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第27話:礼儀を知らぬ悪女、という陰口
彩に処方箋を託してから、十日ほどが過ぎていた。
教会と椿様、双方の伝手から集まった霧百合は、驚くほどの速さで治療薬へと姿を変え、王都中に行き渡っていく。毎朝届く報告書に目を通し、患者数の推移を帳面に書き写す作業が、いつしか私の日課になっていた。東の水路沿い、新規発症者ゼロ。南の市場、既存患者の八割が快方へ。数字だけを追うなら、疫病の山はすでに越えたと言っていい。
最後の一枚に数字を書き込み、私は小さく息をついた。達成感というより、片付いていく仕事を淡々と処理する感覚に近い。材料の調達さえ間に合えば、あとはただの作業だ。この分なら、あと十日もすれば、王都の患者はほぼ収束するだろう。
この落ち着きは、私以外の場所にも変化をもたらしていた。焔のもとへ、議会や謁見の使者が訪れる頻度が、目に見えて増え始めていたのだ。暗殺者の影や疫病の拡大などの、差し迫った危険が薄れれば、これまで後回しにされてきた政務が、堰を切ったように押し寄せてくる。理屈としては単純明快だ。
「陛下、恐れながら本日の議会の刻限が――」
障子の向こうから、控えめな声が届く。長椅子に足を組んで座っていた焔が、忌々しげに舌打ちをした。
「……ちっ。分かった、すぐ行く」
ここ数日、こうした呼び出しの回数は明らかに増えていた。
「随分と頻繁ですね」
「知るか。……軍議だ奉納祭だと、後回しにしてきた分の帳尻が、まとめて回ってきているだけだ」
「なるほど。目下の課題が沈静化すれば、溜まっていた案件が動き出す。理屈は分かります」
「分かったような口を利くな」
「事実を述べているだけです。……行ってらっしゃいませ、陛下」
焔は答えず、漆黒の外套を翻して部屋を出ていく。遠ざかる足音を聞きながら、私は次の報告書に手を伸ばした。付きっきりの約束はまだ生きていたが……まあ、この程度の不在は誤差の範囲だ。私はそれ以上深く考えることなく、目の前の仕事に意識を戻した。
数日後、研究棟に一通の文が届いた。差出人の名を見て、私は一瞬だけ手を止める。
宛名は桔梗。先だっての茶会で、焔に脅しにも近い注意を受けて、真っ青になっていた、あの令嬢だった。
『先日は、取り乱した振る舞いにより大変なご無礼を働きました。改めてお詫びとご挨拶を申し上げたく、ささやかな茶会にお招きしたく存じます』
律儀に詫びを入れてくるとは。もっとも、額面通りに受け取るほど、私もお人好しではない。
嘆息を一つ付き、私はその便箋を机に置いた。
〇
その日の朝、出立の支度をする私のもとへ、焔が姿を見せた。
「支度はできたか。俺も一緒に行く」
「正直気が重かったので、陛下がいらっしゃるなら心強いです」
そこへ、息を切らした官吏が駆け込んでくる。
「陛下! 議会より、至急のお召しが……!」
「……ちっ、間の悪い」
「仕方ありませんね。私一人でも問題ありません、毒には慣れています」
「そういう話をしているんじゃない」
焔は苛立たしげに私を見下ろすが、すぐに官吏の方へ向き直り「今行く」と告げる。
「……後で追いつく。何かあったら、大声で俺の名を呼べ」
「城まで届くとは思えませんが、承知しました」
焔は舌打ち一つを残し、官吏とともに足早に去っていく。
私は椿様の手配してくれた供の女官一人を連れ、単身、柊木家へと向かうことになった。
案内された座敷には、桔梗をはじめ、見覚えのある顔ぶれが並んでいる。庭に面した障子は開け放たれ、色づき始めた紅葉が、以前と同じように行儀よく飾られていた。
「月白様、ようこそいらっしゃいました。……先日は、わたくしどもの至らぬ振る舞いで、大変なご無礼を働きましたこと、この場をお借りして深くお詫び申し上げますわ」
「別に気にしていませんよ。もう終わったことです」
随分と丁重だ。もっとも、言葉そのまま受け取る理由もない。
「本当に、月白様のお力には驚かされましたわ。あの恐ろしい奇病を、独力で治療薬にまでなさるなんて」
「ありがとうございます」
「噂は聞いておりましたけれど、まさかこれほどとは。陛下がご寵愛されるのも、頷ける気がいたします」
「薬師の仕事をしただけです。それ以上でも以下でもありません」
表向きの賞賛の裏に、値踏みするような視線が混じっていることに、私は気づいていた。だが、それを指摘する義理もなければ、話を広げてやる義理もない。私は最低限の言葉だけを返し、あとは黙って茶に口をつけた。
「陛下は、本日はご一緒ではないのですね」
「議会だそうです。後で来ると言っていました」
「まあ、そうでしたの。……それは残念ですこと」
桔梗が扇の陰で目を細める。その一言に何か含みがあった気もしたが、追及するほどの興味は湧かなかった。私は茶碗を置き、次の話題が振られるのを、特に期待もせずに待った。
茶会が一段落し、私は化粧直しの体で、案内された控えの間へと向かう。その途中、几帳の陰から、聞き覚えのある声が漏れ聞こえてきた。
「……本当のところ、どう思われまして? あの月白様とやら」
「奇病を治めた腕は、確かに大したものだと思いますけれど……。でも、それはそれ、これはこれですわよね」
「ええ。いくら功績があろうと、育ちは育ちですもの。所詮は森で獣のように育った、忌み子でしょう」
「先ほどの受け答えも、正直申し上げて、宮廷の作法とは程遠いものでしたわ。挨拶の間合いも、言葉の選び方も」
「陛下ともあろうお方が、あれほど礼儀のなっていない娘を隣に置いていては……。恐れながら、陛下の格が疑われてしまいますわ」
「本当に。せめて人前に出す前に、少しは作法を仕込んで差し上げればよろしいのに」
「ふふ、それを申し上げられる立場の者が、あちらにいるとも思えませんけれど。……哀れなことですこと」
廊下に立ち尽くしたまま、私はしばらくその声を聞いていた。
忌み子。化け物。獣のよう。聞き慣れた言葉だ。今更、何も感じない。だが、「陛下の格が疑われる」の一言だけが、妙に耳の奥に引っかかった。
脳裏に、ふとよぎる。「お前が皇后になった後もーー」という言葉。
あの夜、あの人が事もなげに口にした言葉。
私はそれ以上、何も考えないまま、几帳の前でしばらくやり過ごすことにした。やがて、何事もなかったかのように、控えの間へと歩き出す。歩きながら、胸の奥に、名前のつけられない小さな棘が刺さっているのを感じていた。忌み子と呼ばれることには、とうに慣れたはずだった。それなのに、今日の一言だけが、これまでのものとは違う場所に落ちている。理由を探ろうとしても、上手く言葉にならない。ただ、その棘の存在だけは、確かだった。
その日の夜、研究棟。茶会から戻った私は、いつも通り薬草の整理をしながら、頭の片隅で昼間の陰口を反芻していた。
夜も更けた頃、障子が開く音がする。議会を終えた焔が戻ってきた。
「……、遅くなった」
「お帰りなさいませ。茶会は、特に何もありませんでしたよ」
「ならいい」
焔は長椅子にどかりと腰を下ろす。私はしばらく黙って薬瓶を棚に戻していたが、やがて手を止め、帳面を手に取った。
「陛下」
「あ?」
「最近、夜の『お仕事』が減りましたね」
「……何の話だ」
「殺人衝動の発散のことです。ここ十日で、陛下が私を斬ったのは、一度きりです。数えていますので、間違いありません」
「……それがどうした」
「薬が効いている証拠です。治療開始から、今日で四十日目。このままいけば、完治まであと二十六日というところでしょうか」
焔は片眉を上げ、長椅子に座ったまま腕を組んだ。
「知っている。さっきから回りくどいな。何が言いたい」
私はしばらく、何も言わなかった。言葉を選んでいたわけではない。ただ、口を開くための踏ん切りに、思いのほか時間がかかった。手にした薬瓶の縁を、指先で意味もなくなぞる。
「……陛下は、本当に私を娶るつもりですか」
「あ? 今更、何を言い出す」
「こんな半妖を。忌み子と蔑まれ、化け物と呼ばれ、礼儀も知らない、獣のように育った女を。……陛下の隣に置けば、貴方の格が疑われるとまで言われております」
一息にそこまで言うと、私は手にしていた薬瓶を、知らず強く握りしめていた。
「改めて言いますが、正気ですか」
「……なんだ、やけにしおらしいな」
からかうような響きが混じるが、目は笑っていない。私を見定めるような、静かな光が差している。
「いえ、事前確認です」
私は視線を逸らし、棚の薬瓶に手を伸ばしながら、努めて平静な声で続けた。
「研究棟にある貴重な備品の数々を、いきなり奪われるのは忍びないので……そろそろ実家に送ろうかと思っているのです。今のうちに、荷造りの算段くらいはつけておかないと」
「おい」
低く、短い声だった。私は薬瓶を持ったまま、動きを止める。
「……その必要はない」
「陛下」
「忌み子だろうが、半妖だろうが、化け物だろうが構わん。お前をどこにもやるつもりはない」
焔は長椅子から立ち上がり、こちらへ歩み寄ってくる。その足取りに、いつもの傲慢さと、それとは別の何かが混じっているのを、私は感じ取っていた。
「娶ると言ったら娶る。……何度、同じことを言わせる気だ」
低く唸るように言うと、焔は腕を組み、苛立たしげに私を見下ろした。
「文句のある奴がいるなら、俺が黙らせる。それだけの話だ」
金色の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。そこには、いつもの独占欲と、有無を言わせぬ命令の色しかない。
それなのに、なぜか目を逸らせなかった。
「……分かりました」
私はそれだけ答え、手にしていた薬瓶を、ようやく棚へと戻した。
いつもと変わらない、乱暴な物言いのはず。それなのに、今日はその言葉が、いつもより深いところまで落ちていく。脳裏に、几帳の向こうで聞いた声が、まだ微かに残っている。礼儀のなっていない娘。陛下の格が疑われる。
もし本当に、この人がこの先も、私を隣に置き続けるつもりなら――。そこまで考えて、私は自分の思考に小さく戸惑った。これまでの私なら、こうした仮定そのものを、わざわざ組み立てようとはしなかったはずだ。役割を演じているだけの関係に、先の話など存在しない。そう割り切ってきたからこそ、余計な感傷に足を取られずに済んでいた。
だが今、その割り切りの隙間に、何かが差し込まれた感覚がある。陰口を聞いた時には、ただの雑音として処理できたはずだった。それなのに、焔の一言を通して聞き直すと、同じ言葉が、まるで違う重みを持って響いてくる。礼儀を身につけることは、単なる無駄ではなく、この人の隣に立ち続けるための、必要な意味を持つのかもしれない――、そんな考えが、まだ輪郭も定まらないまま、頭の片隅に居座り始めていた。
これまで固く凍らせていたはずの何かが、ほんの少しだけ、輪郭を持ち始めている。それを認めることは、まだできない。だが、完全に無視することも、もうできそうになかった。
「……いつまで突っ立っている。今日も薬を飲ませるのだろう」
「陛下は本当に、こういう時だけ現実的ですね」
「今言ったのは事実だろうが」
「……そうですね。すぐに用意します」
私はいつもの調子を取り繕い、反魂の秘薬を用意するため踵を返す。その背中に、焔の視線が張り付いているのを感じながら、私はしばらくの間、自分の胸の内で何が起きているのか、うまく言葉にできずにいた。ただ一つだけ、確かなことがある。今夜見つけたこの小さな綻びを、私は、明日にはもう見なかったことにはできないだろう。
コメント
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うわ、今回の桔梗たちの陰口、心に刺さったな……。月白は「慣れてる」って言いながら、焔に「皇后になる」って言われた後だからこそ、あの言葉の重みがいつもと違ってたんだよね。薬瓶握りしめる仕草に全部詰まってた。 焔の「どこにもやるつもりはない」が、乱暴なのに一番優しくて。この二人、少しずつだけど確かに変わり始めてる感じがして、じんわりきたよ。続きすごく気になる!