざと大きな声を出した。
『…うるせぇ。
逃げんな、殺すぞ。
ヤらせろ…』
その川邊専務の言葉を聞いた瞬間、
最悪だ、というように、滝沢斗希は目を閉じ、両手で顔を覆った。
スマホからは、川邊専務の荒くなった呼吸と、
その打ち付けるような音が聴こえて来る。
『…いきそう。
またこのまま中で出してやるから』
私はもう十分だと、スマホに触れてそれを止めた。
録音した音声はまだまだ続いているのだけど、
これ程決定的な言葉が川邊専務から出たのは、序盤のこの辺りだけ。
その後は、薬の効果が強くなったのか、段々と言葉らしい言葉が川邊専務から失われて行っていた。
夕べ、川邊専務の度々浴びせられるそれらの言葉に怖くて全身が震えたが、
これを聞いた滝沢斗希がどんな顔をするのかと、
それを想像すると、武者震いがした。
「―――小林さん、この録音の他に篤とあなたの夕べの事を証明するものありますか?」
滝沢斗希は、顔を覆っていた両手を外し、
テーブルの下へとその手を隠した。
きっと、悔しさから手を握りしめているのかもしれない。
「まさか、この録音だけじゃ、証拠にならないとおっしゃるんですか?」
「いえ。
後から出て来ても困るので」
なるほど、ね。
「証拠になるのか分かりませんが、
今も私の体の中に、沢山残ってますよ?
あなたの親友の、川邊篤のものが」
そう挑発的に笑いかけるが、
もう心が折れたように、滝沢斗希は私に目を向けるだけ。
「一応伝えておきますが、
ピルを飲んでいるので、妊娠の可能性はないです」
私は今も惰性で、ピルを飲んでいた。
眞山社長と別れて、もう必要ないのに。
けど、今回の川邊専務との事もそうだけど、
あの薬の売人の若い男の子も…。
ピルを飲んでいて、良かった。
「いくら欲しいんですか?」
早々と、そう切り出して来た滝沢斗希。
これ以上、親友の醜態を知りたくないのだろう。
けど、私はもっと滝沢斗希の悔しがる顔が見たい。
「川邊専務って、浮気とか本当にした事ないんでしょうね?
奥さん妊娠中でスッゴい溜まってたのか、凄い量でしたよ。
夕べ、二人で飲みに行った時、美人の奥さんと娘さん達の写真見せて貰いましたけど。
その奥さんや子供も、川邊専務が狂ったように私を犯している事なんか一切知らな――」
私の言葉を遮るように、滝沢斗希は、
目の前にあったグラスの水を私に浴びせて来た。
その水は、この喫茶店に入った時、川邊専務の前に置かれていたもの。
ポタポタ、と。
私の前髪から滴が落ちる。
私は鞄からハンカチを取り出して、
顔に垂れた滴を拭う。
周りの視線を感じるけど、気にしない。
「―――眞山社長の時は、あれ程余裕だったのに。
親友だと、こんなにも取り乱すんですね?
こんな行為も、もしかしたら法に触れるかもしれませんよ?
私は法律には詳しくないけど。
軽率な行動ですね?」
「刑法208条。暴行罪…。
訴えるなら、お好きにどうぞ」
それは、開き直っているわけではなく、
何処か投げ遣りで。
「お金はいらないです」
その言葉に、え、と滝沢斗希は私を見る。
「私が欲しいのは、お金じゃなくて、滝沢斗希さん、あなた」
「―――は、意味が分からない」
何処か怯えるように、私を見ている。
「私の目的は、川邊専務を陥れる事じゃない。
むしろ、利用しただけ。
滝沢さん、あなたに復讐する為に」
「復讐って…」
「あの話し合いの時から、ずっと忘れられなかった。
あなたの冷たく、私を見下すあの顔。
あなたに言われなくても、眞山社長が私に本気じゃない事くらい、いつの頃か何処かで感じていた。
けど、私はそれを認めたくなかったし、もっと夢を見ていたかった。
なのに…あなたは容赦なく、それを私に認めさせた…」
「―――くだらない。
そんな事で」
そう言って笑うと、あの日見せたような冷たく私を見下すような表情を、滝沢斗希は浮かべた。
「そうでしょうね?
くだらないでしょ?
だから、そうやって見下してバカにしている私と、あなたは結婚するの?
あなたに対しての復讐として、最高の方法でしょ?」
「結婚…」
その結婚の言葉に、滝沢斗希が少し怯むのが分かった。
「あなたの事は、興信所を使ってけっこう調べたの。
独身なのもそうだけど、特に結婚を考えているような相手はいないみたいだし。
まあ、恋人が居た所で、別れさせるけど」
「―――そんな事で、小林さんの気が済むの?
俺なんかとの結婚で」
「ええ。
あなたみたいに、容姿もよくて東大在学中に司法試験パスして、実家もお金持ちで。
そうやって、人生完璧で。
だから、結婚で私みたいな最悪な女と結婚するの。
私がこの先のあなたの人生、台無しにしてあげる」
そう言って、滝沢斗希に笑いかける。
「結婚して、一緒に不幸になりましょう?」
不幸に、してあげる。
「それで、篤との事は黙っててくれるの?」
「はい。
先程も言ったように、川邊専務は利用しただけ。
彼に何も恨みなんてない。
あなたが、私の言う通りにしていれば」
「―――分かりました」
その返事は、何処か負けを認めるように感じた。
「川邊専務には、あなたから適当に言っておいて下さい。
例えば…、私があなたに気が有りそうだから、
結婚を餌に黙らした、とか?
逆でもいいですよ?
私から、黙ってて欲しければ結婚を迫られた、とか?
まぁ、実際その通りですし」
「分かった。
きっと、それで篤は納得するだろう」
川邊専務は、納得をせざるをえないだろうな。
もし、もっと違う事でならば、
自分のせいで親友の滝沢斗希がそんな風に犠牲になる事を許さないかもしれない。
だけど、それを見過ごしてでも、
今回の事を家族には知られたくないだろう。
私は鞄から、その紙を取り出した。
婚姻届。
「これにサインして下さい。
戸籍謄本は近いうちにでも取りに行って、また私に渡して下さい。
保証人は…、私の方で誰かにサインして貰うので。
あ、印鑑も、適当に私が押しておきますよ?
滝沢ならそれほど珍しい名字でもないので」
「印鑑は、今有りますよ。
後、俺マイナンバーカード持ってるから、そこのコンビニで戸籍謄本もすぐ取れますよ」
滝沢斗希は、自分の背に置いてた鞄を膝に置き、小さな印鑑ケースを取り出した。
それを、テーブルに置く。
婚姻届を自分の方に引き寄せると、
胸ポケットからボールペンを取り出し、
さらさらとそれに記入して行く。
「この結婚は、戸籍だけの事ですか?
それとも、本当に小林さんと俺は一緒に住んだり生活も共にするんですか?」
書きながら、そう訊かれる。
「もちろん。
一緒に暮らしましょう。
あなたの住んでるマンション、2LDKだから、私が住む余裕有りますよね?」
「本当に色々俺の事調べてるんですね。
じゃあ、一部屋空けておきます。
けっこう、本とか物で溢れているので。
それとも、部屋も同じが良かったですか?
ベッドも?」
「いえ。それは求めてないです」
結婚し、一緒に生活はするけど、
それ以上の事は、この人に求めていない。
だって、好きで結婚するわけじゃないのだから。
「これでいいですか?」
滝沢斗希は記入した婚姻届を、
向きを変えて私の方へと差し出して来る。
「はい」
「じゃあ、特に今回の事で示談書とかは必要ないですよね?」
「はい。
後、録音してますよね?
川邊専務が席を立った辺りから。
まあ、特に録音されて困る事は、私は話してませんけど。
それ、消してくれません?」
私のその言葉に、滝沢斗希はスーツのポケットから、ICレコーダーを取り出した。
そして、溜め息を吐くと、これでいいですか、とそれを消去していた。
「流石に、小林さんは先程の音声は消してくれないですよね?」
それは、先程聞かせた、川邊専務とのあれだろう。
「はい。だって、夕べの事を証明出来るものは、それしかないので。
川邊専務のものも、直に私の体から出て行くでしょうし。
後、一応言っておきますがあの音声、メールで自宅のパソコンにも送ってますから。
念のために」
「そうですか。
なら、今ここで小林さんからそのスマホを奪い取っても無駄だという事ですね」
「ええ」
もしも、と思いそうしていたが、
滝沢斗希も少しはそれを考えただろう。
私から無理矢理スマホを奪い取る事も。
「俺も、小林さんの事気に入らなかったんですよ。
あの代理の別れ話の時。
ちょっと涙でも見せるなら可愛げがあるのに、
ふてぶてしく、俺を睨み付けて来たあの顔。
気に入らなかった」
そう挑発的に笑いかけられ、少し怯んでしまった。
「俺と、結婚して下さい」
挑むようなその言葉に、頷いた。