テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#ご本人様とは一切関係ありません
686
#ご本人様とは一切関係ありません
あんにんどう腐(ゆ腐)
2,751
#ご本人様とは一切関係ありません
さくら(皇千ト君最推し)
2,469
カノンが合宿から戻ってくる日。
午後のスタジオは、いつも通りリハの空気で回っていた。
音源の止まるタイミング。
鏡の前で位置を確認するメンバー。
スタッフの声。
床を擦る足音。
でも、その“いつも通り”の中に、今日は一つだけ小さな待ちがあった。
カノンが帰ってくる。
その事実を、たぶんみんなどこかで意識している。
「まだ来てねぇの?」
タイキが水を飲みながら言う。
「雛子さんと一緒に事務所寄ってるんじゃない?」
ルイがタオルで首を拭きながら返す。
アダムは壁際でスマホを見たまま、小さく言う。
「そろそろじゃない」
その少し後。
スタジオの扉が開いた。
最初に入ってきたのは、いつものカノンだった。
「あー、ただいまー」
その声が入った瞬間、空気が少しだけ明るくなる。
タイキがすぐに振り返る。
「おっ、帰ってきた」
ルイもそちらを見る。
アダムは静かに目を上げる。
カノンは以前より少しだけ焼けて見えた。
海辺のロケのせいか、肌の色がほんの少しだけ変わっている。
それに、目元の空気も違う。
疲れてる。
でも、それだけじゃない。
ちゃんと何かを持ち帰ってきた顔だった。
「おつかれー」
タイキが近づく。
「どうだった、主演」
「やめろその呼び方」
カノンが笑う。
「まだ慣れてねぇんだよ」
「でも顔変わったな」
アダムが静かに言う。
カノンが少しだけそっちを見る。
「何それ、老けた?」
「逆」
アダムは短く返す。
「ちゃんと現場の顔してる」
その一言に、カノンは少しだけ照れたように笑った。
「何だよ、それ」
「褒めてる」
ルイが横から言う。
カノンはそこで、ようやくもう一人を見た。
少し離れた位置に立っていたゴイチ。
何でもない顔で、でも最初からこっちを見ていたのがわかる目だった。
一瞬だけ、視線が合う。
たったそれだけなのに、胸の奥が少しだけ鳴る。
合宿の夜。
電話。
予告。
“嫌いになりそうだけどな”
その全部が、一瞬で戻ってくる。
でも今は、そこで立ち止まる空気じゃない。
ゴイチが先に口を開いた。
「おかえり」
低く、短く。
でも、それだけで充分だった。
カノンは少しだけ口元をゆるめる。
「ただいま」
その返しも、やけに静かだった。
タイキがそこに割って入る。
「何その空気」
「普通に久々の再会なんだからもうちょいないの?」
「うるせぇな」
カノンが即座に返す。
「ほら、やっぱこれだよ」
タイキが笑う。
「カノンいないとツッコミ不足なんだって」
「誰がツッコミ要員だ」
「三割」
アダムが落とす。
「アダムそれまだ言う?」
カノンが振り返る。
そのやり取りに、スタジオが少しだけいつもの温度へ戻る。
でも、ゴイチだけはその会話の端で、静かにカノンを見ていた。
やっぱり、戻ってくると違う。
スタジオの空気の埋まり方も。
会話の転がり方も。
何より、自分の視界の落ち着き方が違う。
そのことに気づいて、ゴイチはほんの少しだけ内心で息を吐いた。
長かったな、と、今さら思う。
一週間。
たったそれだけ。
でも、見送った時より、今の方がはっきりわかる。
ちゃんと、いなかった。
そして今、ちゃんと戻ってきた。
⸻
「はいはい、ちょっとあけてー!」
その空気にさらに勢いよく割って入ってきたのは、案の定雛子だった。
ヒールの音を鳴らしながらスタジオに入ってくる。
片手にスマホ、片手に資料。
相変わらず忙しそうなのに、今日は機嫌がいいのが見てわかる。
「カノン、おつかれさま!」
「おつかれさまです」
「見たわよ、映像!」
雛子はその場でぱっと笑った。
「切り抜き確定ね」
その言い方があまりにも雛子らしくて、カノンは思わず眉を寄せる。
「うわ、出た」
「出たじゃないの」
雛子は楽しそうに続ける。
「来週からオンエアされるし、SNSの方も準備しておかないと」
「メイキングの出し方も考える」
「インタビューもタイミング次第で追加」
「今、かなりいい流れ来てるのよ」
完全にノリノリだった。
でも、そのノリの奥にはちゃんと手応えがある。
予告が世の中へ出たあとの反応。
制作陣からの評価。
映画の広がりとグループへの流入。
その全部が、雛子の頭の中ではもう次の段階へ進んでいる。
「あなた、思った以上に刺さってるわよ」
雛子がカノンを指差す。
「“あの子誰?”っていう入口として、かなり強い」
カノンは少しだけ視線を逸らす。
「そういうの、真正面から言うなよ」
「慣れなさい」
雛子は即答する。
「これから増えるから」
その会話を横で聞いていたゴイチが、何でもない声でぽつりと落とした。
「練習の甲斐あったんじゃねぇか」
カノンの身体が、ぴくっと止まる。
一拍遅れて、雛子の顔がそっちへ向いた。
「……何、練習って」
食いつきが早い。
その目が、完全にマネージャーの目になっている。
情報の匂いを嗅ぎつけた時のやつだ。
カノンの心臓が一気にうるさくなる。
「いや、あっ、いや」
言葉が散る。
タイキが少しだけ面白がる顔になる。
ルイは無言で目だけ細める。
アダムは静かに様子を見ている。
雛子はもう一歩、カノンの方へ寄った。
「練習?」
「何の?」
「どこまで?」
「誰と?」
「質問が早い!」
カノンは思わず両手を出して、雛子の背中を押すみたいに前へ出る。
「あっ、いや。後で説明しますから」
「後で!」
「今ちょっと、まだ、その……!」
「何よその濁し方」
雛子が怪しむ。
「余計気になるじゃない」
「だから後で!」
カノンは半ば本気で焦っている。
「今ここで広げる話じゃない!」
タイキが横で小さく言う。
「広がるやつなんだ」
「うるさい!」
ルイがそこで口元だけで少し笑う。
アダムは無言のまま、でも完全に面白がっていた。
雛子は押されながらもまだ食い下がる。
「誰と?」
「そこだけでも言いなさい」
「いやだから!」
カノンが本気で困った顔になる。
「そういうんじゃないんだって!」
その“そういうんじゃない”が、余計に怪しい。
雛子の目が、すっと細くなる。
「……後で、ちゃんと聞くわよ」
「はい……」
カノンが観念したみたいに返す。
雛子はそこでようやく一歩引いた。
でも、その顔は完全に“ネタを拾った側”の顔だった。
「楽しみが増えたわね」
「増やさないでください……」
カノンが項垂れる。
その横で、ゴイチはようやく少しだけ口元を動かした。
ほんのわずか。
でも、ちゃんと笑っていた。
カノンはそれに気づいて、思わずそっちを見る。
「……お前な」
「何だよ」
「絶対わざと言っただろ」
ゴイチは肩をすくめる。
「別に」
「別にじゃねぇよ」
「でも、事実だろ」
その返し方があまりにもいつも通りで、カノンは言い返しかけて、でも途中で止まる。
“練習”のこと。
誤解したまま伝わってるあの件。
それを今ここでどう説明するんだよ、という話でもある。
結局カノンは、雛子を押していた両手をゆっくり下ろしながら、小さく息を吐いた。
「……後で、な」
誰に向けた言葉か、自分でも少し曖昧だった。
雛子にか。
ゴイチにか。
自分にか。
でも、その場にいた何人かは、それぞれ違う意味でその一言を拾っていた。
スタジオの空気は、カノンが戻ってきたことでまた一段とうるさくなっていた。
でも、そのうるささはやっぱり少し心地よかった。
午後のスタジオは、少しだけ空気がゆるんでいた。
リハの合間。
音源は止まっていて、メンバーはそれぞれ水を飲んだり、ストレッチをしたりしている。
スタッフも次の段取りまで少し息を抜いている時間だった。
そこへ、入口の扉が軽く開く。
「おつかれさまでーす」
明るい声。
カノンが反応して振り向くより先に、その声でわかった。
「うわ、八崎君」
「よっ」
ラフな私服姿の八崎が、軽く片手を上げながら入ってくる。
現場帰りらしく、キャップをかぶって、肩に小さめのバッグを引っかけている。
現場の外なのに、妙に人の空気を乱さない入り方をするのがこの人らしい。
「近くで別件あってさ」
「ちょっと顔出した」
「へぇ」
カノンは少し笑う。
「普通に来るじゃん」
「だって主演の様子、見とこうかなって」
「その言い方まだ慣れねぇんだけど」
そんな会話をしながら、カノンと八崎はスタジオの隅の方へ少しだけ移動する。
別に隠れてるわけじゃない。
でも、わざわざ真ん中で大きな声で話す感じでもない。
少し離れたところで、その声にゴイチが気づく。
(……あん時のやつか)
食堂の電話越しに聞こえた声。
“カノン。まだ途中だろ……”
あの、やけに甘く響いた声音。
八崎。
顔と名前が、そこでようやくちゃんと結びつく。
ゴイチは遠くからそっちを見る。
でも、近づかない。
割り込まない。
ただ、少し離れた位置で、静かにカノンと八崎を見ていた。
タイキが水を飲みながら横目でそれに気づくけど、何も言わない。
アダムはもっと静かに、その視線の向きだけを確認して、やっぱり何も言わなかった。
カノンの方では、他愛ない会話が続いている。
「現場慣れた?」
八崎が聞く。
「前よりは」
カノンが肩をすくめる。
「でも、いまだに終わったあとめちゃくちゃ疲れる」
「まあ、そりゃそうだろ」
八崎は笑う。
「ずっと全身で人に見られてるようなもんだし」
「それな」
少し間。
八崎がふっと口元を上げる。
「でも、お前、だいぶ良くなったよ」
「前より、ちゃんと“見てる”顔できるようになった」
カノンが一瞬だけ言葉に詰まる。
その“見てる”が、単に芝居の話だけじゃない気がしてしまったからだ。
「……何だよそれ」
「そのまんま」
八崎は軽く笑う。
「最初さ、相手見る時どっか逃げてたじゃん」
「今はちゃんと、目離せない顔できる」
その一言が、静かに刺さる。
カノンは無意識に視線を少し逸らした。
でも、その逸らし方すらたぶん八崎には見えている。
「ま、理由はだいたい察してるけど」
八崎が、さらっと言う。
カノンの肩がぴくっと動く。
「……は?」
「いや、別に言わなくていいよ」
八崎は本当に軽い調子のまま続ける。
「そういうの、口にされると逆に芝居しづらくなるし」
「お前さ」
「ん?」
「そういう核心、軽く踏むのやめろ」
「踏んでないよ」
八崎は笑う。
「確認してない。察しただけ」
その“察しただけ”が、一番逃げ場がない。
カノンは少しだけ眉を寄せたまま、でも完全には怒れない。
八崎はそこで、ふと声を落とした。
「ただ」
一拍。
「現場でちゃんと使えてるなら、それでいいんじゃない?」
「……」
「好きなやつの顔が浮かぶの、別に悪いことじゃないだろ」
「お前、それで役の感情ちゃんと掴めてるんだし」
カノンの喉が小さく鳴る。
好きなやつ。
その言葉を、今こんなふうに自然に置かれるともう否定が面倒になる。
「……やめろって」
小さく返すと、八崎は少しだけ肩をすくめた。
「はいはい」
「でもさ」
「自覚しといた方が、芝居以外でも楽かもよ」
その最後の一言が、やけに残る。
カノンは何も返せなかった。
芝居以外でも。
つまり、これはもう役のためだけじゃない、ということだ。
頭ではわかっていた。
でも、他人にあんなふうに軽く言われると、急に逃げ場がなくなる。
少し離れたところで、ゴイチはその会話の内容までは聞こえない。
でも、カノンの顔だけは見えていた。
笑ってるようで、少しだけ困って。
でも完全には嫌がってない。
八崎の言葉が、ちゃんと中へ入ってる顔。
その表情を、ゴイチは静かに見ていた。
近づかない。
割り込まない。
そう決めたみたいに。
でも、見てしまうのは止められなかった。
しばらくして、八崎は軽く手を振る。
「じゃ、俺もう行くわ」
「おう」
カノンも少しだけ手を上げる。
「また現場で」
「今度は変な勘違いすんなよ」
その一言に、カノンが「うるさい!」と小さく返す。
八崎は声を出して笑って、そのままスタジオを出ていった。
カノンは扉が閉まったあとも、少しだけその方向を見ていた。
(自覚、か……)
心の中で、小さく繰り返す。
好きなやつの顔。
芝居以外でも。
自覚しといた方が楽。
どれも、簡単に流せる言葉じゃなかった。
⸻
その日の帰り道は、妙に自然だった。
誰かが気を回したわけでもない。
示し合わせたわけでもない。
ただ、スタジオを出るタイミングが同じで、歩く方向も同じで、気づけばゴイチとカノンが並んでいた。
夜の街は少しだけ湿っている。
昼間の熱が地面に残っていて、風だけが細く抜けていく。
最初の数分は、ほんの少しだけ静かだった。
久々にちゃんと二人きりで帰る。
その感じを、お互い少しだけ測っているみたいな沈黙。
先に口を開いたのはゴイチだった。
「練習やらなんやらで」
少し間。
「随分と仲良いみたいだけど」
カノンが横を見る。
ゴイチは前を向いたままだ。
「公私混同しないようにな」
あまりにも何でもないトーンで言うから、カノンは一瞬きょとんとしたあと、ふっと笑った。
「なんだよそれ」
(練習のこと、まだ気にしてんのか……)
内心でそう思う。
ゴイチはポケットに手を突っ込んだまま、自然な声で続ける。
「俳優とかやってると」
「その辺の切り替え難しそうだなって」
「ただそれだけ」
その“ただそれだけ”が、たぶんただそれだけじゃないことを、今のカノンはもうわかってしまう。
「へぇ〜」
わざと少しだけ引っ張るみたいに返してみる。
ゴイチはそれに乗らない。
「お前、そういうので悩むだろ」
少し間。
「また泥酔されても困る」
頭をかきながら、ぼやくみたいに言う。
その言い方に、カノンは少しだけ目を細めた。
あぁ、やっぱり気にしてるんだ、と思う。
しかも“嫉妬してる”とか“嫌だ”じゃなくて、こういう言い方をするのがゴイチらしい。
でも、ここでひとつちゃんと解いておかないと、たぶんずっとこのままだ。
カノンは少し息を吸った。
「……あのさ」
「ん?」
「前、電話で言った“練習”のことなんだけど」
ゴイチの足が、ほんの少しだけゆるむ。
止まりはしない。
でも、聞く姿勢になったのがわかる。
カノンは前を見たまま言う。
「あれ、俺……勘違いしてた」
「……何を」
「八崎くんが言ってた“キスシーンの練習”」
少しだけ言いづらそうに続ける。
「俺、最初ほんとにキスするんだと思ってた」
ゴイチの目が、ほんの少しだけ動く。
カノンはそこで苦く笑う。
「でも違った」
「実際にやったのは、ギリギリの距離感とか、角度とか、アングルとか」
「そういう……絵作りの方」
「キスそのものの練習じゃなかった」
夜道に、その説明だけが静かに落ちる。
ゴイチは何も言わない。
カノンは少しだけ肩をすくめる。
「だからその」
「お前に電話した時、俺が勝手に勘違いして、変な伝え方した」
「……」
「今さら言うのも、なんか言い訳っぽくて変だと思ってたんだけど」
「でも、ずっとそのままも気持ち悪いから」
そこまで言って、カノンは少しだけゴイチを見る。
「一応、ちゃんと訂正しとく」
ゴイチは数秒だけ黙っていた。
その沈黙が少しだけ長く感じて、カノンは内心で(やっぱ今さらすぎたか)と思いかける。
でも、次の瞬間。
ゴイチが小さく息を吐いた。
「……そうかよ」
短い返事。
だけど、その一言で、カノンには少しだけわかった。
あぁ、こいつ。
思ってたより引っかかってたんだな、と。
「うん」
カノンも小さく返す。
少し間。
それから、ゴイチが前を向いたまま言う。
「じゃあ、あん時の“嫌いになりそう”は」
「半分くらい取り消す」
カノンが思わず吹き出す。
「半分なんだ」
「半分は、お前が勘違いしたまま電話してきたせい」
「理不尽だなぁ」
「理不尽じゃねぇよ」
ゴイチは少しだけ口元を動かす。
「こっちからしたら、だいぶ情報悪かった」
その返しがおかしくて、カノンは夜道で少しだけ笑ってしまう。
でもその笑いの奥で、胸の中の何かが静かにほどけていくのを感じる。
ちゃんと解けたわけじゃない。
まだ、全部が真っ直ぐにはならない。
でも、この誤解だけは少しほどけた。
それだけで、並んで歩く空気がほんの少しだけ軽くなる。
ゴイチがそこで、ぼそっと言う。
「……まぁ」
「それでも、仲良すぎんのはほどほどにしとけ」
カノンがまた横を見る。
「まだ言う」
「仕事だろうが何だろうが」
ゴイチは少しだけ目を細める。
「お前、押されると流されそうだから」
「何その評価」
「間違ってねぇだろ」
カノンはそこで一瞬だけ言い返そうとして、でもやめた。
正直、完全には否定できないからだ。
代わりに少しだけ笑って言う。
「……らしい心配だな」
ゴイチはそれにすぐ返さなかった。
数秒遅れて、小さく言う。
「便利だろ」
その言い方が、今夜は少しだけいつもより深く聞こえた。
二人はそのまま、少しだけ歩幅を揃えて夜道を進んでいく。
誤解はひとつ解けた。
でも、まだ全部は解けない。
相棒、という言葉の内側で、今日もまた少しだけ本音が動いていた。
街灯の下を、ゴイチとカノンが並んで歩いている。
映画の話。
練習の誤解。
ほどけたような、でも全部はまだほどけていない空気。
その中で、ゴイチがぽつりと落とした。
「まぁ。少し安心した」
カノンの足が、ほんの少しだけ遅れる。
「……は?」
小さく漏れた声は、ほとんど独り言だった。
でも、ゴイチはそれ以上何も言わない。
ただ前を向いたまま歩いている。
(なんだよ、安心って)
カノンの頭の中が、一気にうるさくなる。
(何の安心だよ……)
八崎との練習が、実際にキスする類のものじゃなかった。
それを聞いて、安心した。
何が。
どの立場で。
どういう意味で。
言葉の端を掴もうとすると、余計にわからなくなる。
いつもの帰り道。
見慣れた曲がり角。
少し坂を下った先にある階段。
ゴイチは黙ったまま、半歩だけ前を歩いている。
カノンは頭の中をぐるぐるさせたまま、その後ろで階段へ足をかけた。
ズルッ――
「うおっ」
思わず声が漏れる。
一瞬で足元の感覚が消える。
ゴイチが振り向く。
カノンの身体はそのまま前へ崩れた。
「カノン!」
咄嗟に、ゴイチが片手で手すりを強く掴む。
もう片方の腕が、落ちてくるカノンを支えに行く。
ぶつかる。
でも、重なったのは身体じゃなかった。
ほんの一瞬。
避ける暇もないまま、
カノンの唇が、ゴイチの唇に触れた。
静かだった。
あまりにも一瞬で、あまりにも近くて、
何が起きたのか脳が追いつかない。
手すりを掴んだままのゴイチ。
胸元に倒れ込むみたいに止まったカノン。
触れたままじゃない。
でも、確かに、さっき触れた。
夜の階段の途中で、ふたりとも固まった。
最初に動いたのはカノンだった。
ぱっと身体を引いて、でもバランスを崩しかけて、慌てて手すりを掴み直す。
耳まで一気に熱くなる。
「い、今の……」
声がうわずる。
ゴイチは手すりから手を離さず、呼吸だけ小さく整えていた。
でも顔は、できるだけ何でもない顔に戻そうとしている。
「……事故だよな?」
カノンが言う。
ゴイチは一拍置いてから、低く返した。
「階段でキスするやつがどこにいる」
あまりにも真っ当な返しだった。
カノンは一瞬きょとんとして、それから一気に息を吐く。
「だよな!!」
安心したみたいに、でも声の裏にはまだ動揺が残っている。
自分でもわかるくらい、笑い方が少し引きつっていた。
ゴイチはそれ以上何も言わない。
ただ「ちゃんと降りろ」とだけ小さく言って、先に一段下りる。
カノンもその後を追う。
事故。
そう、事故だ。
足を滑らせて。
ぶつかって。
たまたま唇が触れただけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう自分に言い聞かせながら、カノンは階段を下る。
でも、心臓はまるで聞く耳を持たない。
さっき、確かにゴイチの唇に触れた。
一瞬だった。
でも、柔らかかった。
しかも相手はゴイチだった。
(無理だろ……)
平気なわけがない。
なのに、横を歩くゴイチはあまりにも普通の顔をしている。
それが悔しくて、少しだけ腹も立つ。
数段下りたところで、ゴイチがぼそっと言った。
「……でも」
カノンの肩がぴくっと揺れる。
「事故でも、キスはキスだろ」
その一言が、夜の階段に静かに落ちる。
カノンの心臓が、本気で爆発しかけた。
「なっ……」
声が詰まる。
何それ。
さっき“事故だろ”って流したのに。
今さらそこだけ拾い直すなよ、と思う。
でも、その拾い直し方がゴイチらしくて、余計に効く。
「……お前さ」
やっとそれだけ絞り出すと、ゴイチは前を見たまま小さく息を吐いた。
「事実言っただけ」
その言い方が、ずるい。
軽くもできる。
茶化すこともできる。
なのにわざわざ、“キスはキス”なんてまっすぐな言葉で置いてくる。
カノンは顔を背けるようにして階段を下りた。
耳が熱い。
たぶん今、自分はかなりひどい顔をしてる。
階段を降りきる少し手前。
まだカノンの足取りは完全には戻っていなかった。
動揺のせいか、さっきの滑った感覚が身体に残っているのか、自分でも微妙だった。
ゴイチがふいに足を止める。
「……危ないから」
「?」
意味を考えるより早く、
ゴイチの手がカノンの手首を掴んだ。
そのまま、掌を滑らせるみたいにして手を取る。
「ちゃんと歩け」
その言い方はいつも通りみたいなのに、
(さっきキスした口でそれ言う?)
と、カノンの心臓はまた大きく鳴る。
しかも、事故だなんだ言った直後に。
何でもない顔で、当たり前みたいに手を引く。
カノンは言葉を失ったまま、その手に引かれて階段を下りる。
ゴイチの手は大きい。
熱い。
握り方は強すぎないのに、簡単にはほどけないくらいにはちゃんとしている。
階段を下り切っても、ゴイチの手は離れなかった。
夜道に出ても、そのまま。
カノンの心臓は、落ち着く気配を知らない。
「ゴイチ……」
ようやく声を出す。
「ん」
「もう、流石に転ばねぇって……」
少し言葉が途切れる。
「だから、その……」
「手……」
その言い方は自分でも情けないくらいたどたどしかった。
前を歩いていたゴイチの足が止まる。
振り返る。
でも、顔がちゃんと見えないくらいの角度だ。
街灯の当たり方のせいか、表情が少しだけ影に入っている。
数秒。
それから、ゴイチが小さく呟いた。
「……相棒料金…」
「え……」
その瞬間、ゴイチの手が少しだけ握り返す。
強く、ではない。
でも、さっきまでよりちゃんと“握った”とわかる返し方だった。
カノンの胸が、ドン、と打つ。
ゴイチはそのまま、また前を向いて歩き出す。
何でもないみたいに。
でも、耳だけは少し赤い。
カノンは引かれるままに歩きながら、やっと小さく呟く。
「……高けぇな」
その声は、半分は照れ隠し。
でも半分は本音だった。
相棒料金なんて便利な言葉で片づけるには、
今のこれはだいぶ高い。
ゴイチは少しだけ肩を揺らす。
「お前が……」
一拍。
「嫌なら、離す」
その言い方が思っていたより静かで、カノンは思わず目を見開いた。
嫌なら。
つまり、嫌じゃないならこのまま握ってる、ということだ。
しかも、そう言ったゴイチの耳も赤い。
カノンはそこで、はじめてちゃんと気づく。
自分だけじゃない。
ゴイチも、平気なわけじゃない。
視線を地面に落とす。
街灯に照らされたアスファルト。
並ぶ影。
繋がった手。
「……別に……」
小さく返す。
それが精一杯だった。
でも、その一言で十分だったのか、
ゴイチは何も言わず、手を離さないまま歩き続ける。
そのまま、手が離れることはなかった。
夜道は静かだった。
なのに、ふたりの間だけがやけにうるさい。
事故のはずのキス。
相棒料金という理由で繋がれた手。
嫌なら離す、という静かな確認。
その全部を抱えたまま、ゴイチとカノンは少しだけ近い距離で、家までの道を歩いていった。
会話はほとんどない。
でも、沈黙が気まずいわけでもない。
むしろ、何か喋ったらこの変な熱が一気に表に出そうで、どっちも下手に口を開けないだけだった。
ゴイチは前を向いたまま。
カノンは少し俯きがちで、耳はまだ赤い。
繋がれた手だけが、妙に現実感を持ってそこにある。
カノンは小さく息を吐く。
(無理……)
事故キスのあと。
“事故でもキスはキスだろ”なんて言われて。
そのまま手を引かれて。
しかも今もまだ離れてない。
心臓が落ち着くわけがない。
そのまま、家の近くの角を曲がった瞬間だった。
向こう側から、二つの影が現れる。
「……」
「……」
ルイとタイキだった。
四人の時間が、一瞬止まる。
街灯の下。
夜道の真ん中。
そして。
手を繋いだまま固まるゴイチとカノン。
タイキが最初に声を漏らした。
「え?」
あまりにも素直な“え?”だった。
ルイは一瞬だけ目を細めて、それから口元をわずかに動かす。
「……へぇ」
その“へぇ”が、一番危ない。
ゴイチとカノンは、ほぼ同時に口を開いた。
「「違う」」
ぴたりと重なる。
タイキが思わず目を見開く。
「何が!?」
「いや、だから」
カノンが慌てて言う。
「これには色々事情が……」
「ねぇだろ」
ゴイチが低く返す。
「あるだろ!」
カノンが噛みつく。
「いや、あるっていうか、あったっていうか……!」
ルイはそのやり取りを見ながら、じわじわくるものを堪えている顔だった。
「なるほど」
小さく言う。
「事情がある手の繋ぎ方ね」
「だから違……」
カノンが言いかける。
その瞬間、ゴイチが手を離さないまま一歩だけ前へ出た。
「まだ危ない」
低く、平然と言う。
カノンが思わずそっちを見る。
「は?」
「また転ぶだろ」
「いや、もう階段終わっただろ!」
「知らねぇよ」
「知らねぇで引っ張ってんのかよ!」
タイキがそのやり取りを見ながら、ぽつりと呟く。
「……めちゃくちゃ仲良いじゃん」
カノンの耳が、また一気に赤くなる。
「ちが……っ、そういうんじゃ……」
「どこが」
ルイが静かに返す。
「手ぇ繋いだまま、理由つけて離してないのに」
その一言があまりにも正論で、カノンは言葉を失う。
ゴイチは表情をほとんど変えないまま、でも手だけはちゃんと繋いだままだった。
「ほら、行くぞ」
さらっと言って、カノンの手を引く。
「え、ちょ、ゴイチ!」
「また明日な」
ゴイチはそれだけルイとタイキに向かって落とすと、そのまま横を通り抜けようとする。
カノンは半ば引きずられるみたいに一歩遅れてついていく。
「ちょっと待てって!」
小声で抗議する。
「何この処理!」
「うるさい」
「うるさいじゃないだろ!」
「今止まる方が面倒くさい」
「それはそうだけど!」
そんな言い合いをしながら、二人はそのまま通り過ぎていく。
タイキは呆然と見送るしかない。
繋がれた手。
赤い耳のカノン。
何でもない顔で引っ張っていくゴイチ。
あまりにも情報量が多かった。
少し離れていく二人の背中を見ながら、タイキがようやくぼやく。
「あぁいう時のゴイチって、なんか、こう……」
言葉を探す。
ルイがその横で、タイキに視線を落とした。
少しだけ笑う。
「まぁ、わかる」
一拍。
「やたら男なんだろ」
その返しに、タイキは一瞬だけ黙って、それから、ははっと乾いた声で笑った。
「そう、それ」
「なんかムカつくくらい自然だった」
「自然じゃなくて、腹決まってる方だろ」
ルイはそう言って、去っていくゴイチたちの背中をもう一度見る。
カノンは途中で何か言い返してる。
でも手はまだ離れていない。
ゴイチも、離す気配がない。
ルイはそこで、小さく息だけで笑った。
「……あれは、だいぶ進んだな」
タイキが腕を組む。
「事故っぽかったけど」
「事故でも、手繋いだまま通り過ぎるやつはもう事故じゃねぇだろ」
「たしかに」
二人の間に、少しだけ面白がる空気が流れる。
でも、その奥でちゃんとわかっていた。
タイキが小さく肩をすくめる。
「明日、絶対いじる」
ルイは口元だけで笑った。
「ほどほどにしろよ」
「今のカノン、たぶん一人で死ぬほど反芻してる」
「じゃあゴイチの方?」
「そっちは平気な顔するだろ」
「うわ、想像つく」
また、ははっと笑いがこぼれる。
その夜道の先で、
ゴイチとカノンはまだ手を繋いだまま、
言い合いながら少しずつ遠ざかっていった。
夜道を、ゴイチに手を引かれたまま歩く。
街灯がぽつぽつと並ぶ、見慣れた帰り道。
さっきまでの階段の騒ぎが嘘みたいに、周囲は静かだった。
でも、カノンの頭の中だけは全然静かじゃない。
(……なんだよ、今日)
事故みたいなキス。
ルイとタイキに見られたこと。
そのあと、何事もないみたいな顔でゴイチが手を離さなかったこと。
そして今も、まだそのまま歩いていること。
(いやいやいや)
(おかしいだろ、これ)
横目でちらっとゴイチを見る。
ゴイチはいつも通りだった。
前を向いて、普通に歩いているだけ。
こっちの心臓だけが爆発しそうなのが馬鹿みたいなくらい、平然としている。
(なんでこいつ普通なんだよ……)
カノンの胸だけがずっとうるさい。
しばらくして、耐えきれなくなったみたいにカノンがぼそっと言う。
「……ゴイチ」
「ん?」
「いつまで」
そう言って、繋がれた手を少しだけ揺らす。
「これ、やるんだよ」
ゴイチは一瞬だけカノンを見る。
でもすぐに前へ視線を戻した。
「…また焼肉だな」
カノンが眉を寄せる。
「まだ言ってんのかよ、それ」
ゴイチは小さく笑った。
「今日、高かったろ」
カノンの耳がまた熱を持つ。
「……高くねぇよ」
ゴイチが、何でもない調子で数えるみたいに言う。
「階段」
「……」
「キス」
「待て」
「メンバー目撃」
「やめろ」
ゴイチが肩を揺らして笑う。
カノンは思わず顔をしかめた。
「笑うな!」
「俺めちゃくちゃ恥ずいんだぞ、今!」
ゴイチはそこで、ふっと息を吐いた。
笑いを引っ込めるみたいに。
それから、少しだけ真面目な声で言う。
「……でも」
カノンが顔を上げる。
ゴイチは前を見たままだ。
「さっきの」
少し間。
「事故でも」
また、少しだけ間。
「嫌じゃなかっただろ」
カノンの心臓が、ドン、と大きく鳴る。
「……は?」
ゴイチはそれ以上何も言わない。
ただ歩く。
カノンの頭が真っ白になる。
(嫌じゃ……)
(嫌じゃ……)
(……なかった)
むしろ。
思い出した瞬間、胸の奥が余計に熱くなる。
カノンは俯いたまま歩いた。
それから、ぽつりと落とす。
「……お前さ」
「ん?」
「なんで」
声が少しだけ小さくなる。
「止めたんだよ」
ゴイチの足が止まる。
夜道。
二人の足音が消える。
カノンは顔を上げないまま続けた。
「この前」
「俺が」
「キスしようとしたとき」
ゴイチはしばらく何も言わなかった。
風が一度、二人の間を抜ける。
それから、小さく息を吐く音。
「……酔ってただろ」
カノンは黙る。
ゴイチは静かに続ける。
「お前」
「覚えてないやつ」
「あとでめちゃくちゃ気にする」
その言葉が、カノンの胸をぎゅっと掴む。
ゴイチは前を見たまま、でも誤魔化さずに言った。
「だから止めた」
カノンはゆっくり顔を上げる。
ゴイチの横顔を見る。
いつもの顔。
なのに、今は少しだけ優しい。
その瞬間、カノンの中でいくつかの点が静かに繋がった。
失恋の夜。
腕の中。
嘘をついた朝。
“酔っ払いの戯言”って逃がしてくれたこと。
そして今、こうして手を繋いで歩いていること。
(……あ)
胸が、また大きく鳴る。
カノンは小さく笑った。
「……ゴイチ」
「ん?」
「相棒料金」
繋いだ手を少しだけ握り返す。
「まだ払う必要ある?」
ゴイチが少しだけ目を細めた。
「あるな」
「なんで」
ゴイチは一拍置く。
「まだ」
少し低くなる声。
「安心してねぇから」
その言葉が、夜道の中に静かに落ちる。
さっきより、もっと静かな空気だった。
それでも二人の手はまだ繋がれたままだ。
ゴイチが言った“安心してねぇ”が、カノンの頭の中で何度も回る。
しばらく俯いたまま歩いていたけど、我慢できなくなって小さく口を開く。
「……なんだよ」
声が少し掠れる。
「安心って……」
少しだけ顔を上げる。
ゴイチの横顔を見る。
「何の安心だよ」
心臓がうるさいまま、聞いてしまう。
ゴイチはすぐには答えなかった。
前を向いたまま歩いている。
街灯の光が、二人の影を長く伸ばす。
少し歩いてから、ぽつりとゴイチが言う。
「お前」
カノンが顔を向ける。
ゴイチはまだ前を見ている。
「すぐ無茶するだろ」
カノンが眉を寄せる。
「してねぇよ」
「する」
ゴイチは淡々と続ける。
「悩む」
「抱え込む」
「酔う」
「おい」
「暴走する」
「悪口になってきてるぞ」
ゴイチが少しだけ笑う。
それから、少しだけ声のトーンが落ちる。
「だから」
一拍。
「見てないと危ねぇ」
カノンの足が少し止まりそうになる。
ゴイチはそのまま言った。
「相棒だろ」
それだけだった。
カノンはしばらく何も言えない。
胸の奥が、妙に熱い。
(……それだけかよ)
(それだけなのに)
(なんでこんな……)
カノンは少し顔を背ける。
耳がまた赤くなる。
それを隠すみたいに言う。
「……過保護すぎだろ」
ゴイチが肩をすくめる。
「嫌か?」
カノンは一瞬言葉に詰まる。
そして、小さく返す。
「……別に」
そのまま。
二人の手は、まだ離れなかった。
⸻
夜道の最後。
見慣れた角を曲がると、カノンの家の前が見えてくる。
街灯がひとつだけ灯っている、静かな住宅街。
二人の足が自然とゆっくりになる。
そして、家の前でゴイチの足が止まった。
カノンもつられて止まる。
「……着いた」
カノンがぽつりと呟く。
ゴイチは頷くだけだった。
「おう」
それだけ。
でも、二人の手はまだ繋がったままだった。
カノンが一瞬、その手を見る。
(……あ)
そこでようやくはっきり気づく。
ここまでずっと、そのままだった。
カノンは少しだけ笑う。
「ゴイチ」
「ん?」
「相棒料金」
繋いだ手を、ほんの少しだけ揺らす。
「もう十分払っただろ」
ゴイチはその手を見て、それからカノンを見る。
少しだけ間。
そして、指の力がほんの少しだけ強くなる。
「……明日…」
カノンの心臓がまた跳ねた。
「は?」
ゴイチは少しだけ視線を逸らす。
それから、ぽつりと言う。
「お前」
「また明日」
カノンがきょとんとする。
「ん?」
「ちゃんとスタジオ来るだろ」
その言い方に、カノンは一瞬だけ目を瞬いたあと、少しだけ呆れたみたいに笑った。
「行く決まってんだろ」
「仕事だぞ」
ゴイチはそれを聞いて、小さく頷いた。
それからやっと、カノンの手を離す。
離れた瞬間、さっきまでそこにあった体温だけが急に消える。
カノンは少しだけ自分の手を見つめる。
ゴイチはポケットに手を戻した。
「じゃ」
「おやすみ」
カノンが小さく返す。
「……おう」
一歩、後ろへ下がる。
カノンが玄関の方へ向かう。
ドアノブに手をかけた、その時。
背後から声が落ちた。
「カノン」
カノンが振り返る。
ゴイチは街灯の下に立っている。
少しだけ目を細めて、言う。
「スタジオ来る時」
カノンの眉が動く。
「階段、気をつけろ」
一瞬、沈黙。
それからカノンが吹き出した。
「そこかよ!」
ゴイチが小さく笑う。
「おやすみ」
今度こそ、背を向ける。
カノンは玄関の前で少しだけ立ち尽くした。
それからドアを開けながら、小さく呟く。
「……やばいだろ」
「なんなんだよ、アイツ…」
胸が、まだうるさかった。
玄関のドアが閉まった瞬間だった。
「っ、無理……!」
カノンは半分駆け込むみたいに部屋へ上がると、急ぎ足で靴を脱ぎ捨てた。
片方は揃ったのに、もう片方は少し斜めに転がる。そんなの構っていられない。
上着を肩から剥ぐみたいに脱ぐ。
バッグもそのへんに落とす。
鍵を置いたかどうかすら、もうちゃんと覚えてない。
頭の中がさっきの帰り道でいっぱいだった。
階段。
事故キス。
ルイとタイキ。
繋いだ手。
「事故でも、キスはキスだろ」
「まだ安心してねぇから」
「嫌なら、離す」
「……別に」
そして最後の、「また明日」。
「うわぁぁ……」
声にならないうめきが漏れる。
そのままベッドにダイブした。
ぼふ、と鈍い音。
顔から落ちるみたいに枕へ突っ込んで、シーツに頬を押しつける。
柔らかい。
でも、全然落ち着かない。
「なんなんだよ、ほんと……」
枕に顔を埋めたまま、くぐもった声で呟く。
落ち着きたいのに、さっきから胸の奥だけがうるさい。
手を離してからの方が、むしろひどい。
カノンは顔を少しだけ横へ向けて、自分の手を見る。
さっきまでゴイチに握られていた手。
もう体温なんて残っていないはずなのに、まだ熱い気がした。
指を軽く握る。
開く。
また握る。
「……っ、やば」
小さく漏れる。
あのまま何でもない顔で歩いて。
何でもない顔で“相棒料金”とか言って。
何でもない顔で“嫌なら離す”なんて言っておいて。
耳、赤かった。
そこだけちゃんと見てしまった自分も、だいぶ終わってる。
カノンはごろんと仰向けになる。
天井がぼやける。
「安心って何だよ……」
また思い出してしまう。
“まだ安心してねぇから”
あれが、ずっと引っかかっている。
見てないと危ない。
すぐ無茶する。
悩む。抱え込む。酔う。暴走する。
あれ全部、半分は悪口だった。
なのに、最後に“相棒だろ”でまとめられると何も言えなくなる。
「ずる……」
ぽつりと落ちる。
優しいのか。
過保護なのか。
相棒なのか。
それとも、それだけじゃないのか。
わからない。
わからないのに、今日のゴイチはいつもより少しだけ男だった。
あの角で見られた時も。
ルイとタイキの前で手を離さなかった時も。
家の前で、最後まで何でもない顔で立ってた時も。
全部だ。
「……マジで無理」
両腕で顔を覆う。
でも、その口元は少しだけ緩んでいた。
恥ずかしい。
心臓がうるさい。
何も整理できてない。
なのに、嫌じゃない。
むしろ明日が来るのが、少しだけ怖くて、少しだけ楽しみだなんて。
そんなの、もう完全に手遅れだった。
カノンは枕を抱き寄せるみたいに腕の中へ引っ張って、もう一度小さく呟く。
「……やばいって」
今度はさっきより、少しだけ嬉しそうな声だった。
⸻
一方その頃。
ゴイチは一人、静かな帰り道を歩いていた。
さっきまで隣にあった気配が消えると、夜道は妙に広く感じる。
街灯の光。
アスファルトに落ちる影。
遠くで鳴る車の音。
いつもと変わらない道なのに、今日は少し違った。
ゴイチは何も言わずに歩いていた。
でも、頭の中は静かじゃない。
カノンの「高けぇな」。
「……別に」。
家の前で少し笑った顔。
最後に振り返った時の、まだ熱の残った目。
その全部が、歩くたびに少しずつ戻ってくる。
少し進んだところで、ゴイチはふと足を止めた。
街灯の真下。
白い光が、手元をはっきり照らす。
右手を、ゆっくり目の前に上げる。
さっきまでカノンを握っていた手。
無意識みたいに、その掌を見る。
指を軽く曲げる。
開く。
何を確認したいのか、自分でもよくわからない。
もう温度なんか残っているわけがない。
でも、妙にそこだけ感覚が生々しかった。
「……は」
小さく息が漏れる。
相棒料金。
あんなの、ただのごまかしだ。
危ないから。
転ぶから。
見てないと心配だから。
全部ほんとだ。
でも、全部じゃない。
離したくなかった。
あの階段のあと。
事故だとか何だとか言いながら、ほんとはあのままもう少しだけ繋いでいたかった。
それを認めるみたいで、ゴイチは一度だけ視線を逸らした。
「……だめだろ」
小さく呟く。
でも、その“だめ”の響きは、強い否定じゃなかった。
カノンが「嫌なら、離す」に対して、
「……別に」
って返した時の声を思い出す。
あれはずるい。
嫌じゃない。
離さなくていい。
そう言ったのと、ほとんど同じだった。
ゴイチは親指で、自分の掌をそっと撫でた。
無意識だった。
そこにまだ、カノンの指の細さとか、力の返し方とかが残ってる気がして。
そんな自分に気づいて、ほんの少しだけ笑いそうになる。
「遅ぇな……」
誰に向けたともなく、ぽつりと落とす。
気づくのも。
欲しくなるのも。
こういうの全部。
もっと前に、何でもない顔してた頃にわかってれば、何か違ったんだろうか。
いや、たぶん違わない。
結局こうなるなら、いつだって同じかもしれない。
ゴイチはもう一度だけ手を見る。
それからゆっくり下ろした。
ポケットに突っ込む前に、小さく拳を作る。
その動きは、何かを握り直すみたいでもあった。
次の瞬間には、いつもの顔に戻る。
肩の力を少し抜いて、また歩き出した。
夜道は静かだ。
でも、その静けさの中で、さっきまでの体温だけがまだ消えずに残っている。
ゴイチは前を向いたまま、誰にも聞こえないくらいの声で小さく言う。
「……また明日、か」
その言葉だけで、少しだけ胸が鳴った。
そしてそのまま、今度こそ家までの道を静かに歩いていった。
コメント
2件

初めまして!コメント失礼します♪ 毎回ほんとに楽しく読ませていただいてます!!大満足です☺️ 一つの話に30分以上かけて読んで幸せに浸らせてもらってます☘️ 更新頻度なのは決まっていますか? 「星に願い、花束を抱く」とともに続き楽しみにしております♥️ どちらの作品も大好きです❣️
もう第24話、読み終わった……。 いや、なにこれ。やばい。 ゴイチの「まだ安心してねぇから」ってあれ、ズルすぎるだろ。 相棒料金って言いながら手離さないし、耳赤いし、でも平然と引っ張っていくし……。 カノンが部屋で悶えてるの、マジでわかるわ。 あの帰り道の空気、自分も隣で見てた気分になった。 二人の距離が確実に変わった回だったな。 「また明日」の一言がこんなに響くんだなって思った。 続き、楽しみにしてる🔥