テラーノベル
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朝の教室で、セイジ先生は黒板に「258」と書いた。
「これが、今この村で暮らしている人数だ」
数字そのものは、ハルも知っていた。配給の量や共同作業の班分けで、村の人数は何度も耳にする。
けれど、黒板の真ん中に大きく書かれると、妙に少なく見えた。
「今日は人口と資源の話をする。人が増えれば必要な水も食料も増える。逆に減れば、畑や設備を維持する人手が足りなくなる」
セイジは黒板に水滴と麦の穂、それから人の絵を描いた。
「だから、自分たちが何人で暮らしているのかを知ることは大事だ」
ハルの隣で、ミオがノートに数字を書き写した。
二百五十八人。
ハルは昨日、ゲンの工房で見た古い部品を思い出した。
17。
C-17。
村の人数と関係があるわけではない。そう思いながらも、数字を見ると気になってしまう。
「先生」
手を挙げる。
「何だ?」
「昔は何人いたんですか?」
セイジは少し考えた。
「昔って、いつだ」
「一番最初」
教室の空気がわずかに変わった。
「村ができたとき」
後ろの席から誰かが笑った。
「ハル、最近そればっかりだな」
「うるさい」
セイジは黒板へ向き直った。
「正確な記録は古いものほど欠けている。ただ、今と大きくは違わなかったはずだ。二百六十人前後だったと教わっている」
ハルは眉を寄せた。
「ずっと?」
「何が?」
「ずっと二百六十人くらいなんですか?」
「増えたり減ったりはしている」
「でも、何十年も?」
今度は誰も笑わなかった。
セイジがチョークを置いた。
「人口は急に増えればいいというものじゃない。食料も水も限られているからな」
「じゃあ、増えないようにしてるんですか?」
ミオが横からハルの袖を引いた。
セイジはすぐには答えなかった。
「家族のことまで、この授業で話す必要はない」
「そうじゃなくて――」
「ハル」
声は強くなかった。
それでも、ここまでだという意味は分かった。
「今は資源管理の授業だ。続きをやるぞ」
黒板に新しい数字が並び始めた。
一日に使う水。
畑で採れる作物。
蓄電量。
ハルはノートを取りながら、さっきの沈黙の方が気になっていた。
授業が終わると、ミオが言った。
「聞き方が悪い」
「何が?」
「いきなり『増えないようにしてるんですか』って聞いたら、先生だって答えにくいでしょ」
「じゃあ、どう聞けばよかった?」
「まず昔の人数を調べる」
「二百六十くらいって言ってた」
「先生が教わった数字でしょ。記録を見た数字じゃない」
ミオは鞄から薄い紙束を出した。
「これ、昨日お母さんに頼まれて管理棟へ届ける種の記録」
「それが?」
「管理棟には昔の名簿もある」
「見せてもらえる?」
「普通に聞けばね」
「普通に?」
「勝手に入ったりしないって意味」
放課後、二人は村の中央にある管理棟へ向かった。
学校より少し小さい灰色の建物で、配給や作業班の記録、設備の使用予定などがまとめられている。
受付にいた女性は、ミオから種の記録を受け取った。
「ありがとう。サキさんにも伝えておいて」
「はい。あの、昔の人口を調べたいんですけど」
「学校の課題?」
ミオは一瞬だけハルを見た。
「そんな感じです」
嘘ではない、と言いたげな顔だった。
女性は棚を指した。
「住民記録なら、公開分はあそこ。持ち出しはだめよ」
棚には何冊もの厚い帳面が並んでいた。
ハルは一番古そうなものを抜く。
紙の端が茶色くなっている。
「何年前?」
「表紙」
ミオが指した。
ハルが生まれるよりずっと前の年だった。
ページをめくる。
名前、生年、担当作業。
そして、その年の総人口。
261。
次の帳面。
257。
その次。
263。
「本当にずっとこのくらいだ」
ハルが言った。
「もっと古いの」
二人は棚の奥へ進んだ。
二十年前。三十年前。四十年前。
259。
262。
255。
数字は上下している。
けれど、大きくは変わらない。
「変じゃない?」
ハルが囁く。
「何が?」
「俺たちの家って、子供三人とかいるだろ。死ぬ人より生まれる方が多い年もあるはずなのに」
「逆の年もある」
「でも何十年も同じくらいって、偶然?」
ミオは帳面を閉じた。
「分からない」
またその言葉だ。
だが今日は、続きがあった。
「もっと前を見ないと」
棚の一番下に、古い箱があった。
帳面ではなく、薄い紙を束ねたものが入っている。
ミオが一枚取り出した。
「これ、名簿かな」
文字が薄い。
何人かの名前は読めない。
最後に数字だけが残っていた。
260。
次の紙も260。
さらに次も、ほぼ同じだった。
「最初から?」
ハルが言った。
そのとき背後で咳払いがした。
二人は飛び上がった。
受付の女性だった。
「それは公開用じゃないよ」
「すみません」
ミオはすぐ紙を戻した。
「どこから出したの?」
「この箱です」
女性は箱を見ると、少し困った顔をした。
「それ、移動し忘れてたんだね。古い記録だから、子供が触ると破れるよ」
「最初から二百六十人だったんですか?」
ハルが聞いた。
女性は箱を持ち上げた。
「さあ。私も知らない」
「先生も知らないって」
「昔のことを全部知ってる人なんていないよ」
「じゃあ誰なら知ってるんですか?」
女性は笑った。
「また難しいこと考えてるね、ハルは」
そして箱を奥の部屋へ運んでいった。
答えはなかった。
帰り道、二人は共同広場を横切った。
幼い子供たちが走り回り、年寄りが椅子に座って話している。
畑から戻った大人が道具を洗っている。
いつもの村だった。
「二百五十八人」
ハルが呟いた。
「何?」
「少ないと思う?」
ミオは広場を見回した。
「分かんない。他を知らないから」
その答えに、ハルは足を止めた。
他を知らない。
村が大きいのか小さいのかも。
二百五十八人が多いのか少ないのかも。
外に人がいるのかどうかも。
比べるものが何もない。
「なあ」
「何?」
「学校で、他の村のこと習ったことある?」
ミオも止まった。
「ない」
「昔の町とかは?」
「昔は人がもっと多かったって話くらい」
「どれくらい?」
「……知らない」
二人は顔を見合わせた。
知らないことが、急に増えたように感じた。
夕方、ハルはゲンの工房へ寄った。
老人は壊れた水量計を分解していた。
「また来たか」
「ゲンじい」
「宿題なら教えんぞ」
「村って最初から二百六十人くらいだった?」
ゲンの手が止まった。
ほんの一瞬。
最近、ハルはその一瞬を見逃さなくなっていた。
「誰に聞いた」
「学校で人口の授業した」
「なら先生に聞け」
「聞いた。知らないって」
「知らんなら、それでいいだろ」
「なんで?」
ゲンは小さなネジを皿へ置いた。
「知らなくても水は出る。畑も育つ。腹も減る」
「でも、知ったって困らないだろ」
「知ったら困ることもある」
ハルは黙った。
ゲン自身も言ってから気づいたらしい。
眉間に皺が寄った。
「何が困るの?」
「言葉のあやだ」
「ゲンじい」
「今日は帰れ」
追い出されるように工房を出た。
外ではミオが待っていた。
「どうだった?」
「知らなくていいって」
「そんなこと言ったの?」
「正確には、知らなくても水は出るって」
ミオは少し考えた。
「先生も、管理棟の人も、ゲンさんも、同じなんだね」
「何が?」
「答えを知らないのか、答えたくないのか分からない」
ハルは工房を振り返った。
中ではまた工具の音が始まっている。
大人たちは何でも知っていると思っていた。
知らないことがあれば、聞けば教えてくれると思っていた。
けれど最近、そうではない。
知らない大人もいる。
知っていて話さない大人もいる。
そしてたぶん、その二つを見分けるのは難しい。
「だったらさ」
ハルは言った。
「自分たちで見つけるしかないんじゃない?」
「何を?」
「一番古い記録」
ミオが眉を寄せる。
「管理棟の箱は持っていかれたよ」
「あそこじゃない」
ハルは北を見た。
学校の向こう。
資材庫の向こう。
さらに北側。
「前に父さんが言ってた。北には使ってない古い建物があるって」
「いつ?」
「小さいころ。近づくなって」
「それを今まで忘れてたの?」
「使ってない建物なんて興味なかったから」
「今は?」
ハルは笑った。
「すごくある」
ミオは嫌そうな顔をした。
「絶対、嫌な予感しかしない」
「でも来るだろ?」
「まだ行くって言ってない」
「顔に書いてある」
ミオはため息をついた。
広場の向こうで、夕方の鐘が鳴った。
二百五十八人が暮らす村に、夕食の匂いが広がっていく。
ハルはもう一度、北を見た。
ずっと同じくらいの人数。
ずっと閉じた境界。
ずっと使われてきた「17」という数字。
それぞれ別のことだと思っていた。
けれど、どこかでつながっているのかもしれない。
その答えがあるとすれば、今使われている場所ではない。
誰も使わなくなった場所だ。
コメント
1件
第4話読み終えた! 村の人口がずっと260人前後で安定してるの、なんか不気味だよな……「知らなくていいこともある」ってゲンじいの反応が余計に気になるわ。 ハルとミオが「自分たちで調べる」って動き出したの、いい感じの成長だし、古い建物の伏線も気になる。 ミオの「嫌な予感しかしない」って台詞、めっちゃツボった。 次が待ち遠しいわ🔥