テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#ご本人様とは一切関係ありません
686
#ご本人様とは一切関係ありません
あんにんどう腐(ゆ腐)
2,751
#ご本人様とは一切関係ありません
さくら(皇千ト君最推し)
2,469
数日後。
仕事帰りのスタジオで、カノンは大きく伸びをした。
「はぁぁ〜!」
「仕事もひと段落したし、久々いこうぜ」
そのノリが、あまりにも昔からのカノンだった。
ゴイチがロッカーを閉めながら振り返る。
「いくって何」
「飯」
「定食屋」
「酒」
三つ目で、ゴイチが少しだけ眉を上げる。
「最後がいらねぇ」
「いるだろ」
カノンは笑う。
「ドラマも一旦区切りついたし」
「なんか、普通に飲みてぇ」
気づけば表向きは、いつもの二人に戻っていた。
軽口を叩いて。
並んで歩いて。
相棒って言葉の外側を、あえて何も触れずにやり過ごしてるみたいな感じ。
でも、戻ったのは表向きだけだった。
定食屋に入る。
カウンターじゃなく、二人席。
仕事終わりのサラリーマンが何組かいて、テレビでは音量を絞ったバラエティが流れている。
注文した定食と一緒に、生が二つ来た。
「かんぱーい」
カノンがジョッキを持ち上げる。
「軽いな」
ゴイチも付き合う。
カン、と小さな音。
最初の一杯は、普通だった。
仕事の話。
メンバーの話。
アダムがまた何か察してた話。
ルイとタイキが最近妙に落ち着いてる話。
カノンもちゃんと笑って、ちゃんと食べていた。
でも、二杯目のジョッキに手をつけたところで、ゴイチの目が少しだけ細くなる。
「……おい」
「ん?」
カノンはもうグラスの縁に指をかけていた。
ゴイチがそれを止めるみたいに、ジョッキの取っ手を先に掴む。
「それ、もういい」
カノンの動きが止まる。
「は?」
「二杯目だろ」
「だから?」
「だから、もういい」
カノンが目を細める。
「なんだよそれ」
「なんだよじゃねぇよ」
ゴイチは淡々としている。
「この前の階段、もう忘れたか」
「事故だろ、あれは!」
「事故起こす前提で飲むな」
「飲んでねぇし!」
でも、ゴイチはジョッキを離さない。
カノンが数秒だけ睨んで、それからふいっと手を離した。
「……じゃぁ、もういい」
拗ねた声。
「ひとりで飲んでやる……」
そのまま、机に額をつけるみたいに突っ伏す。
ぶつぶつと、小さく文句を言っている。
ゴイチの眉が、ぴくりと上がる。
「ドラマが終わって、やっと飲めると思ってたのに……」
定食屋のテーブルに額をつけたまま、カノンはぶつぶつと言い続けていた。
「……せっかく」
少し間。
「せっかく、お前と久々にこういう時間過ごせるって思ってたのに……」
その一言に、ゴイチの箸がぴたりと止まる。
カノンは顔を上げない。
ただ、拗ねたみたいに机へ頬を押しつけたまま、ジョッキの縁を指先でつついている。
「ドラマ終わって」
「やっと、なんか普通に戻れた気がして」
「そしたら酒の一杯くらい、いいだろって思うじゃん……」
声は小さい。
でも、言ってることは妙に素直だった。
ゴイチはしばらく何も言わなかった。
こういう時のカノンはずるい。
大したことない顔して、欲しい一言だけはちゃんと落としてくる。
しかも今のは、たぶん計算じゃない。
本当にそう思ってる時の声だ。
「……おい」
ゴイチが低く呼ぶ。
カノンは机に頬をつけたまま、少しだけ片目で見る。
「んー?」
「もう一杯だけだからな」
その一言に、カノンの顔がぱっと上がる。
「マジで?」
「マジで」
ゴイチはすぐ釘を刺す。
「それ以上はなし」
「飲み方怪しくなったら取り上げる」
カノンは一瞬だけきょとんとして、それからふっと笑った。
「はいはい」
「相棒、厳し〜」
そう言いながらも、目はちゃんと嬉しそうだった。
店員を呼んで、追加の一杯を頼む。
新しいジョッキが運ばれてくると、カノンはほんの少しだけ上機嫌な顔でそれを持ち上げた。
ゴイチはその様子を一瞬だけ見る。
嬉しそうだな、と思う。
それからすぐに、何でもない顔に戻して箸へ視線を落とした。
変に見てると、こっちまで変な顔しそうだったからだ。
カノンはそんなことに気づかないまま、満足そうに一口飲む。
「っはー……うま」
「大袈裟」
「いや、うまいって」
「久々に仕事終わりの酒って感じする」
ゴイチはそこで、小さく息を吐いてからぽつりと聞いた。
「お前さ」
「今後、映画の打ち上げとかあんの?」
カノンの動きが止まる。
「あ!」
少し考える顔になってから、思い出したみたいに言う。
「そういやあるな」
そのままジョッキを見つめる。
「飲めんじゃん」
嬉しそうに笑った。
その瞬間、ゴイチの頭が痛くなる。
「……やめとけ」
カノンが顔を上げる。
「は?」
ゴイチは真顔だった。
「飲むの」
カノンが思わず吹き出す。
「なんでだよ」
ゴイチは少しだけ眉を寄せる。
「お前」
一拍。
「映画の現場で酔ったら」
また一拍。
「多分」
「大事故になる」
カノンが肩を揺らして笑う。
「なんだよそれ!」
ゴイチは真顔のままだ。
「笑い事じゃない」
「いや、だって」
カノンはまだ笑っている。
「大事故って、何が起きんだよ」
「全部だろ」
「雑!」
「雑じゃねぇよ」
ゴイチは淡々と続ける。
「お前、ただでさえ現場で気張ってんのに」
「酒入ったら絶対どっかネジ飛ぶ」
カノンはジョッキを持ったまま、まだ少し楽しそうな顔をしている。
「大丈夫だって」
その軽さが、今のゴイチには一番危ない。
ゴイチはため息をついた。
そして、心の中で思う。
(……こいつ)
(八崎とか)
(共演者とか)
(絶対距離バグるだろ)
頭が痛くなってきた。
読み合わせ。
キスシーン。
合宿。
打ち上げ。
その単語が並ぶだけで、だいぶ嫌だ。
しかもカノンはたぶん、本当に自覚なく笑って飲む。
そして懐に入る。
相手が慣れてる俳優なら余計に、その距離感を自然に拾ってくる。
そうなった時、たぶんこいつは“仕事だから”で片付けようとする。
でも、片付かない顔をして帰ってくるのは目に見えてる。
「……お前、ほんとやめとけよ」
ゴイチがもう一度言う。
カノンは少しだけ首を傾げた。
「なんでそんな本気なんだよ」
「本気だからだろ」
「こわ」
「怖くていい」
カノンはふっと笑って、またジョッキを傾けた。
そんなことも知らず。
いや、少しは気づいてるのかもしれないけど、それでも軽く流すみたいに。
嬉しそうに飲んでいる。
ゴイチはその横顔を見て、また小さく息を吐いた。
止めたい。
でも、こうして笑ってる顔を見てると、あんまり強くも言えない。
結局、楽観的なカノンに頭を抱えたまま、ゆっくり過ぎていった。
翌日。
リハ前の少しだけ緩い時間。音源はまだ流れていなくて、メンバーはそれぞれストレッチをしたり、水を飲んだりしていた。
カノンは床に座ったまま、ペットボトルの蓋を開ける。
汗を拭って、ふぅ、と息を吐いたあとで、何気なく口を開いた。
「やっぱ八崎くん、すげぇんだよな」
その一言に、少し離れたところでタオルを首にかけていたゴイチの手が、ほんのわずかに止まる。
でも本人は気づいていない。
止まったことにも、反応したことにも。
タイキがすぐ食いつく。
「また八崎くん」
「だいぶ好きじゃん」
「好きって言い方すんな」
カノンが笑う。
「いや、でもマジで尊敬してんの。場慣れもしてるし、相手がやりやすい空気作るの上手いし」
「芝居の時も、ただ自分が上手いんじゃなくて、こっちがハマるように持ってってくれんの」
アダムが壁際から静かに言う。
「共演者としては強いタイプなんだろうね」
「そう」
カノンは頷く。
「あと、焦らないんだよな。俺が詰まっても変に気使いすぎず、でもちゃんと引っ張ってくれる感じ」
そこまで聞いて、ゴイチがようやくペットボトルを置いた。
「へぇ」
短い。
あまりにも短い。
カノンがそっちを見る。
「何、その“へぇ”」
「別に」
ゴイチは本当に何でもない顔だった。
でも、さっきまで床に置いていた自分のバッグを、急に片付け始める。
使う予定もないトレーニングチューブを手に取って、畳んで、また置いて。
無駄に手が動いている。
カノンはそれに気づかない。
でもアダムは気づいている。
タイキも、少しだけ目を細める。
カノンはそんな空気を知らず、まだ続けた。
「この前もさ、キスシーンの前の呼吸で詰まってたら――」
「カノン」
ゴイチが被せるように名前を呼ぶ。
「ん?」
「足、見せろ」
「は?」
「さっきの振り、また軸ずれてた」
急に仕事の話に切り替える。
しかも妙に具体的だ。
カノンはきょとんとしながらも、反射みたいに立ち上がる。
「え、今?」
「八崎くんの話して――」
「今」
ゴイチはもうカノンの前に来ていた。
しゃがみこんで、カノンの足首の向きと膝の入りを確認する。
その手つきはいつも通り正確で、無駄がない。
でも、距離だけはいつもより少し近い。
「ここ」
ゴイチがカノンの脛を軽く叩く。
「抜けてる」
「だから体流れてんだよ」
「え、うそ」
カノンが素直に足元を見る。
「……あ、ほんとだ」
「ほんとだ、じゃねぇよ」
ゴイチは立ち上がると、そのまま後ろへ回った。
カノンの腰骨の位置を両手で軽く直す。
背中に触れて、肩をまっすぐにさせる。
「その八崎ってやつがどうこう言う前に」
少し低い声。
「こっち直せ」
「何で若干機嫌悪いんだよ」
「悪くねぇよ」
即答だった。
でも、アダムは無言で思う。
(悪いじゃん)
タイキは口元を押さえて笑いを堪えていた。
カノンはまだ気づかない。
ただ、ゴイチに身体の向きを直されながら、「いやでも八崎くんってこういう時の言葉選びもうまくてさ」とまだ言おうとしている。
そのたびにゴイチの手が少しだけ早く動く。
「足」
「肩」
「目線」
「喋りながらやるな」
完全に行動にだけ出ていた。
本人だけが、それを嫉妬だと気づいていない。
⸻
メンバーもスタッフも少し散って、スタジオの空気がやわらかくなる。
さっきの微妙な空気も、表面上はもう流れていた。
ゴイチは壁際で座って、シューズの紐を結び直していた。
顔はいつも通り。
少なくともそう見える。
でも内側では、さっきの自分の反応を少しだけ持て余している。
八崎の名前が出るたび、妙に手が早くなったこと。
カノンの身体に触れて修正しながら、変に近づきすぎたこと。
何なんだよ、と自分に対して少しだけ思っていた。
そこへ、カノンが何でもない顔で近づいてくる。
「ゴイチ」
「ん?」
顔を上げると、カノンがスポドリを一本差し出していた。
「さっきありがと」
「軸、あれ直したらやりやすかった」
「……あぁ」
ゴイチが受け取る。
冷えたペットボトルが掌に収まる。
カノンはそのまま隣にどさっと座った。
距離が近い。
でも本人は全然気にしていない。
「お前ってさ」
何気なく言って、カノンは前を向いたまま続ける。
「俺が変なとこズレてると、すぐ気づくよな」
「長いからな」
「それだけ?」
「それだけ」
ゴイチはそう返す。
でも、さっきまで八崎の話に無意識に反応してた自分を思うと、少しだけ嘘くさい。
カノンはそこで小さく笑う。
「助かってる」
短い。
でも、すごくまっすぐだった。
「俺、たぶん一人で考えてると変な方向行くし」
「お前が横から“そこ違う”って言ってくれるの、なんだかんだ一番楽なんだよな」
ゴイチの喉が小さく鳴る。
カノンは全然無自覚だった。
ただ、感謝をそのまま言っただけ。
いつもの軽さの延長みたいに。
なのに、その一言がやけに深く入る。
しかも、カノンはそこで終わらなかった。
「あと」
そう言って、ゴイチの肩に指先を伸ばす。
軽く、ほんの軽く、糸くずみたいなものを取る。
「こういうのも気づかねぇし」
笑って、ゴイチの肩から指を離す。
近い。
近いくせに、本人は何でもない顔。
そういうところがいちばんたちが悪い。
「……お前さ」
ゴイチが低く言う。
「ん?」
「それ、無意識でやってるならやめろ」
カノンがきょとんとする。
「何が」
「全部」
「雑!」
カノンが笑う。
でもその笑い声を聞いた瞬間、ゴイチの胸の奥はさっきよりもっと静かにやられていた。
カノンは何も知らない。
ただ自然に、言って、触って、笑っただけ。
それだけで充分すぎるくらいだった。
そして、打ち上げ当日。
打ち上げの店は、撮影期間を走り切った人たちの熱気で満ちていた。
貸し切りの居酒屋。
奥の座敷には、キャストもスタッフも入り混じって座っていて、あちこちで笑い声が上がっている。
料理の皿が行き交い、ジョッキがぶつかる音が絶えない。
クランクアップ直後特有の、少し浮ついていて、でもどこか安堵した空気。
カノンは店に入った瞬間、その熱に少しだけ目を細めた。
「カノン! こっちこっち!」
声を上げたのは八崎だった。
座敷の真ん中寄り。
主演キャスト陣がまとまっているあたりで、もうジョッキを片手にこっちへ大きく手を振っている。
「うわ、もう出来上がってんじゃん」
カノンが笑いながら近づくと、八崎は隣をぱんぱんと叩いた。
「いいから座れって」
「主演、今日は逃がさねぇぞ」
「なんだよ、その雑な扱い」
言いながらも、カノンは素直にその横へ腰を下ろした。
もうすっかり、この人には心を許していた。
現場で何度もシーンを重ねて。
しんどい時も、上手くいかない時も、軽く引っ張ってくれた。
踏み込みすぎないのに、必要なところはちゃんと入ってくる。
八崎はそういう人だった。
店員がタイミングよくカノンの前にジョッキを置く。
「おつかれさまでしたー!」
誰かの音頭で、一斉にグラスが上がる。
カノンもそれに合わせて持ち上げた。
「おつかれさまでした」
ジョッキが触れ合う。
最初の一口が、やけにうまい。
「っはー……」
思わず漏れた声に、八崎が横で笑う。
「いい顔するじゃん」
「そりゃするだろ」
カノンはジョッキを置いて息を吐く。
「終わったばっかだし」
「いや、ほんとおつかれ」
八崎は珍しく少しだけ真面目なトーンで言った。
「最後のあのシーン、よかった」
その一言に、カノンは一瞬だけ目を瞬いた。
「……キスんとこ?」
「そこもそうだけど」
八崎は肩をすくめる。
「その前の顔」
「“言いたくないのに言うしかない”って時の目、めちゃくちゃハマってた」
カノンは少しだけ視線を落とした。
「八崎くんにそう言われると、だいぶ安心するわ」
「俺、ちゃんと褒めるタイプだからな」
「自分で言うなよ」
「だってほんとにそうだし」
笑い合う。
その自然さが、もうすっかり板についていた。
料理が運ばれてくる。
串焼き、揚げ物、刺身。
誰かが「これカノンの前置いといて」と勝手に皿を寄せてくる。
別のテーブルから監督が「お前ら、今日くらい役から抜けろよー」と笑いながら声を飛ばしてくる。
打ち上げのざわめきの中で、八崎がまたジョッキを持ち上げる。
「いやでも、マジで最初の読み合わせの日覚えてる?」
「お前、台本持つ手がちょっと震えてた」
「うるせぇ」
カノンが笑う。
「そりゃ緊張するだろ」
「監督も脚本もプロデューサーもいて、相手役もいて、主演です、って座らされてんだぞ」
「でも途中から急に変わったよな」
八崎がじっと思い出すみたいに言う。
「なんか、一個腹くくった顔した日あったじゃん」
カノンは少しだけ黙る。
あった。
たぶん、自分でも覚えてる。
キスシーンで詰まって。
海風の中で落ちて。
八崎にお茶を渡されて、読み合わせしようぜと言われた夜。
「……あぁ」
小さく返す。
「まあ、さすがにいつまでもビビってらんねぇなって」
「それだけじゃないだろ」
八崎がにやっとする。
カノンは少しだけ眉を寄せた。
「何だよ」
「いや?」
八崎は軽く笑ったまま、焼き鳥を一本取る。
「なんか、急に感情の通り道見つけた顔してたから」
「……またそれ言う」
「だって事実だし」
そう言って、さらっと流す。
深追いはしない。
でも、わかってることだけはちゃんと残す。
それが八崎のうまいところだった。
カノンは二口目の酒を飲む。
喉が熱い。
胃の奥に少しずつ火が落ちていく感じがする。
周りでは別のキャストたちも盛り上がっていた。
「あの雨の日のシーン、寒すぎて死ぬかと思った」
「いや、お前そのあとすぐ寝てただろ」
「寝てねぇよ、気絶だよ」
そんな声が飛び交って、座敷全体が笑いに揺れる。
八崎はその空気の中でも、ちゃんとカノンの方へ話を戻してくる。
「でも、お前さ」
「グループやりながら現場入るの、やっぱすげぇと思うよ」
カノンが少しだけ首を傾げる。
「そうか?」
「そうだろ」
八崎は即答する。
「普通、切り替えのコストえぐいって」
「ライブの顔と、芝居の顔と、取材の顔と、全部違うじゃん」
「しかもお前、どれも中途半端にしねぇし」
「いや……」
カノンは苦笑する。
「中途半端にできないだけかも」
「それをみんな“真面目”って呼ぶんだよ」
八崎はそう言ってジョッキを傾ける。
カノンはその横顔を見て、少しだけ思う。
この人は、本当に場慣れしてる。
言葉を置く位置も、相手が楽になる返し方も、全部ちゃんと知ってる。
「八崎くんってさ」
カノンがぽつりと言う。
「子役の頃からやってんだっけ」
「うん」
「だから逆に、現場しか知らないっていうか」
八崎は笑う。
「普通の青春みたいなの、あんまりないよ」
「へぇ……」
「そっちは?」
「グループやってる方が、逆に“普通”遠そうだけど」
カノンは少しだけ考える。
「どうだろ」
「でも、メンバーといる時だけは、たぶんかなり普通に近いかも」
それを言いながら、頭のどこかに浮かぶのはスタジオの風景だ。
だるそうに床に座るタイキ。
静かな顔で飲み物を取るアダム。
ルイの何でもない一言。
そして、ゴイチ。
「へぇ」
八崎が面白そうに笑う。
「いいじゃん、そういうの」
「まあな」
自然と、酒は進んでいく。
一杯目が空いて、二杯目。
料理もつまむ。
会話も弾む。
共演した場面の話になる。
「あの教室のシーン、俺ほんと笑い堪えるのキツかった」
八崎が言う。
「お前、アドリブで変な顔しすぎ」
「監督が拾ったのが悪い」
カノンもすぐ返す。
「しかも使われたし」
「でもあれで空気変わったんだよな」
「張ってたの、一回ほどけた」
「そういう時の判断、八崎くん早ぇんだよ」
カノンはジョッキを持ったまま笑う。
「俺、あとから“あぁ、あそこで崩してよかったのか”って気づくタイプだし」
「逆にお前は、いざって時の一発が強い」
八崎が指でカノンを差す。
「普段組み立ててるくせに、本番で急に感情勝つ瞬間あるじゃん」
「あれ、ずるい」
「ずるいって言うなよ」
「いや、見てる側としてはずるい」
「こっちは“うわ、今来た”って思うから」
カノンはそこで、少しだけ照れたみたいに笑う。
酒が入っているせいか、普段よりもそういう言葉がすっと入る。
気を張らずに受け取れる。
その流れのまま、気づけばまたジョッキに口をつけていた。
冷えた酒が喉を通る。
頭が少しだけゆるむ。
その時だった。
ふっと、頭を掠る。
ゴイチ。
(なんだよ、大事故って……)
打ち上げあるんだ、と言った時の、あの真顔。
(キス未遂のこと言ってんのか?)
あの日。
酔って、近づいて。
止められて。
結局何もなかったことにされた夜。
(あれは、ゴイチに確認があったからで……)
ぼんやりとそんなことを思う。
あの時、自分は“確かめたかった”。
だから近づいた。
ただ酔って距離感が飛んだわけじゃない。
そう考えると、ゴイチの言う“大事故”は、少しズレてる気もする。
でも同時に、あいつが本気で頭を痛めそうな顔をしていたのも思い出して、少しだけ口元が緩んだ。
ジョッキを見つめる。
その縁の向こうに、何でもない顔で釘を刺してくるゴイチの顔が浮かぶ。
ふいに、横から爽やかな声が落ちた。
「話聞くぜ?」
カノンが顔を上げる。
八崎がジョッキに口をつけながら、ちらっとこっちを見ていた。
「グループやってると、そういう話できるやついないだろ」
その言い方は、妙に軽かった。
でも、軽いだけじゃない。
たぶん、さっきから少しぼんやりしていた自分に気づいていたんだろう。
それで、深刻になりすぎない形で手を差し出してきた。
八崎はそのまま、ジョッキを置いて笑う。
「ほら、今日は飲め飲め」
それは八崎なりの優しさだった。
無理に聞き出さない。
でも、言いたいなら乗る。
そして言えないなら、それでも場を持たせる。
カノンはその笑顔を見て、少しだけ息を吐いた。
「……いい先輩ぶるなぁ」
「ぶってない」
八崎は笑う。
「実際そうだろ」
カノンはジョッキを持ち直す。
胸の奥にはまだ、ゴイチのことが引っかかっている。
でも今この場では、それをそのまま言葉にするのも違う気がした。
だから、少しだけ笑って返す。
「じゃあ、飲みながら聞けよ」
「お、いいね」
八崎が身を乗り出す。
打ち上げの喧騒の中で、カノンはもう一度ジョッキに口をつけた。
酒は進む。
話も続く。
でも、その会話の端々に、やっぱりどこかゴイチの影がちらついて消えない。
そんな夜だった。
打ち上げの空気は、さっきより少しだけ夜に寄っていた。
最初の賑やかさがひと段落して、テーブルの上には空いた皿と、半分残った料理と、新しく頼まれた酒が並んでいる。
周りではまだ笑い声が上がっているのに、この席だけは少しだけ温度が落ち着いていた。
八崎は、無理に急かさない。
ジョッキを片手に、でもちゃんと隣のカノンの様子を見ている。
打ち上げのノリのまま笑える話なら笑うし、少し重い話ならちゃんと聞ける。そういう空気の作り方が、やっぱり上手かった。
「……んさ……」
カノンがようやく口を開く。
「ん?」
八崎が軽く顔を向ける。
カノンはジョッキを持ったまま、視線をテーブルに落としていた。
飲み方はまだいつも通りっぽいのに、言葉の出し方だけが少しだけ不器用になっている。
「俺さ……」
少し間。
「前に、キスしそうになったことあるんだよ」
八崎の眉が、ほんの少しだけ上がる。
でも驚いた顔を大きくはしない。
「へぇ」
それだけ返す。
カノンはそこで一回だけ酒を飲んで、喉を通してから続きを落とした。
「酔ってて」
「……っていうか、だいぶ酔ってて」
「うん」
「で、そん時」
カノンは少しだけ苦笑した。
「俺、そいつに確認したいことがあるって言って」
「……たぶん、自分からキスしようとした」
八崎は口を挟まない。
ただ、小さく頷くだけ。
「でも、止められた」
「“それは違うだろ”って」
「で、そのまま水飲まされて、なんだかんだ朝までいたんだけど……」
カノンの指先がジョッキの水滴をなぞる。
「翌朝、そいつ……嘘ついたんだよ」
「何もなかったみたいに」
「俺、自分の足でベッド行って寝てたって」
そこでようやく、八崎が少しだけ息を吐いた。
「なるほどね」
「……それって」
カノンが小さく眉を寄せる。
「無かったことにしたかったってことだよな」
そう言った声は、思っていたよりずっと素直だった。
八崎はその顔を数秒見てから、ジョッキをテーブルに置いた。
「いや、でも!」
カノンが慌てたみたいに続ける。
「それも俺が転けそうになったからの延長で、別に好きとか言われたわけじゃねぇし」
「俺が変に考えるのも違うだろ?」
「ずっと相棒だったんだから」
言いながら、自分で言い訳してるのがわかる。
でも、止まらない。
“好きかも”の方へ寄っていく自分を、まだどこかで食い止めようとしている。
八崎はそんなカノンを見て、少しだけ笑った。
「相棒ってさ」
カノンが顔を上げる。
「一番危ないやつ」
カノンの眉が寄る。
「は?」
八崎は肩をすくめた。
「ずっと相棒だったやつって」
少し間。
「一番恋に変わるやつ」
その一言に、カノンが一瞬だけ黙る。
何か言い返したいのに、うまく言葉にならない。
だって、少しだけわかるからだ。
「いやいやいや」
カノンは小さく首を振る。
「そんな漫画みたいな……」
「いや、むしろ一番現実的」
八崎はさらっと返す。
「最初から“恋愛です”って始まる相手より、ずっと危ない」
「気づくの遅れるし」
「距離感あると思ってるぶん、片足突っ込んでから気づくし」
「怖ぇこと言うなよ……」
「怖いよ」
八崎は笑う。
「実際そういうの、現場でもよく見るし」
それから少しだけ真面目な顔になる。
「カノン」
名前を呼ばれて、カノンが自然と顔を向ける。
「俺、役者だからさ」
「人の顔よく見るんだよ」
少し笑う。
「その相棒のこと」
「お前」
「めちゃくちゃ大事そうに話す」
カノンの胸が、ドン、と鳴る。
本当に、はっきり鳴った。
返事ができない。
大事そうに。
そんなふうに自分が見えていたなんて、考えたこともなかった。
いや、考えないようにしていたのかもしれない。
八崎はその反応を見て、またジョッキを持ち上げた。
「ま」
「酔ってるから言うけど」
少し笑う。
「多分お前」
「もう好きだぞ、それ」
カノンが完全に固まった。
「…………は?」
やっと出た声が、それだった。
八崎は真顔にはならない。
あくまでフランクだ。
でも、ふざけきってもいない。
「なんだよ、その“は?”」
「今さらすぎるだろ」
「いやいやいやいや」
カノンは本気で動揺して、ジョッキを置く位置まで少しズレる。
「待てって」
「急に、急角度で来るな」
「急じゃないって」
八崎は笑う。
「お前がずっと手前でうろうろしてただけ」
「違……」
カノンは反論しかける。
「だって、そいつ相棒だし」
「しかもずっとそうで」
「なんか、変に意識したら今までの距離全部おかしくなるだろ」
「もうなってる」
「やめろ」
「なってないなら、キス未遂のことそんな反芻しない」
「やめろって!」
カノンが耳まで真っ赤にして言い返す。
八崎はそんな様子がおかしくて、声を立てて笑った。
「お前ほんと、わかりやすいな」
「うるさい!」
「いや、でも安心した」
八崎は少しだけ口元を緩めたまま言う。
「芝居で感情乗ってた理由、ちゃんと生きた感情だったんだなって」
「そこで回収すんなよ……」
「するよ」
「役者なんで」
カノンは片手で額を押さえた。
酒のせいか、頭がじんわり熱い。
でもそれ以上に、さっきの言葉が効きすぎている。
もう好きだぞ、それ。
そんなふうに、他人から断言されると笑えない。
しかも、否定できる材料が自分の中にあまりない。
「……でも」
カノンが小さく言う。
「向こうがどう思ってるかなんて、わかんねぇじゃん」
八崎はすぐに返した。
「そりゃそう」
「うわ、そこ即答なんだ」
「当たり前だろ」
八崎はけろっとしている。
「お前の恋心の自覚と、向こうの気持ちは別問題」
「そこ一緒にしたらややこしくなるだけ」
「現実的だなぁ……」
「現実に生きてるからな」
カノンは少しだけ笑う。
でも、すぐまた真面目な顔に戻る。
「……無かったことにされたかも、って思ってたんだよ」
「朝、嘘つかれた時」
その一言に、八崎の目が少しだけやわらぐ。
「それな」
「そこはたしかに考えるよな」
「だろ?」
「うん」
八崎は頷く。
「でもさ、それ」
「“無かったことにしたい”だけとは限んないんじゃねぇの」
カノンが目を上げる。
八崎はジョッキの縁を指先で軽くなぞりながら続ける。
「相手がまともなら、酔ってるやつの“あと少し”って、止めるしかない時あるし」
「しかも、お前みたいに翌朝全部気にしそうなタイプなら余計」
カノンの喉が小さく鳴る。
それ、ゴイチが言っていたのとほとんど同じだったからだ。
「止めたことと、気持ちが無いことって」
八崎が言う。
「別にイコールじゃないぞ」
その言葉が、静かに入る。
カノンはしばらく何も言えなかった。
打ち上げの周りではまだ笑い声が飛んでいる。
誰かが別テーブルで大きく笑って、店員が料理を運んでいく。
そんなざわめきの中で、自分の席だけ妙に静かだった。
八崎が少しだけ身を引く。
「まぁ、だからって今すぐ答え出せって話じゃないけど」
「……うん」
「でも、自分の気持ちには嘘つかない方がいい」
「相棒だからで止めるの、たぶんもう限界来てるだろ」
カノンは少しだけ顔をしかめた。
「痛ぇな、お前」
「役者なんで」
八崎はまた同じことを言って笑う。
カノンも、今度は少しだけ笑った。
重くなりすぎない。
でも、ちゃんと逃がしもしない。
それが八崎の優しさなんだろうと思う。
「……じゃあ、仮に」
カノンがぽつりと言う。
「仮に好きだったとして」
「どうすりゃいいんだよ」
八崎は少しだけ考える顔をして、それから肩をすくめた。
「とりあえず、そいつの前で泥酔すんな」
カノンが思わず吹き出す。
「そこ!?」
「そこだろ」
八崎も笑う。
「お前、そこ飛ばすとまた話ややこしくなる」
「たしかに……」
「あと」
八崎は少しだけにやっとする。
「次キスする時は、せめて事故じゃない方がいい」
「お前ほんとさぁ……!」
カノンが真っ赤な顔で抗議すると、八崎は楽しそうにジョッキを掲げた。
「ほら」
「恋バナしたんだから、飲め飲め」
「雑!」
「でもちょっと楽になったろ?」
その問いに、カノンは一瞬だけ黙る。
そして、小さく頷いた。
「……ちょっとだけ」
それで十分だった。
八崎は満足そうに笑う。
「じゃ、今日はそこまで」
「答え合わせは自分でやれ、主演」
カノンはその言い方に、少しだけ息を吐いて笑う。
胸の中はまだ全然落ち着いていない。
でも、さっきまでより少しだけ、自分の気持ちの輪郭が見えた気がした。
好きなやつ。
その言葉の先に浮かぶ顔は、もうごまかしようがなかった。
打ち上げのざわめきの中で、カノンだけが一人、完全に動揺していた。
もう好きだぞ、それ。
八崎にそう言われてから、頭の中がずっと追いついていない。
ジョッキを持つ手すら少し落ち着かない。
視線もどこに置けばいいかわからなくて、ついテーブルの端や料理の皿を見てしまう。
そんなカノンの顔を見て、八崎がふっと優しく笑った。
「何だ、お前。可愛いなー」
「は!?」
カノンが顔を上げた瞬間、八崎がその肩へ軽く腕を回す。
ぐっと引き寄せるほどじゃない。
でも、距離の近い共演者らしい自然さで、肩を組んで少しだけ揺らした。
「や、やめろって」
カノンはめちゃくちゃ恥ずかしそうに身を引こうとする。
でも、八崎はそこで無理に追わない。
ただ笑いながら、軽く肩をぽんぽんと叩く。
「だって、あからさまなんだもん」
「図星刺された高校生みたいな顔してる」
「誰が高校生だよ!」
「今の感じ、だいぶそう」
八崎は楽しそうに言う。
「役の話してたのに、急に素の恋バナに戻ったやつの顔」
「戻してきたのお前だろ……」
カノンが耳まで赤くして言い返す。
でも、その距離感自体はもう共演者として自然になっていた。
撮影の間に何度も肩を並べて、位置を確認して、空気を合わせてきた。
八崎のこういう軽い接触は、現場の延長としては別に不自然じゃない。
……少なくとも、ここまでは。
⸻
その時だった。
ふと、店の扉が開く。
打ち上げのざわめきの中で、入り口の空気だけが少しだけ外の夜を連れてくる。
視線が自然とそちらに向く。
入り口に立っていたのは――
紛れもなく、今の話題の人。
ゴイチだった。
カノンの思考が、一瞬で止まる。
「……は?」
喉の奥で、小さく声が漏れる。
なんで。
どうして。
ここに。
ゴイチは店内を一度だけ見渡して、すぐにカノンを見つけた。
その目が、まっすぐこっちへ来る。
その瞬間だった。
隣の八崎の空気が、ふっと変わる。
カノンはその変化に気づく。
あ、これ――と思う間もなく、八崎が肩に回していた手をそのままに、少しだけ角度を変えてカノンへ寄る。
距離はさっきと同じくらい。
なのに、意味だけが変わる。
八崎はもう、芝居の顔だった。
周囲はまだ打ち上げで盛り上がっている。
誰かが笑って、店員が料理を運んで、別のテーブルでは写真を撮っている。
なのに、この場所だけ空気が張る。
ゴイチがまっすぐ歩いてくる。
カノンは八崎とゴイチの顔を交互に見るしかできない。
八崎は肩に触れたまま、わざと自然なトーンでカノンへ話しかけた。
「で?」
「さっきの続きだけど」
その声はフランクだ。
でも、どこか芝居の余韻をまとっている。
カノンはわかっている。
八崎が今、演じていることを。
たぶん、試していることも。
でも、だからってこの状況で平然としていられるほど余裕はなかった。
ゴイチが席の横まで来る。
「……何してんだ」
低く落ちる声。
八崎がゆっくり顔を上げる。
「見ての通り」
少し笑う。
「打ち上げ」
その返しは軽い。
でも目はちゃんとゴイチを見ている。
カノンがようやく声を出す。
「な……なんで、ここだって……」
動揺が隠せない。
八崎の肩に触れられたまま、でもそっちへも完全には寄れない。
ゴイチの顔を見た瞬間、全部の神経がそっちへ引っ張られていた。
ゴイチは静かに答える。
「雛子さんに聞いたから」
一拍。
「俺が迎えに行くって言って」
カノンの胸が、そこでどくんと鳴る。
迎え。
その単語の直球さに、一瞬だけ言葉がなくなる。
八崎はそれを見逃さない。
ゴイチの目を見たまま、少しだけ口元を上げる。
「で?」
「心配で来たのは認めるけど」
わざと、少しだけ芝居っぽい間。
「俺、まだカノンと話あるんだけど」
周囲は賑やかなままなのに、ここだけ静かに牽制し合っていた。
ゴイチはすぐには答えない。
真正面から八崎を見る。
その目が、思っていたよりずっと真剣で、カノンは思わず息を止める。
八崎は肩に触れたまま、でも笑っている。
役の温度を少しだけ残したまま、完全に崩さない。
カノンだけが、その間でぐらぐらしていた。
「ちょ、ちょっと待てって……」
小さく言う。
「なんなんだよ、この状況……」
でも誰も、すぐにはそっちを向かない。
ゴイチが静かに言う。
「もう遅いだろ」
「何が?」
「話」
ゴイチは淡々としている。
「だいぶ酔ってる」
その言い方は平らだ。
でも、“もうこっちが連れて帰る”が滲む。
八崎はそこで、ふっと少しだけ笑った。
それは勝負を続ける笑いじゃなかった。
確認が取れた時の顔だった。
そして、カノンへ少し身を寄せて、耳元で静かに言う。
「この人」
一拍。
「お前のこと、めちゃくちゃ好きだな」
カノンの思考が、完全に止まる。
「は……?」
何も理解できない顔。
その瞬間。
八崎が、ぱっとカノンの肩から手を離した。
まるで、役が終わった俳優みたいに。
さっきまでまとっていた芝居の空気が、一瞬で消える。
一歩、軽く引く。
「どうぞ」
それだけ言って、ゴイチに向かってにこっと笑った。
「お待たせ」
ゴイチは一瞬だけ八崎を見る。
それからカノンを見る。
カノンは完全に固まっている。
八崎は楽しそうに続けた。
「いやー」
「いいもん見た」
「おい」
カノンがやっと声を出す。
「安心したわ」
「何を」
八崎はジョッキを持ち上げる。
「カノン」
「ちゃんと迎えに来る人いるじゃん」
カノンの顔がまた一気に赤くなる。
「迎えに来たわけじゃ……」
そこまで言いかけたところで。
ゴイチが言う。
「迎えだ」
「……」
カノンの口がそのまま止まる。
八崎が声を出して笑う。
「ほら」
「本人も言ってる」
それからカノンの肩を軽く叩く。
「行ってこい」
「いや待て」
「俺の話は終わり」
「終わってねぇ!」
八崎はもう席に座り直していた。
「続きは今度聞く」
「何の!」
八崎はにやっと笑う。
「恋のやつ」
「やめろ!」
周りの客がちらっとこっちを見る。
カノンが反射的に顔を押さえる。
八崎はそこで、今度は少しだけ真面目な声でゴイチを見た。
「相棒さん」
一拍。
「カノン、頼むわ」
ゴイチは短く頷く。
「……おう」
その返事は、妙にまっすぐだった。
八崎が満足そうに口角を上げる。
「じゃ」
ジョッキを軽く上げる。
「お疲れ」
カノンはまだ状況を理解しきれていなかった。
八崎の“この人、お前のことめちゃくちゃ好きだな”が頭の中で反響している。
しかもそこへ、ゴイチ本人の“迎えだ”まで重なった。
無理だ。
処理できない。
ゴイチが短く言う。
「行くぞ」
「……え」
もうゴイチは出口の方へ歩き出している。
カノンは慌てて立ち上がる。
振り返ると、八崎が“頑張れカノン〜”と手を振っていた。
「お前、ほんと覚えとけよ……!」
小声でそう吐き捨てる。
でも八崎はまったく気にしない。
むしろ楽しそうに、もう次の人と乾杯し始めていた。
カノンはどうしようもない顔のまま、結局ゴイチの背中を追う。
打ち上げのざわめきが後ろに遠ざかる。
店の外の夜気が、やけに冷たく感じた。
でも、その冷たさでも胸の熱は全然引かなかった。
「この業界、なかなか見れないよね〜」
八崎は、去っていくふたりの背中を見送りながら、るんるんとジョッキを持ち上げた。
「いやぁ、貴重…」
にこにことしたまま、誰に言うでもなくそう呟く。
隣の席の共演者が「何が?」と笑いながら聞いてきても、八崎は肩をすくめるだけだ。
「いや、ちょっと」
「今日いいもん見たな〜って」
それ以上は言わない。
でも、機嫌は明らかに良かった。
ジョッキがまた進む。
芝居で人の感情を読むのが癖になってる八崎からしたら、あんなにわかりやすい本気はそうそう見られない。
しかも、本人たちがまだ完全には言葉にしていない状態で。
あれは、たしかに貴重だった。
「さてさて、主演くんは今夜ちゃんと自覚するかねぇ」
誰にも聞こえないくらいの声でそう言って、八崎はひとり楽しそうに笑った。
店の外へ出た瞬間、夜の空気がふたりを包んだ。
打ち上げ会場の熱気とは違う、少しだけ湿って冷えた空気。
背後からはまだ店内のざわめきが漏れてくるのに、外は妙に静かだった。
ゴイチは数歩先で止まる。
カノンはその背中を追いかけるみたいに出てきて、店の扉が閉まる音と同時に口を開いた。
「……今の何だよ」
声が少し上ずる。
八崎に言われたこと。
肩から手を離したタイミング。
“この人、お前のことめちゃくちゃ好きだな”
そして、ゴイチ本人の「迎えだ」。
どれを取っても無視できるほど軽くないのに、頭の中ではまだ整理が追いついていない。
ゴイチはすぐには振り返らなかった。
「何が」
「何が、じゃねぇだろ」
カノンが一歩近づく。
「なんで来たんだよ」
「しかも迎えって……」
そこでゴイチが、ようやく少しだけ顔を横に向けた。
「それ、俺に言わせたいのか?」
低い声だった。
カノンの喉が小さく鳴る。
「……は?」
ゴイチはまだ完全にはこっちを見ない。
でも、声だけは妙にまっすぐだった。
「お前が酒に酔うとブレーキが壊れるから」
一拍。
「心配してきたんだろ」
口調が少しだけ強くなる。
カノンの心臓が、どくんと鳴る。
ゴイチはそのまま続けた。
「ルイやら俺やらにキスしようとしたり」
カノンの目が見開く。
「おい、待て」
思わず声が出る。
「なんでそこでルイが出てくんだよ」
「知らねぇよ」
ゴイチは苛立ちを隠さずに返す。
「お前が酔うと距離感ぶっ壊れるって話だろ」
「それは……」
「失恋会の夜だって……」
そこまで言って、ゴイチの声が一瞬だけ止まる。
言いすぎた、みたいに。
でももう遅い。
カノンはその一瞬を逃さなかった。
顔が熱を持つ。
でも、同時に胸の奥では別のものが動いていた。
「なんだよ、言えよ」
さっきまで動揺しかなかったカノンの声に、今は少し熱が混ざっていた。
「失恋会の夜が、なんだよ」
ゴイチは口を閉ざしたまま、しばらく前を見ていた。
店先の灯りが、横顔だけを照らしている。
顎のあたりに少しだけ力が入っているのがわかった。
「……お前」
ゴイチがぽつりと落とす。
「俺の腕の中で寝てた」
カノンの呼吸が、ぴたりと止まる。
「……え」
視線を前に固定したまま、ゴイチはまだカノンを見ない。
「失恋会の日」
「お前、酔って泣いてた」
カノンは動けない。
「あんま覚えてねぇだろうけど」
ゴイチは低く続ける。
「めちゃくちゃ泣いてた」
「顔ぐしゃぐしゃにして」
その言葉が、胸の奥へ重く落ちる。
少しだけ、断片が浮かぶ。
熱い頭。
うるさい心臓。
誰かの服を掴んだ気配。
でも、はっきりとはわからない。
ゴイチは息をひとつ吐いた。
「帰れなかったんだよ」
今度は少しだけ、言葉が苦い。
「放って帰れる感じじゃなかった」
「お前、泣きながら寝落ちるまで、ずっと肩貸してた」
カノンの指先が、無意識にぎゅっと握られる。
「そのあと」
ゴイチの声が少しだけ落ちる。
「俺の腕の中で寝た」
夜の空気が、一瞬だけ重くなる。
カノンは何も言えない。
あの朝、ゴイチが嘘をついた理由。
何でもなかったように流した理由。
「自分の足でベッド行って寝てた」なんて、あんな不器用な嘘をわざわざついた理由。
全部、今ようやく形になって目の前へ差し出される。
「……なんで」
やっとそれだけ出た。
「言わなかったんだよ」
ゴイチは小さく笑う。
でも、その笑いは全然軽くない。
「言えるかよ」
「お前、ただでさえ失恋して死にそうな顔してたのに」
「翌朝さらに“実は泣きながら腕の中で寝てました”なんて言ったら」
少し間。
「余計気にするだろ」
カノンの胸がぎゅっと縮む。
ゴイチはそういう人間だ。
知ってる。
でも、今こうして改めて聞かされると、知ってるじゃ足りなかった。
「だから黙ってた」
「無かったことにしたかったわけじゃねぇ」
「お前がちゃんと立てるように、そっちの方がいいと思っただけ」
カノンは下唇を噛む。
言葉が入るたび、胸の奥で何かが少しずつ繋がっていく。
止めた夜。
嘘をついた朝。
手を繋いで帰った夜。
“見てないと危ねぇ”って言った声。
全部、同じ場所から出ていたんだと、今さらみたいにわかってしまう。
ゴイチはそこで、ようやくカノンの方へ少しだけ身体を向けた。
まだ完全には目を合わせない。
でも、逃げてもいない。
「八崎との距離感見て」
少し間。
「心配にならない方がおかしいだろ」
カノンが小さく息を呑む。
「あれは……」
言いかけて、止まる。
「……芝居も入ってた」
「知るか」
即答だった。
でも怒鳴るわけじゃない。
「お前が平気そうに見えなかった」
「向こうは余裕そうで」
「お前はいつもの顔しながら、でもどっかで持ってかれそうな顔してた」
その言葉に、カノンは何も返せなくなる。
当たっているからだ。
「お前が逆だったらどう思う」
ゴイチの声が、少しだけ低くなる。
「俺が、仕事だなんだ言いながら」
「距離近いやつとああやって話してて」
「相手のペースで酒飲んで、肩組まれて」
「それ見て、何も思わねぇのかよ」
カノンの胸が、どくどくとうるさくなる。
想像してしまった。
ゴイチが、誰かと近い距離で。
何でもない顔で笑って。
その相手だけに見せる柔らかい顔をしていたら。
「……それは」
声が詰まる。
嫌だ、と思う。
口に出す前に、もう答えだけが胸へ来ている。
ゴイチはそこで、はじめて真正面からカノンを見た。
夜の街灯の下。
少しだけ影の入る顔。
でも目だけは、まっすぐだった。
「相棒」
一拍。
「教えてくれよ」
その“相棒”の呼び方が、今はやけに重い。
相棒の顔をしてるのに。
その実、聞いてることはもう相棒の範囲じゃない。
カノンの喉が乾く。
「……何を」
やっと絞り出すと、ゴイチは視線を逸らさずに言った。
「俺だけが、変なのか」
夜が、そこで一瞬だけ静まる。
カノンの思考が止まる。
ゴイチの言葉の意味を、脳が理解するより先に心臓が跳ねた。
俺だけが、変なのか。
それは、ほとんど答えみたいなものだった。
カノンは何も言えない。
言えないまま、ただゴイチを見る。
ゴイチも動かない。
逃げない。
でも、次の言葉を急かしもしない。
その沈黙の中で、カノンは自分の胸に手を入れられたみたいな感覚になる。
八崎に言われたこと。
“もう好きだぞ、それ”
合宿の夜、唇に触れながら思ったこと。
事故キスのあと、嫌じゃなかったこと。
腕の中で寝ていたと知った今、苦しいくらい熱くなる胸。
全部が一気に繋がる。
カノンは小さく息を吸う。
でも、それでも言葉にするのは簡単じゃなかった。
だって、この一言で、何年も続いた“相棒”の形が変わる。
その怖さが、まだある。
それでも。
「……変じゃねぇよ」
かすれた声が、ようやく落ちた。
ゴイチの目が、ほんの少しだけ揺れる。
カノンはそこから、もう逃げられなかった。
「俺も」
喉が鳴る。
「お前がそういうの、嫌だし」
正直すぎる言葉だった。
でも、今の自分にはそれが精一杯だ。
「相棒だから、で」
小さく笑うみたいに言いかけて、でもすぐに首を振る。
「……もう、それだけじゃないのかも」
その一言が、夜気の中へ静かに落ちる。
ゴイチが息を呑む音がした。
カノンはもう後戻りできないのがわかる。
でも、不思議とさっきまでみたいな怖さだけじゃなかった。
やっと、言えた。
そんな気持ちもあった。
ゴイチは数秒、何も言わなかった。
それから、ゆっくりと目を閉じて、小さく息を吐く。
肩から少しだけ力が抜ける。
「……そうかよ」
その声は、思っていたよりずっと静かだった。
でも、そこに滲む安堵は隠しきれていない。
カノンの胸がまた鳴る。
夜の店先。
打ち上げの喧騒が少し遠くなった場所で。
相棒だったふたりは、もうその言葉だけでは足りないところまで来てしまっていた。
ゴイチの
“そうかよ”
その一言で、会話は終わったはずだった。
それ以上は何も続かず、ゴイチは視線を外してまた歩き出す。
カノンも、少し遅れてその横に並んだ。
夜道に、また二人の足音だけが戻る。
さっきまで胸を打っていた鼓動は、まだ全然収まらない。
カノンは少しだけ唇を噛んだ。
(……なんなんだよ)
(こいつ)
(それ聞いて安心したみたいな顔しやがって)
ゴイチは前を向いたまま歩いている。
何でもなかったみたいな顔。
でも、さっき確かに肩の力が抜けたのを、カノンは見逃していなかった。
少し歩いたところで、カノンがぽつりと漏らす。
「……なぁ」
ゴイチの足は止まらない。
「なんだ」
カノンは前を向いたまま言う。
「俺がさ」
少しだけ声が小さくなる。
「逆だったら嫌だって言ったの」
ゴイチの眉が、わずかに動く。
カノンは視線を落とした。
「……それって」
少し間。
言葉を探して、でも途中で諦めたみたいに、そのまま吐き出す。
「つまり」
小さく笑う。
「嫉妬ってやつだろ」
ゴイチの足が止まった。
カノンもつられて止まる。
夜の街灯の下で、二人の影が長く伸びて、少しだけ重なる。
カノンは頭をかいた。
「俺さ」
困ったみたいに息を吐く。
「恋とかさ」
「ルイの時で懲りたと思ってたんだけど」
その名前が出た瞬間、ゴイチの胸がドクンと鳴る。
でも、カノンの声はそこに未練を置いていなかった。
むしろ、もう終わったことをちゃんと終わったものとして触れている声だった。
カノンはそこで初めて、ゴイチを見る。
少しだけ眉を寄せる。
「……なんでだろうな」
正直すぎる声だった。
「また、こんな感じになるとは思ってなかった」
ゴイチの喉が動く。
カノンはふっと笑う。
少し照れた顔で。
「しかも相手」
一拍。
「お前だし」
その瞬間、ゴイチの思考が完全に止まった。
夜風だけが、二人の間を抜けていく。
カノンはそれに気づかないまま、少し呆れたみたいに笑った。
「……ほんと」
「なんでお前なんだよ」
その言葉は、ほとんど告白だった。
でも、本人だけがその破壊力に気づいていない。
ゴイチは前を見る。
一度だけ視線を落とす。
アスファルトに伸びる、自分たちの影。
それから、ゆっくりもう一度前を見る。
カノンはまだ少し照れた顔のまま、こっちを見ていた。
ゴイチは親指で鼻を軽くかいた。
少しだけ息を吐く。
「なんで俺なのか」
低く落とす。
カノンの肩がわずかに動く。
ゴイチは続けた。
「確認してみるか?」
カノンの眉がピクリと上がる。
「……は?」
ゴイチはそこで初めて、真っ直ぐにカノンを見た。
逃げない目だった。
「今なら」
一拍。
「忘れないだろ」
カノンの心臓が一気に跳ねる。
(……待て)
(これ)
(まさか)
言葉が出ない。
でも、その沈黙ごと全部、ゴイチには届いている。
ゴイチが一歩、近づいた。
距離が、一気に縮まる。
カノンの呼吸が止まる。
「酔ってねぇし」
ゴイチの声は低い。
「逃げ場もねぇ」
その言葉に、カノンの背中が自然と一歩下がる。
でも、すぐ後ろはガードレールだった。
軽く、腰の後ろで冷たい感触が鳴る。
逃げ場がなくなる。
ゴイチはもう一歩だけ近づく。
「さっき言ってただろ」
静かな声。
「逆だったらムカつくって」
カノンの喉が上下する。
言葉が出ない。
でも、否定もできない。
ゴイチは少しだけ首を傾けた。
「つまり」
一瞬だけ目を細める。
「俺が誰かとキスしてたら」
一拍。
「お前、嫌なんだろ」
カノンの耳が、一気に赤くなる。
何か返したいのに、喉がうまく動かない。
そんな顔を見て、ゴイチは小さく息を吐いた。
それから、ほんの少しだけ顔を近づける。
声が落ちる。
「……なら」
数センチの距離。
「確かめとくか」
カノンの心臓が、もう暴れるみたいに鳴っている。
ゴイチはそのまま、まっすぐ言った。
「お前が」
低く。
揺らがず。
「俺にキスされたら」
一瞬、静寂。
「どうなるか」
その距離で、ゴイチは止まった。
近い。
近すぎる。
街灯の光が横から二人を照らしている。
カノンの呼吸が浅くなって、唇が少しだけ開く。
ゴイチは、そこでまだ触れない。
逃がさない。
でも、奪いもしない。
ただ、カノンの目を見ている。
怖くないか。
嫌じゃないか。
本当に確かめるなら、ここから先はお前の意思も必要だと、そう言うみたいに。
その目に、カノンの心臓はまた強く打った。
さっきまで、自分が何を言ったか。
“お前だし”なんて、どれだけとんでもないことを口にしたか。
今さらみたいに全部が押し寄せる。
でも、それ以上に強いのは。
逃げたくない、だった。
カノンはガードレールに指をかけたまま、少しだけ息を吸う。
喉が震える。
それでも、小さく言った。
「……それ」
ゴイチの目が、微かに揺れる。
「確認したら」
カノンは少しだけ口元を引き結んで、でも視線は逸らさなかった。
「お前、もう相棒って言い訳できねぇぞ」
その返しは、震えていた。
でも、ちゃんと前を向いた声だった。
ゴイチの口元が、ほんの少しだけ動く。
笑ったのか。
息が漏れたのか。
その中間みたいな顔。
「遅ぇよ」
小さく落とす。
「もう無理だろ」
その一言が、カノンの胸の奥に深く入る。
夜は静かだった。
なのに、二人の間だけがうるさい。
あと少し。
本当に、あと少し。
その距離のまま、世界が止まったみたいだった。
その距離で、ゴイチも止まっている。
街灯の光が、二人の間に細く落ちる。
近い。
近すぎる。
(……何やってんだ俺)
(逃げろよ)
(いや待て)
頭の中がぐちゃぐちゃになる。
でも――
逃げない。
逃げたら、多分、一生この答えは出ない。
カノンはゆっくり息を吸った。
ゴイチの目を見る。
まっすぐ。
逃げない目。
その目に見つめられた瞬間、胸の奥で何かがストンと落ちた。
(あぁ……)
もう、誤魔化せない。
カノンは小さく息を吐いた。
「……確認」
声が少し掠れる。
ゴイチの眉が、わずかに動く。
カノンは少しだけ笑った。
照れてるのか、腹を括ったのか、自分でもわからないような顔で。
「それ、さ」
小さく言う。
「ずりぃよ」
ゴイチは何も言わない。
ただ、目だけが少し柔らかくなる。
カノンは一歩だけ近づいた。
さっきまであった数センチの距離が、そこで消える。
ゴイチの息が頬にかかる。
カノンは目を細める。
「でも」
一拍。
「それなら」
カノンの手が、ゆっくりゴイチの胸元の服を掴んだ。
ぎゅっと、軽く。
逃げないためみたいに。
ちゃんとここにいるって伝えるためみたいに。
「俺も」
小さく言う。
「ちゃんと覚えとくわ」
次の瞬間。
カノンがゴイチを引いた。
ほんの少しだけ背伸びする。
そして――
唇が触れた。
最初は、ただ触れただけだった。
でも、離れない。
二人とも動かない。
呼吸だけが、重なる。
カノンの指が少しだけ強く服を握る。
その震えごと、全部ゴイチに伝わる。
ゴイチの手が、そこでゆっくり動いた。
カノンの後ろ、ガードレールに手をつく。
逃げ道を塞ぐ形。
それでも、その動きは驚くほど優しかった。
追い詰めたいわけじゃない。
ただ、もう逃がしたくないだけだとわかる手つき。
キスはまだ浅い。
触れているだけ。
なのに、長い。
数秒。
いや、もっと。
時間の感覚が、そこで一回ほどける。
カノンは、触れたまま目を閉じた。
やっぱり柔らかい、とか。
近い、とか。
そんな言葉にするには浅すぎる感覚が、一気に胸へ落ちてくる。
好きなやつにキスするって、こういうことか、と思った。
事故じゃない。
役でもない。
酒でもない。
ちゃんと今、自分で選んで触れている。
その事実が、キスそのものよりずっと深く響いた。
やがて、カノンがほんの少しだけ離れた。
唇が離れる。
でも距離はまだ近い。
カノンの頬は赤い。
息も少し乱れている。
それでも、ちゃんとゴイチを見る。
「……どうだよ」
小さく言う。
「確認」
ゴイチはしばらく何も言わなかった。
ただ、カノンを見ている。
目の前の顔。
赤い耳。
服を掴んだままの手。
少し震えてるくせに、逃げなかったこと。
その全部が愛しくて、言葉が少し遅れる。
そして、ふっと息を吐いた。
「……あぁ」
低く落とす。
「確認できた」
その声は、少しだけ掠れていた。
カノンがそれを聞いた瞬間、目元がふっと緩む。
「何だよ、それ」
「そのまんまだろ」
「雑」
「雑じゃねぇよ」
言い返しながらも、二人ともまだ動かなかった。
近いまま。
ガードレールに手をついたままのゴイチと、胸元の服を掴んだままのカノン。
笑いそうで、でもちゃんと心臓がうるさくて。
そのどっちもが今のふたりにはちょうどよかった。
⸻
その頃、打ち上げの店では。
八崎がテーブルに肘をつきながら、やたら機嫌よくジョッキを傾けていた。
「今頃、ちゅーとかしてんのかなー」
誰に言うでもなく、でも絶対ちょっと聞こえる声量で呟く。
「酒うめー」
完全にご満悦だった。
しかも、そこで終わらない。
(てか、あいつらドラマ化したら売れるんじゃね?)
そんなことまで考え始めて、目がきらきらしている。
「なー!監督〜」
向こうの席へ声を飛ばす。
監督が「なんだよ、八崎酔ってんな?」と笑い返す。
周りもつられて笑う。
ドラマの打ち上げの場は、まだ賑やかだった。
⸻
何でもない日常の夜空の下。
ゴイチとカノンは、その場を動かないままで 。
ただ笑い合っていた。
コメント
2件
ひー😂❤️とても、とても良きでした…幸せです…❤️❤️❤️❤️
おお……この第25話、すごかったですね。八崎くんが「相棒って一番危ないやつ」って言った時点で「来るぞ来るぞ」って構えてたんですが、まさかあそこまで綺麗に伏線を回収して、しかもカノン自らキスするとは。ゴイチも「迎えだ」と一言で来てからの「確認してみるか?」——あれ、完全に恋愛経験値差が出てますね。八崎が最後に「今頃ちゅーとかしてんのかな〜」と呟くシーン、あの余韻が本当に効いてました。相棒から恋人へ変わる瞬間を、酒も役もない素のまま描いたのが素晴らしかった。