テラーノベル
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北側の古い建物は、隠されてはいなかった。
それがハルには意外だった。
翌日の放課後、ミオと資材庫の裏を抜け、さらに北西へ進むと、木々の間に灰色の屋根が見えた。
「普通にあるじゃん」
ハルが言う。
「だから誰も『秘密の建物』なんて言ってないでしょ」
ミオは冷静だった。
建物は学校の半分ほどの大きさだった。
壁には蔓が這い、窓の何枚かは内側から板で塞がれている。
道も草に埋もれかけていた。
使われなくなって長いことだけは分かる。
「入るの?」
「見るだけ」
「その言葉、もう信用してない」
正面扉には鍵がかかっていた。
ハルは窓をのぞく。
暗くてよく見えない。
「誰も使ってないなら、何で鍵かけるんだろ」
「危ないからじゃない?」
建物の横へ回る。
裏手には錆びた金属棚や割れた容器が積まれていた。
ミオが足元を指した。
「ここ」
窓の一つが少し開いている。
板もない。
「入れる」
「言うと思った」
「ミオは外で待っててもいいよ」
「一人で入って何か壊したら、私まで疑われる」
「じゃあ来る?」
「……見るだけ」
ハルは笑った。
「その言葉、信用していい?」
「うるさい」
窓枠を越えると、埃の匂いがした。
床には細かな砂が積もっている。
古い机。
倒れた椅子。
壁際には、今の管理棟では見ない大きな機械が並んでいた。
「これ何?」
ハルが四角い箱を指す。
「知らない」
「ミオでも知らないものあるんだ」
「いっぱいあるよ」
機械の表面には小さな四角い画面と、文字の消えかけたボタン。
横には見慣れない文字が並んでいる。
「読めない」
「昔の文字?」
「セイジ先生が少し教えてたやつかも。英語って言ってた」
ハルは指で埃を払った。
そこに大きく残っていたのは、読める記号だった。
C-17。
「また十七」
ミオも近づいた。
「Cって何?」
「知らない」
別の機械にもC-17。
棚に残された金属箱にもC-17。
昨日まで二つだった数字が、一気に増えた。
「設備一個の番号じゃない」
ハルが言った。
ミオは反論しなかった。
部屋の奥に扉があった。
その向こうは細い廊下。
壁には色あせた紙が貼られている。
ほとんど読めないが、線で描かれた図だけは残っていた。
「地図?」
ハルが近づく。
村の形に似ていた。
中央に四角。
その周りに小さな区画。
外周を囲む太い線。
「これ、境界じゃない?」
ミオが指で追う。
北側に小さな切れ目がある。
そこから一本の線が、太い境界の外へ伸びていた。
ハルは息を止めた。
「道だ」
「古い配管かもしれない」
「こんな曲がり方する?」
「じゃあ道路かも」
ミオが珍しく認めた。
線は境界を越え、紙の端まで続いている。
「外に道がある」
当たり前のことなのかもしれない。
昔、境界を作った人が通った道。
資材を運んだ道。
けれどハルにとって、外はただ草木が続く場所だった。
道があるということは、その先に行く場所があったということだ。
「これ、持っていけないかな」
「だめ」
「写す?」
「何に?」
紙も筆記具も持ってきていない。
ミオは壁の図をじっと見た。
「覚える」
「全部?」
「できるだけ」
「さすが」
二人は図を見続けた。
中央。
北側。
境界。
外へ伸びる線。
その途中に小さな四角。
さらに先に、かすれた記号。
「31?」
ハルが顔を近づけた。
「そう見えるだけかも」
「十七の次が三十一?」
「次じゃないでしょ」
「じゃあ何?」
「分からない」
廊下の先に、もう一つ部屋があった。
そこには机が並び、壁一面を覆うほど大きな黒い画面があった。
今の村で使う端末とは違う。
机の上には紙の束。
ハルが一枚持ち上げる。
ほとんど崩れそうだった。
数字の列。
日付らしいもの。
そして何度も現れるC-17。
ミオが別の紙を見つけた。
「これ、読めるところある」
上の方は英語。
下に古い日本語が残っている。
『中央通信』
その下に日付。
「何年前?」
ハルが聞く。
ミオが指で数える。
「すごく前。おばあちゃんが子供のころより前かも」
「何て書いてある?」
文字はところどころ消えている。
『定時通信……受信』
『供給……予定』
『指示……待機』
そして最後に、日付。
その次の行から先は、手書きになっていた。
『通信なし』
翌日も。
『通信なし』
さらに次も。
『通信なし』
何行も続いている。
「ずっと来てない」
ハルが言った。
「何が?」
「中央通信ってやつ」
「中央って何?」
「知らない」
知らない言葉がまた増えた。
ただ、最後に通信を受け取った日付だけははっきり読めた。
ミオはそれを何度も口の中で繰り返した。
「覚えた?」
「たぶん」
「俺も覚える」
二人で日付を唱えた。
意味はまだ分からない。
けれど、重要な気がした。
「これ、先生に聞いたら?」
「どこで見たって聞かれる」
「ゲンじいなら?」
「同じ」
ハルは紙を戻した。
そのとき、外で音がした。
ザッ。
二人とも固まった。
草を踏む音。
「誰かいる」
ミオが囁く。
「隠れる?」
「窓から出る方が――」
ガチャ。
建物の正面で鍵が回った。
ハルの心臓が跳ねた。
「誰も使ってないんじゃなかったの?」
「私に言わないで」
足音が入ってくる。
一人。
ゆっくり。
二人は机の陰にしゃがんだ。
足音が廊下へ近づく。
ハルは息を止めた。
ミオが腕を掴む。
足音が止まった。
「出てこい」
聞き慣れた声だった。
ハルは目を閉じた。
最悪だ。
「ハル」
父だった。
二人は机の陰から立ち上がった。
トウマは怒鳴らなかった。
それが余計に怖かった。
「何してる」
「……見てただけ」
「何を」
ハルは壁の地図を見た。
トウマの視線もそこへ動く。
「これ」
ハルは決めた。
「この道、外まで続いてる」
父の顔から表情が消えた。
「帰るぞ」
「父さん、これ何?」
「帰ってから話す」
「本当に?」
トウマは答えず、机の紙を確認した。
「これも見たのか」
「中央通信って何?」
沈黙。
「父さん」
「触ったものを元に戻せ」
「答えてよ」
「今は帰る」
「いつもそれじゃん」
ハルの声が大きくなった。
「十七も知らない。外も何もない。ここも入るな。聞いたら帰れって。そればっかりじゃん」
ミオが小さく「ハル」と言った。
トウマは息子を見た。
怒っているというより、困っているように見えた。
「お前が知ったところで、どうにもならないこともある」
「それを決めるのは父さんなの?」
言ってから、ハル自身が驚いた。
トウマの眉が動いた。
長い沈黙のあと、父は壁の地図を見た。
「これは昔の管理図だ」
「道は?」
「昔、物資を運ぶのに使った」
「外から?」
「そうだ」
初めてだった。
父が「外」について、はっきり答えた。
ハルは一歩近づいた。
「じゃあ外に何かあったんだ」
「昔はな」
「今は?」
「知らない」
「本当に?」
トウマはハルを見た。
「本当に知らない」
その答えだけは、嘘ではないように感じた。
「中央通信は?」
トウマの顔が再び固くなる。
「それは俺から話すことじゃない」
「誰なら話せる?」
「帰るぞ」
また終わった。
建物を出る前、ミオが壁の地図をもう一度見た。
ハルも振り返る。
トウマは二人の視線に気づき、何も言わず扉を閉めた。
鍵が回る。
「父さん」
帰り道でハルは聞いた。
「なんで今日ここに来たの?」
「北側の点検のついでだ」
「普段も?」
「たまにな」
「誰も使ってないのに?」
「使ってないから壊れてないか見る」
理屈は通っている。
でも、ハルには別の疑問が残った。
なぜ父は、二人が中にいると分かったのだろう。
足跡を見たのかもしれない。
開いた窓に気づいたのかもしれない。
聞けば答えるだろう。
けれど今日は、もう十分だった。
村へ戻る途中、ミオはほとんど話さなかった。
トウマと別れてから、ようやく口を開く。
「覚えてる?」
「何を?」
「地図」
「だいたい」
「私はかなり覚えた」
「日付は?」
ミオは最後の中央通信の日を言った。
ハルも同じ日付を覚えていた。
「忘れないようにしよう」
「なんで?」
「今は意味が分からないから」
ミオはまっすぐ前を見た。
「意味が分かったとき、必要になるかもしれない」
翌日、二人は学校の裏で紙を広げた。
ミオが記憶を頼りに線を引く。
村の中央。
境界。
北西の切れ目。
外へ続く道。
途中の四角。
その先。
「ここ」
ミオが小さく「31」と書いた。
「やっぱり見えた?」
「見えた。でも何の数字かは分からない」
ハルは紙を眺めた。
17。
31。
外へ続く一本の道。
昨日まで、境界の向こうには「何もない」と言われていた。
けれど、何もない場所へ道は作らない。
「ミオ」
「何?」
「これ、道だよな」
「たぶん」
「じゃあさ」
ハルは指で線をなぞった。
村から境界へ。
境界から、その向こうへ。
「外って、行っちゃいけない場所なんじゃなくて――」
言葉が途中で止まった。
まだ証拠が足りない。
ミオに言われる前に、自分で分かった。
「何?」
「いや。まだいい」
ミオが少し笑った。
「珍しい」
「何が?」
「ハルが答えを決めなかった」
紙の上では、道だけが境界を越えていた。
その先に何があるのかは、まだ白いままだった。
コメント
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読み終えました。第5話、一気に核心に近づいた感じがして胸がざわつきましたね。 「C-17」が一気に増えた場面と、壁に残された「道」の地図——あれは効きました。境界の外へ伸びる一本の線、それだけで世界が広がる気配がする。父・トウマが「本当に知らない」と言った瞬間の沈黙も、逆に重みがあって。ああ、この村にはまだ喋られていない大きな何かがあるんだな、と。 それにしても「その言葉、もう信用してない」からの応酬、ミオとハルの距離感が絶妙でした。次を楽しみにしてます。