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第26話:「よく話してくれましたね」という、優しい罠
処方箋を託されたその夜、彩はほとんど眠れなかった。
寝台に横になっても、瞼の裏に浮かぶのは、几帳面に折りたたまれたあの一枚の重みばかりだった。玲様が、あれほど大切なものを、ご自分の手で最後までやり遂げたかったはずのものを、わたくしに託してくださった。その事実が、喜びと同じだけの重さで、胸に圧し掛かってくる。幾度も寝返りを打ち、幾度も懐に忍ばせた処方箋の存在を指先で確かめた末、彩は結局、空がわずかに白み始めるのを待って身支度を整えた。
朝の神殿は、まだ静けさの中にあった。廊下には、僧侶たちの読経の声がかすかに響いている。白檀の香りが、冷たい朝の空気に混じって鼻先をくすぐった。彩はその静けさに背を押されるようにして、大神官の執務室へと急いだ。
「……聖女様。朝早くから、何かございましたか」
彩の来訪に大神官は、書き物の手を止め、丁寧に迎え入れた。
彼の目にも、疫病騒動のこの数日で積み重なった疲労の色が、隠しきれずに滲んでいる。
「大神官様、お聞きいただきたいことがございます」
彩は、順を追って昨日の出来事を語った。玲による処方薬の完成。霧百合の球根という材料の決定的な不足。そして、自分に託された処方箋の重みを。話すうちに、自分の声が少しずつ早口になっていくのが分かったが、それを抑える余裕はなかった。
「……あの奇病の、根治薬が完成したのですか」
大神官は帳簿から顔を上げ、目を見開いた。
「それはまさに、神の御業とも言うべき」
「玲様のお力です。……ですが、材料が足りません。必要な量は、およそ五百です」
その数字を口にした瞬間、大神官の表情が、みるみる曇っていくのが分かった。
「五百……。雲海地方には、確かに布教のための修道院がいくつかございます。教会単独の伝手であれば、時をかければ二百ほどは動かせるかもしれません」
しかし、と大神官は言葉を継いだ。
「この急を要する事態に、それでは焼け石に水でございましょう。それに――」
大神官は帳簿の一冊を静かに閉じ、深く息を吐いた。
「これほどの規模の物資を、しかも至急にとなりますと、わたくし一人の判断で右から左へと決められることではございません。……以前のような迂闊さは、二度と繰り返してはならぬのです。この身に注がれた信頼を、軽々しく動かすようなことがあっては」
その言葉の奥に、清め水の一件を思い出しているのが分かった。あの時も、善意のつもりが、多くの女官たちを傷つける結果に繋がった。大神官の慎重さは、彩にも痛いほど理解できるものだった。
「……そう、ですよね」
彩は肩を落としたが、すぐに顔を上げる。落胆よりも、次の一手を探す意志の方が強かった。
「なにか手立てはありますでしょうか」
「一度、宰相様にお力添えを頂くべきかと存じます。これほどの規模となれば、教会の一存では手が届きません」
「宰相様に……」
彩の脳裏に、迷いなく浮かんだのはただ一人の顔だった。
「……父上に、ですね。分かりました。父上に、直接お話ししてみます」
「よろしくお願いいたします。……わたくしにできることであれば、いつでも仰ってください」
彩は一礼し、足早に部屋を辞していく。その足取りには、落胆の色よりも、次にすべきことへの決意の方が濃く滲んでいた。
○
王宮、久我玄安の執務室へと続く回廊は、神殿の柔らかな空気とは対照的な、冷たく整然とした気配に満ちていた。壁に掛けられた帝国の地図。文机に整然と積まれた書類。彩は取次を頼み、しばらく待たされた後、静かに案内された。
「彩ではないですか。……そのように顔を曇らせて、何がありました」
書類に向かっていた玄安は、彩の来訪を気づくと、すぐに筆を置いて向き直った。座椅子を机の隣に置き、机の端に置かれた湯呑を、彩の邪魔にならぬよう指先で少し寄せる。着座を促す玄安の目元には、仕事の緊張がほどけたような、言葉にするほどではない小さな笑みが浮かんでいた。
「……大神官様から、父上にお力添えをいただくようにと」
彩は事情を語り始めた。玲による治療薬の完成、そこに至るまでの玲の献身。話すうちに、彩の声には自然と熱が入っていく。
「玲様は、本当にすごい方です。あれほど短い間に、根治薬を独力で作り上げてしまうなんて……。ですが、材料の霧百合が、決定的に足りないのです。必要なのは五百、大神官様のお力だけでは、とても及びません」
「……なるほど。彩の頼み事とは、そのことでしたか」
「はい。……ですが」
彩は一度言葉を止めた。膝の上で、両手がぎゅっと固く握られる。ここまでは、事実を並べるだけの、易しい話だった。だが、この先に続く言葉は、彩自身、まだ誰にも打ち明けたことのないものだった。
「……正直に申し上げますと、怖いのです」
「怖い、とは?」
「玲様は、あれほど大切なものを、ご自分の手で最後までやり遂げたかったはずのものを、わたくしに託してくださいました。それなのに、もしもわたくしの力不足で材料が集まらず、間に合わなかったら……」
声が、わずかに震える。
「苦しんでいる方々を救えないだけでなく、玲様の努力そのものを、無駄にしてしまうことになります。……それを考えると、居ても立ってもいられなくて」
目に、薄く涙が滲んでいた。玄安は、その告白を急かすことなく、静かな微笑みのままじっと聞いていた。長い沈黙の後、彼はゆっくりと口を開く。
「……彩。あなたは、いつも自分一人で背負い込みすぎる」
「……父上」
「苦しむ人々のために、あなたなりに、できる限りのことをしようとした。誰にも弱音を吐かず、たった一人でここまで抱え、それでもわたくしのところへ、こうして話しに来てくれた」
玄安の声は、穏やかで、揺らぎがなかった。
「よく話してくれましたね。彩は良い子です」
その言葉に、彩の目から、堪えきれなかった涙が一筋こぼれた。
「……父上」
「材料の調達は、わたくしにお任せなさい。教会だけでなく、こちらにも動かせる伝手がございます」
「……本当に、よろしいのですか?」
彩は目を丸くした。
「彩の頼み事です。当然のことでしょう」
「……ありがとうございます、父上。本当に、ありがとうございます」
「ただ、的確に調達を進めるためには、正確な処方の内容を把握しておく必要があります。……その紙を見せていただけますか」
「もちろんです。これが、玲様の処方箋です」
彩は一切の躊躇もなく、懐から取り出す。几帳面に折られたその一枚を、両手で丁寧に差し出した。玄安は受け取ると、静かに目を通す。表情に変化はなく、ただ小さく一つ頷いた。
「……なるほど。任せなさい。数日のうちに、目算をつけましょう。少しの間、こちらで借りてもいいですか? 手配の者に、正確な内訳を伝える必要がありますので」
「はい、お願いします」
彩は迷いなく答える。言葉を発した瞬間、肩の力がふっと抜ける。
玲の思い無下にせず済む。その事実が、胸の奥に温かい気持ちとなって満ちていった。それに大丈夫だと太鼓判を押したのが養父である玄安となれば尚更だ。その信頼は、説明するまでもない。
材料の問題が片付いたところで、玄安は話題を切り替えた。
「それと、彩」
「はい?」
玄安は懐からゆっくりと、古びた布に包まれた品を取り出す。開かれた布の中から現れたのは、深く沈んだ色合いの珠を連ねた数珠だった。
「……数珠、ですか? すごく歴史を感じる品ですね」
彩は受け取り、まじまじと見つめた。神殿で見慣れた白や淡い色合いの品とは、明らかに趣が違う。装飾も控えめで、一見すると質朴だが、どこか年月を感じさせる重みがあった。
「古い品です。……ですが、それだけに、力を秘めています」
「力、ですか?」
「貴女の浄化の力を、これからのためにも、もう少し確かなものにしておきたくてね。この疫病、そしてこれから先も、貴女には多くの人を救ってもらわねばなりませんから」
彩は数珠を両手で持ち、その重みを確かめるようにした。
「……このような大切な品を、わたくしのような者が頂いてよろしいのでしょうか」
「彩以外に、誰に託せというのです」
声は穏やかで、迷いがなかった。
「……貴女は、それだけの働きをしてきました。遠慮する必要はありません」
「……父上」
彩は数珠をそっと手首に通した。珠に触れた指先に、かすかな温もりのようなものを感じた気がしたが、それが何であるかは考えなかった。ただ、父からの信頼の証だと、それだけを胸に刻む。
「身につけておきなさい、ということですね。分かりました」
「……いざという時、貴女を、民を、助けてくれるはずです」
「はい。……父上、本当にありがとうございます。玲様のためにも、皆様のためにも、精一杯務めさせていただきます」
彩は深々と頭を下げ、晴れやかな顔で退室していく。その足取りは、来た時よりもずっと軽い。扉を閉める間際、一瞬だけ振り返る。玄安は微笑みを崩さぬまま、もう机上の書類へと視線を戻していた。彩はそれ以上気にも留めず、温かい気持ちのまま扉を閉めた。
○
それから数日、私は自分の目を疑うような速さで事態が動いていくのを見ていた。椿様の伝手で確保された四百五十個に続き、教会経由での調達分が、驚くほどのペースで研究棟に運び込まれてくる。
(五百という数字を、たった数日で動かすとは。教会の伝手が、思っていたよりずっと太かったということでしょうか)
届いた球根の品質を一つずつ検分し、傷んだものと使えるものを手早く分けていく。量産の手順を組み立て、半分は椿様に手配してもらった女官たちの手も借りながら、もう半分は彩を介して教会の者たちに託し、私は昼夜を問わず土鍋と蒸留器の前に立ち続けた。感慨に浸る余裕などない。ただ、目の前の仕込みを片付けることだけが、今の私にとって最優先事項だった。
その日、城下の仮設治療所へ完成した薬を届けに出た際、私は表通りの壁に掲げられた真新しい高札に目を留めた。
「奇病、根治薬完成――偉大なる薬師・月白玲殿の献身により、王都の民に光明もたらされる」
(……随分と、大々的な書き方ですね。材料の調達には、椿様や聖女様の尽力もあったはずです。それなのに、その名は一つも見当たらない)
まあ、いい。効能さえ正しければ、誰の名前が大きく書かれていようと、大して重要な問題ではない。私が視線を外し、荷を担ぎ直したところで、隣に立っていた焔が高札をちらりと一瞥した。
「……随分と持ち上げられているな。まるでお前が一人で全部片付けたみたいな書き方だ」
「そのようですね。まあ、事実と多少違っていても、患者が薬を受け取れるなら構いません」
「お前は、それでいいのか」
「何か問題でも?」
「……いや」
焔は高札からすぐに興味を失ったように視線を外し、それ以上は追及しなかった。
「お前がいいなら、俺には関係ない話だ」
「ご心配なく。それより陛下、次の荷を運ぶのを手伝ってください。こちらの木箱、思ったより重いので」
「……お前、俺を荷運びの人足だと思っているだろ」
「有能な人足だと、常々思っておりますよ」
焔は舌打ちしながらも、木箱を担ぎ上げて先に歩き出す。私はその背を追いながら、高札の文言のことを、それ以上考えることはなかった。治療所に近づくにつれ、路地には薬を求めて並ぶ人々の列が見えてくる。その表情には、数日前まで漂っていた絶望の色が、少しずつ薄れ始めていた。
コメント
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うわああ第26話…!!!😭✨ 彩ちゃんが玄安様に「怖い」って本音を打ち明けるシーン、めっちゃグッときた…「よく話してくれましたね」って優しい言葉に涙が止まらんかったよ…! 玄安様の「彩以外に誰に託せというのです」も最高すぎて胸熱🔥✨ それでいて最後に高札の話で玲視点になるけど、名前が出てないところがちょっと不穏…つらみぴえんさん、この展開たまらんっす!!次回も楽しみにしてます🌸