コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
滝沢斗希に婚姻届を書いて貰った翌日の土曜日。
私は朝から一人、近くの区役所へとそれを出しに行った。
滝沢斗希は、今日は終日仕事らしい。
区役所の職員さんから、それを受理される際に、おめでとうございます、と言われ、
なんだか変な気分だった。
滝沢斗希と結婚する事にこれっぽっちも嬉しいなんて気持ちなんて無かったのに、
ほんの少しだけ、顔が綻んでいた。
区役所を出て、滝沢斗希にLINEでメッセージを送った。
《婚姻届、出しました》
それだけ。
あの話し合いの時、時間がないからか、
その後の事は淡々と決まった。
もうすぐ、私はお盆休みがあるので、
そこで滝沢斗希の借りて住んでいるマンションへと引っ越しをする。
結婚に伴い、転出届やら転入届け、銀行等の名義の変更等々。
これからする手続きの事を色々と考えると、面倒な事ばかりで億劫。
会社には、休み明けに結婚の報告をしようと思う。
そう思い、滝沢斗希はもう川邊専務に、
今回の結婚の事を話しただろうか?
と考える。
川邊専務には、滝沢斗希から話す事になっている。
私と滝沢斗希の、その突然で思いもよらない結婚を知り、
川邊専務はどんな反応をするのだろうか?
知ったら、私に電話でも掛けて来そうだな、とスマホを見ていると、
LINEのメッセージを受信した。
それは、滝沢斗希からで。
《ご苦労様です》
その、一言。
私は特にそれに返事は返さず、
スマホを鞄にしまった。
◇
休み明け。
朝一、会社に結婚の報告をすると周囲にとても驚かれたのもそうだけど、
私のその結婚の相手が、うちの顧問弁護士の一人の滝沢斗希で、
とても羨まれた。
それは、女子社員だけではなく、
男性である室長の小島さんさえも。
「小林さん、良かったね。
彼、弁護士なのもそうだけど、滝沢さん男から見ても惚れ惚れするあの容姿だからね」
「そうですね…」
滝沢斗希の顔を思い浮かべるが、
浮かぶのは冷たく私を見下すような、あの顔。
「今日の夕方からのマルハシアニメーションの20周年パーティーの専務の同行は、岡田(おかだ)さんにお願いしようと思います」
「岡田君、今日初日なのに大丈夫かな?
まあ、専務が構わないなら、岡田君でも構わないけど」
今日から、専務の専属の秘書が一人増える。
それは、私と専務の間にあんな事があった事は関係なくて、
私が川邊専務付きの秘書になってすぐの頃から決まっていた。
その、新しい川邊専務の秘書となる岡田さんは、30代後半の男性で。
元々、川邊専務と同じ企画系の部署に居たらしく、
川邊専務とは、直属の上司と部下として数年働いていたらしい。
書類作成やスケジュール調節、接待の手配等の事務的な仕事諸々は、
今まで通り私が行うが、
専務への来客の応対や外出等の帯同なんかは、岡田さんに任せる事で、
今日の午前中に岡田さんと話しがついている。
それならば、私はあまり川邊専務と顔を合わせなくて済むから。
秘書室の掛け時計を見ると、
午後14時。
手にした書類を持って、今から専務室へと行く。
朝、少し川邊専務とは仕事の事で顔を合わせたが、
私の隣に新しい秘書となる岡田さんが居たので、
川邊専務と私は普段通りに接する事が出来ていた。
けど、今からは、私一人で川邊専務の元へと行く。
専務室の扉をノックすると、
はい、と川邊専務の声が聞こえた。
失礼します、と部屋へと入ると、
こちらへと向けている川邊専務の視線に、体が震えた。
あの夜、この人に私は何度も抱かれた。
薬で理性を失った川邊専務の常軌を逸した、あの感じ。
今も、体が震える。
「…あの、頼まれていた、H百貨店のカプセルトイの新店舗出店の、予算表がベンダー事業部の方から上がって来ましたので。
お持ちしました」
声が、震える。
ちゃんと話そうと意識すればする程、
それは酷くなる。
「ああ。
こっち持って来て貰っていいか?」
川邊専務はそう言うと、私から視線を外し、
手にしている書類に目を落としている。
私は、川邊専務の座っている執務机の方へと行く。
そして、それを、机の端に「お目通しお願いします」と置いた。
「ああ。ありがとう」
相変わらず、私を見ない。
あの事で後ろめたくて私を見られないというよりも、
私が川邊専務を怖がっている事を分かっているからだろう。
「失礼します」
そう、踵を返して川邊専務に背を向けた時。
「特に返事は返さなくていいから、
聞いて貰っていいか?」
その言葉に、歩み出そうとしたその足を止めた。
「お前も、この会社で俺の昔の事は色々と聞いてるだろ?
ちょっと、悪さしてて」
この人の、その辺りの噂は、
本当に色々な人から聞かされた。
昔、けっこうな不良だったと。
だから、以前はこの人を会社の人達は怖がってあまり関わらないようにしていたと。
けど、この人が結婚した辺りから、
段々とその優しい人柄が周りに広まり、
今は、社内の人達からとても好かれている。
私がこの会社に入社した時には、
社内の人気者のようにこの人はなっていた。
だから、私はこの人を怖いとかあの夜迄思わなかったけど。
あの時、暗闇に目が慣れて来た頃、
ぼんやりとこの人の左肩にタトゥーがあるのが見えた。
噂は、本当なんだって…。
「昔な。
まだ10代の頃なんだが。
ちょっと関係持った女がジャンキーで。
興味心から、一度だけ俺もクスリやった。
あの頭の中がぶっ飛んだ感じ。
キメてその女とヤッた時と一緒だった」
その言葉に、川邊専務は、私のした事を気付いているのだと、体が震えて来る。
足が、ガクガクとしていて、立っている事がやっとで。
「そっから、何年か経って仲間で飲んでる時、その女の噂聞いたんだ。
結婚したのか、子供産んだって。
ただな、その女の子供、生まれた時から手の指が何本か少なかったらしい。
昔、クスリやったからか…。
もしかしたら、妊娠中もまだクスリやってたのかもしんねぇし。
そのクスリが関係あんのかないのかも分かんねぇけど。
もし、まだお前の手元にそのクスリがあんなら、絶対にお前はそれを口にすんな」
この人、本当に馬鹿なんじゃないか、と思った。
そこまで分かっていて、私の心配するなんて。
馬鹿な程、お人好しで。
「今の話、斗希には黙ってて貰っていいか?
あいつにクスリやってんの知られたら、またうっせぇし」
そう言う感じ、今回のその私が薬を盛った事に気付いてる事も、川邊専務は滝沢斗希には話していないのだろうな。
「―――滝沢さんから、なんて聞きました?
私との結婚の事」
今の感じで確信したが、川邊専務は既に私と滝沢斗希との結婚の事を、聞いている。
「俺に乱暴されて落ち込んで泣いてるお前を見てたら、放っておけなくて、その場で結婚を申し込んでしまった、って。
自分がお前の事を幸せにしてあげたいって思った、らしい。
んで、それならば、と今回の俺との事も、お前は無かった事にしてもいいと。
んな、感じ」
そんな風に話したんだ。
「まさか川邊専務はそれを信じてらっしゃるんですか?」
「いや。
あいつはそんな善人じゃねぇし。
それに、お前は泣かねぇし。
あん時も…」
川邊専務の口にした、あの時に、また体が震える。
泣かない、かぁ。
私が最後に泣いたのは、いつだろうか?
「お前と斗希の結婚に完全に納得してるわけじゃねぇけど。
納得せざるを得ない程の弱味を、お前には握られてるし。
なんとなく分かってるのは、斗希に近付く為に俺はお前に利用されたんだろうな。
お前が斗希をどう思ってんのかは、分かんねぇけど」
「―――はい」
ごめんなさい、という言葉は、寸前で止めた。
きっと、謝ったらこの人は許してくれるような気がするから。
私は許されては、ダメだ。
「斗希の奴、スゲェ楽しそうだったぞ。
お前と結婚するの」
その言葉に、思わず川邊専務の方を振り返りそうになった。
私との結婚が、楽しそうって?
「あいつは、俺が知ってる中でも一番スゲェ変な奴だからな」
私との結婚が嬉しそう、ではなくて、楽しそう、か。
ある意味、私と滝沢斗希との結婚は、
お互いを不幸にする為の、ゲームみたいなもの。
楽しそう、か。
「後、もう無理なら言え。
適当な理由付けて、俺の秘書から外してやるから。
今日も朝からお前俺の事見て震えてっから」
そう言われ、意識したからか、また体が震えて来る。
「―――岡田さんに、川邊専務の今後の帯同全般はお願いしようと思ってます。
なので、私が川邊専務と顔を合わせるのは、今後、それ程ないと思います。
なので、お気遣いなく」
「そうか。分かった」
川邊専務のその言葉を背に聞きながら、
私は専務室を後にした。
私の滝沢斗希の住むマンションへの引っ越しは、お盆休みの最終日になった。
お盆は、滝沢斗希は仕事や色々と予定があるらしく、
そこしか時間が取れないと、喫茶店で話し合った時に言われた。
その引っ越しが、滝沢斗希と入籍後、
初めての顔合わせとなった。
それどころか、婚姻届を出した事と、今日の引っ越しの事で、滝沢斗希とはLINEを少し交わしただけ。
本当に、結婚って紙切れだけで出来てしまうのだと、滝沢斗希とその希薄な関係を思う。
そして、その引っ越しは、前が押していて、と業者の都合で遅くなり、
その作業を終えようとする時には、21時を過ぎていた。
「これ、食べるならどうぞ。
後、風呂とかは勝手に使って下さい。
もし使い方とか分からなかったら、また言って下さい。
冷蔵庫の飲み物も、勝手に飲んで貰ってもいいので」
滝沢斗希は、部屋で荷解きしている私に、
パン屋で買って来たと思われる紙袋を置いた。
わざわざ、買って来てくれたのだろうか?
それを尋ねる前に、滝沢斗希はそのままリビングの方へと消えた。
滝沢斗希のそのマンションは、2LDKで、
玄関入ってすぐの部屋を、私に空けてくれた。
彼は、リビング横の部屋を、使うらしい。
私はテレビだけではなく、小さな冷蔵庫等も持って来ているので、
リビングの方へは、用がない限り立ち入らないだろう、と思った。
そんな風に、結婚して同じ家で暮らしていても、
滝沢斗希との関係は、冷めているというか、お互い、極力関わらない関係。
だから…。
翌朝、この部屋の鍵を貰おうとリビングへと行くと、
ダニングテーブルに並べられた、
その朝食を見て、驚いてしまった。
「朝食用意したんですけど、結衣さんも食べませんか?」
ダニングテーブルに座り声を掛けてくる滝沢斗希は、
まだ寝間着のままだけど、その顔は寝起きって感じでもなく。
今まさに食事を始めようとしていた所みたいだったが、
私の姿を見て、席を立ち上がった。
「結衣さんも、味噌汁飲まれます?
ご飯も、普通によそって構わないですか?」
「え、はい…」
戸惑いながらも、そうなんとか頷く。
一体、これは何の真似なのか?と。
「そんな仏頂面してないで、座って下さい」
私の分の味噌汁と、ご飯をよそい、
滝沢斗希はそれをダニングテーブルに置いた。
テーブルの上には、焼いた鮭の切り身と、卵焼きがある。
それは、滝沢斗希と私の分と、二つずつ。
「どうして…私の分迄」
私はそう言葉にしながら、ゆっくりと滝沢斗希の目の前に座った。
「俺、料理はわりとする方なんですよ。
昔から、朝はしっかりと食べていて。
流石に、結衣さんがこの家に居るのに、
そうやって自分の分だけ用意してって、それはちょっと。
あ、夜は俺大体外で食べるか、出来合いのものを買って来る事が多いので、
夜は、結衣さんは勝手に食べて下さい」
美しい所作で、お味噌汁の椀を持ち、
それに口を付けている。
それにしても、私の呼び方も小林さんから、結衣さんに変わっている。
結婚して、私も滝沢になったからか。
「斗希さん、では、遠慮なく頂きます。
後、夕べのパンもありがとうございました」
私は箸置きに置かれている箸を持ち、黄色い卵焼きから手を付ける。
それは、甘くて塩加減も絶妙で。
この人、けっこう料理が上手なのだと思った。
「別に、斗希でいいですよ?
俺達夫婦なので」
「なら、私も結衣でいいですよ?
後、その鼻に付く敬語も使わなくても」
斗希に、そう言って視線を向けると、
その口が、楽しそうに弧を描いている。
“ーー斗希の奴、スゲェ楽しそうだったぞ。
お前と結婚するのーー”
その言葉の通り、本当に楽しそう。
「じゃあ、結衣。
夕べ遅かったから話せなかったので、
今、朝食を摂りながら今後の話をしよう」
「うん…」
今後の話か。
結婚した以上、この人とはそれなりに話し合わないといけない事があるのだろう。
「俺達の関係は、いわゆる契約結婚的なもの。
だから、どこまで、か決めておかないと」
そう言って、堂々とICレコーダーをテーブルに置かれた。
それを、戸惑い凝視してしまう。
「気にしないで。
話し合いの時録音してしまうのは、俺の癖みたいなものだから」
そう言われても、それを気にしない方が無理なんじゃないか、と思う。
「部屋はこうやって別だけど、
セックスはしていい?」
その唐突の質問に、寝惚けていた頭が一気に覚めた。
「私達は好きで結婚したわけじゃないのに、
それをする必要ある?」
「別に好きだからするわけじゃなくて。
こうやって同じ空間に一緒に住んでいて、
俺が結衣に対して、そういう気持ちを抱くのはあり得る事だから」
「あなたが、私に?」
好きだからじゃなくても、斗希が私に対して、そんな気持ちを抱く事がピンと来ない。
「眞山社長や篤見てて、男がどんなものか結衣も大体分かっただろ?」
眞山社長は、私を好きだと嘘を付いて騙して迄、私とのセックスを楽しんでいた。
川邊専務に関しては、私が薬を飲ましたのだとしても、
ああやって、私の体を求めて来た。
「斗希は、私が嫌いなのに?」
眞山社長も川邊専務も私を好きではないが、
嫌いではなかったから。
「表裏一体…相即不離。
嫌いだから、結衣としたいのかも。
結衣に興味?
結衣も俺に対して、そうじゃない?」
表裏一体。
もしかしたら、私はこの男に対してそんな気持ちを抱いているのだろうか…。
憎みながらも、この男に愛のようなものを?
だから、私はこの男と結婚を…。
「どうしたの?
そんなに怖い顔してさ」
そう何処か私を馬鹿にするように笑っている斗希を見て、
冷静さを取り戻した。
「私は、裏も表もないから。
私は斗希が嫌い。
だから、あなたを不幸にしてやりたくて、私はここに居るの」
そう。
私のこの斗希を憎む気持ちに、裏もなければ、
含みもないはず。
「思ってたんだけど、俺を不幸にって、具体的にどういう事?
好きでもない結衣と結婚した俺が、不幸に見える?」
そう訊かれ、答えに窮してしまう。
「俺、結婚に何の憧れも持ってなかった。
今まで沢山の女性と付き合ったけど、誰もそこまで好きになれなかったから、
出来れば、誰とも結婚なんてしたくないって思ってて。
でも、俺もいい歳だから、周りも結婚しろとか煩くて。
だから、そろそろ適当な相手と、って思ってた。
そんな感じだから、結衣との結婚も俺的に特に不幸になったとか思ってない。
なんなら、結衣みたいな楽な相手と結婚出来て、ラッキーだったのかも」
楽な相手…。
多分それは、世間一般的な、一緒に居て楽だとかそういう意味ではなくて。
お互い、愛がなくて、楽だという事なのだろう。
愛だけじゃなく、夫婦としてその縛りも、私達はないに等しい。
きっと、私がそうであるように、
私が浮気なんかをしても、この人は怒りもしないだろうな。
「ガッカリした?
結衣との結婚で俺がダメージ受けてなくて?」
その勝ち誇ったような顔に、怒りがこみ上げてくる。
「いえ。
そう言って、離婚を促そうと、あなたの作戦かもしれないので」
その私の言葉に、さらにその笑みを深くしている。
「気になっていたんだけど、
結衣の両親に挨拶とかしなくていいの?」
その言葉に、動揺からか、箸を持つ手が震えた。
「―――大丈夫。
お盆に電話では、親に斗希と結婚した事を伝えたから」
それは、嘘ではなくて、本当の事。
伝えたのは、母親だけだけど、
父親にも伝わっているだろう。
「そう。
けど、普通に考えて、それだけでいいの?」
「うち、普通じゃないから」
これが、私ではなくて兄の結婚ならば、
相手を家に連れて来い、だけではなく、結納や、結婚式の事でも、母親は口を出したり、世話を焼いたり、
お金も惜しまず出すだろう。
電話で、斗希との結婚を伝えた時のあの母親の反応。
『そう。
けど、年末に優成(ゆうせい)の結婚式があるのあなたも知ってるでしょ?
それで忙しいから、あなたは式なんかしないでよ』
優成は、私の大嫌いな兄の名前。
別に、そんな風に言われなくても、
私は結婚式なんてするつもりなんてないけど。
「大丈夫。
式の予定はないよ。
一応、伝えておこうと思っただけだから」
『けど、急に入籍したって。
あなたもしかして、妊娠でもしてるの?
娘が結婚よりも先に子供が出来たなんて恥ずかしいから。
もしそうなら、堕ろしなさい』
「それも、大丈夫だから」
なんだか、もう笑うしかなくて。
その後、母親には嫌な言葉を色々と言われて、
適当な所で、その電話を切った。
目の前の、斗希に目を向けて、気付いた。
顔は似てないのだけど、
そっくりだと。
大嫌いな兄に、斗希が。
「あのさ、母さんは結衣の事なんか嫌いなんだから。
いい加減気付けよ?
何を期待しての?」
いつだったか、そう言って私を嘲笑った、兄の顔。
あの眞山社長との別れの話し合いの時の、斗希と重なる。
“ーーもう諦めたらどうですか?ーー”
“ーーあなたも大人だから分かるでしょ?
遊ばれていたんだってーー”
そうか。
だから、私は眞山社長じゃなくて斗希を憎んだんだ。
大嫌いで死んで欲しい兄に、あの時の斗希が重なって見えて。
「結衣?」
何処か心配そうに斗希は私を見ている。
そこまで、私は今深刻な顔を浮かべていたのだろうか?
「斗希の所は?
挨拶しなくていいの?」
ある意味、勢いで私達は結婚してしまったけど。
自分の家が普通じゃないからか、
斗希の家の事を考えてもなかった。
「うちも、ちょっとね。
一応、お盆に実家に帰ってそれは伝えておいた。
また、結衣の事も実家に連れて来るって、ね。
それは結衣が嫌なら、無理にとは言わないけど」
「え、それでいいの?」
斗希の家は、父親が関東板硝子株式会社という、東証一部上場企業の現在副社長。
その父親側の祖父も、地方で大地主みたいだし。
斗希は、所謂御曹司。
そして、独りっ子だと興信所の調べで知っている。
「うちの両親、俺に逆らえないから」
そう笑う顔に、背筋がスッと冷たくなるような恐怖を覚えた。
逆らえないって…。
この人は、自分の母親と父親を支配でもしているのだろうか?
「後、金銭的な事は…。
家賃や光熱費の支払いは、今まで通り俺でいいから」
「いや。それはいくらか私も払う。
このマンションの家賃は…。正直折半はキツイというか、払えないけど」
ここのマンションの家賃、夕べネットで違う空き部屋を検索したが、
月に23万円だった。
「だろうね。けど、ベリトイならまずまず給料良さそうだけど。
年収いくら?」
そう訊かれるが、夫婦だし答えてもいいだろう。
私のその給料をあてにするとかは、この人はないだろうし。
「額面でちょうど300くらい」
「なら、手取りで月に20万ちょいくらいか。
折半でも、キツイけど無理ではなくない?」
その言葉に、うっ、と詰まる。
「―――母親に、月に10万返しているから、無理」
言いたくなかったけど。
「母親に借金でもしてるの?」
「そうなるのかな?
今まで私を育てるのに、沢山のお金が掛かったから、それを返せって。
大学に進学する際に、それを約束したの。
大学行かせてあげるから、就職したら月に10万ずつ母親に返済するって」
「それは、いつまで?」
「え?」
いつまで、って。
いつまでなのだろうか?
それは、いつまでとかではなくて、ずっと続くのではないだろうか?
私が、生きてる限り。
「じゃあ、月に5万貰おうかな。
家賃だけじゃなく光熱費もそこに含んで構わないから。
さっきも言ったけど、大半の夕食は自分でなんとかして。
昼食も」
「あ、はい…」
5万円なら、今迄の寮の家賃と変わらないから、問題ない。
「あ、そうそう。
結衣には鍵渡しておかないと」
そう言われて、思い出した。
鍵を貰おうと、斗希の姿を探してこちらに来たのだと。
「じゃあ、食べてから貰っていい?」
「分かった」
そう言って、斗希はテーブルの上のICレコーダーの録音を止めた。
朝食兼話し合いは、とりあえず終了したみたい。