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声の主を確認すると、もう一度視線を血溜まりへ戻した。ああ、広がっていく。広がっていく。
とんと背中に軽い衝撃があった。
「立って。呆けてる場合じゃない」
「…………」
もう一度彼が、足で背中を小突く。今度は少し強めに。
「立って!」
立て……。そうか、立てばいいんだ。
フレディの冷静な声に、ようやく脳が反応した。操り人形になった気分で、立ち上がる。
「後ろのドアから外に出て」
彼は腰の鞄から小さなビンを取り出しながら、早口で指示した。ビンには、キラキラ光る白い砂が入っている。
「トリよ、トリよ。このしろがねの礫はお前を遮る。越ゆること能わず」
そう呪文を唱えると、ビンの砂をドアの前にばら撒いた。綺麗な砂なのに。捨てちゃうなんて勿体無いな。ぼんやりとそう思う。
お化けは恨めしげに唸ったものの、白い砂にはそれ以上近寄ろうとしない。うろうろと、もどかしげな動きを見せていた。
「さあ、出て!」
少し苛立った声と共に、悪魔の部屋から押し出される。
ドアの向こうは、風が吹いていた。外気に触れたのは、すごく久しぶりな気がする。東塔と西塔を最上階で繋いでいるその廊下は、窓が大きくくり抜かれて彫刻が施されていた。それは、空にかかる橋みたい。
「……夜明けが近いな」
ドアを閉めたフレディが、空を見上げて呟く。言われて、ふわりと窓へ近づいた。東の空が、黒から紺色に変わり始めている。まだ明るくはないが、それでも夜の闇を抜け始めたことを知らせている。おかげで、うっすらと景色が見えた。
眼下に黒い水面が揺らめいている。水……湖。そうだ、ここは開かずの修道院。湖の中に立っている。
『……一度入ったら、二度と出てこられない……』
マシューの声が頭を通り過ぎていった。私はまた、紺色の空へと目を戻す。
「足止めをしといたから、しばらくは追ってこないはずだ」
足止め……。さっきの綺麗な砂のことだろうか。
「姉ちゃん、歩けるな?とにかくあっちの部屋へ移ろう」
そう言って、彼は先に立って歩き出した。けれど、まだ空を見上げる。
「……今日は晴れるかな」
フレディが立ち止まって、振り返った。そんな場合じゃないのに、どうしても天気が気になる。
「雨、降らないといいな……リズは雨、嫌いなの。髪の毛が落ち着かないからって……」
「…………」
「髪の毛がどんなだって、リズは変わらず素敵なのに……」
突然視界がぼやけた。窓べりについていた手が、痙攣を起こして震え出す。へりを掴んだまま、ずるずると膝をついた。膝に涙が落ちて、パジャマに染みを作っていく。
「ずっと一緒だって……。私何にもできないけど、一緒にいるって……決めたのに!!なのに私が殺……!!」
「…………」
彼は静かに歩み寄ってくると、私の肩にそっと手を乗せた。
「天の国は、きっといつでも晴れているから」
小さな体に取りすがり、声をあげて泣いた。
「ーーそろそろ行こう」
その言葉に頷いて、立ち上がる。私が泣いている間、フレディは何も言わなかった。ただ辛抱強く、落ちつくのを待っていてくれた。立ち上がった瞬間、少し眩暈が。
「う……」
ただの立ちくらみか、それとも本当に熱が出てきたのだろうか。泣いて泣いて泣いて泣きすぎて、もう心も体も自分ではよく分からない。
「大丈夫?」
「へいき……ちょっと眩暈がしただけ」
ああ、体が重い。喋るのもちょっと億劫だ。
彼はチラッと空を見た。空の色は紺から青へと移り始め、先ほどよりも明らかに明るさを帯びてきている。
「もうそろそろヤバいかな」
ポツリと漏れた言葉に、フレディの顔を見返した。どういう意味だろう。口を開くのが面倒で、言葉にはしなかった。
「とにかく場所を移そう。ここは狭いから、いざって時に動きにくい」
彼の声はハキハキしていて、聞いてて安心できる。今はただ、この声に従っていれば間違いない。何も考えなくていい……。夜が明けてしまったら光の中で、何もかもがその姿を晒すことになる。ずっと夜のままでいい。黒いままで、澱んだままで。私の目を塗りつぶして。
空中廊下をまた渡った先のドアを開けると、フレディが急に立ち止まった。ぼんやりと歩いていた私は、その背中に軽くぶつかって立ち止まる。
不思議に思って肩越しに部屋の中を覗くと、そこには人影が。その人は明かりもない真っ暗な部屋で立ち尽くし、一点を見つめていた。視線の先にあるのは、崩れた土の塊。部屋の中央には石棺が置いてあり、その上に布が被せてある。それは人型に盛り上がっていて、布の下に隠されているのがヒトの体で無いことを示していた。
「……アーウィン?」
「…………」
私たちが入ってきたことに気づいているはずなのに、土の塊を見つめたまま動かない。突然現れたよく知る顔には、言いたいこともたくさんあったような気がする。が、なんだか心が麻痺してしまったのかどう反応していいかよく分からなかった。
たっぷりの間を置いてから、ようやくアーウィンは顔を上げる。私の顔を見て微笑んだ。
「ひどい顔をしてますね……どうしたんです?」
「…………」
何か言おうとして口を開けたのに、結局何も言えない。何をどう言えばいいのか分からないこともある。久しぶりに見せてくれた笑顔に、胸がいっぱいになったせいもある。
「アーウィ……」
「動くな」
彼に近寄ろうとした私を、フレディの背中が阻んだ。
「フレディ?どうし……」
ハッと息を呑む。彼の手には銃が握られていた。その銃口はアーウィンへ向けられている。それを見た瞬間、脳裏にリズの肩を弾丸が貫いた光景がフラッシュバックした。
「!!」
思わずフレディに飛びつく。
「やめえッ!!」
「うわ!」
ガァンッという発射音と共に、弾丸が私の頬数センチを掠めて天井へ飛び去った。
「危なっ!!」
「やめて!やめて、やめて!撃っちゃだめ!」
「何すんだ!姉ちゃんまで撃っちゃうところだっただろ!!」
「私も私じゃない人も撃っちゃだめなの!!」
必死にフレディに説明する。
「この人は違うの!大丈夫なの!アーウィンって言って、私の家族みたいな人なの!」
「…………」
彼はアーウィンを見据えたまま、動かない。ああ、分かってもらえない。ちゃんと説明しなきゃ。もっとちゃんと。焦れば焦るほど、うまく言葉がでない。
「ほんとなよ。こんなとこにいて、そりゃ怪しいかもしれないけど。でもほんとに怪しい人じゃない。だから撃つ必要なんてないの。大丈夫なの!」
ようやくフレディはチラッと私を見たが、それだけだ。
「ねえ、お願いだから銃を下ろして……」
やがてフゥと小さく息をつき、私に向き直った。けれど、アーウィンに向けた銃口は下げてくれない。そして、はっきりした口調で告げる。
「姉ちゃん、こいつは人間じゃない。冥使だよ」