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2
ねこ(=^‥^)
99
目が覚めた時、部屋はまだ薄暗かった。
カーテンの隙間から差し込む朝焼けが、淡く白衣を照らしている。
ぼんやりした意識のまま瞬きをすると、すぐ目の前にしゆらの寝顔があった。
「……」
近い。
近すぎる。
昨夜そのまま眠ったせいで、しゆらは完全に俺の腕の中へ収まっていた。
柔らかな髪が顎に触れるたび、くすぐったい。
しかも無意識なのか、しゆらは俺の服をしっかり掴んだままだった。
「……離れろ」
小さく呟いてみる。
当然返事はない。
むしろ、しゆらは安心したようにさらに擦り寄ってきた。
「おい……」
寝ぼけた猫か。
俺は小さく息を吐き、天井を見上げる。
……まずいな。
心臓がやたらとうるさい。
こんな状況に慣れていないせいもあるが、それ以上に、腕の中の温もりを不快だと思えない自分が問題だった。
「ん……」
その時、しゆらが小さく身じろぎする。
長い睫毛がゆっくり震え、やがて薄く目が開いた。
数秒、視線が合う。
しゆらはまだ寝ぼけているのか、ぽやっとした顔のまま瞬きを繰り返した。
「……おはようございます」
「おはよう」
「……」
「……」
沈黙。
そして次の瞬間。
「…………えっ」
一気に顔が赤くなった。
しゆらは自分の状況を理解した途端、弾かれたように身を離そうとする。
だが、寝起きのせいでうまく力が入らなかったのか、小さく体勢を崩した。
「……危な」
反射的に腕を伸ばす。
細い身体を抱き留める形になって、しゆらはそのまま固まった。
近い。
吐息が触れそうな距離だった。
「っ……」
しゆらの肩が小さく震える。
逃げようとしているのに、服を掴んだ指だけは離れない。
その無意識な仕草が、余計に心臓に悪かった。
「落ち着け」
「む、無理です……」
掠れた声だった。
しゆらは真っ赤な顔のまま視線を彷徨わせ、やがて恐る恐るこちらを見る。
朝の光を映した瞳が、不安そうに揺れていた。
「……予紬さん」
「なんだ」
「昨日の、あれ……夢じゃないですよね」
「どれだ」
「だ、抱きしめてくれたの、とか……」
わざわざ確認するな。
俺は小さく息を吐き、視線を逸らす。
「……夢じゃない」
その瞬間、しゆらの表情が少しだけ緩んだ。
安心したみたいに、小さく笑う。
その顔を見た途端、胸の奥が妙に熱くなる。
しゆらは少しためらったあと、おそるおそる俺の胸元へ額を預けた。
「……もう少しだけ、このまま駄目ですか」
「……」
断るべきだった。
理性では、ちゃんとわかっている。
けれど。
服を掴む小さな指先を振り払うことが、どうしてもできなかった。
「……五分だけだ」
そう答えた瞬間、しゆらは安心したみたいに小さく息を漏らした。
額を胸元へ預けたまま、服を掴む指先からゆっくり力が抜けていく。
その無防備な様子に、こっちの心臓ばかりが落ち着かなかった。
「……お前な」
「……はい」
「警戒心って言葉知ってるか?」
しゆらは俺の胸元へ顔を埋めたまま、小さく首を傾げる。
「予紬さん相手なら、大丈夫です」
あまりにも迷いのない返事だった。
思わず言葉に詰まる。
そういうのを簡単に口にするな。
こっちが困る。
「……信頼しすぎだ」
「駄目ですか?」
「駄目とは言ってない」
「ならいいです」
しゆらは少しだけ嬉しそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、妙に視線の置き場に困る。
俺は誤魔化すように息を吐き、そっとしゆらの肩を押した。
「ほら、そろそろ離れろ」
「……あと少し」
「五分経った」
「体感ではまだです」
「都合のいい体感だな」
しゆらはむぅ、と不満そうに唇を尖らせたあと、ようやくゆっくり身体を離した。
だが今度は距離を取ることができなくなったのか、ベッドの端で小さく固まってしまう。
さっきまで抱きついていたくせに、急に恥ずかしくなったらしい。
耳が真っ赤だった。
「……」
「……」
沈黙が落ちる。
朝の光だけが静かに部屋へ差し込んでいた。
しゆらはちらりとこちらを見て、すぐに視線を逸らす。
その反応が妙に初々しくて、思わず苦笑が漏れた。
「なんで今さら恥ずかしがってるんだ」
「だ、だって……」
「昨日は普通に抱きついてきただろ」
「……寝ぼけてました」
「便利な言葉だな」
しゆらは羞恥に耐えるみたいに顔を伏せ、小さく毛布を握りしめる。
その様子を見ていると、なんだかいじめている気分になってくる。
……いや、少し面白いのも事実だが。
「予紬さん」
「ん?」
「……あんまり見ないでください」
「無理言うな」
「うぅ……」
しゆらはとうとう耐えきれなくなったのか、毛布を引っ張って顔を半分隠してしまった。
だが隠しきれていない耳はまだ赤い。
俺は小さく息を吐きながらベッドから降りる。
「コーヒー淹れる」
「……私も行きます」
毛布の隙間から、くぐもった声が聞こえた。
「寝起きだろ。まだ座ってろ」
「でも……」
「いいから」
そう言うと、しゆらは少しだけ迷ったあと、小さく頷いた。
俺は部屋の隅にある簡易キッチンへ向かう。
ケトルへ水を入れ、火にかける。
静かな部屋に、水の揺れる音だけが響いた。
背後では、ベッドが微かに軋む音がする。
ちらりと振り返ると、しゆらが毛布を抱えたままこちらを見ていた。
目が合う。
しゆらは少しだけ笑って、慌てたみたいに視線を逸らした。
「……なんだ」
「い、いえ……」
絶対何かある顔だった。
だが追及するとまた赤くなるのがわかっていたので、俺はそれ以上何も言わなかった。
やがて湯気が立ち始める。
コーヒーの香りが、静かな朝の空気へゆっくり広がっていった。
コーヒーの香りが、静かな朝の空気へゆっくり広がっていった。
湯気の向こうで、窓から差し込む光が淡く揺れている。
研究室の朝はいつも無機質だ。
薬品の匂いと紙の擦れる音だけ。
誰かと話すこともほとんどない。
なのに今日は妙に落ち着かなかった。
背後にいるしゆらの気配を、ずっと意識してしまっている。
「……予紬さん」
不意に名前を呼ばれ、振り返る。
しゆらは毛布を肩まで掛けたまま、ベッドの端へちょこんと座っていた。
寝起きのせいか髪が少し乱れている。
「寒くないか」
「大丈夫です」
そう答えながらも、しゆらは毛布へさらに身体を埋めた。
全然大丈夫そうに見えない。
俺は小さく息を吐き、マグカップを二つ用意する。
「甘いやつでいいか」
「……覚えてたんですか」
「毎回ブラック飲んで顔しかめてるだろ」
しゆらは一瞬きょとんとしたあと、少しだけ嬉しそうに笑った。
「見てたんですね」
「視界に入る」
「それ、見てるって言うんです」
面倒なことを言い始めた。
俺は適当に誤魔化すようにコーヒーを注ぐ。
静かな湯音が部屋に落ちた。
その間もしゆらは、どこかくすぐったそうにこちらを見ている。
「……なんだ」
「いえ」
「絶対何かある顔だな」
「ふふ……」
しゆらは小さく笑うだけで、理由を言おうとはしなかった。
俺は諦めたように肩を竦め、マグカップを持ってベッドへ戻る。
「ほら」
「あ、ありがとうございます」
しゆらは両手でカップを受け取った。
白い指先が熱を確かめるみたいに側面へ触れる。
その仕草をぼんやり見ていると、不意にしゆらがこちらを見上げた。
「……予紬さんって」
「ん?」
「朝、ちょっと優しいですよね」
「意味がわからん」
「夜より柔らかいです」
そんなこと言われたのは初めてだった。
自覚なんてない。
だが、しゆらは冗談を言っている顔ではなかった。
湯気越しに、じっとこちらを見ている。
「……気のせいだろ」
「そうですか?」
「ああ」
しゆらは少しだけ考えるように首を傾げ、それからふっと笑った。
「じゃあ、私だけ得してますね」
「何がだ」
「朝の予紬さん、独り占めしてるので」
「っ……」
危うく咳き込みそうになった。
本人は無自覚なのか、平然とコーヒーへ息を吹きかけている。
……本当に質が悪い。
「お前、自分が何言ってるかわかってるか?」
「?」
わかってない顔だった。
俺は額を押さえ、小さく息を吐く。
するとしゆらは不思議そうにこちらを覗き込み、
「予紬さん、顔赤いですよ?」
と、追い打ちみたいなことを言った。
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